8月25日、セミがうるさく泣き叫び、じわじわと蒸し暑い夕方5時。

 隣のグラウンドから聞こえる野球部の掛け声がさらに暑さに拍車を掛けるようで、背中にじとっと汗がわく。

 首から伝って胸に流れた汗に嫌気がさして、これからのことを思うとさらにため息まで出てくる始末だ。

「ゆりかー! まじがんばー!」

「ゆりかって、変なとこ真面目じゃなーい?」

「うざっ! さっさと帰れ!」

 プールの柵の外側からそんな声がして、しっしっと手ぶりしながら思わず悪態をつく。

 そんなわたしにギャハハと下品な笑い声を上げて、彼女たちは去っていく。

 プールサイドに立つわたしの右手には、モップ。

 夏休み前のテストでオール赤点を取って補習になった挙句、暑いからと補習を抜け出してプールで遊んでいたのがばれたのが昨日の話。

 そして、プール開放日の最終日、つまり今日。

 いままさに、その罰としてのプール掃除をするところなのだ。


 誰もいない25メートルのプールは、思った以上に広く見える。

 夏休みの間、生徒に無料で開放されているといっても、高校生にもなって学校のプールで遊ぶ人はまずいない。

 そのため、ほぼ一か月もの間使われていないプールは落ち葉だらけで汚い。

 ……はずだったのだ。

「なんでこんなにきれい?」

 プールのこちら側から25メートル先まで、見渡す限りきれいだ。

 物好きな誰かが、泳いでいたとか?

 水泳部が廃部になったのは、わたしが入学する3年前だったそうだから、もしかしたら水泳部に入りたかった1年生の子とかだろうか。

 これなら今日は水を抜いて、明日プールの底を軽く磨くだけで良さそうなんて思う。

 毎年、わたしみたいに補習の時にプールでさぼる生徒がいて、先生はラッキーとばかりに掃除を押し付けるんだって聞いたけど、今回ラッキーなのはわたしの方みたいだ。

 今年の夏は、補習のせいで毎日学校で過ごした。

 友達とも遊べなかったし、彼氏もできなかったし、もちろん夏祭りだって行っていない。

 海に行くなんてもってのほかだ。

 夏休み、最後の思い出に、残りの補習を頑張るためにも、今日の夜泳ぎに来よう。

 決めたら後は行動するだけ。

 持っていたモップを投げ出して、かわいいビキニを買いにショッピングモールに走る。

 背中に貼りついていた制服が、待ち遠しいと言うようにはためいた。


 リーリーと虫の音がする。

 家からそっと抜け出して、もう陽が落ち黒に染まった学校へ忍び込む。

 22時前ということもあって、学校には灯りひとつもない。

 ちょっとこわいな、なんて思いながらも、買ったばかりのかわいいビキニを思い出せばそのくらいはへっちゃらだった。

 ちょっと奮発して高くてかわいいのを買ってしまった。

 ……見せる相手もいないのに。

 自虐的になりながらも、校門を潜り抜けグラウンドの脇を抜け、プールへと向かう。

 夏の夜は暑いけど、今日は少し風があって心地いい。

 プールの方からは水の跳ねる音がする。

 たぶん、カエルか何かが飛び込んだんだろう。

 それが涼しさを誘う。

 プールへと続く小階段の前にたどり着く。

 異変に気が付いたのはこの時だった。

 誰かいるのだ。

 カエルが飛び込んだんだと思った水の音は、もっと別のものだった。

 カエルにしては大きい水が跳ねる音。

 そして、わたしはこの時に思い出したのだ。

 学校の人魚伝説を――。

 伝説と呼ぶには日が浅すぎると思うが、わたしの学校には、人魚がいるらしい。

 そう噂になったのは入学した年の夏休み明け、つまり去年のことだ。

 それまではこの学校にはトイレの花子さんだとか、夜中になる音楽室のピアノとか、そういったオカルト的な噂は全くなかったのだ。

 だけど、何人もいるのだ。

 「夜プールの近くを通ったら誰かが泳いでいる音がした」という人が。

 それがどうして人魚に結び付いたのかはわからないけれど。

 ホラーが苦手なわたしがこの高校を選んだのは、そういう七不思議とか怖い噂がひとつもないと知ったからだった。

 正直、人魚は伝説の生き物だし、いるわけがないし、怖くはない。

 けれど、明らかにプールに誰かいる。

 それが、もし人魚だったら。

 ……絶対見てみたい! なにがなんでも!

 怖さより恐怖が勝ってしまったため、人魚を驚かさないようにそっと着替え、プールの方に忍び寄った。


 小さい頃、『リトル・マーメイドのアリエル』が大好きだった。

 だから、今回買った水着も、エメラルドグリーンを基調としたかわいいもの。

 プールにいるのが人魚だったら、わたしはきっと友達になれる。

 だって、こんなに人魚が好きなんだし。

 水面には月が映りこみ、ゆらゆらと幻想的にゆらめいている。

 プールの中央あたりにいる人影が人魚だと信じて疑わなかったわたしは、飛び込み台の近くからそこに向かって声を投げかけた。

「人魚さん! わたしと友達になって!」

 その瞬間。

 わたしの大声にびっくりしたのか、小さな生き物がぴょんとわたしの足にくっついた。

「ぎゃあああああ!?」

 どぼん。

 その冷たい感覚に今度びっくりしたのはわたしの方で、その反動でプールに落っこちる。

 目の前に見えたのは暗いプールの底と、黒い髪の……男の人?