気が付いたらベッドにいた。
 温かい部屋。父上が顔を覗きこんだ。ホッとしたように顔を歪める。

「ベルンは?」
「まだ寝ているよ」

 言葉少なく答える父上。

 訊きたいことはいっぱいあった。あれからどうなったのかだとか、誰か怪我はしてないだろうかだとか。でも、父上の顔を見たら何も訊けなくなってしまった。

 俺は布団を握りしめ、目をそらした。自然と丁寧になる言葉。

「すみませんでした」

 父上は無言だ。

「軽率だったと反省しています」

 貴族として本当に軽率だったと思う。自分自身は周りの子供と同じだと思っていても、巻き起す影響力は望まないものであったにしろ、違うのだ。

 アイスベルク領で、ヴルカーン侯爵の息子が死んだとなったら。周りにはアイスベルクの者しかいなかったとしたら。
 子供だとしても、事故だとしても、それはきっと大きな事件になりかねない。

 父上は俺の頭に乱暴に手を置いた。

「みな無事だ」
「みんな、無事だったんですね」
「ああ」

 ホッとして涙が一粒零れた。

「分かればいい」

 父上はそう言った。それ以上は責めなかった。もっと怒られると思っていたから、それが堪えた。



 暫くしてベルンの目が覚めたと知らせが来た。
 俺は慌ててベルンの部屋に向かった。
 当然、中にはアイスベルク侯爵がいた。
 ベルンは体を起こして、顔を真っ赤にして唇を噛んでいる。

「良いところに来た。フェルゼン、君も座りなさい」

 優し気なアイスベルク伯爵が、俺を見つめた。

「フェルゼンは!」

 ベルンが声をあげれば、アイスベルク侯爵は凛とした声で制す。

「ベルン、まだお前に話す権利を与えていない。黙りなさい」

 ベルンが弾かれたように身体を硬直させた。
 ビクリと俺の体も強張った。父上以上の威圧を感じる。いつも優しい穏やかな人だからこそ、ピリピリとした空気が痛かった。
 初めて侯爵を怖い人だと思った。

「フェルゼン、君も黙って聞くように」

 アイスベルク侯爵は、そっと微笑んで椅子に腰かけるように目配せする。柔らかいほほ笑みなのに、何か冷え冷えとしていた。
 俺はおずおずと従った。

「オブリが君たちの危険を教えてくれた。みんな怪我もなかったよ」

 ベルンが少しほっとしたように身体を緩めた。

「子どもたちは『悪いのは僕らだ』と言ったよ」
「そんな!」
「そんなわけないね、見ればわかるよ、ベルン。お前が何をしたのかなんて、見ればわかるさ。でも、彼らは言わなかったよ。お前たちが何をしたか言わなかった。『ちゃんと面倒見なくてすいません』って頭を下げたんだよ。腰までビッショリ濡れたままでね」
「っ……!」

 ベルンは、声をあげて泣いた。

 ベルンが泣くのを俺は初めて見た。剣の打ち合いで叩かれた時だって、気の立った羊にかまれた時だって、ハチに刺された時だって泣かなかったベルンが泣いた。

 あの子たちは、ベルンの冗談のような『私たちだけの秘密だからね!』という言葉を守ったのだ。
 どうしてそんなことができるのだろう。だって、相手は大人で、貴族で、領主で。ベルンより絶対に強いのに。

 俺は茫然としていた。息もできないくらい胸が苦しくなって、鼻に水が入ったみたいに痛くなった。あの湖の中にいるよりも苦しいと思った。
 アイスベルク侯爵は俺を見て、穏やかに笑った。もう冷たい目線ではなかった。
 そして、俺の頬をゆっくりと撫でた。温かい手。

「君まで泣かしてしまったね」

 そう言われて初めて、俺は泣いていることを自覚した。

「すみませんでした」
「うん、無事でよかった」
「……本当に、ご、めんっな……」
「今日のことは忘れちゃいけないよ」
「……はい」

 言うまでもなく忘れられない出来事になった。

 アイスベルク侯爵は席を立った。
 ベルンは天井を仰いで泣いている。
 俺はベルンのベッドに上がり、ベルンの肩を抱いた。自分の喉も、ヒっク、ヒっクと音を立てる。目玉が融けてしまうんじゃないかと思うほど熱い。

 ベルンが目をこすろうとするから、俺の肩先にベルンの顔を押し付けた。
 気が利かない俺はハンカチなんか持ってなかった。だから、せめて俺の柔らかな夜着を使ってもらおうと思ったのだ。

 ベルンが俺の背に両腕を回した。シャツを固く握りこむ。小さな背中は小刻みに揺れて、あんなに強いと思っていた子が、本当はこんなに小さかったんだと気が付いたら胸が詰まった。
 守ってやりたかった、守れなかった。それどころか、俺なんかのために傷ついた。
 堰を切ったように俺は泣いた。二人で泣いて泣いて泣き疲れて、気が付いたら眠ってしまっていた。



 重い目をあげて起き上がる。
 部屋の中には赤い日差しが差し込んできていた。ベルンは布団にもぐってスウスウ寝息を立てている。
 窓から伸びる黒い影に気が付いて目を向ける。
 椅子に腰かけたプラチナブロンドが夕日を浴びて赤を反射していた。綺麗だな、ああ、妖精のようだな、なんて思う。

 リーリエ様だった。何時からいたのだろう。

「あら、気が付いた?」

 俺はコクリと頷いた。

「喉が渇いたでしょう? レモン水を持ってきたのよ」

 そう言ってグラスに次いでくれた。グラスの中にはレモンの輪とミントの葉。口をつけてみれば、少しだけしょっぱかった。
 まるで俺の涙みたいだ。

「ありがとう、フェルゼン様」

 唐突にかけられた言葉に驚いて、そして、礼を言われることはないと頭を振る。

「いえ、おれ、や、もともとは私のせいです。すみませんでした」

 俺は深く頭を下げた。ブーメランなんかサッサと諦めればよかった。欲しいと強請れば、それくらいのものなら買ってもらえるのだから。執着を見せてはいけなかったのだ。

「ブーメランなんか……」

 俺なんかのために無茶させてはいけなかった。

「なんかじゃないわ」

 そっと掌に、あのブーメランが押し当てられた。ベルンのつけた氷はすっかり溶けて、乾いて軽くなっている。

「とても綺麗に出来てるわ。きっと遠くへ飛ぶんでしょう?」

 あの秋空を切って弧を描く姿は美しかった。だから調子に乗って、こんなことになったのだ。ベルンを傷つけて、せっかく一緒に遊んでくれたあの子たちにも嘘をつかせて、迷惑をかけた。

 俺はギュッとブーメランを握りしめた。

 こんなもの!

 その手の上にリーリエ様はそっと手を置いた。

「ベルンが握りしめてたわ。きっとあの子にとっても大切なものなのよ。だから『なんか』なんて言わないで。あの子の前では言わないで」

 俺は言葉を失って、リーリエ様をじっと見た。

 まるでその言葉は、ブーメランじゃなくて俺に向けられたように聞こえたから、胸が押しつぶされそうになる。

「ベルンを助けてくれてありがとう」

 ありがとう、もう一度リーリエ様は言った。
 そして少し困ったような顔をして、小さな小さな声で呟いた。

「私はね、ベルンさえ幸せだったらそれでいいのよ。お父様が何を言おうと関係ないの。正しい貴族なんて知らないわ。酷いでしょう? 駄目な令嬢だって呆れちゃうでしょう?」

 俺は慌てて頭を振る。

「でも、俺が」
「前後に何があったかなんて関係ないわ。私はあなたが冷たい水からベルンを助けてくれた。ただそれだけが、とても大切なことなの」

 俺は、俺の魔法は、攻撃だけでなく人を助けることもできたのだ。そのことをリーリエ様の言葉で知って、ブワリと温かいものが俺の中に広がった。熱いだけの激しい炎とは違う、柔らかな温もりだ。

 俺は握りしめた手を開いて、ブーメランを撫でた。きっとリーリエ様が乾かしてくれたのだと思った。

「もし、まだ、私たちを見限ってなかったら、これからもベルンを助けてくれたら嬉しいのだけれど」

 その言葉をまるで神託を受ける騎士のような気持ちで俺は聞いた。

 俺がベルンを見限るなんてことはない。

 ベルンが俺の気持ちを掬い上げてくれたように、俺だってベルンを守りたいのだ。

「もちろん、俺でよければ!」

 誇らしく思ってそう答えれば、リーリエ様は花が綻ぶように笑った。

 リーリエ様の髪が、窓から差し込む光を反射する。窓枠の細い影が、まるで剣のように俺の肩に触れた。

「ありがとう、レモン水はここへ置いていきます。ベルンが目覚めたらあげてちょうだい」
「リーリエ様は?」
「そろそろ部屋に戻った方がよさそうね」

 リーリエ様はそういうと、潜った布団からはみ出ていたベルンの頭に口づけた。あなたが無事で本当に良かったと、小さく呟いてから、静かに部屋を出て行った。

 俺は布団からはみ出している青いストレートの髪を指先で梳くった。
 サラサラと逃げてゆく柔らかなそれは、刈り込んだ短い俺のものとは全く違って、ドキリと心臓が跳ねた。

「おねぇさまの、ばか」

 くぐもった声が布団の中から聞こえて、俺は思わずクスクスと笑った。





 アイスベルクを離れる日、ウォルフに会った。ウォルフは牧羊犬の世話をしていたが、俺は勇気を出して問いかけた。

「なんで、黙っててくれたんだ?」

 そう問えば、ウォルフはその質問に驚いたようだった。

「だって、仲間だろ」

 当然のようにそう答えられて、俺は世界がパッと明るくなるのを感じた。
 仲間に入れてもらえてた、そんなことに今更気が付いて、嬉しくなって嬉しくなって。

「うん、そうだ」

 思わずそう答えたら、ウォルフは面食らったように笑った。

「フェルゼン様もまた来るんだろ?」
「ああ、またな」

 そう答えて別れを告げた。
 俺の腰にはあのブーメランがまだぶら下がっていた。


 帰り道は、来た道と真逆だった。
 王都に向かって続く広く整った馬車道が恨めしい。
 後ろ髪を引かれる気分で、流れる風景を見ていた。

「どうだった、アイスベルク領は」

 父上の声が弾んでいる。

「楽しかったです」

 素直に答える。

 もう大丈夫かもしれない。
 子どもたちの集まりで苦しむことはあるかもしれないけれど、俺にはちゃんと仲間ができた。
 分かってくれるヤツがいる。

 だからきっと大丈夫だ。

「来年も連れてきてください」
「もう、来年の話かい?」

 父上は面白そうに笑った。

「もっと早くてもいいです」
「まぁ、早駆けの馬なら半日もあればつく場所だ」

 父は愉快そうに目を細めた。

「そろそろお前にも馬を買ってやろう。アイスベルクの馬を。お前には赤毛がいいかな」

 父上はまるで自分のことのようにウキウキとそう言った。

「俺は、父上と一緒でピンクのカワイイ髪になるそうですからね」

 そう言えば、父上は噴き出して、アレは傑作だったと豪快に笑った。


 今度は馬を選びに来よう。
 慣れない俺を乗せてくれた、あの優しい赤い馬はもう誰かのものなのだろうか。

 流れる景色を眺めながら、早く大きくなりたいと、俺は思った。



・・・



 燕尾服に身を包み、控えめに壁際に佇むベルンは何もしなくても人の目を引く。
 女としては長身だが、男にしては薄い肩、小さく締まった腰回りが、燕尾服だからこそ強調される。艶やかな青い髪をいつもとは違った銀の髪留めで一つにまとめ、無表情でダンスフロアを眺める瞳は、宇宙のように深く静かに瞬いている。
 ご令嬢はもちろん、老紳士までベルンの中性的な美しさに目を奪われ、ため息をつく。
 それなのに本人はみじんも自覚がないから、悪質だ。

 感情の読み取れない表情が常で、どんな美女に見つめられても、可憐な姫に話しかけられても、平然とした態度のベルンはクールだと思われている。

 でも、本当は違う。

 シュテルに話しかけられて、困ったように笑うのを見て、胸がチリチリと焼ける。
 はじめてベルンがシュテルに呼びつけられた日から、俺はずっと嫉妬している。

 俺はずっと昔からベルンが好きなのだ。

 だから、ベルンが王都にほとんど来ないことを良いことに、女であることをあえて隠した。ワザとシュテルに教えなかった。知られたら盗られてしまう、なぜだか子供心にそう思った。

 情けないと思う。
 でも。

 二人を引き合わせたあの日、天使様と呼んだベルンの声。一目で愛称で呼ぶことを許した王子。
 何かがはじまる瞬間だと、そう思わずにはいられなかった。
 そんなのを見せつけられたら、胸の中が黒く煤けた。

 ああ、今も。ベルンを困らす男に嫉妬する。あんな顔して話さないで欲しい。最近何かと距離が近い。ベルンを男と思っているはずなのに、男同士だから触れられる距離で、それ以上の熱を感じる。
 ベルンのグラスに口づける男に嫉妬する。ベルンは気が付かない間接キス。ずっと俺が守って来たんだ。そんなに簡単に触れてくれるな。

 俺は、新しいグラスをもってベルンの側に歩み寄った。男の姿だと遠慮している甘いものを持っていってやる。
 俺だけが知ってるから、俺だけのやり方で、甘やかすのだ。
 ベルンは嬉しそうに微笑むから、俺はそれに満足する。クールじゃない顔を知っている、その事に満たされた。


 舞踏会が終わった夜。寛いでいればベルンが帰ってきた。

 よそゆき用の銀の髪飾りを取って、オオルリの羽根のような髪を散らかす。その一瞬で部屋が華やぐ。髪を下ろした姿は男の時には見せない。シュテルにも見せない。
 無邪気にジャケットをヒラリと脱ぎ、タイを外す。白いベストも乱暴に投げ、スラックスの側章が足の長さを際立たせる。男の姿から、少女が一瞬だけ顔を出す。

 ドクリ、体の奥が波打つ。
 触れたい、そう焦がれる背徳感。

 でも、ダメだ。女として触れたらダメだ。側に居られなくなってしまう。

 幼年学校にベルンを入学させるために、アイスベルク家から俺に出された約束は二つ。

 一つ、ベルンの純潔を守ること。
 二つ、万が一ベルンの性別が露見した場合、ヴルカーン家は知らなかったとし、以降一切の交流を断つこと。

 破られてしまったら。もう二度と会うこともできない。

 男ばかりの士官学校で、ベルンを守る砦でなければいけない。安心して帰れる場所を用意できるのは俺だけだから。

 情熱的な太陽な騎士、そんなのは嘘だ。全部、ベルンに安心を与えるため。ベルンに欲望を向けていないと、安心させるためだけだ。運命の人なんて、もうとっくに見つけてる。

 だからこそ、知りたい。
 全て知っていたい。
 俺だけは、ベルンの全てを知っている、そのはずだから。

 世間話を装って、好きな相手を軽く聞いてみる。クールな騎士には本命がいるのではないかと、今日の噂で聞いたからだ。
 ベルンはあっけなく否定する。
 恋なんか知らない、そんなふうだから安心する。


 無防備な白いシャツ、サスペンダーのせいで薄い胸の膨らみが目立つ。首筋のボタンから鎖骨が零れる。倒錯的で煽情的だと、どうしてベルンは気が付かないんだろう。
 細い首筋に張り付く青い髪を指で絡み取りたい。

 触れたい。友達としてではなく、触れたい。

 妄想を振り切るように、ホットミルクを用意して、疲れ切ったベルンに手渡す。
 子どものような顔で嬉しそうに味わう横顔。同じソファーの背に腰かける。友達としてのギリギリの距離を計る。許されるギリギリの近くまで行きたい。
 
 シュテルと自分を比較する卑屈な俺に、ベルンがさも当然のように『イケメン』なんていうから、心が跳ねる。嬉しくなる。
 誰よりもベルンにそう思われたいのだ。


 

 でも、好きだと言えない。気づかれてもいけない。

 日に日に美しくなっていくベルンに、どれ程恋い焦がれようとも。


 ベッドの上からベルンの気配が降ってくる。
 安らかな寝息を壊したくないと思う温かい気持ちのその裏で、違う吐息を聞いてみたいと薄暗く思う自分がいる。
 その自分を抑え込んで、今日も俺は紳士的な騎士を気取る。