今日はベルンと王宮に呼ばれている。ベルンは引き籠もり侯爵の末娘で、いつもは辺境の領地に住んでいて、王都にはめったに出てこない。
 俺たちは来年から幼年学校に入学する。そのためのに手続きでベルンは王都に来ているのだ。今年の夏はいつもより長めに王都に滞在できるらしい。

「フェルゼン、待ってたよ!」

 乗馬服姿のベルンが屋敷のドアから飛び出してきた。

「じゃ、行くぞ」

 俺はベルンの手を引っ張って、我が家の馬車に詰め込んだ。
 そうやって二人で王宮へ向かう。今日は王宮の森でシュテルと乗馬を楽しむことになっていた。

 王宮に着くと、シュテルが馬に乗って俺たちを待っていた。シュテルの馬はアイスベルグから送られた白馬のスノウだ。
 俺たちは王宮の馬を借りてそれに乗る。最初はおっかなびっくり馬に触れていたシュテルだったが、だいぶ乗馬になれてきて、今ではひとりで乗れるようになった。
 俺たちは少しの従者を連れて、王城の森へ入る。一番奥の丘まで行き、そこで一休みをして帰ってくる予定だ。グルリと森を巡るのだ。

 ベルンは初めて入る王宮の森に目をランランと輝かせている。
 野性的で薄暗い森しか知らないベルンにすれば、花々の咲き乱れる明るい森は新鮮なのだろう。

「ねぇ! あの白い花はなんの花?」
「ムクゲと申します」

 興奮するベルンに森に詳しい従者が説明してやっている。
 
「ムクゲ、ムクゲ」

 ベルンが忘れないようにと復唱する。それを従者は嬉しそうに眺めている。

「あちらの八重のものも同じ種類です」
「わぁ、いろんな色があるんだね」
「向こうのものは今は白ですが、徐々に色が変わるんですよ」
「何色になるの?」
「帰りにお確かめ下さい」
「うん! そうする!!」

 俺たちを放って、従者とキャイキャイとはしゃぐベルンを見て、俺はなんだかムッとする。ふとシュテルを見れば、シュテルも少し顔をしかめていた。

「ベルンは花が好きなの?」

 シュテルが問う。

「うん! 詳しくないけど、アイスベルグは花の種類が少ないから、見るとワクワクしちゃうね」

 ベルンが屈託なく笑うと、シュテルもつられたようにニッコリと笑った。

「じゃあ、向こうへ行ってみようか」

 野バラの咲き乱れる小道を選ぶ。俺たちには見えない鳥をベルンの目は探し当てて、鳥のさえずりに合わせてベルンが口笛を吹く。口笛に合わせて、鳥の歌が重なる。
 ツタの絡まる古い石像。虫たちが集まるエゴノキ。爽やかな風とともに、ゆっくりと時間が流れる。

 カポカポと馬を歩かせ、森を散策し、丘の頂上に着いた。俺たちは馬を木につなげ、丘の上で遊び出す。
 模造刀を振っていつもどおりの混戦試合だ。
 カンカンと軽い剣の音が、はじまりかけた夏の空に響く。馬はのんびりと草を食んでいる。
 じんわりと滲む汗。上着を脱ぎ捨ててシャツだけになる。

「あっちー!」

 暑がりな俺は、シャツの胸をはだけてパタパタと風を送る。ちょうどお茶の準備ができたようだった。
 敷物の上に、軽食が用意されている。サンドイッチや焼き菓子、オレンジジュースの瓶もある。
 すでに出発からだいぶ時間が経っていた。持ってきたときは冷たかっただろうオレンジジュースは温くなっているはずだ。その証拠に瓶の周りは水滴がたくさんついている。

「私がやるね」

 ベルンがそう言ってオレンジジュースを取ろうとする。侍女は慌てて、ジュースの瓶を拭いてから、ベルンに手渡した。

「はい、シュテル、どうぞ」

 そう言うと、自らシュテルのグラスにオレンジジュースを注ぐ。シュテルは照れたように笑って、グラスを差し出した。

 なんだか、ベルンらしくない。シュテルが王子だから媚びるのか?

 顔をしかめる俺を見てベルンは笑った。

「はい、フェルゼンも」

 俺のグラスにもベルンがオレンジジュースを注ぎ、最後に自分のグラスに注ぐ。

「それじゃ、かんぱーい!」

 シュテルが言って、三人でグラスを合わせる。
 キンと高い音が響いて、グラスがキラキラと光った。
 オレンジジュースを一口のみ、俺とシュテルは顔を見合わせる。

 冷たい! ベルンの魔法だ!

「ベルン!」

 シュテルがベルンを見た瞬間、ベルンはニヒと笑って、唇に人差し指を当てウインクした。

―― ひみつ ――

 言葉に出さないけれど、ベルンの言いたい意味はわかる。
 魔法を使ったことは、三人の秘密だと言いたいのだ。チラリとオレンジジュースの瓶を見てみれば、外側はうっすらと白く凍っている。

 俺とシュテルは、ベルンと同じようにニヒと笑い、顔を見合わせた。

 ゴクゴクとオレンジジュースを飲む。喉を下っていく冷たいジュース。甘く酸っぱい香りが、胸いっぱいに広がった。
 
「あー! 旨い!!」

 思わず零れる感嘆に、シュテルも頷く。

「本当! こんなに美味しいジュースはじめて飲んだよ」

 俺たちを見て嬉しそうに笑うベルン。

 やっぱり、ベルンはベルンだ。媚びてるわけじゃなかったんだな。ただ、喜ばせようとしてくれた。ベルンのそういうところが俺は好きだ。

 俺はすっかり安心した。

 軽食を食べ満腹になると三人でゴロリと横になる。

 俺、ベルン、シュテルで並ぶ。いつの間にかそうなっている。
 青空に白い雲が走る。

「あの雲、スノウみたい」

 ベルンが指さす。

「じゃああっちは、ドーナツ!」

 俺が別の雲を指さす。

「なら、向こうは剣みたいだ」

 シュテルも空の端を指さした。

 背中の地面が温かい。草原に舞う虫たちの羽音が近い。寝転がって雲を追っていると、まるで自分たちのほうが動いているような気がする。

「へんなきぶん」

 ベルンが言った。俺はゴロリと転がってベルンを見る。ベルンは寝転がったまま、手をのばして空を見ている。

「寝転がってるはずなのに、私がグルグル回ってるみたい」

 俺が思っていたそのままをベルンが口にした。

「僕もそう思ってた」

 シュテルがゴロリとベルンに体を向けた。
 ベルン越しにシュテルと目が合って、なぜか、気まずく思う。シュテルも同じ気持ちだったのか、慌てたように目をそらした。
 
 俺はゴロリと仰向けになり、空を見た、ベルンと同じように空に手を伸ばしてみる。

 この空を夜に近づけたら、ベルンの髪の色になる。

 そう思って空を掴む。当たり前だけど掴めない。なにもない掌を開いて、確認するように自分に向けた。太陽光が掌を通過して、指の周りが赤く光っている。

 まったりとした時間を過ごして、俺たちは帰りに向かった。

 上着を脱いだまま馬に乗る。少しゆっくりしてしまった俺たちは、来たときより早足で馬を進めた。
 先頭はベルンだ。
 ベルンの白いシャツが風をはらんで膨らむ。夕日の逆光の中、膨らんだシャツの中でベルンのシルエットが浮き上がった。俺たちと変わらない真っ直ぐな体だ。

 ベルンが立ち止まり、俺たちを振り返った。

「ほら! ムクゲ! 色が変わった!!」

 そう笑うベルンの指先を見る。
 来たときは白色だったムクゲの花が、ピンク色に色づいて夕焼けに溶けてしまいそうだ。

「綺麗だね!」

 屈託なく微笑みかけるベルン。

 綺麗なのはお前だ。

 口に出しかけて、ハッとした。今はシュテルがいる。

「……ああ、綺麗だ」

 ぎこちなく答えてから、俺はそっと、シュテルを見た。
 そして、俺は息を呑んだ。

 昼には白かったムクゲが時を経てピンク色に変わったように、シュテルも色づいている。夕焼けに染められたようなシュテルの頬。呆けたように開いたままの唇。明らかに見蕩れている。
 ベルンに心を染められている。

「シュテル?」

 ベルンは不思議そうに小首をかしげた。
 シュテルはハッとして、苦笑いする。
 そして、ムクゲに近づくと花をひと枝折った。

「シュテル?」

 驚くベルンの耳にムクゲの花を挿すシュテル。
 そうして、シュテルは微笑んだ。

「こうしたら、もっと綺麗」

 ベルンの濃紺の髪に、桃色のムクゲの花が映える。

「ありがと!」

 ベルンは屈託なく笑った。
 夕映えの中のふたりは、まるで完成された世界だ。

 シュテルは、ベルンが女だと気付いてる?
 
 俺はゾッとしてベルンの横に並んだ。
 そして、シュテルに笑ってみせる。

「俺にはないのかよ、王子様」

 シュテルはプッと吹きだして、俺の耳にもムクゲを挿した。ベルンがそれを見て、シュテルの耳に花を挿す。

「うん、ふたりともカワイイね」

 ベルンがそう言って微笑んだ。俺たちは顔を見合わせて、思わず笑う。従者たちもニコニコと笑った。
 
「さあ、帰ろうぜ!」

 俺は手綱を引いた。ベルンたちがそれに続く。

 青い闇が茜空を染めはじめた。耳元のムクゲが、俺の心をくすぐるようにこそばゆく揺れた。