今日はぬし様の湖に行く。その後、町へ行こうと思う。町歩き用のワンピースを誰に気兼ねなく着られるようになったのに、胸にはポッカリと穴が開いている。
 誇らしかった士官学校の制服。黒いマント。いずれは、騎士団の白いマントを羽織れたならと憧れていた。でも、その夢はついえた。いや、そもそも望んではいけない夢を見ただけだったのだ。


 
 今年は湖の氷が解けるのが遅い。
 秋の狩りシーズンにフェルゼンが来なかったからかもしれない。なんとなくだが思うのだ。ぬし様はフェルゼンを気に入っている。寂しがっているのかもしれない。
 もう春も来ようとしているのに。
 薄く張られた湖の氷に、一片の雪が舞った。
 
 ごめんなさい。心の中で謝る。もう、フェルゼンはここには来ない。
 すべて私の我儘で、いろんな人を傷つけた。それなのに心配してくれる人が居る。

 ミシリ、湖の氷が鳴った。


「……本当に女の子だったんだね……」

 懐かしい声が後ろから響いた。
 忘れようにも忘れられない、柔らかくて芯があって強く深い王者の響き。
 
 シュテルの声だ。

 ずっと聞きたかった。恋い焦がれていた声だ。夢でいいから聞きたいと、そんなふうに思っていた。
 それなのに、怖い。
 自分の本当の姿を知られるのが怖い。
 振り返れない。失望する顔を見たくない。逃げ出したい。逃げられない。

 ずっと騙し続けて来た罰が、今、下される。

 サクサクと凍える大地の上を踏み進む靴の音。
 真っ直ぐに迷わない足取りで、振り向かない私の横に並んだ。

「ベルン」

 名前を呼ばれるだけで、息が止まる。胸の中で何かが広がって膨らんで、はち切れそうになる。 
 
「迎えに来た」

 迎えに来た、そう言った。ここは私の領地で、ここが私の居場所なのに、シュテルは私を迎えに来たと言う。

 恐る恐るシュテルの顔を見た。
 優しく微笑んでいて泣きたくなる。
 名前を呼びたくて、でも声が出なくて、息を吸った。

 そこへ馬の蹄の音が響いた。
 見ればウォルフが、ヒラリと馬から舞い降りて私に走り寄った。

「ベルン様から離れろ!」

 ウォルフが剣を抜く。シュテルに剣を向ける。

「ウォルフ! 止めて!!」

 慌ててシュテルを背に庇う。

「この方は王子だ! 剣を向けるようなことは許されない!」
「知っている! だが今更なんだというのだ!」

 嚙みつくようにウォルフは叫んだ。獰猛な獣のようだ。

「王子というだけでベルン様の背に守られて安穏と生きている奴が、隣に並べると思っているのか!」

 ビリビリとするほどの怒りだ。
 シュテルは黙って、私の背から前に出た。

「僕は姓を置いてきた。もう王族じゃない。不敬には当たらないよ」

 シュテルの言葉に息を飲む。だって、まだ早い。成人は二十歳だったはずだ。
 シュテルはスラリと剣を抜いて構えた。ウォルフと睨みあう。
 キンと凍える空気が緊張をはらんで、今にも砕けてしまいそうだ。

「やめて!」

 再び二人の間に入る。
 二人とも傷つけたくない。傷つけあって欲しくない。

「ウォルフ、剣を収めろ。これは命令だ。シュテルも剣を仕舞って」

 私の言葉に、渋々というように二人は剣を仕舞う。

「いったい、なんなんだよ!」

 ムカムカとせり上がってくる。なんで二人が傷つけあわなくてはいけないのか。意味が分からない。

「ベルン、選んで」

 シュテルが言った。

「なにを」
「僕と王都へ来るか、アイツとここへ残るか」

 ウォルフは黙ったままこちらを見ている。真っ黒な瞳が私を捕らえるように見つめている。

 私はため息を吐き出した。そんな選択を聞く意味が分からない。そもそも私は王都に居場所がないのだから。

「シュテル、私は王都には戻れないんだよ。知ってるだろ?」
「この春、女騎士が正式に認められることが昨日可決された」
「……え?」
「君がその第一号になる」
「嘘」
「だから、君を迎えに来た。無論、女騎士にはまだ反対意見もある。アイスベルクを疑っている人もいる。辛い思いもすると思う。ここみたいに穏やかに生きられないかもしれない。だけど、僕と一緒に来て。士官学校へ帰ろう。一緒に卒業しよう」

 胸に熱いものがこみ上げてくる。
 一緒に卒業、諦めていた夢が叶うかもしれない。女騎士になって、みんなと一緒に騎士になる夢が叶うかもしれない。

 でも、望んで良いのだろうか。また分不相応な夢を見て、周りを傷つけるんじゃないだろうか。

 ふとウォルフを見れば、柔らかな目で私を見ていた。行ってこいと語る瞳だ。

「ベルン様、嫌になったらいつでも帰ってきてください。あなたの帰る場所はここだ」
「……うん」
「ご武運を」

 何時でもそう。ウォルフはそうやって私の背中を押してくれる。大丈夫だって言ってくれて、失敗して逃げ帰ったとしても、受け入れてくれるのだ。

「ありがとう、ウォルフ」

 ウォルフは目礼をして、馬に跨る。そして振り返らずに駆けていった。




「ベルン」

 シュテルに名前を呼ばれて、ドキンと胸が跳ねた。

「その格好も、似合ってる」

 シュテルが顔を赤らめて照れたように笑った。
 唐突な言葉に驚いて、私まで顔が熱くなる。

「あ、ありがとう……」

 俯いて爪先を見た。どうしていいのか分からない。
 シュテルもそれっきり何も言わないから、窺うように上目遣いで見てみれば、シュテルの唇が目に入って、慌てて目を伏せた。

 無理やり、キスしちゃったんだよね……。

 緊急だったとはいえ、なんてことをしてしまったんだろう。
 これで会うのは最後だと思ったから出来たことだけど、こんなふうに顔を合わせることになってしまって、とても気まずい。

「ねぇ、『好きだったよ』ってどういう意味?」

 シュテルに問われて、私は恥ずかしくて答えられずにいた。

「過去形なのはなんで? もう好きじゃない?」

 あまりに悲しそうな声色に、慌てて顔を上げる。
 見たこともない不安そうな顔。

「そうじゃない! でも、もう二度と会えないと思ったから。本当のことを知ったら、嫌われると思った。……ゴメン。嘘ついててゴメン」

 うなだれる頬に、シュテルがそっと手を添え、顔を上げさせられる。

「僕こそ嘘つかせてゴメンね。好きだよ、ベルン。君が君だったらそれでいいんだ」

 シュテルの言葉が沁み込んでくる。ユルユルと心の中に固まった何かが解けていく。

 私が私のままでいい。

 当たり前なことなのに、なんでこんなに嬉しいんだろう。

「私もシュテルが好きだ」

 シュテルが安心したように微笑んで、手を離す。

「僕、臣下に下ったんだ」
「さっき聞いたよ」
「だから、僕と結婚しようよ、ベルン」

 唐突な言葉に、頭が付いていかない。

「アイスベルクは、王族とは結婚しないんでしょう?」

 シュテルはイタズラっぽく笑った。
 私は言葉もない。

「学校のみんなは知ってるよ。僕が君のために名前を早く捨てたって。あーあー、これでフラれたら、僕、いい笑いものだよ」
「ちょっと! シュテル!!」

 外堀から埋められているらしい。相変わらず、悪魔のような天使だ。
 
「危ない橋を渡らないってベルンみんなの前で言ってたもんねー」
「それはそうだけど、そういう意味じゃなくて……!」

 シュテルは伺うように私を見た。

「ダメ?」
「……ダメじゃない、けど、ズルいっ!」

 怒って見せれば、シュテルは全然反省していないように笑った。私もつられて笑ってしまう。
 二人で笑いあって一息つけば、シュテルは真剣な目で私を見た。

 ああ、あの魔法を使われてしまう。動けなくなってしまう。




「僕は、運命も作るよ」

 あの日の言葉をシュテルがもう一度言った。
 シュテルの大きな手が私の頬を覆う。
 血液の中の金属がきっとシュテルに沸騰させられている。身体の中から熱くなる。体を巡っていく鉄が、シュテルの磁石に引かれてしまう。どうしょうもなく触れたい。
 鼻と鼻が触れ合って、息と息が融け合って。

「ほら、逃げないと」

 シュテルが意地悪に言った。

「魔法、使ってるくせに」

 答えればシュテルが笑う。

「違うって言ったでしょ? 理由、分かった?」

 悔しいけれど、答えは一つ。

「……私がシュテルを好きだから」

 そう答えて、悔しまぎれに私からシュテルに口づけた。
 恥ずかしさですぐに離れようとした私の頭を抑え込み、シュテルがあの日の冷たいキスとは反対の接吻を降らせる。
 あんなに冷たかったキスが、最期にならなくてよかった。

 冷たい身体がグズグズに溶けてしまえば、その体をシュテルが抱き留めた。

「呪いが解けて僕の体から出てきたのは、青い琥珀だったんだよ。あのモンスターに奪われそうになったのは、君への気持ちだったんだ」

 シュテルは言った。

「守ってくれてありがとう。そして本気でお願いする。僕に結婚の約束をください」

 真剣な瞳に射抜かれる。
 答えなんか決まっているのに。

「約束しよう」

 私は小指を差し出した。
 シュテルははにかんで小指を絡ませる。

 小さいころから何度もしてきた指切り。破ってもハリセンボン飲んだことなんてなかったけど。

 今回だけは例外だ。

「破ったら許さないよ。ハリセンボンだからね」

 そう言えばシュテルが満面の笑みで笑った。


 湖のギシギシと氷が音を立た。ああ、湖の氷が割れる。

 アイスベルクに春が訪れる。