春休みを迎え、皆寮から自宅へ戻る。とはいっても、王都はまだ社交シーズン中だから、タウンハウスに戻る者が多い。
私はいつも通りアイスベルク領へ帰る。そもそも、ひきこもり侯爵の父は社交シーズンであっても特別なことがない限り、カントリーハウスにいる。私も社交をする必要がなかったから、当然領地へ戻ることにした。
兄のエルフェンバインは王国騎士団に所属しているので、普段から王都にいる。姉のリーリエも、今年の社交シーズンはタウンハウスにいるらしい。私以外のエスコート役を見つけたのだ。
私は、長期の帰省時にやるべきことがあったから、ワクワクとして家に戻った。
愛馬のレインと共にアイスベルクに戻ってくれば、厩舎ではウォルフが馬を磨いていた。
「おかえり」
「ただいま!」
小さな子供がオブリと一緒に顔を出す。領地の子供だ。もう馬の世話を覚えに来たようだ。
「こんにちは」
声をかければオズオズと下がってしまう。私は無理に話しかけずに微笑めば、子供もぎこちなく笑い返す。
「ベルン様、一休みしたら町へ行くんだろ? 一緒に行こうぜ」
ウォルフが提案してくる。ウォルフは領地のことを良く知っているので、私がいない間の説明もしてくれるのでありがたかった。
「うん」
「だったら、めかしこんで来いよな! オレの隣に並ぶんだからさ」
尊大な言い方に笑ってしまう。
「了解! ウォルフもね」
そう答えて、家に戻った。オブリが当然のようについてくる。
懐かしい部屋に戻って、きつく縛った髪を解いた。窮屈な制服を脱ぎ散らかして、バスンと自分のベットに飛び込めば、懐かしい匂いがした。
はぁぁぁ、安らぐ……。
しばし休息を満喫してから、自分のクローゼットを開けた。色とりどりのお気に入りのワンピース。今日はいったい何を着よう。そう考えるだけでワクワクする。
士官学校の制服はかっこいいけれど、毎日では飽きてしまうのだ。それに私服の紳士服は色のバリエーションも少なくて、少々つまらない。
いつも着られないピンクの花柄を選ぶ。デザインはシンプルなフレアスカートだ。
髪はハーフアップにしてもらい、リボンを結んでもらった。
フワフワとしたスカートの感触に、心までフワフワする。
階段を降りていけば、ホールには紳士然としたウォルフがすでに待っていた。
作業服姿もたくましくて男らしいが、余所行きのウォルフは年上だと実感させる粋な装いだ。
ウォルフは眩しそうに目を細める。
「似合ってるぞ」
「ありがとう。ウォルフも大人っぽいね」
褒め言葉に気分を良くして歩き出した。
アイスベルクの町はこじんまりとした田舎町だ。領地はだだっ広いが町は小さい。王都のようにきらびやかな豊かさはないが、かといって貧しいわけではない。珍しいものはないかもしれないが、必要なものはきちんとある。そんな町だ。
新しくできた店に案内してもらったり、馴染みの店に立ち寄ったり、ふらふらと町の様子を見て歩いた。
王都ではできない買い物にも、ウォルフは嫌な顔せず付き合ってくれる。可愛らしい便箋やリボンを買って、甘いお菓子も買った。自分がしたいように振る舞えることが、これほど自由で楽しいだなんてすっかり忘れてしまっていた。
馴染みのカフェに行けば、いつもの店員がいつもの席を用意してくれる。ウォルフはいつものようにブラックコーヒーを頼み、私はいつものように季節のパフェを頼んだ。そして、いつものようにそのパフェにはスプーンが二つと小さな取り皿がついてくる。このパフェはもともと大きすぎて、シェアして食べる人が多いからだ。
何もかもがいつもと同じ町の空気に安心する。
パフェをいつも通り取り分けて、小さな皿のほうをウォルフに渡した。これもいつものことだ。
「アイスベルクは変わりなくて安心した」
そう言えば、ウォルフは笑った。
「ベルン様はどうなんだ? 殿下の傷はもう良くなったか?」
「うん。処置が良かったみたいで綺麗だよ」
「……見たのか?」
「うん、見たよっていうか、私が薬を塗ってたから」
「なんでそんな使用人のようなこと。アイスベルク家の人間としての自覚が足りないんじゃないのか」
むっつりとする様子に笑ってしまう。アイスベルクは侯爵家だけど、あまり貴族らしくないのは承知のはずだ。だからこうやって町歩きしているわけだし。
「シュテルは友達だし、私の傷だから当たり前じゃない?」
「ベルン様の傷……」
ウォルフはそう呟くと、私のパフェの苺を乱暴に手でつまんだ。
「あ! ウォルフのは取り分けたのに!!」
「そっちのが、苺多くないか?」
「いつものことでしょ」
プンとしてウォルフの皿から奪い返せば、ウォフルは、しょうがねぇなと笑う。
「ベルン様は……士官学校を卒業したらどうするつもりだ?」
「許されているうちは軍に残りたい。だけど、ヴルカーン元帥閣下は私が女とご存じだからね。学生の内は目をつぶってくださるかもしれないけれど、どう判断されるか……微妙なところ」
「戻ってくればいいだろ? お前の女騎馬隊もここにはあるし」
「私のじゃないけど、そうだね、ダメなら戻ってくる」
「ダメじゃなかったら王都なのか?」
「うん」
「迷わないんだな」
ウォルフはため息をついた。
「なぁ、そんなに王都は良いか?」
ウォルフの黒い瞳が、少しの非難を交えて私を見つめた。
「王都がいいわけじゃないけど」
住むならアイスベルクだ。比較しようもないくらいに、こちらがいい。だけど。
だけど?
「じゃ、なんだよ」
なんでだろう。
「あっちは苦しくないか? あそこにいる限り、今日みたいな恰好で今日みたいに店に入って、好きなものを買ったりすることはできないだろ?」
そうだ。好きな服を見に行くことすら許されない。
少しずつだけれど、膨らんでくる乳房をさらしで押しつぶして、本来の自分を押し殺して。
それでも、あそこにいる意味はあるのだろうか。
シュテルの金の髪が、瞳の奥にチラついた。
そのことに驚いて息を飲む。
「……それでも、もう少しだけ王都にいたいんだ」
許される間は。
「ふーん」
ウォルフは納得していないように答えて、コーヒーを口に運んだ。
カフェを出て、桑畑を見ながら家に戻る。夏には指先を真っ青にして、桑の実を食べた場所だ。いつでも爪の間に紫がこびりついていたあの頃。
「なつかしいよな。ベルン様はスカートまくり上げてさ」
その一言で分かる。きっと同じことを思い出していた。
「桑の実の汁は落ちないんだよ」
「ああ」
長く外で遊べないリーリエお姉様のために、みんながいっぱい桑の実を集めてくれた。
私は自分のスカートを袋代わりにして、抱えて持ち帰ったのだ。つぶれた桑の実はシミになり、メイド長に怒られた。その後メイドと一緒に染み抜きをしたから、シミが落ちないのは嫌なほど知っている。
メイド長はそんなふうに怒っても、翌日にはジャムにしておいてくれた。そのジャムでお姉さまが作ってくれたクッキーをみんなに配ったのが思い出される。
桑の実のジャムのようになった、宵闇の空。
もう家の前までついてしまった。
「宵闇の騎士様だっけ」
ウォルフが小さく笑った。
「笑わないでよ」
「……楽しかったか?」
「楽しかったよ、ありがとう、ウォルフ」
礼を言えば、ウォルフは照れたように頬を掻いた。すっと目をそらして、もう一度私を見つめる。黒い瞳の意志が強い。
「なぁ……、戻って来いよ」
「……」
「オレはお前を待ってるよ」
答えあぐねていると、ウォルフはまるで話なんかなかったかのように、ニッカリと歯を見せて悪戯っぽく笑った。
「ああそうだ、手を出せよ」
ぶっきらぼうな言葉に従って、手を広げる。するとそこに、無造作に冷たいものを落とされた。
四葉のクローバーのブローチだ。
「やるよ。四葉のクローバーは戦火を生きのびるジンクスがあるっておふくろが言ってた」
「……ありがとう」
きっと、私が買い物に夢中の間に探してくれたのだ。
ギュッと握りしめる。
「ご武運を」
ウォルフはそう言って静かに笑い、背を向けた。
私はその背に手を振る。
振り返らないと思っていた背中が急に立ち止まり、振り返った。
ウォルフは顔をくしゃくしゃにして笑うと、くるりともう一度背を向けた。その背はもう振り返らなかった。