なんだか最近の私はおかしい。
自覚がある。
討伐訓練を終えてから、シュテルの顔がまともに見られない。
今日も約束通り、薬を塗りにシュテルの部屋へ行くけれど、それだけで心臓がバクバクと音を立てる。
本当は行きたくない。
でも、代わりに誰かに任せるなんて、もっと嫌だ。
挙動不審になりながら、シュテルの部屋に行こうとすればフェルゼンが変な顔で私を見る。見てるのがわかるから、逃げるようにして部屋を出る。別に悪いことをしているわけではないけれど、なんなんだろう、この後ろめたさは。
初めの頃は一緒に行こうとしてくれたけど、シュテルが怒ったので以来連れて行かない。多分、私の前では平気な振りをしているが、背中の傷など見られたくないのだろう。
ノックをしてシュテルの部屋に入れば、シャワー上がりの濡れ髪の王子が、見目麗しく微笑んでいる。
濡れたウエーブの金髪が無駄に光を放っていて眩しい。拭き切れていない雫が鎖骨を伝って落ちる。目の毒だ。
シュテルって……、なんか、こんな……なんていうか、色っぽい感じだったっけ?
自分の知っている、小さい頃の天使様とはだいぶかけ離れてしまったと、視線をそらしてため息をついた。
子供の頃のシュテル、本気で可愛いかったんだけどな。
初めて出会った厩舎の前で、私はシュテルを天使と見間違えたのだ。あの一瞬は忘れられない。
フワフワにカールした金髪。それとお揃いの金の瞳は光の加減で緑にも見えて、その色を見ているだけで幸せになれた。柔らかなクリームのようなほっぺたは、食べたくなるような桃の色。控えめにこちらを伺っている様子は妖精のように可憐で、同じ人間だとは思えなかったのだ。
それが今や……。悪魔にしか思えない。
私は思考を停止した。鉄仮面を被る。最近シュテルは私をおちょくって楽しんでいるところがあるのだ。心を強く持たなければ!
「背中を見せて、シュテル」
「うん」
ソファーのアームにシュテルは腰かけて背中を見せる。もうずいぶん良くなった。最近は薬ではなく、保湿剤を塗っているのだ。傷跡が残りにくくするためにと、マレーネ姫が送って来たと言っていた。
ツンとした独特の森の香りのするオイルだ。でもなんだか懐かしい。子供の頃の幸せな時間を思い出させる香りだ。針葉樹の多いアイスベルクの森の匂いみたいだと思った。
それを手のひらに伸ばして、シュテルの背中に塗る。確かにこれは自分では塗れないだろう。
そっと背中に触れれば、シュテルは肩を震わせる。いつものことなのに慣れないようで、ビクビクする背中を見るのは少し楽しい。私だけが知っているのだ。
薄く盛り上がった傷跡に指を添わせる。
あまり目立たなくなってきたけれど、この傷が私を守ってくれたものだと思うと、胸がいっぱいになる。申し訳ないと思う罪悪感と、それを超える嬉しさがあって、その嬉しさにまた罪悪感を覚える。
「もう消えちゃいそうだよ、良かったね」
言葉にして少し寂しく思った。そしてそのことを恥ずかしく思う。
「なんだか寂しいな」
シュテルが答えてハッとする。同じように考えてたことが少し嬉しくて、それ以上に気恥ずかしかった。
「痕が残らなくて良かったじゃない」
自分の気持ちを悟られたくなくて、反対の言葉を口にする。余ったオイルをいつものように、自分の手に塗り込めた。乾いた手の甲が潤って気持ちが良いのだ。
「残っても良かったのに」
「また、そんなこと言って」
「名誉の負傷だよ」
「背中の傷なんか不名誉でしょ」
「ううん 大切なものを守った証だ」
真剣な声に驚いてシュテルを見れば、真面目な顔をして私を見ていた。
「……そう」
思わず目をそらす。上手い言葉が見つからない。
シュテルは小さくため息をついて立ち上がった。
「お茶入れる」
「うん」
最近はオイルを塗った後、シュテルがお茶を出してくれるのだ。それを一杯飲んでから、部屋に戻るのが習慣になっている。
私がソファーに座ると、シュテルがその前にお茶を置く。
何故だか、これが緊張するのだ。
日中学校内で会う時は平気だ。自分の部屋で、フェルゼンと三人でいるときも平気だ。それなのに、シュテルの部屋では緊張する。シュテルと二人きりになるのが、少しだけ怖い。嫌ではないけれど、訳の分からない何かが胸に押し寄せてきてちょっと怖い。
討伐後のシュテルは、なんだか知らない人になってしまったようで緊張する。突然怒らせてしまうし、怒らせてしまう理由も分からないしで、どうしたらいいのか分からないのだ。
シュテルは私の隣に座った。
「僕はさ、ベルンを困らせてる?」
覗き込むようにして窺ってくる。
いきなり核心をつかれて、ビックリする。目をそらす。
「そんなことないけど……」
「嘘つき」
間髪入れずに否定される。
だけど、私も説明できないのだ。何をされたわけでもない。理由があるわけじゃない。どうして自分が困ってしまうのか、自分でも分からないのだから。
今までは平気だったのに。二人っきりで部屋に居たって。シュテルの裸を見たくらいで、色っぽいなんて思ったこともなかった。フェルゼンより白いな、とかそんなふうにしか思わなかったのに。
「なんか、……うまく言えないけど、困ってるのかな。だけど何に困ってるか良く分かんないし、シュテルに困らされてるわけじゃなくて、多分自分のせいだと……思う……から」
うつむいて目をそらして、言葉を探しながら呟くように答える。
「ふううん?」
シュテルは意地悪く笑って、ワザとらしく考えてるふりを見せる。
「僕といると困るの?」
「なんていうか、分かんないけど、フェルゼンと一緒なら平気」
「……フェルゼン……」
スウっと空気が冷たくなった気がした。
シュテルがカップをテーブルに置き、肩を組む。
「これは? 困る? いつもしてるよね?」
確かに食堂でもよくされるし、廊下でも気さくにされる。そういう時は全然平気だ。今もまぁ、かろうじて平気だ。
「大丈夫、かな?」
肩を組んだ手が、そのまま私の頬を撫で耳に触れる。思わずビクリと体が震える。あの時と一緒だ。二人っきりでの荷台を思い出す。キュッと胸がおかしな音を立てる。
「これは……困ってる?」
「……ちょっと、困る」
心臓がバクバクいう。本当はちょっとどころじゃない。どうかしてる。変だ。
シュテルの反対側の手が、私の顎を捕らえて上を向かせた。
驚いて息を飲む。
シュテルの顔が近づいて、鼻に鼻先をこすりつけられた。
「やめてよ……」
「これはダメ?」
「ダメ」
「なんで? 嫌なら逃げるでしょ?」
「なんか、魔法使ってるよね? その魔法やめて? 動けなくなるの、怖いよ」
そう言えばシュテルは驚いたように目を見開いて、天使のようにニッコリと笑った。
「魔法なんか使ってないよ。体内になんて影響できない。ベルンだって、流れた血は凍らせても、中の血までは凍らせたり出来ないでしょ?」
優しい先生のように解説してくれるけど。
「私は出来ないけど、シュテルくらい魔法が上手ければ出来るんじゃないの?」
「僕だって出来ないよ」
「でも、他に考えられない」
「よく考えてよ。違う理由があるんだよ」
「わかんないよ、そんなの」
「ヒントをあげるね」
「ヒント?」
そう答えれば、シュテルは笑った。
「ベルン、好きだよ」
「私も好きだよ?」
「違うよ、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
シュテルは困ったように笑った。
「僕、君にキスしようとしてるんだけど?」
突然の言葉に驚いて、シュテルの顎を押しやる。身体が動いた。魔法が解けた。
「ちょっと、酷くない?」
「え、いや、だって、私は男で」
男じゃないけど、男なわけで。頭が混乱する。って言うか、バレてた?
「知ってる」
「だ、男色?」
シュテルの瞳がきつく光る。
「ベルンが好きだって言ってるんだ」
「う、え? だからそれって、だんしょ」
「男が好きなわけじゃない。ベルンがベルンだったらそれでいい、男とか女とか関係ない」
真剣な瞳に射すくめられる。
「わ、わかんない、私はそういうのわかんないんだよ」
「うん、知ってる」
シュテルは呆れたように笑った。
「でも、ベルン。嫌なら逃げないとダメだよ。僕に限らず、こんなに中に入ってきたら、期待しちゃうから」
嫌? 嫌ではない。困るけど。
だって、私は女だし、それがバレるわけにはいかないし、それを黙って嘘ついて。
そうだ、私はずっとシュテルを騙してきた。自分を偽ってきた。
本当の自分を見せてないのに、好きだなんて言ってもらえる資格はない。
唇を噛んで俯く。
「ゴメン、気を付ける」
「僕が嫌い?」
「ズルい聞き方しないでよ、そんなわけないだろ」
「そうだね」
シュテルは笑う。本当にズルい。確信犯だ。
「でも気持ちには応えられない」
「やっぱりフェルゼン? それともあの騎馬隊長? 白百合のお茶会に誰かいるの?」
なんで、フェルゼンやウォルフの名前が出てくるんだろう。
「なんで? 私の問題」
シュテルは目を細めて悪い顔で笑う。私の手をとって、指と指の間に自分の指を差し込んだ。
さっきのオイルが残っていて、ヌルリとした感触がする。恥ずかしい。
「わかった。もう言わない。知りたいことは聞けたから、とりあえず満足かな」
「ごめん、ありがとう」
「ううん。僕こそゴメン。今までと変わらずにいてくれる?」
「もちろんだ」
シュテルのことは好きだ。これが、キスしたいと思う気持ちと一緒かは分からないけど。許されるなら、まだ友達として側にいたい。
シュテルは満足げに頷いた。
「もう、就寝時間だ、帰るよ」
結ばれた指を離そうとすれば、オイルでヌルリと指が滑る。
その感触があまりにも唐突に艶かしく、思わずゾクリと戦いた。
「っ」
それを見て、シュテルが笑いを漏らす。
恥ずかしさで俯く。
「明日も来てね」
まるで悪魔の囁きのように、シュテルが耳元に風を吹き込んだ。
部屋に戻って大きく息を吐く。
ホッとする。疲れてしまった。
「大丈夫か? シュテルの我儘なんか無視したっていいんだぞ?」
フェルゼンが気遣ってくれる。
「なんでもないよ」
「そうか? なんか、最近シュテル臭いぞ」
フェルゼンの物言いにドキリとする。
「……あ、お、オイルの臭いだよ、手に付いてるから」
そう答えれば、フェルゼンが手をとって臭いを嗅いだ。
フェルゼンの体は熱い。こんな距離いつものことなのに、思わず体が強張る。そんな自分が恥ずかしい。
「ほんとだ、これか」
「マレーネ姫が用意したんだって」
「……あのさ、バレてないんだよな?」
女だとバレていないかフェルゼンが確認する。
「たぶん、バレてないはず。バレるようなことしてないし」
聞いて確かめることはできないけれど。
「困ったら俺に相談しろよ? 一人で無理するな」
でも、こんなこと相談できない。シュテルはフェルゼンの友達だし、フェルゼンだって間に入って困るだろう。
「うん」
フェルゼンに笑い返せば、納得したかのように笑い返された。
女だとバレないようにしていたけれど、それは学校にいるためでシュテルに嘘ついてる自覚がなかった。どっちだって、私は私だって思ってた。それで今まで困らなかったし、これからも良いと思ってた。
それなのに、急に怖くなる。どっちつかずでいることが怖くなる。
男だとか女だとか、気にしなくていいと思っていたのに。
このまま男のふりをしていけるのだろうか。
何時女に戻るのだろうか。
女だと知ったらシュテルは私を軽蔑するだろうか。
シュテルが好きなのは、騎士の私なのだ。
令嬢としての私は、背は高すぎるし胸もなくて、顔なんて可愛さからかけ離れている。なんてったって男と思われているくらいなのだから。そんな女を、女が苦手なシュテルが好きだと思うはずがない。
嘘つきだと、思うだろうな。
そう思ってゾッとした。
悪いのは自分だけど、真実を知られて嫌われるのは嫌だなんて図々しいと思うけれど。
だったら男のままでいたい、そう思ってしまうのだ。