怪我をした僕は、アイスベルクの本営に担ぎ込まれた。馬上でずっと励まし続けるベルンの声と、冷やしてくれる魔法に揺られて、痛み以上の幸せを感じていた。
アイスベルクのテントは簡素なものだけれど、防御魔法は一流で医者の技術も目を見張るものだった。
サラマンダーの傷は酷いものだったが、的確な治療のおかげでみるみる回復した。つきっきりのベルンの看病のおかげが大きいと思う。
必死で僕の無事を願うベルンの姿に心が震えた。
こんなにベルンの中に自分がいるとは思っていなかったからだ。
何時でも冷静沈着で、熊を相手にしたって取り乱したりしないのに、あの一瞬は嘘みたいだった。痛み以上の多幸感が押し寄せてきて、息もできないほどの傷に感謝すらした僕は可笑しいだろうか。
一瞬だけど、死んでもいいと思ったのだ。
その後、献身的に看病してくれる必死なベルンを見て、生きていて良かったと何度噛みしめたことだろう。
怪我をして数日。僕は初めてアイスベルクの騎馬隊に世話になった。驚いたことに、アイスベルクには女の騎兵がいたのだ。王都の騎士は現在男しか認められていない。それは、やはり危険な仕事を女にさせるのは騎士道に反するからだ。
しかし、彼女たちは女子供に恐れられることなく仕事をこなしていて、殺伐とした戦場において必要なのは強屈な男だけではないと感じだ。
ベルンに聞けば、ベルンの発案で指導しているらしい。面白いことを考えるな、と思った。
それにベルンの魔法。魔法付与とでも言うのだろうか。
あんなのは今まで知らなかった魔法だ。ベルンは当たり前のようにやっていて、騎馬隊も当然のように受け入れていたけれど、そんなものじゃない。
例えば、同じ系統の属性ならできるのかもしれないが、魔法のかかっていないものや、他属性の魔法に干渉できるなんて聞いたことがなかった。
僕の金属性の武器強化も一見同じように見えるが、僕の魔法は金属に働きかけているだけで、木や皮には効果がないのだ。
本当に彼の能力は計り知れない。
僕はベルンが好きだ。意外な一面を知れば知るほど、どんどん好きになっていく。
多分初めて会った日から、僕はベルンに引かれていた。
今だって馬の息遣いごと思い出せる、世界が輝きだした七歳のあの日。
・・・
ベルンと初めて出会った時、僕は彼が貴族の子供だとは知らなかった。
あの日、駿馬として有名なアイスベルク産の馬が、僕の七歳の誕生日のプレゼントとして献上されてきたのだ。
馬か……。
僕はあまり気分が乗らなかった。
ポニーにはそれなりに乗る。しかし、大きな馬には乗ったことがなかった。
父上と兄上の馬も、アイスベルクの特別な馬だ。大きく強く早く賢い、そう名高いアイスベルクの馬は気位も高いような気がする。父上の馬も、兄上の馬もとても大きくて、僕が触りたいと思っても気安く触らせてはくれなさそうな雰囲気がした。ツンとした美しい鼻先は、僕を下に見ているんだろうなと伝わって、苦手だった。
きらびやかに飾り立てられた馬を引くのは、僕と同じ年くらいの男の子だ。
怖くないのかな。
僕は心配になる。冗談でも揶揄でもなく、馬に蹴られたら死んでしまうことだってあるのだ。
儀式用の馬丁の衣装を着せられて、青い髪を後ろで一つに結わえていた。きっと馬をより大きく見せるために無理やりやらされているのだろう。
かわいそうだ。
そう思った瞬間、馬が前足を高く上げた。
蹴られる!
息を飲んだ瞬間、男の子は穏やかに笑った。
え? 笑うの?
僕は目を奪われた。
優しい瞳で馬を見て、何か一言呟いて首筋を撫でたようだった。
馬はそれっきりすっかり落ち着いて、何事もなかったようにシズシズと歩き出した。
男の子は意に介さないように堂々と歩いていく。
まるで魔法みたいだ……。
そして、あの馬に早く会いたくなってしまった。
僕は早速厩舎へと向かった。もちろん、大人には秘密だった。厩舎に行きたいと言えば、何やかんやと理由をつけて、きっと一週間ぐらい先伸ばされてしまう。
王宮とはそういうところだった。
僕の望みを叶えてくれないわけじゃない。だけど、安全だとか、手続きだとか、儀式だとかで時間がかかるのが常なのだ。だから、僕は諦めることが多くなっていた。
人目を避けて、厩舎へとたどり着いた。
しかしそこには先客がいた。
青い髪の男の子。さっきと同じ馬丁の衣装を身につけたままだ。
僕はそっと壁の影から様子を伺う。
男の子は、それはそれは大切そうに馬の首を撫でていた。
馬は大人しく、されるがままにされていた。
早く馬を見てみたいのに、その子がいるから側に寄れない。
チラチラと覗いては隠れ、覗いては隠れとしていると、ふと青い視線にぶつかった。あの男の子と目が合ってしまったのだ。
まずい!
「……てんしさま?」
男の子はそう言った。僕は慌てて自分の後ろを振り返る。誰かいるのかと思ったのだ。でも周りには人一人おらず、僕に向けられた言葉だと分かった。
王子の僕にお愛想で『天使みたいな美しさ』なんて言う大人は多かったけれど、今みたいに突然、しかも同じ年くらいの子供に真顔でそんなことを言われたことがなかったので面食らった。
「てんしさま、なの?」
男の子は小首をかしげて、もう一度そう尋ねた。
僕は慌てて首を横に振った。
「ちがうの」
コクリと頷く。
「……どうしたの? 馬が見たいの?」
もう一度頷けば、その子は満面の笑みで微笑んで僕を手招きした。
「こわくない?」
オズオズと尋ねてみる。
「全然怖くないよ。この子はとっても優しいから」
馬のことを『この子』って言うんだな、なんて思った。
「大丈夫、こっちににおいでよ」
もう一度呼びかけられて、ムズムズとする。こんなふうに、子供らしく話しかけられることは少ないからだ。ため口で話すのは、幼馴染のフェルゼンだけだ。後はみんな丁寧な言葉で話す。
だから、とても新鮮だった。僕は意を決して彼の隣に並んだ。
「スノウ」
男の子はそう馬に呼び掛けた。言葉の意味は分からなかった。
馬が嬉しそうに鼻を鳴らして、鼻先を男の子に寄せた。
「触ってみる?」
唐突に言われて僕は驚いた。
「だいじょうぶ?」
おずおずと尋ねる。だって、父上の馬も兄上の馬も、僕には触られたくないとあからさまに態度で示していたからだ。
「スノウ、この子が触ってもいい?」
男の子は馬に確認した。馬は優しい目で僕を見て、頭を低く下げた。
「触ってもいいって」
僕はおっかなビックリ手を伸ばす。
「そう、ゆっくり優しくね」
ウィスパーボイスが僕の耳をくすぐった。
「ゆっくり、やさしく」
僕はそぉっとそぉっと、小さな花に触れるように優しく触った。
馬は物足りないのか、自分の鼻先を僕の手に押し付けた。僕は受け入れられたことにとても驚いて、思わず頬が緩む。
「あったかい」
「うん」
「それで、力強いね」
「うん」
「スノウって名前?」
「うん、今まではそう呼んでた」
男の子は少し寂し気にそう答えた。
「……どういう意味?」
「異国の言葉で雪って意味なんだ」
「ピッタリな名前だね。君の?」
男の子は首を横に振る。束ねた青い髪が揺れた。
「私たちで大事に育てた子。でも、王子様のものになるんだって」
ああ、この馬を手放すのが悲しいんだ、はっきりと僕にもわかった。
「イヤ?」
「離れるのは寂しい。でも、王子様を上手に乗せられるのはスノウしか出来ないことだと思うんだ。それで王子様が馬を好きになってくれたらいいなぁって思う」
「そうなの?」
僕はびっくりした。この子は、馬を信頼して、その信頼できる馬を王子に渡そうとしている。
「それで、スノウを大事にしてくれたら嬉しい」
馬を見て愛おしそうに笑う姿が切なくて、僕もこの子を大切にしたい、そう思った。
「そっか。スノウ……スノウ」
僕は、馬の名前を呼びながら、鼻先に頬を寄せてみた。スノウも優しい瞳でそれに答えてくれる。
初めての感覚に、ドキドキと心臓が高鳴った。
可愛い。
仲良くなりたい。
心からそう思った。
突然、バタバタと走り回る足音が響いて、僕は驚いて顔を上げた。
きっと王宮のものだ。
「どうしよう」
見つかったら連れ戻される。まだもうちょっとだけここに居たかった。
「逃げてるの?」
悪戯っぽい目で青い髪の男の子は聞いた。僕は頷く。
彼はそれを見て、僕の腕を軽く引く。驚いて顔を見れば、人差し指を唇に当てていた。
そしてそのまま馬小屋へ入る。
僕は驚いた。そんな近くに行ったら、馬に蹴られてしまう。
反射的に抵抗する。
「大丈夫。静かにしてれば大丈夫。……スノウちょっとゴメンね」
僕は息を詰めて、身体をこわばらせたまま彼についていく。二人でスノウのお尻の陰に隠れる。
馬の匂いがすごい。敷き詰められた藁の上に身をかがめると、スノウが足で近くの藁を僕たちに寄せた。
僕は怖くて慌てるが、彼は小さく笑っただけだった。
そしてスノウは静かに座った。これで僕らは表からは見えなくなってしまう。
「……こっちにも来てないか……」
落胆する兵士の声がする。
「お、今日の献上品がいるぞ」
「アイスベルクの馬か」
「ああ、いい馬だ」
兵士の会話に彼は嬉しそうにほほ笑んだ。
「ひきこもり侯爵様はこの馬に助けられてるようなもんだ。宮廷に居場所がないのにな、この馬を産出してる限り地位だけは安泰だ」
ブルン、スノウがいなないて歯を見せてカチカチと鳴らす。
僕の心臓も早鐘を打つ。荒々しく猛る動物を間近で見たことはなかった。
さっきまではあんなに優しかったのに、一転して大きな獣だと実感する。人知など通用しない相手なのだ。
熱い馬の体温。身震いする体躯。スノウが体全体で怒っている。怖い。
「やめろよ、馬が怒ってる」
「ええ? 偶々だろ? 馬に言葉なんかわかるもんか」
「アイスベルクの馬は賢いんだよ。俺も持ってるからわかる」
「……」
兵士の一人が黙った。
「優しくて大人しいのに勇敢だ。自分の主を決めたら、その主のためになんだってしてくれる」
「そんなにすごいのか」
「ああ。怖くて愛おしい」
「まるで理想の女かよ」
兵士は笑った。
「まったくだな」
もう一人の照れたような笑いが、足音共に遠ざかっていった。
ユルユルとスノウが立ち上がって、パサリと尻尾を振った。
彼は優しくスノウの腹を撫で、小さな声でありがとう、と言った。スノウも、小さく鼻を鳴らして答える。
藁だらけになった服を馬丁の子は景気よくパンパンと叩いた。
僕はそれを見て、そうすればいいんだと初めて知って、同じように叩いてみる。でも、なんだかうまくいかなくて、彼は笑いながら僕の服を叩いてくれた。
王宮の鐘がなる。もう帰らなくてはさすがに不味い。
「ごめん! またね!」
そう言うと、僕は後ろ髪を引かれる思いで厩舎から走り去った。
「またね!」
声が返ってきて嬉しかった。
部屋についてから、ふと我に返る。
「……あの子の名前、聞かなかったな」
また会えるかな。会いたいな。
一緒に乗馬できたらいいな。きっと叶わない夢だけど。
スノウの名前はスノウのままにしよう。
そうすれば、彼にいつか会える気がした。