七海と顔を合わせたのは、朝のホームルームが始まる前の空き時間だった。

「かんちゃん、今ちょっといい?」
 俺のクラスにやって来た七海は、そう言って俺を教室から連れ出した。
 最初は廊下で話そうとしたようだったけれど、人通りが気になったらしい。「あっち行こ」と歩き出した七海は、喧噪から離れた渡り廊下まで移動したところで、ようやく足を止めた。

「――あのね」
 はにかむような笑顔で、七海が俺のほうを向き直る。落ち着きなく、制服の裾をいじりながら。
「ちょっと、報告というか……かんちゃんに、伝えておきたくて」
 もうその時点で、続く内容は充分すぎるほど察しがついていた。
「えっと」頬を赤くした七海は、うつむいて、ちょっと言いづらそうに口ごもる。
 それから
「昨日ねっ、わたし、彼氏ができました!」
「……ああ、うん」
 なにも裏切ってくれることはなく、ただただ予想通りの言葉を続けた。
 これで、もう否定する隙なんてみじんもなくなってしまった。99%だった確信が、100%になった。

 ……昨日だったのか。
 だったら昨日の俺は、カップルが誕生するその瞬間を見ていたのだろうか。
 どのタイミングだったのだろう。手をつなぐ前か、キスの前か。

 そんな愚にもつかないことを考えて、俺が黙り込んでいるあいだに
「同じクラスの人でね、樋渡(ひわたり)(すぐる)くんっていうんだけど」
 俺の反応の薄さにかまわず、七海は浮き立った口調で続けると
「かんちゃん、知ってる?」
「知らない。覚えとく」
 ひわたりすぐる。
 刻み込むように、その名前を頭の中で反芻する。

「……前から仲良かったのか?」
「うん。樋渡くん、生徒会にも入ってるから、いっしょに過ごす時間も多くて。それで仲良くなって」
 ああ、やっぱりあいつも生徒会なのか。
 なんであの日の俺は、七海の生徒会入りを軽く了承してしまったのだろう。こんなことになるなら、全力で反対しておくんだった。

「……七海は」
「ん?」
「ちゃんと好きなの? そいつのこと」
「え? うん」
 七海はきょとんとした顔でまばたきをしてから
「そりゃ、もちろん。じゃなきゃ告白なんてしないよ」
「……え?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
 告白?

「七海が、したの?」
「うん、そうだよ」
 俺はあっけにとられて七海を見た。
 幼い頃の面影が残るあどけない表情で、七海は照れたように前髪をいじりながら
「がんばっちゃった。すっごい緊張したけど」
 まさか。
 信じられない思いで俺は見慣れた幼なじみの顔を見つめる。
 七海から、告白した? あの七海が?

 気が弱くて大人しくて、引っ込み思案で。人に話しかけるのが苦手で、高校に入学するときも、ちゃんとクラスになじめるかな、なんて心配していた七海が。クラスメイトの男に、好きだと言った? わたしと付き合ってください、って?
 まったく想像がつかなかった。俺の知っている七海では、どうしても想像と重ならない。七海にそんなことができるなんて、信じられない。
 二人が付き合っているのだとしても、押しに弱い七海がほだされる形で付き合いだしたのだと思っていた。当たり前のように。それしか考えられなくて、それが、せめてもの慰めになっていたのに。
 ――そこまで、好きだったということなのか? あの男が?

「なんで」
「え?」
「なんで、好きになったの? そいつのこと」
 えっと、と七海は目を伏せ、少し恥ずかしそうに頬を染めながら
「樋渡くんってね、すごく優しいから」
「……優しい」
「うん。勉強とか、いつも教えてくれて」
 ――そんなの。
 口をつきかけた言葉は、寸前のところで呑み込んだ。

 それぐらいの優しさなら、俺のほうがずっと与えてきたはずだ。
 小学校でも、中学校でも。
 勉強が苦手な七海に、勉強を教えてきたのは俺だった。朝、その日七海が授業で当たりそうな問題の答えを教えてあげたり、どうしても間に合わない宿題は写させてあげたり。高校入試の前も、自分の勉強の合間に七海の勉強を見てきた。最初はC判定だったこの高校に無事合格できたときも、「かんちゃんのおかげだよ、ありがとう」なんて七海はうれしそうに笑っていたのに。

 それらは七海にとって、優しさではなかったのだろうか。
 七海の中では、なにもカウントされていないのか。
 目の前ではにかむように笑う七海の笑顔を眺めながら、俺は呆然とそんなことを考えていた。