七海がいた。廊下の向こう、五メートルほど先に。じっとこちらを見つめて、言葉を探すように立ちつくしていた。
 彼女と顔を合わせるのは、あの日の保健室以来だった。

 目が合うと、七海の表情が少し強張る。
 緊張したように、彼女が息を吸うのがわかった。だけど迷うような素振りはなく、まっすぐにこちらへ歩いてくると
「……このまえは、ごめんね。かんちゃん」
 俺の前に立つなり、顔を伏せながらぽつんと呟いた。
 聞き慣れた、泣きそうな子どもみたいな声で。

「わたし、かんちゃんに、ひどいこと言って」
「……いや」
 彼女の手がスカートの裾をぎゅっと握りしめているのを見ながら、俺は首を振ると
「俺も、ごめん。ひどいこと言って」
「ううん、かんちゃんは」
「大丈夫だった? あのあと」
「あ、うん。大丈夫。軽いやつだったから、すぐ落ち着いて」
「そっか」
「……心配かけて、ごめんね」

 会話はすぐに途切れ、沈黙が降りてくる。
 お互い、次の言葉を選びかねているのがわかった。それを気まずく感じて、そのことに一瞬、ひどく悲しい気持ちにおそわれた。
 七海との沈黙が気まずいなんて、今まで、思ったことはなかったから。
 七海と話すのに、こんなに言葉を探すことも。

「……あの、さっき」
 重たい沈黙が破れたのは、ためらいがちに七海が口を開いたときで
「かんちゃん、坂下さんと、いっしょにいた?」
「いたけど」
「……その、かんちゃんって」うつむいたまま、七海がおずおずと言葉を継ぐ。
 さっきから落ち着きなく、指先で制服の裾をいじりながら。

「今、坂下さんと付き合ってるの?」
「は?」
「あ、なんか、クラスでそういう噂聞いて……」
 もごもごと続いた言葉に、もうそんな噂が流れてんのか、と俺はちょっとあきれながら
「付き合ってないよ。ただの」
 友達、と答えようとして、さっき聞いた季帆の言葉を思い出した。
「……顔見知り程度」
「そうなの? でも、仲良さそうだった」
「俺が一方的につきまとってるだけ。あいつは今も樋渡のこと狙ってるらしいし」
「……え?」
 聞き返しながら顔を上げた七海の表情は、今更驚いたように強張っていて

「前にも教えただろ。そういう噂あるって」
「や、だって、ただの噂だと思ってたから。……本当だったの?」
「本当だよ。だから七海も、そんな余裕ぶっこいてないほうがいいんじゃないの」
 思わず口をついた俺の忠告については、七海はなんの反応も返さなかった。
 ふいに黙って、考え込むような表情で俺を見つめる。

「……じゃあ、かんちゃんは」そうして短い沈黙のあと、慎重に言葉を選ぶようにして
「今、片思いしてるの? 坂下さんに」
 なんだか気遣わしげなその口調に、ちょっと腹の奥がもぞもぞしたけれど
「……まあ」けっきょく、頷くしかなかった。季帆のせいで。
「そうです。片思い中」
「そっか……」
 七海は神妙な面持ちで目を伏せ、また考え込むように黙り込む。
 言葉を探しているみたいだった。たぶん、報われない俺を励ますか、慰めるための言葉を。

 それがわかって、「だから」と俺は七海が口を開くより先に口を開くと
「ちゃんとお前が、樋渡をつかまえとけよ」
「へ」
「樋渡が季帆になびいたら困るだろ。今は樋渡、ぜんぜんその気ないみたいだけど、だからってこれからも心変わりしないとは限らないし。あんま余裕ぶっこいて気抜いてんなよ、お前が」
「あ……う、うんっ」
 俺の言葉に、七海ははっとしたように目を見開いてから、あわてたように表情を引きしめた。「そっか、そうだよね」ひとりで頷きながら、胸の前でぐっと拳を握ってみせる。

「まかせて、卓くんはわたしがちゃんとつかまえてるから。ぜったい逃がさないから!」
「頼むぞ。七海にかかってんだからな」
「うん、大丈夫だよ! ……だから、かんちゃん」
 そこでふと言葉を切った七海の表情が、くしゃりと歪む。
 作りかけた笑顔が、一瞬、不格好に崩れた。
 だけど一瞬だった。一瞬だけ顔を伏せた七海は、軽く唇を噛んでから、またすぐに顔を上げる。
 そうしてまっすぐに俺の目を見て、押し出したような笑顔で
「がんばってね。わたし、応援してる」

 ――その声が少し震えていたように聞こえたのは、たぶん、俺の気のせいなのだろう。
 彼女の笑顔が、どこか苦しげで、泣き出しそうに見えたのも。
 きっと、ただの俺の願望なのだろう。
 だって。

「……ありがと。七海も」
 今、俺が痛いから。途方もなく。
 彼女が俺と同じような痛みを感じていてくれたなら、ほんの少し、救われるから。

「……がんばれ」