浜辺まで降りてきたときには、日は落ちきって空の向こうから夜が訪れようとしていた。
駅や展望台よりずっと濃く、潮の匂いが風に混じっている。
砂が靴の中に入らないよう気をつけながら、俺たちは波打ち際まで歩いていった。
見下ろしていたときは気づかなかったけれど、砂浜には意外と細かなゴミが落ちていて、けっこう汚かった。
靴が濡れないよう、波が打ち寄せてくるぎりぎり手前で足を止める。
隣の季帆も、当然そこで立ち止まるかと思ったら
「……え? ちょ」
思いがけず、さらに足を前へ踏み出したものだから、ぎょっとした。
「季帆?」
濡れた砂でスニーカーが汚れるのもかまわず、彼女はまっすぐに海へ進む。その迷いのない足取りに、心臓が硬い音を立てる。同時にぞっとするような冷たさが突き上げてきて、俺は思わず手を伸ばした。
「季帆!」
夢中で腕をつかんで引っ張ったら、力加減ができなくて思いのほか乱暴になった。
「わっ」
急に後ろへ引かれたせいで、季帆の足がもつれる。拍子にぐらりとよろけた身体は、そのまま俺のほうへ倒れ込んできた。
あわてて支えようとしたけれど、間に合わなかった。重みに引っ張られるまま、俺までバランスを崩してよろける。
「……なにしてるんですか?」
気づけば、季帆とふたり砂浜にしりもちをついていた。
濡れた制服から、じわりとした冷たさが染み入ってくる。怪訝な顔でこちらを見つめる季帆の腕から、俺はまだ手を離せないまま
「お前が、海に入っていこうとするから」
「べつに入っていこうとはしてません。ただもうちょっと、近づこうとしただけで」
「まぎらわしいことすんなよ!」
「ええ……?」
困惑した顔で首を捻る季帆の腕を引いて、立ち上がらせる。もう完全に手遅れだったけれど。水を吸った季帆のスカートの裾から、ぽたりと滴が落ちた。
「濡れちゃった」それを見下ろしながら、季帆がぽつんと呟く。
「困ったなあ、着替えなんてないのに」
内容とは裏腹に、至極のんびりとした口調だった。
「しかも私、制服一着しか持ってないんですよ。明日も学校なのに」
「……ごめん」
さすがに罰が悪くなって謝っていると、急に季帆が歩き出した。スニーカーを水に浸しながら、波打ち際を進む。「ちょ」それにまたぎょっとして、いそいで追いかけようとしたら、数歩進んだところで季帆がこちらを振り向いた。悪戯っぽい、子どもみたいな笑顔と目が合う。
そうしてふいに身を屈めたかと思うと
「――えいっ」
おもむろに足下の水をすくって、いきなり俺にかけてきた。
「うわ!」浅瀬なのでたいした量ではなかったけれど、ズボンを濡らした水の冷たさはしっかり伝わってきて
「なにしてんだよバカ」
あきれて声を上げると、季帆は声を立てて笑った。ひどく幼い、無邪気な笑い方で。
「仕返しです。土屋くんも濡らしてやろうと思って」
「もう充分濡れてんだよ、俺も」
「なんかこういうの、憧れだったんです。ドラマみたいで」
心底楽しそうに言いながら、季帆はまた身を屈めて水をすくおうとする。
そりゃ、夏の日差しの下でならドラマみたいかもしれないけど。日の落ちた秋の海なんて、水も風もひたすら冷たいだけで
「いややめろって。帰りどうすんの。ずぶ濡れで電車乗る気かよ」
季帆の手をつかんで制していると、帰り、と季帆はぼんやりした声で繰り返した。
「なんか、面倒くさくなってきましたね」
「なにが」
「帰るの」
ふと俺の顔を見上げた季帆が、妙に吹っ切れたようなすがすがしい笑顔で、そんなことを言い出す。
「は?」
「帰るの、やめましょうか。今日」
その声が本当に楽しそうで、俺は季帆の手を離した。濡れた身体に吹きつける風が、どんどん体温を奪っていく。はずなのに、不思議なほど寒くなかった。身体に貼りつく制服の冷たさも、なにも感じなかった。ただ腹の奥のほうがじんわり温かくて、その熱が喉元までこみ上げてきて
「……そうだな」
それがくすぐったくて、俺も笑っていた。季帆と同じような、ひどく子どもっぽい自分の声が、耳に響いた。
「面倒くさいな、帰るの」
「でしょ。ここに泊まりましょうよ」
「いいな、そうしよ」
お互い変なテンションになって、笑いながらそんなことを言い合う。言葉を重ねるたび、さらに喉奥から笑いがせり上がってきて、止まらなくなった。
「どっか泊まれるところとかあんのかな」
「あれ、ホテルみたいですよ」
そう言って季帆が指さしたのは、山のふもとにぽつんと建っている、お城みたいな建物だった。悪趣味な派手派手しさは、のどかな海辺街の景色の中でそこだけぽっかりと浮いている。
「いやラブホじゃん」
「いいじゃないですか」
「いいけど」
「じゃあ行きましょう」
「よし、行こう」
言いながら手を差し出せば、季帆は「はい!」と元気よく返事をしてその手をとった。その子どもみたいな声にまた笑ってから、ふたりで砂の上を歩き出す。
お互い冷静さが戻ってきたのは、そうしてしばらく歩いていた途中で
「……いや、無理じゃん。俺ら金ないし」
「そうでした。それでカフェもあきらめたんでした」
「また行こう」
「え?」
「あ、いやラブホじゃなくて。柚島に」
面食らったような顔でこちらを見た季帆に、誤解のないよう付け加えておく。
「今度はちゃんと前もって計画立てて、お金も持って、また来よう。季帆が行きたかったカフェにも、行けるように」
季帆は黙って俺の顔を見つめていた。
何度かまばたきをして、それからようやく思い出したように、顔をほころばせる。はい、と噛みしめるように大きく頷く。
その無防備な笑顔になぜだか一瞬泣きたくなって、つないだままの彼女の手を、強く握りしめた。ぜったいに、離してやるものかと思いながら。
駅や展望台よりずっと濃く、潮の匂いが風に混じっている。
砂が靴の中に入らないよう気をつけながら、俺たちは波打ち際まで歩いていった。
見下ろしていたときは気づかなかったけれど、砂浜には意外と細かなゴミが落ちていて、けっこう汚かった。
靴が濡れないよう、波が打ち寄せてくるぎりぎり手前で足を止める。
隣の季帆も、当然そこで立ち止まるかと思ったら
「……え? ちょ」
思いがけず、さらに足を前へ踏み出したものだから、ぎょっとした。
「季帆?」
濡れた砂でスニーカーが汚れるのもかまわず、彼女はまっすぐに海へ進む。その迷いのない足取りに、心臓が硬い音を立てる。同時にぞっとするような冷たさが突き上げてきて、俺は思わず手を伸ばした。
「季帆!」
夢中で腕をつかんで引っ張ったら、力加減ができなくて思いのほか乱暴になった。
「わっ」
急に後ろへ引かれたせいで、季帆の足がもつれる。拍子にぐらりとよろけた身体は、そのまま俺のほうへ倒れ込んできた。
あわてて支えようとしたけれど、間に合わなかった。重みに引っ張られるまま、俺までバランスを崩してよろける。
「……なにしてるんですか?」
気づけば、季帆とふたり砂浜にしりもちをついていた。
濡れた制服から、じわりとした冷たさが染み入ってくる。怪訝な顔でこちらを見つめる季帆の腕から、俺はまだ手を離せないまま
「お前が、海に入っていこうとするから」
「べつに入っていこうとはしてません。ただもうちょっと、近づこうとしただけで」
「まぎらわしいことすんなよ!」
「ええ……?」
困惑した顔で首を捻る季帆の腕を引いて、立ち上がらせる。もう完全に手遅れだったけれど。水を吸った季帆のスカートの裾から、ぽたりと滴が落ちた。
「濡れちゃった」それを見下ろしながら、季帆がぽつんと呟く。
「困ったなあ、着替えなんてないのに」
内容とは裏腹に、至極のんびりとした口調だった。
「しかも私、制服一着しか持ってないんですよ。明日も学校なのに」
「……ごめん」
さすがに罰が悪くなって謝っていると、急に季帆が歩き出した。スニーカーを水に浸しながら、波打ち際を進む。「ちょ」それにまたぎょっとして、いそいで追いかけようとしたら、数歩進んだところで季帆がこちらを振り向いた。悪戯っぽい、子どもみたいな笑顔と目が合う。
そうしてふいに身を屈めたかと思うと
「――えいっ」
おもむろに足下の水をすくって、いきなり俺にかけてきた。
「うわ!」浅瀬なのでたいした量ではなかったけれど、ズボンを濡らした水の冷たさはしっかり伝わってきて
「なにしてんだよバカ」
あきれて声を上げると、季帆は声を立てて笑った。ひどく幼い、無邪気な笑い方で。
「仕返しです。土屋くんも濡らしてやろうと思って」
「もう充分濡れてんだよ、俺も」
「なんかこういうの、憧れだったんです。ドラマみたいで」
心底楽しそうに言いながら、季帆はまた身を屈めて水をすくおうとする。
そりゃ、夏の日差しの下でならドラマみたいかもしれないけど。日の落ちた秋の海なんて、水も風もひたすら冷たいだけで
「いややめろって。帰りどうすんの。ずぶ濡れで電車乗る気かよ」
季帆の手をつかんで制していると、帰り、と季帆はぼんやりした声で繰り返した。
「なんか、面倒くさくなってきましたね」
「なにが」
「帰るの」
ふと俺の顔を見上げた季帆が、妙に吹っ切れたようなすがすがしい笑顔で、そんなことを言い出す。
「は?」
「帰るの、やめましょうか。今日」
その声が本当に楽しそうで、俺は季帆の手を離した。濡れた身体に吹きつける風が、どんどん体温を奪っていく。はずなのに、不思議なほど寒くなかった。身体に貼りつく制服の冷たさも、なにも感じなかった。ただ腹の奥のほうがじんわり温かくて、その熱が喉元までこみ上げてきて
「……そうだな」
それがくすぐったくて、俺も笑っていた。季帆と同じような、ひどく子どもっぽい自分の声が、耳に響いた。
「面倒くさいな、帰るの」
「でしょ。ここに泊まりましょうよ」
「いいな、そうしよ」
お互い変なテンションになって、笑いながらそんなことを言い合う。言葉を重ねるたび、さらに喉奥から笑いがせり上がってきて、止まらなくなった。
「どっか泊まれるところとかあんのかな」
「あれ、ホテルみたいですよ」
そう言って季帆が指さしたのは、山のふもとにぽつんと建っている、お城みたいな建物だった。悪趣味な派手派手しさは、のどかな海辺街の景色の中でそこだけぽっかりと浮いている。
「いやラブホじゃん」
「いいじゃないですか」
「いいけど」
「じゃあ行きましょう」
「よし、行こう」
言いながら手を差し出せば、季帆は「はい!」と元気よく返事をしてその手をとった。その子どもみたいな声にまた笑ってから、ふたりで砂の上を歩き出す。
お互い冷静さが戻ってきたのは、そうしてしばらく歩いていた途中で
「……いや、無理じゃん。俺ら金ないし」
「そうでした。それでカフェもあきらめたんでした」
「また行こう」
「え?」
「あ、いやラブホじゃなくて。柚島に」
面食らったような顔でこちらを見た季帆に、誤解のないよう付け加えておく。
「今度はちゃんと前もって計画立てて、お金も持って、また来よう。季帆が行きたかったカフェにも、行けるように」
季帆は黙って俺の顔を見つめていた。
何度かまばたきをして、それからようやく思い出したように、顔をほころばせる。はい、と噛みしめるように大きく頷く。
その無防備な笑顔になぜだか一瞬泣きたくなって、つないだままの彼女の手を、強く握りしめた。ぜったいに、離してやるものかと思いながら。