その身体は、思っていたよりずっと細くて頼りなくて、息が詰まった。
「……土屋くん?」
腕の中から、季帆の心底戸惑ったような声がする。
俺の胸に顔を押しつけられているせいで、少しくぐもった苦しげな声で
「え、えっと、どうし」
「頼むから」
声は、考えるより先にこぼれていた。あいかわらず掠れた、情けない声が。
「ここに、いて。これからも」
身じろぎひとつせず固まっている身体をきつく抱きしめ、顔をうずめる。
季帆が小さく息を呑む気配がした。
「……俺の、傍にいて」
力を込めようとした両腕が、かすかに震えているのに気づいた。指先はあいかわらず冷たくて、熱を求めるみたいに彼女の髪に指を絡ませる。そこから伝わる体温をこのままずっと離したくなくて、困った。離すのが、怖かった。
……季帆も、こんな気持ちだったのだろうか。
ずっと、俺を追いかけているあいだ。
――だめです!
俺のこれまでの人生で、たぶん、いちばん最悪だった日。
突然俺の前に現れた彼女は、いつだって必死だった。わけがわからないぐらいに。
いつも、怖いほどまっすぐに俺の目を見て、バカみたいに俺のことしか考えてなくて、ぶっ飛んだことばかり言って。
だけどその必死さに、気づけばすがっていた。
彼女だけはきっと俺を裏切らないと、ずっと俺の傍にいると、それだけは奇妙な確信をもって思えることに。たぶん、心のどこかで、救われていた。今だって。
季帆が風に吹かれた、あの一瞬。
それを失くすかもしれないという恐怖に、息が止まりそうになるぐらいには。
「……土屋くん」
腕の中で硬直したままの季帆が、ためらいがちに小さく呼ぶ。彼女らしくない、いやにしおらしい声で。そんな、らしくないことがぜんぶ怖くて、俺はまた腕の力を強めながら
「なに」
「ハンバーグが」
「は?」
続いた単語はあまりに脈絡がなくて、思わず間の抜けた声が漏れた。
「ハンバーグがね」俺の反応にかまわず、季帆は続ける。しんみりと思い返すような声で。
「おいしかったんです」
「ハンバーグ?」
「土屋くんといっしょに行ったファミレスで、食べたハンバーグ」
「……ああ」
そういや食べてたな。
鉄板の上で焼ける音がおいしそうで、俺もそっちにすればよかったとちょっと後悔したのを覚えている。
「今まで食べたハンバーグで、いちばんおいしかったんです。びっくりするぐらい。べつに、あのときはじめて食べたわけじゃないんですけど。でもあのときのハンバーグが、今まで食べてきたどのハンバーグよりおいしくて」
言われて、あの日ファミレスでハンバーグを食べていた季帆の姿を思い浮かべようとした。けれど、いまいちうまくいかなかった。たぶんあのときの俺は、季帆が告げた七海たちの旅行の件で頭がいっぱいで。自分がなにを食べていたのかすら、記憶はあいまいだった。
なのに。
「たぶん、それは、土屋くんといっしょだったから」
噛みしめるように、季帆はそんなことを言う。大事な思い出を抱えるみたいに。
「クリームパンもね、いつも食べてるんですけど、あの日、土屋くんといっしょに中庭で食べたときがいちばんおいしかったんです。不思議だなあと思って。同じはずなのに、ぜんぜん違うから。土屋くんといっしょに食べると、なんでもおいしくなるんだなあって」
そこで軽く言葉を切った季帆は、いちど短く息を吸って
「……だから、また」
ちょっと緊張したような声で、あらためて口を開いた。
「また、わたしと、いっしょに食べてくれますか。土屋くん」
答えるより先に、俺は抱きしめる腕の力を強めながら
「……いいよ」
腕の中でじっと固まっていた季帆が、そこでふと動いた。
ゆっくり持ち上げた手を、迷うような仕草で俺の背中に回す。そうして大袈裟なほどそうっと、抱きしめ返してきた。
「毎日でも。いっしょに食べよう、これから」
「毎日」
「どうせなら、毎日おいしいほうがいいだろ」
「……なんか、それ」
俺の言葉に、季帆は唇の隙間から息を漏らして小さく笑うと
「幸せ、でしょうね」
ためらいがちに背中に回されていた季帆の手に、ふいに力がこもった。かと思うと、ゆるく抱きしめ返されていた力が、強くしがみつく力に変わる。ぎゅっと俺の胸に顔を押しつけ、子どもみたいにきつく、抱きついてくる。
「なんか、それなら」胸の中からは、こもった、泣きそうな声が続いた。
「……死にたくない、な、私」
目を閉じると、まぶたの裏が熱く痛んだ。
泣きたいのか笑いたいのか、なんだかよくわからなくて、ただ、黙って抱きしめる力を強める。これ以上力を込めたらその細い身体は折れてしまいそうな気がして、だけどそれぐらい力を込めてもまだ全然足りなくて、困った。
途方に暮れた気分で顔を上げたとき、夕陽が海に沈みかけているのに、今更気づいた。一面の青が、いつの間にか赤く染まって輝いている。街中で見るより、ずっと濃い夕暮れの色だった。
「……なあ」
つかの間それに目を奪われながら、俺はふと思い立って腕の中へ声をかけると
「はい?」
「海、行こう」
「海?」
「うん。砂浜のほうまで、行こう」
「……土屋くん?」
腕の中から、季帆の心底戸惑ったような声がする。
俺の胸に顔を押しつけられているせいで、少しくぐもった苦しげな声で
「え、えっと、どうし」
「頼むから」
声は、考えるより先にこぼれていた。あいかわらず掠れた、情けない声が。
「ここに、いて。これからも」
身じろぎひとつせず固まっている身体をきつく抱きしめ、顔をうずめる。
季帆が小さく息を呑む気配がした。
「……俺の、傍にいて」
力を込めようとした両腕が、かすかに震えているのに気づいた。指先はあいかわらず冷たくて、熱を求めるみたいに彼女の髪に指を絡ませる。そこから伝わる体温をこのままずっと離したくなくて、困った。離すのが、怖かった。
……季帆も、こんな気持ちだったのだろうか。
ずっと、俺を追いかけているあいだ。
――だめです!
俺のこれまでの人生で、たぶん、いちばん最悪だった日。
突然俺の前に現れた彼女は、いつだって必死だった。わけがわからないぐらいに。
いつも、怖いほどまっすぐに俺の目を見て、バカみたいに俺のことしか考えてなくて、ぶっ飛んだことばかり言って。
だけどその必死さに、気づけばすがっていた。
彼女だけはきっと俺を裏切らないと、ずっと俺の傍にいると、それだけは奇妙な確信をもって思えることに。たぶん、心のどこかで、救われていた。今だって。
季帆が風に吹かれた、あの一瞬。
それを失くすかもしれないという恐怖に、息が止まりそうになるぐらいには。
「……土屋くん」
腕の中で硬直したままの季帆が、ためらいがちに小さく呼ぶ。彼女らしくない、いやにしおらしい声で。そんな、らしくないことがぜんぶ怖くて、俺はまた腕の力を強めながら
「なに」
「ハンバーグが」
「は?」
続いた単語はあまりに脈絡がなくて、思わず間の抜けた声が漏れた。
「ハンバーグがね」俺の反応にかまわず、季帆は続ける。しんみりと思い返すような声で。
「おいしかったんです」
「ハンバーグ?」
「土屋くんといっしょに行ったファミレスで、食べたハンバーグ」
「……ああ」
そういや食べてたな。
鉄板の上で焼ける音がおいしそうで、俺もそっちにすればよかったとちょっと後悔したのを覚えている。
「今まで食べたハンバーグで、いちばんおいしかったんです。びっくりするぐらい。べつに、あのときはじめて食べたわけじゃないんですけど。でもあのときのハンバーグが、今まで食べてきたどのハンバーグよりおいしくて」
言われて、あの日ファミレスでハンバーグを食べていた季帆の姿を思い浮かべようとした。けれど、いまいちうまくいかなかった。たぶんあのときの俺は、季帆が告げた七海たちの旅行の件で頭がいっぱいで。自分がなにを食べていたのかすら、記憶はあいまいだった。
なのに。
「たぶん、それは、土屋くんといっしょだったから」
噛みしめるように、季帆はそんなことを言う。大事な思い出を抱えるみたいに。
「クリームパンもね、いつも食べてるんですけど、あの日、土屋くんといっしょに中庭で食べたときがいちばんおいしかったんです。不思議だなあと思って。同じはずなのに、ぜんぜん違うから。土屋くんといっしょに食べると、なんでもおいしくなるんだなあって」
そこで軽く言葉を切った季帆は、いちど短く息を吸って
「……だから、また」
ちょっと緊張したような声で、あらためて口を開いた。
「また、わたしと、いっしょに食べてくれますか。土屋くん」
答えるより先に、俺は抱きしめる腕の力を強めながら
「……いいよ」
腕の中でじっと固まっていた季帆が、そこでふと動いた。
ゆっくり持ち上げた手を、迷うような仕草で俺の背中に回す。そうして大袈裟なほどそうっと、抱きしめ返してきた。
「毎日でも。いっしょに食べよう、これから」
「毎日」
「どうせなら、毎日おいしいほうがいいだろ」
「……なんか、それ」
俺の言葉に、季帆は唇の隙間から息を漏らして小さく笑うと
「幸せ、でしょうね」
ためらいがちに背中に回されていた季帆の手に、ふいに力がこもった。かと思うと、ゆるく抱きしめ返されていた力が、強くしがみつく力に変わる。ぎゅっと俺の胸に顔を押しつけ、子どもみたいにきつく、抱きついてくる。
「なんか、それなら」胸の中からは、こもった、泣きそうな声が続いた。
「……死にたくない、な、私」
目を閉じると、まぶたの裏が熱く痛んだ。
泣きたいのか笑いたいのか、なんだかよくわからなくて、ただ、黙って抱きしめる力を強める。これ以上力を込めたらその細い身体は折れてしまいそうな気がして、だけどそれぐらい力を込めてもまだ全然足りなくて、困った。
途方に暮れた気分で顔を上げたとき、夕陽が海に沈みかけているのに、今更気づいた。一面の青が、いつの間にか赤く染まって輝いている。街中で見るより、ずっと濃い夕暮れの色だった。
「……なあ」
つかの間それに目を奪われながら、俺はふと思い立って腕の中へ声をかけると
「はい?」
「海、行こう」
「海?」
「うん。砂浜のほうまで、行こう」