電車がゆっくりと速度をゆるめ、止まった。ドアが開く。
 俺は立ち上がると、開いたドアのほうへ歩いていこうとして
「……あのー」
 寸前まで迷ってから、口を開いた。

 電車に乗ったときから気になっていた。
 斜め向かいの席にひとりで座っている、セーラー服の女の子。窓際の席に座っているのに外を見るでもなく、スマホをいじるでもなく、ずっとうつむいたままで。

 あのセーラー服は知っていた。うちの高校の近くにある、私立の女子校のものだ。つまり、彼女の降りるべき駅もここのはず。
 けれど彼女は、電車が止まっても動き出すことなく、顔を伏せたままじっと座っている。
 寝ているのだろうか。確認しようとしたけれど、うつむいた彼女の顔は見えなくて
「――降りなくていいんですか?」
 迷った末に声をかけてみると、びくりと彼女の肩が跳ねた。

「……えっ?」
 驚いたように顔を上げた彼女が、俺を見上げる。
 その顔を見て、ぎょっとした。
 肌が白を通り越して土気色だった。おまけに双眸はどこかうつろで、目の下には濃い隈もできている。不健康が一目でわかるぐらいのひどさだった。
「ちょ、大丈夫?」
「え」
「めっちゃ顔色悪いけど。いいや、とりあえず降りよう」
 ひたすら呆けている彼女の腕を引き、椅子から立ち上がらせる。そうして閉まりかけたドアに身体をすべり込ませるようにして外に出た。

「座って」
 まだ状況が呑み込めないような表情の彼女を、とりあえずホームのベンチに座らせる。彼女は言われるがままだった。あいかわらず目はうつろで、俺の声が聞こえているのかもあやしい。
「……ちょっと待ってて」
 うっかり心配になってしまったのは、七海のことを思い出したからだった。
 ほんの数日前に、七海も登校途中に具合を悪くして倒れていたから。あのときの七海もひどく顔色が悪かったけれど、「大丈夫」と言い張る彼女を信じていたら、けっきょく大丈夫ではなかった。

「はい」
 俺はホームの自販機でペットボトルの水を買ってきて、彼女に差し出した。
「……え」
 すると彼女はまた、呆けたような顔で俺を見つめる。大丈夫だろうかこの子。熱でもあって意識が朦朧としているんじゃないか。
「どうぞ」
 フタを開けてやって、いくらか強引に彼女の手に渡す。
 そうして俺も彼女の隣のベンチに座った。

 彼女はしばし迷うようにペットボトルを見つめたあとで、ようやく口をつけていた。こくりと喉を鳴らし、ほんの少しの水を飲む。
「大丈夫?」
「え、あ……は、はい」
 再度尋ねてみると、今度はちゃんと返事が返ってきた。消え入りそうな声で。
 ちらっとうかがった横顔はあいかわらず土気色で
「今日学校行くの?」
「え」
 おせっかいなのは承知していたけれど、訊かずにはいられなかった。
 彼女が通っているであろう女子校は、小高い丘の上にある。駅から三十分は歩かなければならないはずだ。この様子だと、たぶん途中で倒れそうで。七海みたいに。

「え、あ、え、えっと……」
 俺の質問に、彼女はなぜかひどく狼狽していた。
 ペットボトルをぎゅっと握りしめ、顔を隠すようにうつむく。
「あ、いや。まあいいんだけど」思わぬ反応に戸惑って、俺は早口に続けると
「具合悪いなら、無理しないほうがいいんじゃないかなと思っただけです」
 それでも彼女が行きたいと言うのなら、赤の他人の俺に止める権利なんてない。そこまでの優しさもない。
 ポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。そろそろ始業時間が迫っていた。

 立ち上がると、彼女は弾かれたように顔を上げ
「あ、あのっ」
「ん?」
「お金を」
「お金?」
 きょとんとして聞き返すと、彼女はあわてたように鞄を開き、財布を取り出していた。
「お水の、お金を……」
「え、いいよいいよ。いらない」
 肩まであるまっすぐな黒髪とか、着崩したところのないきれいな制服を見るに、たぶんこの子は一年生なのだろう。だったら同い年だし、こんな体調不良で真っ青な顔をした女の子から、100円ぽっちのお金なんて受け取りたくない。
「あげるあげる、そんぐらい。……しかもそんなお釣り持ってないし」
 彼女が財布から出していたのは、あろうことか一万円札だった。俺の財布には三千円ちょっとしか入っていない。

「い、いえ、お釣りはいりません」
「いや、駄目だろ。水なんて120円だし」
「お礼です、いろいろしてもらったから……」
 さてはこの子、お金持ちか。たしかにあの女子校、お嬢様っぽい雰囲気の子が多かった気がする。
「いいって。お礼にしては高すぎ。たいしたことしてないのに」
「いいんです。私もう、お金いらないから……」
「は?」
「とにかく、もらってください」
 さっきまでのか弱さはどこへやら、いやに強情に一万円札を押しつけようとしてくる彼女に
「いいって、いいって。いらない。とにかく、無理しないようにしてください」
 なんだか怖くなって、俺は早口にそれだけ告げてさっさと踵を返した。
 あ、とか後ろで彼女がなにか言いたげな声を上げていたけれど、かまわず階段を上る。

 改札を抜ける際、いちおう駅員さんに彼女のことを伝えておいた。ホームに具合の悪そうな子がいます、と。人の良さそうな駅員さんは、すぐに彼女のもとへ向かってくれていて、俺はひとまず安心する。あとは駅員さんが介抱してくれるだろう。

 そのときは、人助けのようなことができたことにほくほくした気分になって、だけどそれも、始まったばかりの高校生活の慌ただしさに追われているうち、すぐに忘れた。
 彼女の顔も、声も。
 その後、あの子がどうなったかな、なんて考えることもなかった。
 半年後に、彼女がふたたび俺の前に現れるまで、ただのいちども。