その日からずっと、俺は七海の傍にいた。
 七海がひとりぼっちにならないように、毎日七海といっしょに遊んだ。
 お絵かきとか、積み木とか。どれもあまり好きな遊びではなかったけれど、べつによかった。
「かんちゃんとあそぶのが、いちばん楽しい」
 七海がいつも、そう言って笑うから。
 本当に心の底から、楽しそうに。

 外で遊べない七海には、仲の良い友達なんてほとんどいなかった。だから保育園にいるあいだ、七海はいつも俺といっしょにいた。
 いつも俺の後ろをついてきて、離れないように俺の服の裾をつまんで。振り向くと、ぱっと頬を赤くして、うれしそうに笑って。
「かんちゃん」
 俺はそれが、好きだった。
 俺を見つけるたび、そうやってうれしそうに顔を輝かせる七海を見るのが。

「かんちゃん、いつもありがとう」
 七海がことあるごとに繰り返すようになったのは、小学校に上がった頃。
 七海はあまり勉強ができなかったから、俺がよく教えた。
 あいかわらず病弱で引っ込み思案だった七海は、その頃も友達が少なかった。だからそんなふうに七海が頼っているのは、俺だけで。
「かんちゃんがいてくれて、よかった」
 そう言うときの七海は、いつも、まっすぐに俺の目を見つめた。
 うれしそうな笑みの中に、ほんの少し、媚びるような色をにじませて。
 そんな、彼女の少しだけ卑屈な表情が、好きだった。
 ああ、七海は俺がいなくなったら困るのだと、そんなことを実感できるから。それがうれしくて、――気持ちよかったから。

 大きくなるにつれ、七海の身体も少しずつ強くなった。前ほど、倒れたり寝込んだりすることもなくなった。学校を休む頻度も減って、少しだけなら外で遊べるようにもなって。それで自信がついたのか、七海の性格も少しずつ明るくなって。いっしょに遊ぶ友達も、だんだん増えていった。
 俺は、それが。
 たまらなく、嫌だった。

 成長とか自立とか。七海はそんなの、しなくていいと思った。
 しないでほしかった。
 昔のまま、二人きりの教室でずっと絵を描いていた、あの頃のまま。俺がいなければなにもできない、そんな彼女のままで。ずっと、俺を頼ってほしかった。“かわいそう”な七海を、俺に守らせてほしかった。これからもずっと。
 ずっと。
 かんちゃんがいてくれてよかった、といつまでも、彼女が言ってくれるように。
 
 いつの間にか、俺が七海に望むことなんて、それだけになっていた。
 七海が傷つこうが、悲しもうが。ただずっと俺の傍にいてくれるなら、それだけでよかった。あの日みたいに、おいていかないで、と、俺を追いすがってくれれば。


 ……ああ、なんだ。
 喉の奥が震えて、笑いがこみ上げる。死にたくなるほど、苦い笑いだった。

 大きく息を吐くと、いっしょに身体からも力が抜けていく感覚がした。柵に手をかけたまま、崩れるようにしゃがみ込む。
「土屋くん」
 そうして途方に暮れた気分で顔を伏せていると、後頭部に季帆の心配そうな声が降ってきた。
「大丈夫ですか?」
「……あんまり」
 今更、気づいてしまった。
 べつに、あのとき壊れたわけではなくて。
 もう、とっくに壊れていたのか。俺と七海の関係なんて。
「どうかしたんですか?」
「なんか」
 だって、俺は。
「死にたいなと思って」
 七海と対等になんて、なりたくなかったから。

 
「……そうですか」
 静かな声と、じゃり、と砂を踏みしめる音がした。
 ふと顔を上げると、目線の位置に季帆の赤いスニーカーがあった。
 展望台の柵に載ったそのスニーカーが、また地面に降りる。柵の向こう側、切り立った崖とのわずかな隙間に。

「……は?」
 我に返り、間の抜けた声を漏らす。
 片手を柵に置いたまま、季帆がこちらを振り向く。その背後には、水平線が広がっている。遠くのほうでは、海鳥が群れを成して飛んでいた。足下から響くのは、絶えず波が岩に打ちつける音。
「いや、なに? なにやって」
「言ったじゃないですか」
 まっすぐに俺を見つめた季帆の顔は、怖いほどに真剣だった。
 はじめて、彼女が俺の前に現れた、あの日みたいに。

「死ぬなんて、死んでも止めるって」