「ななみのママはね、うみが大好きなんだって。それでね」
 自由帳に青いクレヨンで絵を描きながら、七海が言う。うれしそうに弾んだ声で。
「だからななみの名前にも、うみが入ってるんだよって」
「入ってないじゃん。ななみに、うみなんて」
 七海の言っていることがよくわからなくて、俺は首を捻る。七海と同じように、自由帳にクレヨンを走らせながら。

 天気の良い日だったから他の子たちはみんな外で遊んでいて、教室にいるのは俺と七海のふたりだけだった。
「入ってるよ。ななみのみは、うみだもん」
「……わかんない」
「だからね、ななみ、うみに行ってみたかったんだあ。ずっと」
 俺の反応なんてかまわず、七海は楽しそうにしゃべりつづけている。手を動かすのもやめずに。

 さっきから彼女が描いているのは、海の絵だった。その頃の七海は、いつも海の絵ばかり描いていた。お泊まり保育の、一週間ぐらい前の日だった。
「すっごくおっきくてね、きれいなんだって。ゆずしまに行ったら、みんなでうみで遊ぶんだって。先生が言ってたよ」
「ふうん」
 それより俺は、外から聞こえてくる楽しげな声が気になっていた。お絵かきなんて、もうとっくに飽きていた。そもそも、お絵かき自体そんなに好きでもなかったから。

 七海はよく飽きないなあ、なんて思っていた。来る日も来る日もお絵かきばかりして。それも最近は、同じ絵ばかり描いて。
 だんだん退屈になってきて、あと少ししたら俺も外に行こうかなあ、なんて考えていたら
「ゆずしまに行ったら、かんちゃん、いっしょにうみで遊ぼうね」
「うん、いいよ」
「やくそく!」
 うれしそうな笑顔で、七海が小指を差し出してくる。

 ――その頃の俺は、まだ、よくわかっていなかった。七海がどうしていつもお絵かきばかりしているのか。外で遊ばないのか。しょっちゅう保育園を休んでいたのか。だからなにも考えることなく、彼女の指に自分の小指を絡めていた。
 それにますますうれしそうに笑った七海が、ゆびきりげんまん、と歌いはじめる。つられて、俺もいっしょに歌った。知らなかったから。七海が、お泊まり保育に行けないなんて。


 それを知ったのは、お泊まり保育当日の朝だった。
 いつもより大きな荷物を抱えて、いつもよりわくわくしながら外に出たとき。
「――やだ! やだやだ!」
 家の前で、七海が泣いているのを見た。髪を振り乱して、真っ赤な頬にぼろぼろと涙をこぼして。
「ななみも行く! ぜったい行く!」
「もう、わがまま言わないでよ……」
 困り果てたように七海をなだめるおばさんのほうも、泣きそうな顔をしていた。七海と同じぐらい、悲しそうな顔に見えた。
「やだ!」抱きしめようとするおばさんの腕を振り払って、七海が叫ぶ。
 七海はよく泣く子だったけれど、あんなふうに大泣きしているのを見たのは、あれがはじめてだった。
 ――そしてけっきょく、最初で最後だったように思う。
「ななみも、かんちゃんといっしょに行く! やくそくしたもん、うみでいっしょに遊ぶって! かんちゃんと、やくそくしたもん!」

 そのときぼんやりと、俺は認識した。
 七海が、他の子とは違うこと。他の子にできることが、七海にはできないこと。

「……おれも、行くのやめよっかな」
 バスに乗り込む前、先生にぽつんとそんなことを言ったら、なぜだか先生もちょっと悲しそうな顔をして
「七海ちゃんとは、また帰ってきたらたくさん遊んであげてね」
 そう言って、けっきょく押し込むようにして俺をバスに乗せた。
 席に座って窓の外を見ると、真っ赤な目をした七海がこちらを見ていた。肩を上下させ、まだぼろぼろと涙をこぼしながら。目が合うと、さらにその表情がぐしゃっと歪んだ。いかないで、と唇が動くのが見えた。
 おいていかないで、かんちゃん。

 七海は“かわいそう”なのだと、そのとき知った。
 だから帰ってきたら、また七海といっしょにお絵かきをしようと思った。どんなに外で遊びたくても、我慢しよう。七海はできないのだから。かわいそうなのだから。俺がいっしょにいてあげよう、と、そのとき、そう決めた。
 七海がもう、あんなふうに泣かないように。悲しまないように。

 ――最初はただ、本当に、それだけだったのに。


 山のふもとぐらいまで運んでくれるのかと思っていたバスは、思いがけなく山の中腹まで登っていった。
 山道を二十分ほど登ったところで、終点に着く。他の乗客はみんな途中で降りていて、そこまで乗っていたのは俺たちだけだった。
「……山に登るって、これ?」
 思わず拍子抜けして呟く。
 バス停で降りてすぐのところには、もう展望台があった。ごろごろと転がる岩と柵の向こう、一面の海と小さな島々が広がっている。
「山頂はまだ先ですよ。でも、ここでも充分きれいですね」
 頷いて、俺は柵の近くまで歩いていく。見下ろすと、深い青が視界を埋めた。


「かんちゃん、うみの絵、かいて?」
 お泊まり保育から帰ってきて、次に七海と保育園で会ったとき。
 七海は俺に自由帳を差し出しながら、そう言った。
 お泊まり保育でなにをしたのかとか、どんなところへ行ったのかとか、そんなことはひとつも訊いてこなかった。ただそれだけ、頼んできた。

 頷いて、俺は七海から自由帳を受け取る。
 そうして青いクレヨンを手に取り、白いページを青く塗りつぶそうとして
「……ななみちゃん」
「うん?」
「こんど、いっしょに行こう」
「え」
「ななみちゃんが、もう少し元気になったら。いっしょに、ゆずしまに行って、うみであそぼう。ね」
 七海は俺の顔を見つめて、何度かまばたきをした。
 一拍置いて、その顔に笑みが満ちていく。頬を赤くして、顔をくしゃくしゃにして
「……うん!」
 やくそく、と七海は満面の笑みでまた小指を差し出してきた。
「いっしょに行こうね、かんちゃん」

 ――七海は、いつまで覚えていたのだろう。
 いつまで、その隣に、俺の姿を描いてくれていたのだろう。