グラウンドの向こうで、女子がサッカーの試合をしている。
 試合に出ていない残りの女子は、グラウンドの空いているところで、各々パスやドリブルの練習をしていた。もっとも真面目にやっている者などほとんどおらず、みんな適当にボールを転がしながら友達同士しゃべっている。
 七海もそんな女子たちの中で、ボールを蹴っているのが見えた。友達といっしょに、楽しそうに笑いながら。

 矢野と適当にパスの練習をしながら、俺はときどきそんな七海の様子を見ていた。
 離れているのでよくは見えないけれど、とりあえず具合が悪そうな素振りはない。走ったりはしていないし、あれぐらいの運動量なら大丈夫だろう。
 そんなことをぼんやり考えていたら
「あ! おい、なにしてんだよー」
 矢野からのパスを思いっきりスルーしていた。
「……あ、ごめん」
 無駄に強いパスだったから、ボールは勢いよくグラウンドの隅のほうまで駆けていく。
 フェンスにぶつかってようやく止まったそれを、のろのろと追いかけていって拾ったとき

「――土屋」
 ふいに、後ろから名前を呼ばれた。
 嫌になるほど聞き覚えのある声だった。ついさっきも、こうして声をかけられたから。

「……なに」
 無愛想に聞き返しながら振り向くと、やっぱりそこには樋渡がいて
「土屋って、いつもああいうこと言ってんの?」
 前置きもなく、いきなりそんなことを尋ねてきた。
「は?」なにを訊かれたのかよくわからず、眉を寄せて聞き返すと
「七海に、体育は見学しろとか」
 当たり前のように呼び捨てられたその名前に、腹の底からもぞもぞとした苛立ちが這い上がってくるのを感じながら
「言うよ、そりゃ」
 お前が言わないから、と心の中でだけ吐き捨てる。

「もしかして土屋が七海に、柚島には行くなとかも言った?」
 続いた質問は、すでに答えなんて確信しているような調子だった。
 やっぱりおばさんは、あのあと七海の柚島行きを止めたらしい。当然だけど。
 そんなことを考えながら、「言ってない」と俺は投げつけるように返して
「ただ母親にバレたみたいだから、それで止められたんだろ」
「バレた?」
「あいつ、母親には生徒会の活動だって嘘ついて柚島行こうとしてたんだよ。それバレて、怒られたんじゃねえの」
 俺が七海の嘘を教えたときの、おばさんの表情を思い出す。強張った表情には、はっきりと怒りの色があったから。
 いい気味だ。

「それ、土屋が教えたの?」
「それって」
「柚島のこと。七海のお母さんに」
 重ねられる質問は、あいかわらず、すでに答えは確信しているような調子だった。
「そうだよ」
 だから俺はまた、投げつけるように冷たく返して
「あいつが嘘なんてつくのが悪いんだろ。あんな身体で、どうせ柚島なんて無理なくせに」
「無理だと思ったから教えたの? 止めてもらうために?」
「そりゃそうだろ」
 なに当たり前のこと訊いてんだ、こいつ。
 イライラとそんなことを思いながら、俺はふと樋渡の顔を見て

「……なあ、お前知らないの?」
「なにを」
「七海の身体のこと」
「知ってるよ」
 答えは、思いがけないほどさらっと返された。
 その答え方だけで、嘘ではないのはわかった。“知ってる”の範囲がけして狭くないことも。
「……知ってて、柚島なんて行こうとしてたのか?」
「うん」
 落ち着いたその声にも表情にも、後ろめたさなんてみじんもなかった。

 なにか理解できないものを眺める気分で、俺はそんな樋渡の顔を見ながら
「知ってんなら、ぜったい無理だってわかるだろ。なんでそんな遠くまで」
「俺は無理とは思わなかったから」
「はあ?」
「それに、七海が行きたいのは柚島らしいから。他の場所じゃなくて」
「……いや、それがなんだよ」
 反論にもならないような反論に、俺は眉をひそめて突っ返す。
 そりゃ、七海はバカだから。
 距離のことなんてなにも考えず、ただ行きたい場所を告げたのだろう。海がきれいでおしゃれなカフェや雑貨屋も多くて、たしかに女子の好きそうなスポットだから。どうせ、ただそれだけで。

「あいつのわがままなんていちいち聞いてんなよ。なんにもわかってないんだから。自分の身体のこととか、柚島なんて行ったらどうなるかとか、バカだからなんにも想像できてないんだよ」
「七海は、ちゃんとわかってるよ」
「はあ? どこが」
 ああ、なんだ、こいつもバカなのか。二人そろって色ぼけして、なんにも考えられていないのか。

「今回の旅行、行き先だけじゃなくて、行き方も過ごし方もぜんぶ七海が決めてた。どれぐらい歩くのかとか、休憩できる場所があるかとか、なんかあったときのための近くの病院も。雑誌でもネットでも、本当に時間かけて、いろいろ調べてたよ。ぜんぶ、七海がひとりで」
「……だから、それがなんなんだよ」
 だからなにかあっても、自分の責任じゃないとでも言いたいのだろうか。ぜんぶ、七海がひとりで決めて計画したことだと。
 顔をしかめて樋渡を睨んでみても、樋渡の表情は変わらなかった。
 ただ少し困ったように、まるで物わかりの悪い子どもに言い聞かせるみたいな口調で
「たぶんさ、土屋が思ってるほど、七海はバカじゃないよ」

 樋渡の言葉に、何度目かの「はあ?」を返そうとしたときだった。
「――大丈夫? 七海ちゃん!」
 グラウンドの向こうで声がした。
 心配そうな女子の声。それほど大きな声ではなかったのに、奇妙なほどはっきり耳に届いた。目をやる前からわかった。うんざりするほど、聞き慣れた声だったから。

 ほら、と思う。
 やっぱり、バカだった。