「あ、かんちゃんだー」
 その日も、校門を出たところで背中にそんな声がかかった。
 振り返ると、あいかわらず小走りにこちらへ駆け寄ってくる七海がいて
「だから、走るなって」
「大丈夫だってー、これぐらい」
 心配性だなあ、なんてのん気に笑いながら、七海が俺の隣に並ぶ。

 誰のせいだと思ってんだ、と俺は心の中でだけ突っ返す。
 お前が、もっと身体が強かったら。自分の体調管理が自分でできるぐらい、頭が良かったら。俺がここまで口うるさくなる必要もなかったのに。あいつみたいに、ただ甘いだけの優しさをあげられたのに。
  あいつ、みたいに。

「……今日、樋渡は?」
「生徒会だよー、今日も」
「たまには待っとけばいいのに」
 ふと季帆の顔が浮かんで、つい口をついてしまった言葉に
「いいよー。同じクラスなんだから教室では会ってるし」
 七海はあっけらかんと笑ってそう言った。
 樋渡と付き合いだしてからも、七海と俺がいっしょに帰る頻度はさほど変わっていない。付き合うのだから、毎日のように樋渡といっしょに過ごすのかと思っていたけれど、意外とそこまでべったりはしないものらしい。

「……心配になったりしないの?」
 ふと気になって訊いてみると、七海はきょとんとして
「へ、なにが?」
「樋渡のこと。ひとりで学校に置いてきて」
「え、そんな、子どもじゃないんだから」
 肩を揺らしておかしそうに笑う七海に
「そうじゃなくて。樋渡、わりとモテそうじゃん」
「そうかな」
「……最近、樋渡とやたら仲良くなった女子いない?」
「ああ、坂下さん?」
 七海がさらっとその名前を口にしたことに、ちょっとどきっとした。

「知ってんの?」
「うん。二学期から四組に来た転校生でしょ。最近、卓くんが仲良くなったって言ってた。頭良いんだよね、坂下さん。このまえの模試、学年トップだったでしょ、たしか。すごいよねー」
 純粋に賞賛や羨望のこもった笑顔でそんなことを言う七海に、え、と俺は少し戸惑いながら
「いいのか、それ」
「え、なにが?」
「樋渡が、その転校生とやたら仲良くなってんの。気になんないの?」
「え? うん」
 七海はなにを訊かれたのかよくわからなかったみたいに、きょとんとした顔で
「友達だもん。女の子の友達だっているよ、卓くんにも」
「それ、いいのか?」
「そりゃ、いいよー。彼女がいる男の子は女の子の友達作っちゃいけないなんてことないでしょ」
 変なのー、とおかしそうに笑う七海に、俺はふと眉を寄せると
「……七海、まさかあの噂聞いてないの?」
「噂?」
「あの転校生が、樋渡のこと狙ってるっていう」
「ああ、ちょっと聞いた。ただの噂でしょ。そんなのいちいち気にしてたらキリないよー」

 あっけらかんと笑う七海の笑顔には、なんの憂いも混じっていなかった。本当に、なにも気にしていないのだろう。
 俺はますます困惑して、そんな七海の顔を眺めながら
「不安になんないの?」
「不安? なんで?」
「樋渡が心変わりするかも、とか」
「え、ならないよ。今卓くんが付き合ってるのはわたしだもん」
 強がりではなかった。ただ事実を告げるだけの、あっさりとした口調だった。
「そんなこと心配してたってどうしようもないもん。どうせ信じるしかないんだから。わたしは卓くんのこと信じてるよ。大丈夫だって」
 笑顔を崩すこともなく、七海はさばさばとした口調でそんなことを言う。

  奇妙な違和感を覚えて、俺は困惑していた。
 なんの湿り気もないその声にも表情にも、はっきりとした芯があった。
 七海らしくなかった。そんな、自信に満ちた表情も、意志の強そうな目も。七海には似合っていないと、そう思った。俺が昔から知っている、気弱で引っ込み思案だった、七海には。


「あ、かんちゃん。ちょっとコンビニ寄っていっていい?」
 七海が言ったのは、中町駅を出て、家のほうへ歩き出したときだった。
 頷いて、駅のいちばん近くにあるコンビニに入る。
「ちょっと待っててね」と言って雑誌コーナーのほうへ向かった七海と別れ、適当に店内を歩いていたとき
「――ねえ、そういえばこのまえさ、めっちゃ久しぶりにあの子見たんだけど」
 棚の向こうでしゃべっている女子の声が、ふと耳に入ってきた。
「あの子?」
「ほら、同じクラスだった、あのガリ勉の」

「――ああ、坂下季帆?」
 出てきた名前に、通り過ぎようとした足が、思わず止まった。