「姿を見た者はいる。だが、動転してしまって、しばらくろくにもしゃべれなかった。落ち着いてきた頃には、相手の顔も何も覚えていないと言うし、すっかり自分で記憶を封じてしまったようだ」
 人は、自分に都合の悪いことは、意図的にであろうとそうでなかろうと、簡単に捨ててしまえる。そう都合よく出来ている。そうでなければ生きていけないほどに弱い。

「それなら、尚更届け出て、政府に動いてもらった方がいいんじゃないか」
「それだけじゃない。ただの人殺しならさっさと届け出ている。だが、殺されるよりも酷いことが」
 店主は言い淀んで口を閉ざした。柾はただ視線を向けて、相手が口を開くのを待っている。真っ直ぐ向かってくる眼差しに店主は再び目を落とし、口にするのを躊躇い、結局言った。

「人を食う鬼が出ている」
 放たれた言葉に、柾は眉をあげる。
「それは、何かの例えか。言葉通りの意味なのか。野犬とかじゃないのか」
「言葉通りだ。最初は人の死体が盗まれていた。生き残りの男が犯人を見たのは、その警護の時だ。うわごとで人だ鬼だと言っていた」

「それで鬼だと皆が信じたのか」
「こちらだって、本当はこんな話したくもないし信じたくもない。だが、動物は刃物を使わない。人は人を食わない。もし人だとしても、もう人じゃない者の仕業だ」
 食う、という言葉については、問わなかった。沈黙した柾に、店主は自嘲気味に言う。

「笑えるだろう」
「いや」
 否定しながら、柾は密やかに苦笑する。信じないも何もない。
 人々が示し合わせて、大掛かりな行事でもしているのでなければ、これだけ悲痛な空気が満ちていることがおかしい。だがこの宿場の町で、わざわざこんな時間に、旅人を脅かして楽しむ意味がない。
 柾が否定もせず笑いもしなかったことに、店主は少し安堵したようだった。

「あまりな醜聞と恐怖に、皆が口を閉ざしていたい」
 分かる気がした。表立って話にしないことは、認めていないことだ。何が起きているか知っていても。でも言葉にして、人とそれを交わしてしまえば、現実になる。都合よく消し去ることが不可能になる。

「随分あっさりと話すね」
「誰も口に出さないが、皆、久我様を怪しんでいる。だが、我々は近づけない」
 外の人間の手が必要なのだ、と相手は言った。
「生き残った者なんて、いないのだろう」
 どうしてそこに行き着く。予想はしていたが、実際に口にされると違和感がぬぐえない。
「確証は」
「何も」
 はっきりと相手は言った。

 違和感があるということ。怪しむ理由なんて、人にはそんなもので十分なのか。
 自分たちと違う、というだけで。散々今まで助けられていても、異質なものは、真っ先に疑われるのか。ただ、確かに、久我の家には危ぶまれる要素が潜んでいるのも事実ではあった。

「綾都か、慎司か」
 疑っているのはどちらだ、と問う声に、店主は首を振るだけだった。

 綾都か、慎司か。綾都なら、人を襲った挙句、走って逃げていく力がまだ残っているだろうか。今までの放蕩ぶりから怪しまれるのは彼だろうが、しかし。
 店主は答えない。口にしてしまいたくないのか。ゆるゆると逃げ、ただ欺瞞に満ちている。

「で、俺にどうしてほしい」
 苦笑気味に訪ねると、相手は顔を上げて、すがるように見てくる。
「本当に、同じ道を選んだだけか」
 どう言ってほしいのだ、と凜なら答えただろう。だが柾は、苦笑気味に言った。

「久我の家を訪ねるつもりだった。そう答えてほしいのだろう」
 もともと、そのために戻ってきたのは事実だった。復路に同じ道を選ぶ必要などなかったのだ、本当は。戻ってくる意味がないのだから。行く当てのない旅路には、戻る場所もない。
 柾の言葉に、相手は、そうだ、と頷く。
 真意はもはや、尋ねるまでも無い。

「視察して来いってことか」
「……言い方は悪いが、そういうことになるな」
「自分たちでは行かないのか」
「わたしたちには、あのお家は、あまりにも遠くて親密なんだ」
 真逆の言葉を言うが、それはどちらも真実だろう。疎遠だが、頼っていたいもの。真正面から弾劾はしたくないもの。

「どっちにしても、様子は見に行くつもりだったけど」
 柾は、やれやれ、という調子で言った。言外に、承知したと伝える彼に、店主はあからさまに安堵の息を吐く。そして続けて言った。

「お前さんたちには申し訳ないが、事件がおさまるまで、ここに留まってほしい」
 外聞か。
 無言の問いかけに、相手は自嘲の笑みを浮かべた。

「分かってくれ。我々には生活がある」
「それで被害者を増やしていたら世話無いよ」
「分かっている。だから、助けてくれ」
 声音はもう、哀願するものになっている。
「生き残ったのはあんた一人だ。相手を見れば、あんたは分かるのだろう」
 困ったな、と柾は苦笑を浮かべる。

 いくら柾が平気そうだからと言って、危うい箇所を切りつけられた怪我人であることも、すっかり忘れてしまっているのだろう。だからと言って相手を責める気は無かったが、やはり少し苦笑はしてしまう。
 どうせ放っておけなかったし、断るつもりもなかったが、凜がどう言うかな。
 考えるだけで、少し気が重い。