彼女のテレパシー 俺のジェラシー

 そうしているうち、大きなカートに山盛りの商品を詰め込んだ浦辺先生が、種のコーナーにやってきた。

「決まったか?」
「先生、これー」

 サボテンの種の袋を見せると、浦辺先生は覗き込むように顔を近付けたあと、顎に手を当ててニヤリと笑った。

「なるほどのう」
「あの、サボテン用の土、買ってもいいですか。あと、植木鉢も」
「ええで。乗せえや」

 そう言って、カートを指差す。ほっとしたように笑った川内は、いくつかの種の袋をカートに入れたあと、パタパタと植木鉢を見に行った。

 残った俺たちは、種の袋をカートに入れるついでに、その中身を覗き込む。
 大きな袋に入った土が何袋もある。それから支柱になる棒やら紐やらビニールやらが無造作に突っ込んであった。

 そして端っこに、何個もの苗があった。黒いビニールの小さな植木鉢のようなものに植えられている。あれだけ、種から種からって言っていたのに、どういうわけだろう。

「これ、なんの苗?」

 苗が生えているポットを指差して尋ねると、浦辺先生は呆れたように言った。

「なんじゃ、葉っぱ見てわからんのんか。やっぱり現代っ子じゃのう。見てみい」

 その黒いポットに、札が刺さっている。それを見てみると。

「……ナス?」
「こっちはピーマンじゃ」
「せっかく畑を耕したんじゃ、ネギだけいうのものう。ついでにこっちも植えとけ。夏休みには収穫できるじゃろ。そしたら、これでバーベキューでもやるで」

 心なしか弾んだような声に、顔を上げる。

「えっ! ホンマに!」
「……野菜だけ?」

 バーベキューという言葉には心躍るものはある。しかし、野菜だけのバーベキュー。それはなんだか物悲しい。
 けれど浦辺先生は言った。

「そんときは、肉も買うてやるわ」
「やったー!」

 二人揃って思わずそんな声が出て、イエーイ、と両手でハイタッチする。

「楽しみもないとのう。いっつも畑耕すだけじゃと、つまらんじゃろ」

 俺たちを見て、苦笑しながら浦辺先生が言う。

「その代わり、夏休みも交代でええけえ、通って世話するんで?」

 その言葉に、俺たちはコクコクとうなずく。

「わかった、やる」
「バーベキューは、尾崎も呼ぼう。デイ、とかいうのが昼間はあるんよの?」

 木下にそう訊くと、深くうなずいて肯定した。

「うん、言うとくわ」

 なんだかワクワクしてきた。今から夏休みが楽しみだ。

「ほいじゃあ、会計するか。車に戻っとけ」

 浦辺先生はガラガラとカートを引いて、レジへと向かっていく。途中で川内と会って、植木鉢やらなにやらカートに乗せさせているのが見えた。

 俺たちは出口に向かって軽やかに歩く。
 肉体労働ばかりさせられているような気がしていたが、なかなか素晴らしいご褒美があるではないか。
 隣を歩く木下が上機嫌な様子で言う。

「千夏も嬉しいじゃろう。あいつ、肉が好きじゃけえのう」
「……えっ?」

 思わず足を止めて、木下をまじまじと見つめてしまった。
 千夏?

 たぶん、二人は子どもの頃は名前で呼び合っていたのだろうとは思う。その癖が出たとも考えられる。

 でも、今のは、違う気がする。
 そういう響きではなかった。

「うん?」

 足を止めてしまった俺に気付いた木下も、その場に立ち止まって訝し気に俺を見る。
 しばらく木下は気付かない様子だったけれど、少しして、「あー!」と叫んだ。
 そして右手で口を押さえた。どう考えても今さらだけれど、そうせずにはいられなかったのだろう。

「やっべ……」
「えーと、……両想い?」

 この様子を見るに、つまり、あれから二人は進展した、ということでいいのだろう。
 そしてそれは、秘密にするつもりだったのだろう。
 木下は上目遣いで、少し睨むような眼でこちらを見てくる。

「言うなよ、黙っとけ言われとるんじゃ」
「自信ない……」

 正直にそう言った。
 そしてちらりとこちらに向かってくる川内に視線を移した。
 今現在、三人しかいない園芸部で、川内にだけ隠し事をするだなんて、できる気がしない。

「ほうよのう、川内だけに隠すって、おかしいよのう」

 そう言って木下はため息をつく。

「千夏には事後承諾じゃが、ええか、もう」

 覚悟を決めたかのように、木下は顔を上げた。
 川内はこちらに向かって歩いてくる。

「どしたん? 先生が、車に戻っとけ言いよったよ?」

 俺たちの前に立つと、川内は首を傾げてそう言う。

 覚悟は決めたのだろうが、やはり勇気は必要なようで、木下は顔を真っ赤にしながらぎゅっと両手を握りしめている。
 わざわざ口にするのは気恥ずかしい、という気持ちはわからないでもない。

「あ、あのの、川内」
「うん?」

 なにが始まるのかと思っているのだろうか、川内はきょとんとした表情をして、木下を見つめている。

「あの……尾崎……なんじゃが」
「うん」
「あの……それが……あの……」
「うん」
「あの……ワシと尾崎の……」
「うん」

 俺はそれを「がんばれー」という、父親だか兄だかのような気持ちで、隣で見ていた。

「ワシら……付き合うことになった」

 やっとのことでそう言って、木下は、ふう、と息を吐きだした。

「うん、よかったね」

 にっこりと笑って、川内が応える。
 うん?

 驚いた様子もなにもない。これは。
 逆に木下が驚いたように、川内に訊く。

「……知っとる?」
「うん」

 川内は、こくりとうなずく。

「千夏ちゃんから聞いた」
「なんじゃ、あいつー! 自分は言うな言うたくせにー!」

 ホームセンター内に、木下の叫びが響き渡った。
 それを慌てたように静止しながら、川内が続ける。

「あ、千夏ちゃん、木下くんも勝手にしゃべったからいいんだって……」
「はあ? ワシは今、初めて言うたで? なんの話じゃ」

 眉根をひそめてそんなことを言っている。

「あ!」

 思わず、そんな声が出た。
 俺には、心当たりが一つ、あった。
 たぶん、尾崎の家庭の事情を木下から俺が聞いてしまったことを言っているのだ。

 俺の声に、ものすごい勢いで振り返ってきた木下が、こちらに顔を近付ける。

「あ、てなんじゃ!」
「いや、尾崎の家庭の……」
「あれ内緒じゃ言うたろー!」

 そう言って頭を抱えている。さすがに、人に言うのはまずいとは思っていたらしい。
 俺は慌てて顔の前でブンブンと手を振った。

「いや、言うたわけじゃない。尾崎が勝手に悟ったんじゃ」
「同じことじゃー!」
「静かにせえ!」

 わーわーと騒ぐ俺たちの声を、いつの間にかやってきた浦辺先生の一喝が止める。

「お前ら、なにを騒ぎよるんじゃ! 迷惑じゃろうが!」

 一瞬にして、ホームセンター内がしん、となった。
 パラパラといる他の人の視線が、こちらに突き刺さる。
 俺たちはしゅんとして肩を落とすしかない。

「とにかく車に帰るで!」

 トボトボと、大股で歩く浦辺先生の後をついていく。

 「すみません」「お騒がせしました」と頭を下げながら歩く先生の後を、同じように俺たちも頭を下げながら行く。

 店を出て車の傍に着いたところで、先生は腰に手を当てた。車の傍には会計を済ませた商品が乗ったカートがあった。
 先生は顎をしゃくる。

「ほれ、トランクに乗せられるだけ乗せえ。乗らんかったら、お前らで抱け」
「はい……」

 俺たちは粛々と、先生の言う通り、トランクに荷物を乗せ、カートを片付け、そして車に乗り込む。

 学校に帰る途中の車内は、浦辺先生の独壇場だった。

「まったく……制服で迷惑行為なんかもっての外じゃ。他の人にどう見られとるんか考えてみいや。制服を着とるいうことは、学校の代表と同じことで。お前らが悪いことをしたら、山ノ神はそういう高校じゃ思われるんで。わかっとるんか。あと、お前らええ加減に敬語を覚ええや。進学するんでも就職するんでも、面接はどうするつもりなんじゃ。だいたいお前らはのう」

 学校に帰るまで、そのぐうの音も出ない説教は、延々と続いたのだった。
 学校に帰って、荷物を下ろして、その日はひとまず部活動は終了、となった。
 浦辺先生が立ち去ってから、木下はこちらに振り向くと、真剣な表情で言った。

「絶対に、冷やかすなよ」

 これはどう考えても、「押すなよ! 押すなよ!」とは違うと思ったので、俺と川内はコクコクとうなずく。

「それと、いらん気を使うなよ」

 まるで赤べこかなにかみたいに、俺たちはとにかくうなずいた。

「とにかく、今までと同じようにしてくれたらええけえ」

 木下はため息とともにそう言う。

 でもまあ、今までもずっと夫婦漫才を見せつけられてきたわけで、木下と尾崎が普通にしていてくれたら、俺も普通にできる気がする。
 つまり、特になにも変わってはいない。たぶん。

「……帰ろうか」
「……うん」

 とはいえ、気まずくはある。
 なんとなく静かになってしまって、俺たちは口数も少なく帰路につく。

 冷やかすな、ということは当然、どういう経緯で付き合うという話になったのか、とか、恋人同士と言えるようなことをしているのか、とか、そんなワクワクとするような下世話な話を訊くのも、遠慮したほうがいいのだろう。

 いろいろと聞きたいのは山々だが、そのうち言いたくなったら言うだろう、と心の中で納得して、自転車を引く。
 というか、そういうことを聞いてしまったあと、尾崎にどんな制裁を受けるかと想像すると、なんとなくヤバい気がする。
 うん、なにも訊くまい。

「私、サボテンの発芽の仕方、ちゃんと調べとくね」

 川内がそう言うので、俺たちはこれ幸いと、それに乗る。

「なんか詳しそうじゃったけど」
「本かなにかで見たことあるいうだけ。忘れとることもたぶんいっぱいあるし」
「ほうか。そりゃあ助かる」

 次第に自然に会話できるようになって、ほっと息を吐く。
 すると、木下がポケットに手を入れてスマホを取り出した。そしてじっとその画面を見つめている。

「どしたん?」
「ああ、大したことない。また買い物じゃ」
「大変じゃのう」
「まあついでじゃけえ、そうでもない。ワシ、エコバッグ持ち歩いとるんで。レジ袋は金が掛かるけえのう」

 どこか得意げに、木下は自転車のカゴに入れていた自分のカバンを手に取ると、その中から小さな布のようななにかを取り出した。どうやら畳まれたそれを広げると、バッグになるらしい。

「そんなんあるんか。なんか、主婦みたいなのう」

 そう言うと、木下はふふんと鼻を鳴らした。

「最近は、ご飯炊いたりとかもしよるんで。母ちゃんが千夏んちに差し入れしよるけえ、うちのご飯くらいは手伝わんと」
「おおー」

 思わずそう声が出た。自転車を引いていなければ、きっと拍手していたに違いない。
 俺は調理実習以外で、料理をすることはまずない。

「千夏んちは、じいちゃん用に柔らかいのとか味が薄いのとかを別に作らんといけんけえのう。大変そうじゃけえ、母ちゃんがときどき差し入れしよるんじゃ」
「へえー」

 なるほど、老人のものだけ食事を別にしないといけないのか。それは確かにしんどそうだ。

「バスの時間あるけえ、走るわ。じゃあまた明日の」

 言うが早いか、手を振りながら、木下は走り出した。
 ふと思いついて、隣を歩く川内に言う。

「ごめん、川内。カバン、いい?」
「あっ、うん」

 川内は言いたいことに気付いたようで、自転車のカゴの中に入れていた自分のカバンを取り出した。
 俺は自転車に跨ると、木下の背中に追いつけるようにペダルを踏む。

「木下!」

 俺の声に、木下は足を止めて振り向く。
 自転車を降りながら、俺は言った。

「これ、乗ってけ」
「え?」
「駐輪場に置いといたらええけえ。俺どうせ、いっつも自転車引きよるし」
「……カギは」
「予備のを持っとる。じゃけえカギしてってええわ」

 木下は少し考えて、そして自転車のハンドルを持った。

「助かる。ありがとの」
「気を付けてな」
「うん」

 そう言って笑う。よかった、わずかながらでも役立てそうだ。

「じゃあまた明日のー」

 自転車に乗った木下は、そう言って去っていく。みるみるその背中は遠くなっていった。
 追いついてきた川内が隣に立って、一緒にその背中を見送った。
 川内と二人で並んで、バス停までの道のりを歩く。
 今日は少し遅くなってしまったからか、近くには同じようにバス停を目指す生徒はいない。
 四人でいることが当たり前で、尾崎が忙しくなってしまってからも、それでも木下と三人でいたから、こうして二人きりで帰るのは珍しい。

 川内は嫌じゃないかな、とふと心配になる。

 こうして男女が二人で歩いていると、「山ノ神ってカップルが多いよな」と言われていることもあって、彼氏彼女と誤解されることもあるかもしれない。

 いや、俺としては、誤解されても構わない。
 できれば本当に、彼氏彼女という関係になりたいと思っている。

 けれど川内にとっては迷惑極まりない話、の可能性ももちろんあるだろう。
 川内はどう思っているのか、知りたいような、知りたくないような。

「尾崎と木下、良かったよな」

 そうポツリというと、川内はこちらを見上げて、そして穏かに微笑んだ。

「うん」

 かわいいな、と思う。
 できれば、いつもこうして並んでいたいとも思う。
 だから、口を開いた。

「……俺たちも」
「え?」
「俺たちも、付き合う?」

 言ってしまった。
 川内はこちらを見上げて、何度も目を瞬かせた。
 驚いているのか、喜んでいるのか、迷惑だと思っているのか、その表情からは読み取れない。

 そして言ったあとから、どんどんと後悔の念が押し寄せてきて、そして頭の中で言い訳の数々も浮かんできた。

 勢いに任せたような感じだけれど、でもいつかは言おうかと思っていたし、言ってしまったものは仕方ない。
 ああ、でも、断られたらどうしたらいいんだろう。
 三年に進級するとき、クラス替えはない。これから一年以上、ずっと気まずい思いをしなければならないのだろうか。
 それに、園芸部はどうするんだ。
 いや、俺はいい。それは自分の起こしたことで自分の責任だ。けれど告白された川内のほうが、気にしそうな気がする。
 じゃあ園芸部を辞める? いやそれはあまりにも無責任過ぎやしないか。尾崎との『ハルちゃんと一緒におって』という約束もあるのだ。それはダメだ。
 でもそれなら、明日から、いったいどんな顔をして過ごせばいいんだろう。

 やっぱり早まったんだろうか、言うんじゃなかったか、とそんな後悔の念で頭の中をいっぱいにしながら、黙りこくってしまった川内をちらりと横目で見る。
 すると彼女は、ぼそりと言った。

「……も?」

 そうしてこちらを横目で見上げてくる。眉根を寄せていて、不機嫌を隠そうともしていない。

「も、ってなに?」
「えっ」
「なんか、ついで、みたい……」

 そう言って、ふてくされたように、唇を尖らせた。

          ◇

 結局あのあと、二人ともほとんど無言のまま、バス停に到着した。

『いうても、いいタイミングでいいこと言えるとも限らんよの』

 木下が尾崎に告白のようなことを言ったときに、俺が言った言葉だ。
 そう発言はしたが、まさか本当に悪いタイミングで悪いことを言ってしまうとは思っていなかった。

 最悪だ。

 俺は夜になって自室に戻ると、自分の勉強机の上に突っ伏した。
 するとノックもなしに、部屋の扉が開く。
 そういうことをするのは、もちろん。

「なあにぃ? 辛気臭い顔してからー」
「……姉ちゃん」
「帰ってからずっと、なーんか変なんじゃけど。ムカつくわ」

 いや、ムカつかれても。

「言うてみんさい、なんかあったんじゃろ?」

 言っている言葉は、悩める弟に優しい言葉を掛けているような感じだけれど。
 表情は、ワクワクする気持ちを抑えきれない、といった具合だ。

「姉ちゃんには関係ない」

 そう言ってそっぽを向くと、ずかずかと部屋に入ってきて、俺のこめかみのあたりを両の拳でグリグリとやった。

「いってえ!」
「やだわー、反抗期ぃ? 可愛くないこと言うんじゃねえ」
「痛い! やめろって!」

 なんとか振り払うと、姉ちゃんは歯をだして、いひひ、と笑った。
 いくら年上でも男と女では力が違うのだし、本気を出せば絶対に姉ちゃんには負けないはずだが、小さい頃から散々やられてきたせいか、どうにも敵う気がしない。洗脳に近いものがある気がして仕方ない。

「白状する気になったあ?」

 そう言ってこちらを覗き込んでくるが、かといって、自分の姉に恋愛相談するなどという、こっぱずかしいことができるわけもない。

「別に、なんもないし……」

 再びそっぽを向いてそう言うと、また腕が伸びてきて、頭をグリグリとやられる。

「いてえ!」
「あーあ、弟がグレるとか、ほんま世も末じゃわあ」
「痛い! マジで痛いってえ!」

 最初のものとは比にならない威力だった。
「やっぱ、あっちの子だったかー」

 なぜか姉ちゃんが椅子に座り、俺がその前の床に正座させられている、という図になっていた。
 姉ちゃんは椅子に座り、くるくると回り続けている。
 そして俺は、先ほどまで事情を説明させられていた。屈辱だ。

「あー、そりゃダメじゃわ。一発アウトじゃわ。我が弟ながら、あまりの不器用さに涙が出るわ」

 そして、くるくる回る姉ちゃんに、そんな絶望的な言葉を言われていた。
 涙が出ると言いながら、あはは、と笑っているのはもう諦めよう。

「……どうしたらいいですか」

 相談だと言うなら、答えてもらおうじゃないか、とそう訊いてみる。
 話を聞くだけ聞いて、面白がるだけ面白がって、それで終わり、というのなら、今度こそ下剋上だ。
 俺の決意を読んだのかどうなのか、姉ちゃんは床に足を滑らせて止まり、膝に肘を当てて頬杖をついて、床に座る俺を覗き込んできた。

「そりゃもう、誠心誠意謝るしかないんじゃないん? ほいで、改めてコクる」

 結局、姉ちゃんの口から出てきた言葉は、そんな基本的で当たり前のことだった。
 けれど、それしかないのだろう。
 逆転満塁ホームランな奇策でもないかと考えても無駄なんだろう。

 少なくとも俺よりは恋愛経験がありそうな姉ちゃんならあるいは、と思ったが、そんな都合のいい話はないのだ。

「わかった」

 俺は、こくりとうなずいた。
 姉ちゃんはそんな俺を見て、小さく笑う。

「実は、私はどうなるかわかっとるんじゃけどねー」
「えっ!」

 思わず顔を上げる。姉ちゃんは俺の顔を見て、にやりと笑った。
 これは、どっちだ?
 上手くいくのかいかないのか、どっちが見えている?

「あの……それは、いい話ですか、悪い話ですか」
「教えなーい」

 そしてまた、くるくると回りだした。
 くっそ、ムカつく。

「弟に恋愛相談受けるようになるとは、感慨深いわー」

 回りながらそう言って、あははと笑う。
 相談を受けるもなにも、むりやり聞き出したくせに。

 しかし俺は、プルプル震えながら、黙って耐えるしかないのだった。

          ◇

 とにもかくにも、『誠心誠意謝る』ということだけは、しなければならない。

 それなら、二人きりのときを探さないと。
 放課後は木下がいるし。授業の間の小休憩は、もちろん皆いるし。呼び出す、というのも逆に訝しがられる。

 となると、朝だ。
 川内が何時から温室に来ているのかは知らないけれど、朝ならきっと二人きりで会える。

 そういうわけで、俺はいつもよりも一時間早く家を出た。
 自転車を漕いで通学路を進んでいると、一時間も早いというのに、けっこう生徒が歩いている。運動部の朝練グループだろう。

 駐輪場に自転車を停めて、そのまま温室に向かう。
 もう来ているだろうか。まだでも温室の前で待っていよう。
 なんと言って謝ろうか。不誠実なことを言ってごめん、とか? 急に変なことを言ってごめん、とか? とにかく、ついでじゃない、ということは伝えないと。

 そんなことをグルグルと考えながら足を進める。
 そして温室の前にたどり着いて見てみると、温室の扉には開けられた南京錠が掛けられていた。

 もう、来ているんだ。
 俺は一度深呼吸して、そしてそっとノブに手を掛ける。
 悪いことをしようとしているわけでもないのに、なぜか開いたドアからこっそりと中を覗き込んだ。

 いた。じょうろを手に、並べられた植木鉢に水をやっている。一つ一つ確認するように、土に手を当てながら、丁寧に。
 以前、集中したい、と言っていたことを思い出す。本当に集中しているのか、こちらには気付いていない様子だ。

「おはよー」

 急に発せられた川内の声に、ビクッと身体が震える。
 気付いていないかと思ったのに、実は俺に気付いていたのか。

 俺は一つ息を吐くと、口を開く。

「おは……」
「今日も綺麗なねー。うん? ごめんね、もうちょっと待ってね」

 しかし川内が話し掛けていたのは、俺ではなかった。

「はい、お水」
「暑うなってきたけど、大丈夫?」
「可愛いねー、うん、ホンマよ?」

 これはあれか。サボテンに話し掛けると綺麗な花が咲くとかいう、あれか。あれを全部の植木鉢に向かってやっているのか。
 それで恥ずかしくて一人でやりたいと言っていたのかな、と笑みが漏れた。

「え?」

 ふと川内が植木鉢に向かって首を傾げ。
 そしてこちらに勢いよく振り返った。

 驚いた。気付かれた。これでは覗き見していたみたいじゃないか。いや覗き見なんだけど。

「あ、おはよう。ごめん、あの……」

 どう言おうかとしどろもどろになっていると。
 川内は、手に持っていたじょうろを手放した。温室の中に、じょうろが落ちる音が響く。

「え……」

 見てわかるほど、川内の顔はみるみる青ざめていった。
「あ、ごめん、驚かすつもりはなかったんじゃけど」

 俺は慌てて駆け寄り、そして落ちたじょうろを手に取った。
 もうほとんど中の水は零れてしまったようだった。

「大丈夫? 濡れんかった?」

 しばらく呆然としていた川内は、はっとしたように顔を上げて、コクコクとうなずいた。

「ごめん。ビックリさせてしもうて」

 その言葉に、ふるふると首を横に振ってくる。
 しかし彼女は俯いて、両手を胸の前で握りしめて、少し震えている。

 なんだ?

「あの、昨日のこと、謝りたくて」

 川内はまた、首を横に振る。
 そんなに驚かせたのだろうか。それとも、近寄っても欲しくないという嫌悪感か。

「あの、本当に、ごめん」

 これはとにかく謝ろうと、頭を下げる。
 しかし川内は首を横に振るばかりだ。
 それから少しして、ぼそりと言った。

「……謝ってもらうことは……何もないけえ……」
「でも……」
「大丈夫……私こそ、ごめんね」

 そう言って弾かれたように顔を上げる。そして口元を笑みの形にしている。
 けれどどう見ても、微笑んでいる、という感じではなかった。無理に笑っているようにしか見えなかった。

「……どうかした?」

 そう問う。
 これは勘でしかないけれど、俺の昨日の告白とは違う部分で問題が起きているような気がする。

「なんでもないよ」

 そう言って、また、笑う。けれどやっぱり引きつっているように見える。
 いつもの穏やかな、柔らかい、心休まるような、そんな笑顔ではない。

 俺は手に持ったじょうろを、近くの棚の空いているところに置いた。

「なんでもないようには見えん」

 そうきっぱりと言うと、けれど川内は俯いた。

 さっき、なにがあった? そう懸命に記憶を探る。
 俺が温室を覗き込んで。川内が植木鉢に向かって話し掛けていて。そして彼女が俺に気付いて振り返った。それだけだ。

 なにか問題があったようには思えないのだが、俺にはわからないような問題が潜んでいたのだろうか。
 姉ちゃんによく、「あんたは気が利かん」と怒られるので、俺が気付いていないだけの可能性も高い。

「ええと……なんか、悩みでもあるん?」

 とにかく突破口を開こうと、そう尋ねてみる。すると彼女は、首を縦に振るでもなく横に振るでもなく、ただ、ますます俯いた。
 ということなら、やっぱりこれは昨日のことではなく、川内の悩みに関することで問題が起こっているのだろう。

「話聞くだけなら聞くけど……いいアドバイスはできんかもしれんけど、話するだけで楽になるいうし」

 そう言うと、川内は俯いたまましばらく考えたような素振りをして、そして小さく首を横に振った。

 けれど、放っておくだなんてできないだろう。
 いつも俯きがちな川内。極端に内気な川内。これはもしや、この彼女の悩みに端を発しているのではないのか。

 今、川内を放っておいてはいけない、と心のどこかで警鐘が鳴り響いている。いや、なにかが俺の足を止めているような気がしている。

 立ち去っては、いけない。

「俺、川内のことが好きだし」

 口をついて出た。川内の肩がピクリと揺れる。

「だから、俺にできることは、ちゃんとしたい」

 そう言うと、川内はゆっくりと顔を上げてこちらを見つめてきた。

「あ、いや、力になれるかはわからんけど、でもがんばるし。えっと、頼りないかもしれんけど」

 しどろもどろになりつつ、そう言う。今さら、顔が熱くなってきた。
 川内はしばらく黙って俺の顔を見つめていた。
 そうしているうち、彼女の瞳にじわりと涙が浮かんでくる。

「えっ、ごめん、なんか悪いこと言った?」

 あたふたとそう言うと、川内はブンブンと首を横に振った。

「ううん、ありがと」

 そして、はっきりとそう言い、俺の顔をまたじっと見つめる。

「話……聞いてもらっても……ええ?」

 そう言われて、ほっと息を吐く。

「うん、俺でよければ」

 川内は一度深呼吸をして。
 それから俺に視線を移し、そっとその言葉を舌に乗せた。

「信じんでもええよ。でも、笑わんでほしい」

 さわさわと、川内が育てている、パンジーが揺れた。
 俺は畳まれたパイプ椅子を一つ広げて、ベンチに座る川内の前に位置取った。
 どんな悩みかは知らないけれど、とにかく聞こう、と自分に言い聞かせる。

 「アドバイスが役に立つことって、三十回に一回くらいしかないわ」と以前姉ちゃんが愚痴っていたことがあるので、俺なんかのアドバイスだと百回に一回くらいになってしまうかもしれない。

 とにかく、聞くこと。と、何度も心の中で唱える。

 しかし川内はソワソワとして、なかなか口を開かない。急かすのは悪手だというのはなんとなくわかるので、とにかく待った。
 しばらくして、ようやく落ち着いたのか、川内は口を開く。

「あの……見とった……よね」

 そうぼそりと言う。

「え、なにを?」

 本気でわからなかったので、そう聞き返すと、川内は驚いたように目を見開いた。

「えっ……見てなかったんじゃ……」
「えっと、なにを?」

 再度、そう訊いてみる。
 すると川内は、少しもごもごと口を動かしたあと、小さな声で言った。

「植物に……話し掛けとったの……」
「ああ」

 それは見ていた。なのでうなずく。
 川内はさらに驚いたように、少し身を乗り出してきた。

「え、見とったん……?」
「え? うん」

 こくりとうなずく。
 それがどうかしたのだろうか。やっぱり、恥ずかしかったのだろうか。でも、植物に話し掛けるなんて、そんなに珍しいことでもない気がする。話し掛けると綺麗な花を咲かせる、なんてよく聞く話だし。別に恥ずかしがるようなことでもない。

「気持ち悪く……なかった……?」

 川内は上目遣いで、そんなことを訊いてくる。

「え? いや?」
「そうなんじゃ……」

 そう言って、考え込んでいる。
 なんだ、そんなこと。俺は心の中で、安堵のため息を吐く。
 植物に話し掛けるのを見て、それを気持ち悪いと思うかって? いやそれはいくらなんでも考えすぎなのでは、と思った。

「だって、サボテンとかに話し掛けたらよく育つ、とか言うじゃん。だから、それかと思って」
「あ、ああ……そう……」

 そうつぶやいて、また川内は黙り込んでしまった。
 なんだなんだ。それで終わりの話ではないのか。それは気にしすぎだよ、とか言うべきなのだろうか。

 しかし、すんでのところでなんとか思いとどまる。
 いやでも、あんなに顔色を蒼白にしていた川内が、そんな言葉で、そうだね、と納得するかと言われたら、しないだろう、としか思えない。

 とにかく、聞くこと。
 俺はまた最初に思ったことを、自分に言い聞かせる。
 「私がしゃべっているときに余計な口を挟むな」と、小さい頃から姉ちゃんにさんざん言われてきたのだ。根気強く聞くのはお手の物のはずだ。

 俺は川内が再度口を開くのを、待った。
 少しして、川内は膝の上で組んでいた手を、ぎゅっと握りしめた。そしてか細く、けれどはっきりした声で言った。

「あの、あのね、信じんでもええけえ、笑わんといてね?」

 さっきもそう言われた。先刻承知だ。

「うん」

 俺は深くうなずく。
 それを見て川内は、表情をほころばせた。そして口を開く。

「植物に話し掛けとるのはね」
「うん」
「私、植物の言葉が、わかるんじゃ」
 それを聞いて、俺はしばらく黙り込んでしまった。
 川内は、少しの間俺を見て、そしてまた俯いてしまう。膝の上の手が、震えていた。

「えーと」

 植物の言葉がわかる?
 つまり、一方的に話し掛けているのではなく、会話をしていた、ということか?

 そりゃあ、マンガやアニメではそういう設定はよくある。もしかしたら、どこかにそういう人がいるのかもしれない、と思うこともある。

 けれど目の前の川内がそうなのだ、と言われても、現実感は伴わない。

 自分が今どう受け止めているのか、よく、わからなかった。

「あの、正直、すぐに信じられるかと言われたらわからんのんじゃけど」

 その言葉に、川内の肩が揺れる。
 でもここで、「そうなんだ、信じるよ」と適当なことを返すのも違うだろう、という気がしたのだ。

「えっと、言葉がわかるって……日本語?」

 だからといってこの質問はどうなんだろう、と思わないでもなかったが、そう口から滑り落ちた。
 川内は、ぱっと顔を上げた。ちょっと驚いている様子だった。

「日本語のことも……ある」
「そうじゃないときは、何語?」
「あ、たいていは言葉じゃなくて、なんとなく」
「なんとなく……」
「動物でも、怒っとるとか、寂しいとか、しゃべらんでもわかる、みたいな、そんなの」
「ああ、なるほど」
「日本語なのは、大きな木とか」
「ああ!」

 俺は手を叩いた。
 ふいに入学式のときのことを思い出したのだ。

「じゃあ、体育館の横の桜は日本語なんだ!」

 その言葉に、川内は大きく目を見開いた。

「あっ、うん、そう」
「入学式のとき、散ってた!」
「うん」

 川内は嬉しそうに、こくこくとうなずいた。

「ああ、それ、俺、見てた」
「そうなん……?」

 俺の言葉に、川内は不安そうに眉尻を下げる。

「うん、バーッと桜が散って、ほいでお辞儀してた」
「あ……」

 川内は、両手で口元を隠して頬を染めていた。気付かれていたのは恥ずかしいという感じか。

「おめでとう、言われたけえ……」

 完全に信じたわけじゃない。やっぱりどこか、そんな浮世離れした話が本当に現実にあるのだろうか、と思う気持ちもある。
 嘘をついているとは言わないが、思い込みなんじゃないのかな、とどこか疑ってもいる。

 けれど、UFOだって存在しているのかもしれない。宇宙人だっているのかもしれない。
 だったら、植物と話ができる人間もいるのかもしれない、と思ってもいいのかもしれない。

 川内は口元に置いていた両手をまた膝の上に戻して、そして言った。

「前に、木下くんがUFO見たって言ったとき」

 今まさに考えていたことを言われて、少し驚く。俺は植物じゃないんだけど、なんてアホなことを思った。

「神崎くんは宇宙人がいるかもしれないって言いよったけえ、そんな風に信じてくれたらいいなって、ずっと思いよったんじゃ」

 川内は、どこか辛そうに、そう言った。
「小さい頃は、皆わかるんかと思いよったけえ、私、普通に花に話し掛けたりしよって」

 川内は小さな小さな声で、しゃべり始める。

「お母さんは最初は、言葉がわかるんじゃね、いいね、って言いよったんじゃけど、大きくなってきたら、まだそんなこと言いよん(言ってるの)、ってなって……」

 幼い頃は、微笑ましいと思われていたことが、成長するにつれ、そうではなくなっていった。
 川内の声が、震え始める。

「私……それで、小学校のころから……痛い、とか……嘘つき、とか……言われて……」

 じわり、と涙が浮かんできていた。
 けれどそれを懸命に堪えようとしているように見えた。

「それで隠しとったんじゃけど……でも、中学校に上がっても知っとる人がそのまま一緒じゃし……ずっとそれで、からかわれとって……」

 ああ、そうか。
 ふっ、と腑に落ちた。

 それで、川内は、山ノ神高校を選んだのだ。
 なるべく、小学校や中学校で同じだった人間とは一緒にならないように。
 今度こそ、その秘密を漏らさないように。

「近所の子らとか、忘れかけたりしても、お母さんが『この子、まだ変なこと言いよらん?』って言ったりして、また再燃して」

 苦し気に、絞り出すように、川内はしゃべり続ける。

「学校……行きとうのうて(たくなくて)……でも、お父さんもお母さんも、そんなん許してくれるわけなくて……夢みたいなこと言いよるけえよって……」

 ぱた、と川内の膝の上に置かれた手に、水滴が落ちる。一粒落ちたら、それがきっかけになったかのように、ぱたぱたといくつもの涙の粒が落ちてくる。
 どうしたらいいのだろうかと、制服のブレザーのポケットを探ってみるが、ハンカチは入っていなかった。
 そうこうしているうち、川内は自分のポケットからハンカチを取り出し、目元に当てている。

 笑われて。からかわれて。肉親でさえ味方になってくれなくて。
 そういう小学、中学時代を経て、彼女はいつも俯くようになったのだ。

 のほほんと生きてきた俺には、彼女に掛ける言葉は思いつかなかった。

 温室に、川内の泣き声が充満していく。
 そこにある花々は、彼女を見守るように、存在している。もしかしたら彼女にとって、植物とは、友だちなのかもしれないな、と感じた。

「ご……ごめんね……泣いて」

 ハンカチで目元を何度も拭いながら、川内が言う。

「いや……」
「あの……内緒に、しとってね」

 上目遣いでこちらにそう言う。彼女の目は真っ赤になっていた。

「ああ、うん。あっ、えっと、尾崎にも黙っとるん?」

 高校での一番の親友は、間違いなく尾崎だろう。なのに彼女も聞いていないのだろうか。
 俺の問いに、川内は小さくうなずいた。

「千夏ちゃんには……言えん。もしも、千夏ちゃんまでおらん(いない)ようになったら……」

 そう言って言葉を詰まらせる。
 親友だから。居心地がいいから。なおさら言えないのだ。
 もちろん尾崎が笑うような人間だとは思えない。川内だってそう思っているだろう。
 けれど今まで受けてきた苦痛を思えば、臆病になるのは仕方ないことではないか。

 この高校で、唯一この話を聞いてしまったのが俺なのだ。
 ならば、曖昧にせずに、ちゃんと応えなければならない、と強く思った。

「正直、俺、信じとるんか、信じてないんか、ちょっと自分でもよくわからんのんじゃけど」
「うん」
「でも、ちゃんと、川内のこと好きだから。ちゃんと考える。笑ったりしない」

 そうきっぱりと言うと、川内は再度、ハンカチで目元を拭い。
 そして涙で濡れた瞳をこちらに向け、いつものように穏かに微笑んで、言った。

「ありがとう」