温室の中に入ると、やっぱり少し暑くて、俺たちは専用の長い棒を使って天井の窓を開けたり、ファンを回したりする。
 それから、いつものように尾崎は木製のベンチに座り、俺は折り畳みのパイプ椅子を広げて座った。

「ごめんね、来てもろうて」
「いや」

 それから少しの静寂があって。
 尾崎はおずおずと口を開いた。

「あのね、お母さんは、本当に大したことなかったんじゃ。なんていうか、ちゃんと病名がつかん(つかない)っていうか」
「え?」
「貧血だったり寝不足だったり、自律神経? が乱れとるとか、そういうのがいっぱい重なっとって。一言で言えば、疲労、なんよね」
「それは……大したことは……あるじゃろ」

 俺がそう言うと、尾崎は小さく笑った。

 仕事をして家事をして介護をして。その疲れが一気に出たということなのだろう。
 すぐに命に係わることではないとしても、のほほんと毎日を過ごす俺からしたら、やっぱり『大したこと』のように思える。

「ほうよね。じゃけえウチ、しばらく部活は休んで、お母さんを手伝おうと思うんじゃ」
「……うん」

 そういうことなら、仕方ない。仕方ないけれど、やっぱり寂しい。
 なんと言えばいいのかわからなくて、俺は曖昧に返事をするしかできない。

「ウチんち、ちょっと複雑でさ」
「うん」

 素直にうなずいた俺に、尾崎は顔を上げる。そして驚いたように言った。

「聞いとった?」
「あ、いや、……あの……」

 しまった。木下と、聞いたことは言わないと約束していたのに、知らないフリができなかった。
 しかし尾崎は苦笑しながら言う。

「いや別に、ええんじゃけど」
「ごめん……」
「じゃけえ、ええって」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら笑う。

「まあ、部活を休むいうても、そう長うはないわ。じいちゃんが施設に行くまで。施設の部屋の空きが出るまでよ」
「ほうなんか」
「じいちゃんは寝たきりじゃし、施設に預けようって話はずっと出とったんよね。お母さんが倒れて、ほいで今回、それが具体的に進みだしたいうか。じいちゃんが施設に行くまで、それまでの辛抱」
「ほうか」

 そういうことなら、とほっと息を吐く。終わりの見えない介護、というわけではなさそうだ。
 ただ、尾崎のじいちゃんは嫌かもしれない。だからここまで施設に預けなかったのかもしれない。でももう倒れるまでがんばったんだから、十分だろう。

「じいちゃんもそうしたがっとったけえ、なんか皆、安心しとる。むしろええほうに進んだ感じよ」
「へえ」

 介護施設に行くのを嫌がる老人は多いと聞くので、少し意外だった。

「だって、お母さんは女で、じいちゃんは男じゃろ? 下の世話とか、お互い、嫌じゃん。知っとる人間より、介護の専門家のほうが抵抗はないわ」
「……なるほど」

 たとえば自分が入院して、下の世話をしてもらうとしたら、母ちゃんや姉ちゃんにしてもらうのは、絶対に嫌だ。看護師さんなら女性でも、なんかそういうものだと思える気がする。

「それに、じいちゃんもお母さんに申し訳ないって言うし」
「ほうか」

 尾崎のじいちゃんは、尾崎のお母さんとは血の繋がりがない。さらに、お母さんの夫であるじいちゃんの息子は、浮気して出て行ったという体たらくだ。
 いろいろと申し訳ないと思うものではあるだろう。

「なのにお母さんが、家で見たほうがええんじゃないか、いうて躊躇しとって、それでここまで伸びたんよ」
「お母さんが?」
「お母さんはじいちゃんに、遠慮はせんで(しないで)くださいって言うんよ。家にいたいんなら、いいですから、って言いよったんじゃけど、さすがに倒れちゃあねえ」
「尾崎のお母さん、優しいな」

 そう言うと、尾崎は小さく笑った。

「どうかねえ。優しいんかねえ」
「まあ……改まってそう言われると……」

 結局、自分も倒れることになって。尾崎も部活を休まなければならなくなって。そして尾崎のじいちゃん自身にも、申し訳ないと言わせてしまった。
 優しさとは、少し違うのかもしれない。

「意地になっとったんじゃないかね」
「意地?」

 そう聞き直すと、尾崎はベンチに座って投げ出していた足をプラプラと振りながら、ゆっくりと口を開いた。