翌日、どうしたらいいんだろう、と思案しながら教室に向かう。
部外者であるはずの俺がこんなに緊張しているのだから、当人たちは、いかばかりだろうか。
教室に到着して、そしてそっと後ろの入り口から中を覗き込む。
どうやら他の三人はまだ来ていなくて、俺が一番か、ますますどうしていいかわからない、とがっくりと肩を落とす。
その肩に、ポンと手を置かれ、ビクッと身体が震えた。
慌てて振り向くと、木下だった。
「おっ、おはよう」
「はよ。……つーか、なんでお前がそんなに緊張しとるんじゃ」
眉根を寄せて、木下が言った。
そんな風に言うものだから、木下は緊張してないかと思いきや、やっぱり落ち着かなく教室の中を覗き込んでいる。
「……まだ尾崎は来てないよのう」
「うん、まだみたいじゃ」
「ほうか……」
そうして、そろりそろりと教室の中に足を踏み入れる。
自分たちの席に着いても、まだ尾崎は来なかった。いつもなら、もう来ていてもおかしくない時間だ。
「そういや、尾崎とは家が近いんじゃないん?」
「ほうで。目と鼻の先じゃ」
「ほいなら、朝、一緒のバスじゃないんか」
「バスは一緒じゃけど、一緒には来よらん」
「へえ……」
それなら普通に一緒に登校すればいいような気もするが、やはり並んで歩くのは抵抗があるのだろうか。
幼馴染というのは、思ったよりも難しい関係性なのかもしれない。
「今日は、バスも違うみたいなかったけど」
「あ、ああ、そうなんか……」
つまり、尾崎はいつものバスには乗らなかったのだ。
あからさまに避けられている。
これは本当に、木下に掛ける言葉がわからない。
そんなふうにして、二人してソワソワとしている内。
「おはよう」
「……おはよー……」
川内と尾崎が一緒に教室に入ってきた。
「お、おはよう……」
「はよ……」
なるほど、そうきたか。
たぶん、尾崎はいつもより早く来て、温室に向かったのだ。そして川内に助けを求め、こうして二人で教室にやってきた。
これはなかなか、前途多難なのではないか。
ギクシャクしながら、俺たちはそれでも挨拶を交わし、それぞれの席に着いた。
◇
放課後までにはなんとかなるのだろうか、というか、昼飯はどうなるんだ? とモヤモヤと考えながら授業を受けていると。
三時間目の日本史の授業のときだった。
急に、教室の前の扉がガラッと開いた。
日本史の先生も、ぎょっとしてそちらに振り向く。
そこにいたのは、浦辺先生だった。
「授業中、すみません」
「いえ、どうされました?」
先生同士でそう言葉を交わしたあと、浦辺先生はこちらのほうを向いて、声を張った。
「尾崎、すぐに用意せえ」
うつらうつらとしていた尾崎が、はっとして顔を上げる。
「……えっ、はいっ」
「お母さんが病院に運ばれたそうじゃ」
その言葉に、教室中の皆の視線が尾崎に集まる。
尾崎は呆然として、瞬きを繰り返して浦辺先生の顔を見つめていた。
「携帯の電源、入れていいで」
浦辺先生のその言葉に、尾崎は慌てたように、ポケットからスマホを取り出し、真っ青な顔色で電源を入れる。
「大したことはないらしいんじゃが、送ってってやるけえ、とにかく病院に行かんと。車回してくるけえ、校門に来い」
「は……はい」
尾崎がうなずいたのを見ると、浦辺先生は日本史の先生のほうに振り返る。
「じゃあすみません、尾崎は早退ってことで」
「はい」
そうして浦辺先生は教室の扉を閉める。
途端に教室内はざわざわと騒がしくなった。
「はい、静かにー」
日本史の先生はそう言うが、それでも皆、落ち着きはしなかった。
そんな中、尾崎は慌てて、机の上を片付けている。
「あっ」
机から尾崎の筆入れが落ち、バラバラとペンが散らばっていく。
川内が慌てて席を立ち、それらを拾っていた。
「ご、ごめん。え、えと……あ、あと体操服」
きょろきょろと辺りを見渡していて、尾崎が明らかに落ち着きをなくしているのがわかる。
大したことはない、と浦辺先生は言っていたが、こうして呼び出しがあるくらいだ、それを鵜呑みにはできないのだろう。
ふいに後ろの席から、ガタン、と音がした。
「尾崎」
低い声で、木下が言った。
その声に、尾崎はピクリと身体を震わせ、そして木下のほうに振り返った。
ざわついていた教室が一瞬にして、しん、となるほど、木下の声はよく響いた。
「体操服なんかは、川内にまとめてもろうてワシが持って帰るけえ、ほっとけ」
「え……」
「教科書もぜんぶ置いてけ」
「あ……」
「じゃけえお前は、財布とスマホだけ持っていけ」
「う、うん」
言われて、尾崎は自分の制服のポケットに財布とスマホが入っているのを確認している。
「焦るなよ。お前がコケてケガでもしたら本末転倒じゃ」
「うん」
尾崎は次第に落ち着きを取り戻してきたように見えた。
「母ちゃんに連絡しとくけえ、なんかして欲しいことがあったら、遠慮せずに言え。尾崎のじいちゃんの迎えとかは、母ちゃんもできるけえ」
「うん」
その頃には、尾崎はしっかりとうなずくようになっていた。
「わかったの。病院に着いて様子見て、時間があったらでええけえ、連絡せえ」
「うん」
「おばさんに、よろしくな」
「うん。ありがと、隼冬」
尾崎は、はっきりとした声で、そう言った。
その日の放課後、川内が温室内の世話をしている間、俺たちは畑の雑草を抜いていた。
しかしふいに木下が立ち上がって、ジャージのポケットを探りだす。
「ワシ、途中で抜けるかもしれんわ」
取り出したスマホを見ながら木下が言った。
「尾崎の母ちゃん、大事にはなってないみたいなんじゃが」
尾崎から連絡があったのだろう。ほっと胸を撫で下ろす。
「そのまま検査入院するいうて言いよるけえ、じいちゃんの世話を尾崎一人でやらんといけん。うちの母ちゃんが手伝うみたいなけど、ワシも呼ばれたら行くわ」
「ほいなら今日は、帰ってもええで? 俺がやっとくし」
そういうことなら、呼ばれたら、と言わずに家で待機していたほうがいいのではないか。
しかし木下は首を横に振り、持っていたスマホをジャージのポケットにしまう。
そして俺の前にしゃがみ込み軍手をはめて、また雑草を抜き始めながら、言った。
「いや、こういうときは、言われたら、でええんじゃ。あんまり先回りするんは良うない。いらんことするな、いうて言われるわ。母ちゃんはようわかっとるけえ、母ちゃんの言う通りにするんがええ」
「ほうか」
木下の母親と尾崎の母親は、本当に仲がいいんだろう。そして似たようなことは今までもあったんだろう。それなら要領のわかっている人に従うのが一番いいのかもしれない。
きっと、ご近所同士の助け合い、が成立しているのだ。
しかしその場合、ご近所に頼る前に出てくるはずの人が一人、出てきていない。
「尾崎んち、お父さんおらんのか」
俺がそう言うと、言いたいことはわかったのか、木下はうなずいた。
「尾崎んち、ちいと複雑なんよの」
「そうなん?」
「尾崎んち、じいちゃんと、おばさんと、尾崎の三人で住んどるんじゃが、じいちゃんは尾崎の父ちゃんの父ちゃんなんじゃ」
となると、じいちゃんという人は尾崎の祖父ではあるが、尾崎の母にとっては義理の父親か。
と、雑草を抜きながら、頭の中で整理する。
「……尾崎のお父さん、亡くなっとるんか」
「いや、生きとる。浮気して出て行った」
「はあ?」
いきなりとんでもない話が出てきて、俺は雑草を抜く手を止めて顔を上げる。
木下は下を向いて手を止めないまま、口を開く。
「たまに、顔見せに帰ってきよるで。どのツラ下げて、って思うけどのう」
浮気して出て行った、というだけでも信じられない話なのに、ときどき帰ってくる?
何ごともなく平和な家庭で育ったからだろうか、どうにも上手く想像できない。まるで、ドラマの中の話のようだ。
けれど、顔も見たことがない、その尾崎の父親には腹が立つ。
「信じれん」
その怒りを目の前の雑草に当てることにして、ブチブチと引き抜く。
それを見た木下は、ふっ、と小さく笑った。
「腹立つよのう」
「うん」
「尾崎も怒っとるけど……肝心のおばさんが、それでええみたいで」
「わけがわからん」
「そうは思うけど、口出しすることでもないけえ」
「うん……」
他所の家庭のことなのだ。赤の他人の俺が怒る筋合いのことでもない。それはそうなんだろう。
小さい頃から尾崎を見ていた木下は、もちろん今までも怒っていたのだと思う。
けれど、余計な口出しは無用、と言われてきたのだろう。それもあって、先回りするのはよくない、と悟ったのかもしれない。
行き場のない怒りを、俺たちはさらに雑草に向ける。今日は捗りそうだ。
木下は、その間に、ぽつぽつと話す。
「じいちゃんは元気じゃったんじゃけど、ちょっと前にコケてしもうて、足の骨折ったんじゃ。それから一気に寝たきりになってしもうての」
「そうじゃったんか……」
「その世話で、おばさんは疲れとるみたいなかった」
だから、今回、病院に運ばれるようなことになってしまったのだろう。
それこそ、実子である父親が、自分の親の面倒をみないといけないのではないか。
「おばさんは働きよるけえ、昼間はデイで見てもらいよるんじゃが」
「デイ?」
耳慣れない言葉が出てきて、そう聞き返す。
「……ああ、デイサービスのことじゃ。昼間は介護施設で預かってもらうんじゃ。リハビリもしてくれるところなんと」
「へえー」
知らなかった。俺は父方も母方も、どちらの祖父母も健在だが、元気だし、離れて暮らしているし、そういう知識がまるでない。
介護は大変だ、ということはよく聞くし、そうなんだろうとは思っていても、実感としては伴っていない。
「お」
木下がなにかに気付いたように顔を上げる。マナーモードにしていたスマホが震えたらしい。
その画面を見て、木下は立ち上がる。
「なんかあったん?」
「母ちゃんが買い物して帰れって言うけえ、帰るわ」
「ああ、うん」
なるほど。確かに、家に帰って待機しているより、学校からの帰り道に寄ってくれ、ということがあるか。
余計なことはせずに指示待ちしているほうがいいときもあるのは確かなようだ。
「ほいじゃあの」
「うん、気を付けてな」
俺がそう言うと、木下は口の端を上げた。
「二人きりじゃ。よかったの」
俺はその言葉に、眉をひそめる。
「さすがに、よかったとは思わんわ」
そう言うと、木下は少し下を向いて、小さく笑った。
「ええヤツでよかったわ」
「普通じゃ」
「ほうか。ほいならええヤツついでに言うんじゃけど、ワシが今日、いろいろしゃべったこと、内緒にしといてくれえや」
おどけたように尻を突き出して、人差し指を唇に当てて言う。小さく笑いが漏れた。
「うん、わかった」
「ほいじゃあの」
そうして、今度こそ、木下は踵を返して帰っていった。
翌週の月曜日になって、尾崎は教室に姿を見せた。
さすがに皆、心配していたのか、尾崎は次々と声を掛けられていた。
川内と一緒に入ってきたのだが、その様子を見て川内だけが離れて自分の席に向かってくる。
尾崎を取り囲んだクラスメートは、我先にと口を開いた。
「お母さん、大丈夫じゃったん?」
「うん、大したことなかったんよ。でも、倒れたんが会社じゃったけえ、慌てて他の人が救急車呼んだみたい」
「へえー」
「すぐに退院したし、もう大丈夫」
「よかったね」
「うん、ありがと」
そんな風に笑いながら、軽く言葉を交わしている。
その様子を見るに、本当に大したことはなかったのだろう、とほっと安心した。
昼休みに四人でお昼ご飯を食べている間も、「もー、びっくりしたわー」などと言いながら、軽い調子で話をしていたから、特に心配することはなさそうだと思った。
けれど、食べ終わったあと、尾崎は立ち上がって、俺に言った。
「神崎。温室行こ、温室」
「えっ」
「早う」
急かされて立ち上がる。けれど川内も木下も、座ったままだった。
「俺だけ?」
「そう、特別」
ウインクしながら、おどけたようにそう言う。
川内と木下に振り返るが、二人ともまるでそれが普通のことみたいに、特に驚いた様子もなく、座っている。
「ていうか、木下にはもういろいろ話したし、ハルちゃんにも話した。あとは神崎だけ」
「ああ、うん」
木下は家が近所なのだから話す機会もあっただろうし、川内は朝一緒に教室に入ってきたのだから、朝一番に話したのだろう。
尾崎と二人して教室を出る。
階段を下りながら、尾崎は言った。
「ちょっと込み入った話もあるけえ、教室はね」
「ああ、なるほど」
「コクられるか思うた?」
こちらに首だけで振り向き、にやりと笑ってそう言う。
「コクってくれるん?」
首を傾げてそう返すと、あはは、と声を出して笑ってくる。
「残念じゃったね、違うわ」
「ほうか」
それはそうだろう。
尾崎もきっと、木下のことが好きなのだ。自覚しているのかしていないのかはわからないけれど、きっとそうなのだ。
あのとき、尾崎は「ありがと、隼冬」と名前を呼んだ。たぶん二人は、子どもの頃は、名前で呼び合っていたのだろう。
それが思春期やらなにやらで、いつの間にか離れていって、目と鼻の先の二人の家から同じ高校に通うのにも、別々に通うようになってしまった。
なかなか面倒そうな関係ではあるが、でも今また少しずつ動き始めているのだ。
俺という存在は、そういう二人に割り込めるような人間ではない。
それになにより、俺には好きな人がいる。なんとなくだが、尾崎はそれに気付いているのではないだろうか。
先を行く尾崎が、ポツリと言葉を発する。
「ウチ、温室、好きなんよね」
「うん」
「なんか、心穏かになるっていうか」
「わかる。落ち着く」
「たぶん、ハルちゃんが世話しよるけえじゃわ」
小さく笑いながら、そう言う。
そう言われるとそうかもしれない、と思う。暖かくなってきて、温室はポカポカと気持ちいいものから、少し暑い場所になりつつあるけれど、それでもやっぱり居心地がいい。
温室に到着して、尾崎は川内に借りたのであろう鍵を取り出し、南京錠をガチャガチャとやって、その扉を開けた。
温室の中に入ると、やっぱり少し暑くて、俺たちは専用の長い棒を使って天井の窓を開けたり、ファンを回したりする。
それから、いつものように尾崎は木製のベンチに座り、俺は折り畳みのパイプ椅子を広げて座った。
「ごめんね、来てもろうて」
「いや」
それから少しの静寂があって。
尾崎はおずおずと口を開いた。
「あのね、お母さんは、本当に大したことなかったんじゃ。なんていうか、ちゃんと病名がつかんっていうか」
「え?」
「貧血だったり寝不足だったり、自律神経? が乱れとるとか、そういうのがいっぱい重なっとって。一言で言えば、疲労、なんよね」
「それは……大したことは……あるじゃろ」
俺がそう言うと、尾崎は小さく笑った。
仕事をして家事をして介護をして。その疲れが一気に出たということなのだろう。
すぐに命に係わることではないとしても、のほほんと毎日を過ごす俺からしたら、やっぱり『大したこと』のように思える。
「ほうよね。じゃけえウチ、しばらく部活は休んで、お母さんを手伝おうと思うんじゃ」
「……うん」
そういうことなら、仕方ない。仕方ないけれど、やっぱり寂しい。
なんと言えばいいのかわからなくて、俺は曖昧に返事をするしかできない。
「ウチんち、ちょっと複雑でさ」
「うん」
素直にうなずいた俺に、尾崎は顔を上げる。そして驚いたように言った。
「聞いとった?」
「あ、いや、……あの……」
しまった。木下と、聞いたことは言わないと約束していたのに、知らないフリができなかった。
しかし尾崎は苦笑しながら言う。
「いや別に、ええんじゃけど」
「ごめん……」
「じゃけえ、ええって」
そう言って、ひらひらと手を振りながら笑う。
「まあ、部活を休むいうても、そう長うはないわ。じいちゃんが施設に行くまで。施設の部屋の空きが出るまでよ」
「ほうなんか」
「じいちゃんは寝たきりじゃし、施設に預けようって話はずっと出とったんよね。お母さんが倒れて、ほいで今回、それが具体的に進みだしたいうか。じいちゃんが施設に行くまで、それまでの辛抱」
「ほうか」
そういうことなら、とほっと息を吐く。終わりの見えない介護、というわけではなさそうだ。
ただ、尾崎のじいちゃんは嫌かもしれない。だからここまで施設に預けなかったのかもしれない。でももう倒れるまでがんばったんだから、十分だろう。
「じいちゃんもそうしたがっとったけえ、なんか皆、安心しとる。むしろええほうに進んだ感じよ」
「へえ」
介護施設に行くのを嫌がる老人は多いと聞くので、少し意外だった。
「だって、お母さんは女で、じいちゃんは男じゃろ? 下の世話とか、お互い、嫌じゃん。知っとる人間より、介護の専門家のほうが抵抗はないわ」
「……なるほど」
たとえば自分が入院して、下の世話をしてもらうとしたら、母ちゃんや姉ちゃんにしてもらうのは、絶対に嫌だ。看護師さんなら女性でも、なんかそういうものだと思える気がする。
「それに、じいちゃんもお母さんに申し訳ないって言うし」
「ほうか」
尾崎のじいちゃんは、尾崎のお母さんとは血の繋がりがない。さらに、お母さんの夫であるじいちゃんの息子は、浮気して出て行ったという体たらくだ。
いろいろと申し訳ないと思うものではあるだろう。
「なのにお母さんが、家で見たほうがええんじゃないか、いうて躊躇しとって、それでここまで伸びたんよ」
「お母さんが?」
「お母さんはじいちゃんに、遠慮はせんでくださいって言うんよ。家にいたいんなら、いいですから、って言いよったんじゃけど、さすがに倒れちゃあねえ」
「尾崎のお母さん、優しいな」
そう言うと、尾崎は小さく笑った。
「どうかねえ。優しいんかねえ」
「まあ……改まってそう言われると……」
結局、自分も倒れることになって。尾崎も部活を休まなければならなくなって。そして尾崎のじいちゃん自身にも、申し訳ないと言わせてしまった。
優しさとは、少し違うのかもしれない。
「意地になっとったんじゃないかね」
「意地?」
そう聞き直すと、尾崎はベンチに座って投げ出していた足をプラプラと振りながら、ゆっくりと口を開いた。
「お母さん、じいちゃんには恩があるんと」
「恩……」
「ウチを産んだときにね、母方のじいちゃんもばあちゃんも、ほいで父方のばあちゃんも、皆ね、『ありがとう』って言ったんだって。それが引っ掛かっとったみたいで」
「うん?」
『ありがとう』のどこが、おかしいのだろうか。自然に出る言葉の気がするのだが、違うのだろうか。
よくわからなくて、首を傾げる。
その様子を見て、尾崎は苦笑しながら続ける。
「でも、じいちゃんだけが、『おめでとう』って言ったんだって。それで、この人の世話は私が一生する、って決めたんだって」
「……ごめん、ようわからん……」
俺は素直にそう訊いてみる。
「ありがとう、いうのがいけんってわけじゃないとは思うけど、でも、おめでとう、のほうが嬉しかったんだって。それだけじゃないけど、それが一番心に残っとるんだって」
「ふうん……」
けれど返ってきたのは、やっぱりよくわからない説明だった。もしかしたら、大人になったらわかることなのだろうか。
首をひねる俺の肩をポンと叩き、尾崎は笑った。
「まあまあ。神崎も、いつか孫が生まれるときのために、『おめでとう』って言ったほうがええって、覚えとったらええわ」
「忘れとる気がする……」
眉根を寄せる俺の顔を見て、尾崎はまた、あははと笑った。
「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは、意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」
「えっ」
噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親。
「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」
この場合、クソって言うな、とは、木下も言わないのではないだろうか。
「ほいでね、離婚するって」
言っていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。
「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」
「今すぐ、じゃないんだ」
「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」
そう言って、また尾崎は足をプラプラと振っている。
俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。
「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」
「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」
「なんか……それはそれで腹立つな」
そのお母さんの意地のために、尾崎は振り回されてきたのだ。
尾崎も怒っとるけど、と木下は言っていた。ならば尾崎自身は離婚に賛成の立場だったのではないか。
眉根を寄せる俺を見て尾崎は口の端を上げる。それから覗き込むようにして俺の顔を見てきた。
「なに? ウチのために怒ってくれとるん?」
「そんな高尚なんじゃないけど」
こちらに身を乗り出す尾崎から逃れるように、慌てて身を引く。それを見て尾崎は、また笑った。
完全に、からかわれた。
少しだけ唇を尖らせて抗議の姿勢をとっても、まったく堪えていないのか、尾崎はくつくつと笑うだけだ。
そしてふと、自分の腕時計に視線を落とすと、尾崎は言った。
「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」
「え?」
「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」
そう言って、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。
「ここまでは、木下にもハルちゃんにも言うたんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」
「え、なに?」
さきほどまで、自分の感情をごまかすかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。
「お願いが、あるんじゃ」
「お願い?」
俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりとうなずいた。
まっすぐに俺を見て、尾崎は続ける。
「そういうわけで、ウチ、しばらく園芸部に来れんかもしれんけえ、ハルちゃんと一緒におってあげて」
「え?」
川内?
「あの子、ほっといたらイジメられるかもしれんけえ。ウチのこと、庇ったことがあるんよね。それで先輩に目を付けられとる」
庇ったことがある?
先輩に目を付けられている?
それで、イジメられるかもしれない?
川内の姿を思い浮かべてみる。けれど、どうもそういうものと結びつかない。
たとえば、相手がクラスメートとかなら、気に入らないという理由で無視されたり、ということはあるかもしれない。川内は大人しいし、俯きがちだし、おどおどしすぎだから、悲しいかな、イジメの標的になるかもしれない、という気はする。
幸い、今は気の強い尾崎がべったりとくっついているし、うちのクラスは全体的にのほほんとした雰囲気だから、その心配はなさそうだ。
けれど、尾崎は先輩からのイジメを心配している。
「なにをやらかして目を付けられとるん?」
なので、そう訊いてみた。
「二年になってすぐなんじゃけど、ウチらの教室の階のトイレね、全部埋まっとって」
「はあ?」
いきなり話がすっ飛んだ気がする。なんでここでトイレ?
「それで、三年の階のトイレに行ったんよね。そしたら、中で捕まって。『ウチらの階のトイレ使いんさんな』って」
「……いや……ちょっとよく……」
なぜ三年の階のトイレを使ってはいけないんだ? 意味がわからない。
俺の言葉にクスクスと笑いながら尾崎は続ける。
「なんか、女子の間では、なんとなく決まっとるんよね。他の階のトイレ使っちゃいけんって。でもウチ、我慢できんくてさあ」
「……はあ」
「おまけに髪とか染めとるけえ、『生意気』じゃって言われて、囲まれて」
怖い。
のんびりした高校だと思っていたのに、そんなことがあるなんて。
「ほいでハルちゃんは、ウチが別の階のトイレに行こうとしよるのを見とったらしくて、心配になって付いてきたんと」
たぶん尾崎は、「わー、トイレ空いてなーい! 下行こー!」とか大げさに騒ぎながら移動したのではないだろうか。簡単に、想像できる。
それを見た川内が、心配になって、後をそっとついていった。それも、なんとなく、想像できる。
そしてなかなか出てこないことに不安になった川内が、中を覗き込むと。
尾崎が三年の先輩たちに囲まれていた。
「あんな小さくて、大きな声も出せんような子がね、ブルブル震えながら、『先生呼びますよ!』って」
くすくす笑いながら尾崎が言う。
「ほいで、すれ違いざまに先輩らが、『覚えときんさいよ』って言ったんよ。じゃけえ、ウチ、ずっとハルちゃんと一緒におったんよね。なんか申し訳ないじゃん?」
それで、系統がまったく違う二人が、ずっと一緒にいるようになったのか。
尾崎は部活まで付き合って、園芸部員になったのか。サボテンを枯らしたような女の子が。
「そんな経緯があったんか」
「そう。ハルちゃんは最初は遠慮しとったけど、まあなんか、ウチもあの子の傍は居心地がええんよね。ハルちゃんはどうかわからんけど」
そう言って、尾崎は肩をすくめる。
「いや」
だから、俺は言う。
「川内も、尾崎の隣が居心地がいいみたいに、見える」
俺の言葉に、何度か目を瞬かせた尾崎は。
口を笑みの形にして、そして小さく「うん、ありがとね」と言った。
「まあもう時間も経っとるし、大丈夫なんかなって気はするけど、やっぱり誰かに傍におってもろうたほうが、安心なけえ」
「尾崎って」
「うん?」
「過保護な姉みたいよの」
前々から思っていたことを、口にしてみる。
言われてまんざらでもなかったのか、尾崎はふふんと鼻を鳴らした。
「ま、ウチはしっかりものじゃし?」
「そういうことにしといてもええけど、疑問は残るのう」
ニヤつきながらそう返すと、尾崎は少し唇を尖らせて、返してきた。
「タカちゃんは意地悪なねー」
ふいにそう言われて、思わず頭を下げて顔を隠した。
「……忘れとったのに……」
くそ、姉ちゃんのせいだ。
あはは、と笑いながら、尾崎は何度も俺の肩を叩く。
「まあまあ。とにかく、ウチのお願い、聞いてくれる?」
そう言われて、ゆっくりと顔を上げる。
尾崎は穏やかに微笑んで、こちらの返事を待っている。
けれどきっと、答えはわかっているのだ。
「うん」
俺はうなずいた。
「うん、大丈夫。なるべく近くにおるけえ」
「ほうね。ほいなら安心じゃわ」
そう言って、ほっと息を吐いた尾崎だったが、なにかに気付いたようにこちらに顔を向けた。
「あ、トイレにまで付き合わんでもええんよ」
「当たり前じゃろ!」
いったいなにを言い出すのか。
慌てふためく俺を見て、尾崎はまた楽しそうに笑う。
そして腕時計をもう一度見て、立ち上がった。
「時間じゃね。はあー、たいぎいわ」
俺も立ち上がって、パイプ椅子を畳んで片付ける。
温度計を見るとちょうどよさそうだったので、窓はそのままにして、そして二人で温室を出た。
そして教室までの道のりで、ぽつぽつと話をする。
「名字が変わったら、尾崎って呼べんな」
「じゃあ、千夏って呼ぶ?」
からかうように、そう言ってくる。
「ううーん……」
名前呼びはさすがにちょっと、抵抗がある。
なんというか、気恥ずかしいというか。
「ほいでもウチは、どうせ何年かしたらまた名字が変わるじゃろ。じゃけえ、なんでもええよ」
ああ、なるほど。いつか結婚したら、また名字が変わるかもしれないのか。
ふいに、からかいたくなって、こう言った。
「木下、に変わるかもしれんよ」
「さあ、それはわからんけど」
そう言って、尾崎は微笑む。
からかいは不発だったようで、特に恥ずかしがることもなく、穏やかな返事だった。
わからない、か。
絶対にない、ではないんだな、とちょっと温かな気持ちになった。
俺のそういう思いに気付いているのかいないのか、横にいる尾崎は続ける。
「まあでも、離婚をここまでせんかったのは、良かったんかもしれん」
「え? なんで?」
「お母さんの旧姓、村上、なんよね」
「うん」
「そしたら、ウチらの出席番号、四人並べんかったじゃん?」
「ああ」
なるほど。
もしも尾崎が村上だったら、四人がここまで仲良くなっていなかった可能性もあるのか。
「なんでも、良し悪しなんかもしれんねえ」
「うん」
そんなことを話しながら、俺たちは教室への道のりを歩いたのだった。
尾崎がいない園芸部は、まさに火が消えたようだった。
彼女が一人いないだけで、あんなに楽しく輝いていたような温室内が、なんだか薄暗くなったような気がする。
川内も、女子が一人だけになってしまって寂しそうだ。
元々、一年のときは一人だけの部員だったというが、あの賑やかさを知ってしまったあとは、なにか感じるものがあるのだろう。
夫婦漫才を繰り広げていた木下も、口数がすっかり減ってしまっていた。
俺は元々、自分からしゃべるタイプではないので、ここで無理に明るく振舞ったところで、空回りするだけの気がする。いや空回りする。間違いなく。
俺たちは、黙々と畑を鍬で耕していた。もちろん黙ってやるほうがいろいろと捗りはするので、畑はもう畝も作られていて、誰がどう見ても畑、という完成度だ。
花壇のほうも、チューリップの球根を掘り出して、花の色別にネットに入れて干している。
そんな風に着々と園芸部としての活動は進んでいるが、なんというか、味気ない。
尾崎はもちろん学校にはちゃんと通っていて、授業中も昼休みも一緒に過ごしていて、そこは全然変わりないのに、放課後になって、「じゃあねー」と彼女が去っていくと、途端に静かになってしまう。
「ハルちゃんと一緒におってあげて」という尾崎のお願い通り、温室に行くときも帰り道も、もちろん一緒にはいるのだが、やはり川内は尾崎がいるときよりも、意気消沈しているように見える。
「なんじゃあ、元気ないのう」
そんな俺たちを見て、浦辺先生は言った。
「九月には文化祭もあるんで? 園芸部として参加するぞ」
「えっ」
驚く俺たちを見て、浦辺先生は腰に手を当てて呆れたように言った。
「当たり前じゃろうが。園芸部がちゃんと活動しとるところを見せんと」
山ノ神高校の文化祭は、マンガやアニメで見るような盛大なものではなくて、やってくるのは保護者や近所の人たち、せいぜいOBくらいのものだし、クラスの出し物を発表する中学校の文化祭の延長上にあるものとしか思えない。
高校生になったら、きっと大規模な文化祭というものが開催されるのだとワクワクしながら入学した俺は、一年生のときの文化祭には少々落胆したものだ。
けれど高校生活において文化祭は、やはり重要なイベントであることは否めない。
「でも、なにをすりゃあええんじゃ?」
木下はそう言って首をひねる。
「園芸部の活動を見せる言うても、今まで、畑耕すくらいしかしてないで」
ごもっとも。俺は同意を表すために、大きくうなずく。
すると浦辺先生は、温室の脇に重ねて置かれている、空のプランターを指差した。
「一人一つ、な」
な、と言われても。
「なんでもええ。文化祭の九月に咲く花の種を植えて育ててみいや。何種類でもええで。別の植木鉢で育てて、プランターに植え替えて見目を良うするんもええな」
「ええ……」
嫌な顔をする男子二人を横目に、浦辺先生はプランターを取ってきて、そして一人一つずつ、渡して回った。浦辺先生の手には一つ、残った。
「なんでもええんじゃ。自分で育てた、いうんが大事よ。綺麗に育てばもっとええがの」
「はあ……」
川内だけは、ワクワクしているのか、頬を紅潮させている。
「ネギだけ文化祭に出品しても、つまらんじゃろうが」
まあそれは確かに。地味すぎる。
「明日の放課後、畑に撒く肥料やら土やら、ホームセンターにワシと一緒に買いに行くで。そのときに種も買う。重いけえ、車じゃないとダメじゃろ」
「はあ……」
なんだかまともに育てられる気がしなくて、手の中にある空のプランターを眺めて、そんな気のない返事をしてしまう。
それに、尾崎もいないのに……と、少ししんみりしてしまったところで。
「尾崎にも、何の花がええか訊いとけ」
その言葉に、俺たちは顔を上げる。
浦辺先生は、手に持っていた残りの一つ、空のプランターを片手で肩まで持ち上げて、プラプラと振った。
これは尾崎の分ですよ、と言いたいらしかった。
「水やるくらいなら、尾崎にもできるじゃろ。なんかあったら、お前らが手伝ってやれ。校舎の入り口に四つ、プランターを飾る。まあ地味じゃが、それが園芸部の出し物よ」
そう言われて、俺たちは三人揃って、大きくうなずいた。
「そういうわけじゃけえ、尾崎は何の花がええ?」
そう昼休みに尾崎に訊いてみる。
「花かあ」
箸をくわえたまま、尾崎はうーん、と唸った。
「そう言われてもねえ。ウチ、花とか詳しゅうないし」
「何色がええかとか、花が小さいのとか大きいのとか、そういうんでもええよ?」
川内がそう一生懸命言っている。
けれど尾崎の返事は芳しくはない。
「うーん……。ほいでも、今植えて、九月に咲かせるんじゃろ? どれがええかわからんわ。ひまわり育てたい、言うてもダメじゃん」
そう言われると、確かに。
「じゃけえ、それは悪いけど任せるわ。水やるくらいなら、ちゃんとやるけえ。ホンマよ?」
尾崎はそう言って、にっこりと笑う。
けれどどことなく、疲れているような気がした。考えることすらも面倒だと思っているけれど、それを顔には出さないように努力しているように見えた。
だからそれ以上、考えてみて、とは言えなかった。
それは、他の二人も感じ取っていたと思う。
「ほいじゃあ、ワシらが適当に決めとくわ」
「うん、頼むねー」
木下が話を打ち切って、尾崎はそれに乗って、そうして昼休みは終わった。
◇
放課後、浦辺先生の車に乗って、ホームセンターに向かう。
焼山には郊外型の規模の大きな店舗があるのだ。さすがは田舎だ。
駐車場に停められた車から降りた木下は、店を見上げて感心したように言った。
「はー、でっかいのう」
「呉にはなかったっけ」
「あったかのう。あ、市役所の近くに一戸あるわ。そんなにでかくない」
「ふーん」
そんなことをしゃべりながら、店の中に入る。
浦辺先生はカートを引いてきて言った。
「まあ適当に種でも選びよけや。ワシは土とか積むけえ」
「はーい」
先生と別れて、店の中に入る。
ホームセンターという場所は、なんとなく心躍る。きっと財布の中にたくさんのお金が入っていても、すぐに使い切ってしまうのではないだろうか。
「もし、町中にゾンビが溢れて、どこかに籠らんにゃいけんようになったら、ワシはホームセンターに籠る」
「わかる! ホームセンターなら生き残れる気がする!」
「武器もあるよのう」
「チェーンソーとか」
「食料もあるし」
そもそも町中にゾンビが溢れることはない、とかいうツッコミは不要だ。
ホラー映画とかゲームとか、そういうのを見たあと、自分ならどこに基地を置くか、というのは誰しも考えることだと思う。
「種はあっちみたい」
川内は、そんなバカなことをしゃべっている俺たちを尻目に、種が売ってあるほうに歩き出していた。
男子二人は、使いもしない変わった形の鍋とか、便利グッズとかにフラフラと目を奪われるが、川内だけは脇目もふらずに一直線に園芸コーナーに向かっていた。
たぶん、彼女が一番興味が惹かれるのが、そこなのだろう。
俺たちが飾りもしない神棚を見て「かっけー」とか言っているのと、実は似たようなものなのかもしれない。
種の入っている袋がずらりと並んだ棚の前でしゃがみ込んで、川内はキラキラした瞳で手に取っては戻し、手に取っては戻ししている。
遅れて到着した俺たちも、適当に一つ、手に取ってみる。
「どれでもええんかのう」
表に印刷された花の写真を見ながら、木下が首をひねっている。
「裏に、何月に植えたら何月に咲くとか書いてあるよ」
川内に言われて、手に持っていた種の袋を裏返す。
「あ、ホンマじゃ」
「九月くらいに咲くのがええんよのう」
「別に、全部咲かんでもええかもしれんよ。これから咲きますよ、っていう蕾でも綺麗なし」
「なるほど」
「プランターで何種類も植えられるけえ、時間差で咲くのもいいよね」
「ほいじゃあ、何個か選んだほうがええんか」
「一種類でもええと思うよ。いっぱい咲くのが綺麗なんもあるし。私は去年はパンジーだけのプランターをいっぱい作ったよ」
漠然としていてイメージが湧かずに悩む俺たちとは対照的に、川内は珍しく饒舌だ。
「どうしようかのう……」
そう言って、目を動かしていた木下が急に、「あ!」と声を上げた。
何ごとかと振り向くと、下のほうにあった種の袋を指差している。
「サボテンの種がある!」
「マジで?」
木下が指差す先を見てみると、本当にサボテンの種があった。何種類かのサボテンの種が混合で入っていると書いてある。
「サボテンって種から育てられるんか」
「知らんかった」
サボテンと聞くと、サボテンを枯らせたと話した尾崎を思い出してしまって、三人で小さく笑った。
木下はその種の袋を手に取って、そして満足げにうなずいた。
「これにしよう、これ。尾崎はこれがええ」
「どんな顔するか楽しみじゃ」
「じゃあ、サボテン用の土も買ってもらいたいな。あとプランターじゃなくて植木鉢のほうがええかも。水はけが良うないと」
「先生に頼もう」
なんだか急に、種を選ぶのが楽しくなってきてしまった。
俺たちはああでもないこうでもない、とワイワイと話し合った。