「っはー、帰りてー」
教室に、そんな声が響いた。まだ一時間目の古典の授業が終わったところだった。
それを口にしたのは、尾崎千夏。
俺の前の前の出席番号の女子だ。
「千夏ちゃん、まだこれから二時間目だよ」
そう苦笑とともに答えたのは、尾崎が座る席のすぐ後ろの席にいた川内遥だった。
まだ二年生になったばかりなので、教室の座席は出席番号順になっている。なので俺の席はその後ろだった。
窓際なので、ずっとこのままでいたいと、二人とも思っているに違いない。もちろん俺もそう思っている。
「だって、すげえ眠いんじゃもん」
「暖かいけえね」
眉根を寄せる尾崎に向かって、川内はくすくすと笑いながら応えている。
尾崎が自分の机と川内の机を肘掛けのようにして腕を置き、片足を立てて足裏を椅子の端っこに置いて座っているのに対し、川内はきちんと前を向いて行儀よく座っている。
出席番号が前後とはいえ、この二人が仲がいい、というのは信じられない。
茶髪の先がほとんど金色になってしまっている尾崎と、まっすぐな黒髪の川内は、どう考えても別グループになりそうなのに、いつも二人で一緒にいる。
一年のときは川内は三組で、尾崎は二組だったから、二年になってから初めて同じクラスになって交流し始めたはずだが、まるで一年のときからずっと一緒にいた友だちのような雰囲気を醸し出している。
俺なんか、川内とは一年のときから同じクラスで出席番号が前後だったというのに、未だロクに会話もしていない。
もちろん、尾崎が女子で俺が男子という、どうしようもない違いがあるので、比べられるものでもないというのはわかってはいる。
わかってはいるが、情けない。
「やっべ、これ次の世界史、ぜってえ寝るわー」
天井を仰ぎ見て、女子とは思えない言葉遣いで大声を出す尾崎に、川内は困ったように首を傾げている。
いやこれ、女子と言い切っていいものだろうか? という疑問を胸に抱いたところで。
ふいに、俺の後ろの席から声が上がる。
「うるせえよ、尾崎」
後ろの席にいるのは、木下隼冬。こいつも確か一年のときは二組で、だから尾崎とは一年のときから同じクラスのはずだ。
「ああ?」
尾崎が眉をひそめて顔をこちらに覗かせる。
割と綺麗な顔立ちはしているけれど……やっぱり言動が女子じゃない。
実のところ、俺は少々ビビッてしまっているのだが、後ろの木下は慣れているのか意に介さない様子だ。
「声がでけえよ」
「あーあースミマセンねえ」
「なんじゃあ? その態度は」
「謝ったじゃろ? もうそっちがうるさいわ」
「はああー?」
いやもう二人ともうるさい。
それに、間に挟まれた俺は、なんだかいたたまれない。川内だってそうなんじゃないだろうか。
そう思っていると、ふいに川内がこちらに振り向いた。
じっとその後姿を見ていた俺は、ばっちりと川内と目が合ってしまい、どうしようかとおろおろとすると、彼女は小さく会釈してにっこりと微笑んだ。
そこで、二時間目の予鈴が鳴り響いた。
「千夏ちゃん、先生来るよ」
慌てたように川内が尾崎に話しかけている。
尾崎はまた天井を仰ぎ見て、ため息とともに言った。
「はー、もう始まるんか」
「眠気、飛んだ?」
川内の穏やかな声がして、尾崎は振り向く。
そして口の端を上げると、「うん」と素直にうなずいて、前の黒板のほうを見るように座り直す。
俺の肩に、ちょいちょいと何か触れる感覚がしたので首だけで振り返ると、木下が顔の前に手刀を作ってひそやかな声で言った。
「悪ぃ、神崎。なんかイライラしてしもうて。うるさかったじゃろ?」
うん、うるさかった。とは言えなかった。
「いや、そうでもなかった」
「ほいならええけど」
そこで本鈴が鳴り、俺たちは黒板のほうに向く。
本鈴と同時に教室の前の扉がガラッと開いて、世界史の先生が入ってきた。
これは教室の外で待っていたのではないだろうか、とヒヤッとしてしまう。
「きりーつ」
日直の号令とともに、皆がガタガタと椅子から立ち上がる。
「礼」
「よろしくお願いしまーす」
「はい、よろしくお願いします」
「ちゃくせーき」
そしてまたガタガタと皆が椅子に座る音がする。
「出欠はー、空いとる席がないけえ、皆おるなー?」
「はーい」
そんないい加減な出欠確認から、二時間目の授業は始まった。
俺はふと、窓の外に目を向ける。
窓からは、校門の近くに植えられた桜の木が見えた。
今まさに満開で、俺は入学式のときのことを思い出す。
去年は確か、少し早めに満開になったのではないかと思う。まるで、入学式に合わせたかのように。
俺たちが通うこの広島県立高校は、山ノ神高校。高校名からして、山の上にあるのが丸わかりで、皆の気のせいかもしれないが、酸素が薄いともっぱらの評判だ。
標高が高いためか市の中心部に比べて気温が低く、例年、桜が咲くのは遅めなのだと聞いた。
ハラハラと舞い散る桜は、あの日まるで、俺たちの入学を祝っていたようだったけれど。
でも桜が本当に祝ったのは、川内だけだったのかもしれないな、と俺は前の席のまっすぐな黒髪を見つめながら、そんなとりとめのないことを思ったのだった。
教室に、そんな声が響いた。まだ一時間目の古典の授業が終わったところだった。
それを口にしたのは、尾崎千夏。
俺の前の前の出席番号の女子だ。
「千夏ちゃん、まだこれから二時間目だよ」
そう苦笑とともに答えたのは、尾崎が座る席のすぐ後ろの席にいた川内遥だった。
まだ二年生になったばかりなので、教室の座席は出席番号順になっている。なので俺の席はその後ろだった。
窓際なので、ずっとこのままでいたいと、二人とも思っているに違いない。もちろん俺もそう思っている。
「だって、すげえ眠いんじゃもん」
「暖かいけえね」
眉根を寄せる尾崎に向かって、川内はくすくすと笑いながら応えている。
尾崎が自分の机と川内の机を肘掛けのようにして腕を置き、片足を立てて足裏を椅子の端っこに置いて座っているのに対し、川内はきちんと前を向いて行儀よく座っている。
出席番号が前後とはいえ、この二人が仲がいい、というのは信じられない。
茶髪の先がほとんど金色になってしまっている尾崎と、まっすぐな黒髪の川内は、どう考えても別グループになりそうなのに、いつも二人で一緒にいる。
一年のときは川内は三組で、尾崎は二組だったから、二年になってから初めて同じクラスになって交流し始めたはずだが、まるで一年のときからずっと一緒にいた友だちのような雰囲気を醸し出している。
俺なんか、川内とは一年のときから同じクラスで出席番号が前後だったというのに、未だロクに会話もしていない。
もちろん、尾崎が女子で俺が男子という、どうしようもない違いがあるので、比べられるものでもないというのはわかってはいる。
わかってはいるが、情けない。
「やっべ、これ次の世界史、ぜってえ寝るわー」
天井を仰ぎ見て、女子とは思えない言葉遣いで大声を出す尾崎に、川内は困ったように首を傾げている。
いやこれ、女子と言い切っていいものだろうか? という疑問を胸に抱いたところで。
ふいに、俺の後ろの席から声が上がる。
「うるせえよ、尾崎」
後ろの席にいるのは、木下隼冬。こいつも確か一年のときは二組で、だから尾崎とは一年のときから同じクラスのはずだ。
「ああ?」
尾崎が眉をひそめて顔をこちらに覗かせる。
割と綺麗な顔立ちはしているけれど……やっぱり言動が女子じゃない。
実のところ、俺は少々ビビッてしまっているのだが、後ろの木下は慣れているのか意に介さない様子だ。
「声がでけえよ」
「あーあースミマセンねえ」
「なんじゃあ? その態度は」
「謝ったじゃろ? もうそっちがうるさいわ」
「はああー?」
いやもう二人ともうるさい。
それに、間に挟まれた俺は、なんだかいたたまれない。川内だってそうなんじゃないだろうか。
そう思っていると、ふいに川内がこちらに振り向いた。
じっとその後姿を見ていた俺は、ばっちりと川内と目が合ってしまい、どうしようかとおろおろとすると、彼女は小さく会釈してにっこりと微笑んだ。
そこで、二時間目の予鈴が鳴り響いた。
「千夏ちゃん、先生来るよ」
慌てたように川内が尾崎に話しかけている。
尾崎はまた天井を仰ぎ見て、ため息とともに言った。
「はー、もう始まるんか」
「眠気、飛んだ?」
川内の穏やかな声がして、尾崎は振り向く。
そして口の端を上げると、「うん」と素直にうなずいて、前の黒板のほうを見るように座り直す。
俺の肩に、ちょいちょいと何か触れる感覚がしたので首だけで振り返ると、木下が顔の前に手刀を作ってひそやかな声で言った。
「悪ぃ、神崎。なんかイライラしてしもうて。うるさかったじゃろ?」
うん、うるさかった。とは言えなかった。
「いや、そうでもなかった」
「ほいならええけど」
そこで本鈴が鳴り、俺たちは黒板のほうに向く。
本鈴と同時に教室の前の扉がガラッと開いて、世界史の先生が入ってきた。
これは教室の外で待っていたのではないだろうか、とヒヤッとしてしまう。
「きりーつ」
日直の号令とともに、皆がガタガタと椅子から立ち上がる。
「礼」
「よろしくお願いしまーす」
「はい、よろしくお願いします」
「ちゃくせーき」
そしてまたガタガタと皆が椅子に座る音がする。
「出欠はー、空いとる席がないけえ、皆おるなー?」
「はーい」
そんないい加減な出欠確認から、二時間目の授業は始まった。
俺はふと、窓の外に目を向ける。
窓からは、校門の近くに植えられた桜の木が見えた。
今まさに満開で、俺は入学式のときのことを思い出す。
去年は確か、少し早めに満開になったのではないかと思う。まるで、入学式に合わせたかのように。
俺たちが通うこの広島県立高校は、山ノ神高校。高校名からして、山の上にあるのが丸わかりで、皆の気のせいかもしれないが、酸素が薄いともっぱらの評判だ。
標高が高いためか市の中心部に比べて気温が低く、例年、桜が咲くのは遅めなのだと聞いた。
ハラハラと舞い散る桜は、あの日まるで、俺たちの入学を祝っていたようだったけれど。
でも桜が本当に祝ったのは、川内だけだったのかもしれないな、と俺は前の席のまっすぐな黒髪を見つめながら、そんなとりとめのないことを思ったのだった。