彼女のテレパシー 俺のジェラシー

 結局、スイカの種撒きは時期が遅いということで、見送ることになった。
 というわけで、俺たちは四人でひたすら畑に生えていた雑草を抜いている。
 なんだか俺が考えていた園芸部というものと、ものすごく違う気がするが、考えないようにしよう。

「スイカがー……」

 雑草を引っこ抜きながら、がっくりと肩を落とす尾崎に、川内が苦笑しながら言う。

「私もスイカは育てたことないけえ調べてみたけど、整枝とか受粉とかせんといけんみたいなし、よく調べて来年がんばろ?」
「うん……」

 尾崎はやっぱり、川内に言われるとなんでも素直にうなずく。

「でもネギって! お母さんは喜ぶかもしれんけど!」
「割と簡単じゃし、スイカ育てるのに土が良くなるんじゃって」
「スイカのためかー……」

 はあ、と大きくため息をついて、またブチブチと雑草を抜いている。
 もう何年も放置していたせいか、花壇とは比べものにならないくらいに、畑は雑草だらけだ。
 まずはここを畑として使えるようにするまでに、結構な時間がかかるような気がして不安になる。

「サボテン枯らしたお前がスイカとか、そんな難しそうなん育てられるんか?」

 笑いながら木下がそう言う。
 尾崎はその言葉に唇を尖らせた。

「クソムカつくわ」
「クソとか言うな。女じゃろうが」
「はああ? 男じゃ女じゃ言うな。差別じゃ!」

 また始まった、と川内と顔を見合わせて苦笑する。
 悲しいかな、じゃれ合いにしか見えないし、木下が尾崎に構って欲しそうにしか思えない。

 しかし。

「それに、どうせ女に見えてないんじゃろうに、うるさいわ」

 尾崎のその言葉に、木下はぴたりと動きを止めた。
 そして、バッと立ち上がる。
 それから、尾崎のほうに振り返った。

「な、なんよ」

 急なその動きに驚いたのか、尾崎は少し身を引いた。

「見とるよ」

 その言葉に、尾崎は動きを止めた。
 瞬きを繰り返し、木下の顔を呆然と見上げている。
 その視線を受け、木下の顔はみるみる真っ赤になっていった。本当に耳まで赤かった。

「ワシは、女として見とるで! バーカ!」
「は、はああ? バ、バカとはなんよ!」
「うるさい! ワシは帰るで!」

 真っ赤な顔のまま、木下は畑を横切っていき、そして置いてあったカバンを鷲掴みにし、そのまま校門に向かって走っていった。ジャージのままで。

 そしてあっという間にジャージ姿の木下の姿が見えなくなり。
 後にはあんぐりと口を開けたままの尾崎と、それをおろおろと見ている俺と川内が残った。

 どうしたらいいんだろう、これ。余計なことは言わないほうがいいんだろうか。けれど話を逸らすのもおかしいような気がする。

「な……」

 沈黙を破ったのは、尾崎だった。

「な、なにを言いよるんかね、あのバカは」

 はは、と半笑いでそう言う。
 川内がおろおろとしながらも、尾崎に向かって口を開いた。

「ち、千夏ちゃん、バ……バカはいけんよ」
「いや、バカじゃわ、あいつは。わけのわからんことを急に」

 急に言われてどうしたらいいのかわからない尾崎の気持ちもわかる。
 けれど、木下の気持ちを考えたら、やっぱり尾崎に同意はできなかった。

「いや、バカは言うちゃあいけん」

 だから、そう言った。

 尾崎はまだ混乱しているのか、俺の顔を見て、それから川内の顔を見て、そして辺りに視線をさまよわせて。
 そして右手で顔の半分を隠して、うつむいた。

「な、なんかよくわからんけえ」
「う、うん」
「……とりあえず、帰るわ」
「あ、ああ、うん……」
「じゃ、じゃあまた明日ね」
「うん……」

 ふらふらと尾崎は畑を出て行く。
 俺と川内は思わず顔を見合わせて、しばらく見つめ合ってしまった。

 いやこれ、本当に、どうしたらいいんだろう。
 それから少しだけ雑草を抜いて。

「……今日はここまでにしとく?」
「うん、もう帰らんと」

 腕時計を見ながら、川内がそう言った。
 ジャージから着替えるために、川内は更衣室へ、俺は教室に向かう。

 木下はジャージで帰ったけれど、大丈夫なんだろうか。今日はともかく、明日の朝はどうするんだろう、などと考えながら教室の扉を開くと。

「うおっ」

 教室には、木下がいた。帰ったのではなかったのか。
 木下はすでに制服に着替えていて、自分の机に突っ伏して、こちらに手だけを上げた。

「……おー……」
「帰ったんか思いよった」
「途中まで……帰ったんじゃけど、ジャージじゃったけえ、引き返してきた」
「あ……ああ、そうなんか」

 途中で、我に返った、という感じか。
 なんと声を掛けていいかわからず、俺はとりあえずジャージから制服に着替える。

「……ざき」
「うん?」

 小さな小さな声がして、そちらに振り向く。木下は机に突っ伏したまま、続ける。

「尾崎……なんか、言いよった?」
「ああ……」

 それは気になるだろう。
 けれど、バカだと言っていたことを聞かせてもいいものなのだろうか。

「ようわからんけえ、とにかく帰るって、少し前に帰っていったで」
「帰ったんは、知っとる」

 少し顔を上げて、教室の窓から外に視線を移す。
 そこから、校門を出て行く尾崎を見ていたのだろう。それで鉢合わせを恐れてここでしばらく潜んでおくことにしたのか。

「バカじゃ、言いよったろうが」
「えっ」

 まんまだったので、咄嗟に繕うこともできずに、固まってしまう。
 俺のその様子を見て、木下は小さく笑った。

「やっぱりの」
「いや……あれは、尾崎も混乱しとって、それしか言えんかったんじゃないんか」
「ほうかもしれんけど、バカには違いないわ」

 そう言って、大きく深いため息をつく。

「なんかわからんけど……スイッチ入ったみたいになって、勢いで言うてしもうた」

 いつもの元気な声ではない。すっかりしょげかえっているように見える。

「でも」

 俺の声に、木下は顔を上げた。
 だからといって、バカかと言われたらそんなことはないと思う。
 勢いというものは、きっとあるし、それがたまたまさっきのタイミングだったんだろう。

「俺からしたら、好きじゃって気持ちを口にした木下は、すごいよ」

 すごい。それは、嘘偽りない気持ちだった。
 俺の言葉に、木下はしばらく瞬きを繰り返し、そして小さく笑った。

「ほうか、すごいか」
「うん」
「じゃあ神崎も告白するか」
「いや、俺はタイミングを見計らう」
「ずりぃ」

 そう言って、木下は声を上げて笑った。
 よかった、どうやら少し、元気が出たようだ。やっぱり木下は元気なほうがいい。

「いうても、いいタイミングでいいこと言えるとも限らんよの」
「まあのう。それはようわかったわ」

 そしてまた、ははは、と声を上げて笑った。

           ◇

 それから二人で靴箱のところに行き、川内が来るのを待った。
 川内が更衣室から出てこちらに向かってくるのが見えた。彼女は木下の姿を見とめると、驚いたように目を開いたが、少ししてパタパタと駆け寄ってきて、にっこりと笑った。

「まだ帰ってなかったんじゃ」
「おお。悪かったのう、変な空気にしてしもうて」

 川内はふるふると首を横に振る。

「大丈夫よ」
「ほうか」

 そして三人で、校舎を出る。いつもより一人少ない帰り道だが、しゃべることはたくさんあった。

「私らは、どうしたらええ?」
「どうもせんでええよ」
「じゃあ、知らんぷりしとくで。木下はどうするん?」
「ああ……まあ……どうしようかのう」

 言いながら、頭を掻いている。
 本当に、どうしたらいいのかわからないのだろう。その気持ちは、わかる気がする。

 川内が、木下の様子を見て、おずおずと口を開いた。

「あのね」
「うん?」
「あのね、冗談だって誤魔化すのだけは、いけんと思う」

 確かに。木下の普段のキャラを考えると、笑いながら誤魔化す、という行動もあり得る。
 そして木下の中にその選択肢はあったようで、肩を落としてうなだれた。

「ほうか……ダメかのう」

 そのときふと、思い出したことがあった。

「あっ、前に姉ちゃんがそんなん言いよった気がするわ」
「えっ? お姉さん、なんて?」
「たぶん、今回のことと似たような感じなんじゃ思うんじゃけど……電話での? 『冗談? へえー、うん、わかった』って感じで、にこやかじゃったんじゃけど」
「うん」
「でも、電話切ったあと、『死ね!』ってスマホに向かって叫びよったわ……」
「怖え……」
「じゃけえ、俺も冗談で誤魔化しちゃいけんほうに、一票」
「肝に銘じとく……。でもまあ、なるようになれ、じゃわ」

 三人だけの帰り道は、けれどその中心にいるのは尾崎のような気がした。
 翌日、どうしたらいいんだろう、と思案しながら教室に向かう。

 部外者であるはずの俺がこんなに緊張しているのだから、当人たちは、いかばかりだろうか。

 教室に到着して、そしてそっと後ろの入り口から中を覗き込む。
 どうやら他の三人はまだ来ていなくて、俺が一番か、ますますどうしていいかわからない、とがっくりと肩を落とす。

 その肩に、ポンと手を置かれ、ビクッと身体が震えた。
 慌てて振り向くと、木下だった。

「おっ、おはよう」
「はよ。……つーか、なんでお前がそんなに緊張しとるんじゃ」

 眉根を寄せて、木下が言った。
 そんな風に言うものだから、木下は緊張してないかと思いきや、やっぱり落ち着かなく教室の中を覗き込んでいる。

「……まだ尾崎は来てないよのう」
「うん、まだみたいじゃ」
「ほうか……」

 そうして、そろりそろりと教室の中に足を踏み入れる。
 自分たちの席に着いても、まだ尾崎は来なかった。いつもなら、もう来ていてもおかしくない時間だ。

「そういや、尾崎とは家が近いんじゃないん?」
「ほうで。目と鼻の先じゃ」
「ほいなら、朝、一緒のバスじゃないんか」
「バスは一緒じゃけど、一緒には来よらん」
「へえ……」

 それなら普通に一緒に登校すればいいような気もするが、やはり並んで歩くのは抵抗があるのだろうか。
 幼馴染というのは、思ったよりも難しい関係性なのかもしれない。

「今日は、バスも違うみたいなかったけど」
「あ、ああ、そうなんか……」

 つまり、尾崎はいつものバスには乗らなかったのだ。
 あからさまに避けられている。
 これは本当に、木下に掛ける言葉がわからない。

 そんなふうにして、二人してソワソワとしている内。

「おはよう」
「……おはよー……」

 川内と尾崎が一緒に教室に入ってきた。

「お、おはよう……」
「はよ……」

 なるほど、そうきたか。
 たぶん、尾崎はいつもより早く来て、温室に向かったのだ。そして川内に助けを求め、こうして二人で教室にやってきた。

 これはなかなか、前途多難なのではないか。
 ギクシャクしながら、俺たちはそれでも挨拶を交わし、それぞれの席に着いた。

          ◇

 放課後までにはなんとかなるのだろうか、というか、昼飯はどうなるんだ? とモヤモヤと考えながら授業を受けていると。

 三時間目の日本史の授業のときだった。

 急に、教室の前の扉がガラッと開いた。
 日本史の先生も、ぎょっとしてそちらに振り向く。
 そこにいたのは、浦辺先生だった。

「授業中、すみません」
「いえ、どうされました?」

 先生同士でそう言葉を交わしたあと、浦辺先生はこちらのほうを向いて、声を張った。

「尾崎、すぐに用意せえ」

 うつらうつらとしていた尾崎が、はっとして顔を上げる。

「……えっ、はいっ」
「お母さんが病院に運ばれたそうじゃ」

 その言葉に、教室中の皆の視線が尾崎に集まる。
 尾崎は呆然として、瞬きを繰り返して浦辺先生の顔を見つめていた。

「携帯の電源、入れていいで」

 浦辺先生のその言葉に、尾崎は慌てたように、ポケットからスマホを取り出し、真っ青な顔色で電源を入れる。

「大したことはないらしいんじゃが、送ってってやるけえ、とにかく病院に行かんと。車回してくるけえ、校門に来い」
「は……はい」

 尾崎がうなずいたのを見ると、浦辺先生は日本史の先生のほうに振り返る。

「じゃあすみません、尾崎は早退ってことで」
「はい」

 そうして浦辺先生は教室の扉を閉める。
 途端に教室内はざわざわと騒がしくなった。

「はい、静かにー」

 日本史の先生はそう言うが、それでも皆、落ち着きはしなかった。
 そんな中、尾崎は慌てて、机の上を片付けている。

「あっ」

 机から尾崎の筆入れが落ち、バラバラとペンが散らばっていく。
 川内が慌てて席を立ち、それらを拾っていた。

「ご、ごめん。え、えと……あ、あと体操服」

 きょろきょろと辺りを見渡していて、尾崎が明らかに落ち着きをなくしているのがわかる。
 大したことはない、と浦辺先生は言っていたが、こうして呼び出しがあるくらいだ、それを鵜呑みにはできないのだろう。

 ふいに後ろの席から、ガタン、と音がした。

「尾崎」

 低い声で、木下が言った。
 その声に、尾崎はピクリと身体を震わせ、そして木下のほうに振り返った。
 ざわついていた教室が一瞬にして、しん、となるほど、木下の声はよく響いた。

「体操服なんかは、川内にまとめてもろうてワシが持って帰るけえ、ほっとけ」
「え……」
「教科書もぜんぶ置いてけ」
「あ……」
「じゃけえお前は、財布とスマホだけ持っていけ」
「う、うん」

 言われて、尾崎は自分の制服のポケットに財布とスマホが入っているのを確認している。

「焦るなよ。お前がコケてケガでもしたら本末転倒じゃ」
「うん」

 尾崎は次第に落ち着きを取り戻してきたように見えた。

「母ちゃんに連絡しとくけえ、なんかして欲しいことがあったら、遠慮せずに言え。尾崎のじいちゃんの迎えとかは、母ちゃんもできるけえ」
「うん」

 その頃には、尾崎はしっかりとうなずくようになっていた。

「わかったの。病院に着いて様子見て、時間があったらでええけえ、連絡せえ」
「うん」
「おばさんに、よろしくな」
「うん。ありがと、隼冬」

 尾崎は、はっきりとした声で、そう言った。
 その日の放課後、川内が温室内の世話をしている間、俺たちは畑の雑草を抜いていた。
 しかしふいに木下が立ち上がって、ジャージのポケットを探りだす。

「ワシ、途中で抜けるかもしれんわ」

 取り出したスマホを見ながら木下が言った。

「尾崎の母ちゃん、大事にはなってないみたいなんじゃが」

 尾崎から連絡があったのだろう。ほっと胸を撫で下ろす。

「そのまま検査入院するいうて言いよるけえ、じいちゃんの世話を尾崎一人でやらんといけん。うちの母ちゃんが手伝うみたいなけど、ワシも呼ばれたら行くわ」
「ほいなら今日は、帰ってもええで? 俺がやっとくし」

 そういうことなら、呼ばれたら、と言わずに家で待機していたほうがいいのではないか。

 しかし木下は首を横に振り、持っていたスマホをジャージのポケットにしまう。
 そして俺の前にしゃがみ込み軍手をはめて、また雑草を抜き始めながら、言った。

「いや、こういうときは、言われたら、でええんじゃ。あんまり先回りするんは良うない。いらんことするな、いうて言われるわ。母ちゃんはようわかっとるけえ、母ちゃんの言う通りにするんがええ」
「ほうか」

 木下の母親と尾崎の母親は、本当に仲がいいんだろう。そして似たようなことは今までもあったんだろう。それなら要領のわかっている人に従うのが一番いいのかもしれない。
 きっと、ご近所同士の助け合い、が成立しているのだ。

 しかしその場合、ご近所に頼る前に出てくるはずの人が一人、出てきていない。

「尾崎んち、お父さんおらんのか」

 俺がそう言うと、言いたいことはわかったのか、木下はうなずいた。

「尾崎んち、ちいと(ちょっと)複雑なんよの」
「そうなん?」
「尾崎んち、じいちゃんと、おばさんと、尾崎の三人で住んどるんじゃが、じいちゃんは尾崎の父ちゃんの父ちゃんなんじゃ」

 となると、じいちゃんという人は尾崎の祖父ではあるが、尾崎の母にとっては義理の父親か。
 と、雑草を抜きながら、頭の中で整理する。

「……尾崎のお父さん、亡くなっとるんか」
「いや、生きとる。浮気して出て行った」
「はあ?」

 いきなりとんでもない話が出てきて、俺は雑草を抜く手を止めて顔を上げる。
 木下は下を向いて手を止めないまま、口を開く。

「たまに、顔見せに帰ってきよるで。どのツラ下げて、って思うけどのう」

 浮気して出て行った、というだけでも信じられない話なのに、ときどき帰ってくる?
 何ごともなく平和な家庭で育ったからだろうか、どうにも上手く想像できない。まるで、ドラマの中の話のようだ。
 けれど、顔も見たことがない、その尾崎の父親には腹が立つ。

「信じれん」

 その怒りを目の前の雑草に当てることにして、ブチブチと引き抜く。
 それを見た木下は、ふっ、と小さく笑った。

「腹立つよのう」
「うん」
「尾崎も怒っとるけど……肝心のおばさんが、それでええみたいで」
「わけがわからん」
「そうは思うけど、口出しすることでもないけえ」
「うん……」

 他所の家庭のことなのだ。赤の他人の俺が怒る筋合いのことでもない。それはそうなんだろう。

 小さい頃から尾崎を見ていた木下は、もちろん今までも怒っていたのだと思う。
 けれど、余計な口出しは無用、と言われてきたのだろう。それもあって、先回りするのはよくない、と悟ったのかもしれない。

 行き場のない怒りを、俺たちはさらに雑草に向ける。今日は捗りそうだ。
 木下は、その間に、ぽつぽつと話す。

「じいちゃんは元気じゃったんじゃけど、ちょっと前にコケてしもうて、足の骨折ったんじゃ。それから一気に寝たきりになってしもうての」
「そうじゃったんか……」
「その世話で、おばさんは疲れとるみたいなかった(だった)

 だから、今回、病院に運ばれるようなことになってしまったのだろう。
 それこそ、実子である父親が、自分の親の面倒をみないといけないのではないか。

「おばさんは働きよるけえ、昼間はデイで見てもらいよるんじゃが」
「デイ?」

 耳慣れない言葉が出てきて、そう聞き返す。

「……ああ、デイサービスのことじゃ。昼間は介護施設で預かってもらうんじゃ。リハビリもしてくれるところなんと」
「へえー」

 知らなかった。俺は父方も母方も、どちらの祖父母も健在だが、元気だし、離れて暮らしているし、そういう知識がまるでない。
 介護は大変だ、ということはよく聞くし、そうなんだろうとは思っていても、実感としては伴っていない。

「お」

 木下がなにかに気付いたように顔を上げる。マナーモードにしていたスマホが震えたらしい。
 その画面を見て、木下は立ち上がる。

「なんかあったん?」
「母ちゃんが買い物して帰れって言うけえ、帰るわ」
「ああ、うん」

 なるほど。確かに、家に帰って待機しているより、学校からの帰り道に寄ってくれ、ということがあるか。
 余計なことはせずに指示待ちしているほうがいいときもあるのは確かなようだ。

「ほいじゃあの」
「うん、気を付けてな」

 俺がそう言うと、木下は口の端を上げた。

「二人きりじゃ。よかったの」

 俺はその言葉に、眉をひそめる。

「さすがに、よかったとは思わんわ」

 そう言うと、木下は少し下を向いて、小さく笑った。

「ええヤツでよかったわ」
「普通じゃ」
「ほうか。ほいならええヤツついでに言うんじゃけど、ワシが今日、いろいろしゃべったこと、内緒にしといてくれえや」

 おどけたように尻を突き出して、人差し指を唇に当てて言う。小さく笑いが漏れた。

「うん、わかった」
「ほいじゃあの」

 そうして、今度こそ、木下は踵を返して帰っていった。
 翌週の月曜日になって、尾崎は教室に姿を見せた。
 さすがに皆、心配していたのか、尾崎は次々と声を掛けられていた。
 川内と一緒に入ってきたのだが、その様子を見て川内だけが離れて自分の席に向かってくる。
 尾崎を取り囲んだクラスメートは、我先にと口を開いた。

「お母さん、大丈夫じゃったん?」
「うん、大したことなかったんよ。でも、倒れたんが会社じゃったけえ、慌てて他の人が救急車呼んだみたい」
「へえー」
「すぐに退院したし、もう大丈夫」
「よかったね」
「うん、ありがと」

 そんな風に笑いながら、軽く言葉を交わしている。
 その様子を見るに、本当に大したことはなかったのだろう、とほっと安心した。

 昼休みに四人でお昼ご飯を食べている間も、「もー、びっくりしたわー」などと言いながら、軽い調子で話をしていたから、特に心配することはなさそうだと思った。

 けれど、食べ終わったあと、尾崎は立ち上がって、俺に言った。

「神崎。温室行こ、温室」
「えっ」
「早う」

 急かされて立ち上がる。けれど川内も木下も、座ったままだった。

「俺だけ?」
「そう、特別」

 ウインクしながら、おどけたようにそう言う。
 川内と木下に振り返るが、二人ともまるでそれが普通のことみたいに、特に驚いた様子もなく、座っている。

「ていうか、木下にはもういろいろ話したし、ハルちゃんにも話した。あとは神崎だけ」
「ああ、うん」

 木下は家が近所なのだから話す機会もあっただろうし、川内は朝一緒に教室に入ってきたのだから、朝一番に話したのだろう。

 尾崎と二人して教室を出る。
 階段を下りながら、尾崎は言った。

「ちょっと込み入った話もあるけえ、教室はね」
「ああ、なるほど」
「コクられるか思うた?」

 こちらに首だけで振り向き、にやりと笑ってそう言う。

「コクってくれるん?」

 首を傾げてそう返すと、あはは、と声を出して笑ってくる。

「残念じゃったね、違うわ」
「ほうか」

 それはそうだろう。
 尾崎もきっと、木下のことが好きなのだ。自覚しているのかしていないのかはわからないけれど、きっとそうなのだ。

 あのとき、尾崎は「ありがと、隼冬」と名前を呼んだ。たぶん二人は、子どもの頃は、名前で呼び合っていたのだろう。
 それが思春期やらなにやらで、いつの間にか離れていって、目と鼻の先の二人の家から同じ高校に通うのにも、別々に通うようになってしまった。

 なかなか面倒そうな関係ではあるが、でも今また少しずつ動き始めているのだ。

 俺という存在は、そういう二人に割り込めるような人間ではない。
 それになにより、俺には好きな人がいる。なんとなくだが、尾崎はそれに気付いているのではないだろうか。

 先を行く尾崎が、ポツリと言葉を発する。

「ウチ、温室、好きなんよね」
「うん」
「なんか、心穏かになるっていうか」
「わかる。落ち着く」
「たぶん、ハルちゃんが世話しよるけえじゃわ」

 小さく笑いながら、そう言う。
 そう言われるとそうかもしれない、と思う。暖かくなってきて、温室はポカポカと気持ちいいものから、少し暑い場所になりつつあるけれど、それでもやっぱり居心地がいい。

 温室に到着して、尾崎は川内に借りたのであろう鍵を取り出し、南京錠をガチャガチャとやって、その扉を開けた。
 温室の中に入ると、やっぱり少し暑くて、俺たちは専用の長い棒を使って天井の窓を開けたり、ファンを回したりする。
 それから、いつものように尾崎は木製のベンチに座り、俺は折り畳みのパイプ椅子を広げて座った。

「ごめんね、来てもろうて」
「いや」

 それから少しの静寂があって。
 尾崎はおずおずと口を開いた。

「あのね、お母さんは、本当に大したことなかったんじゃ。なんていうか、ちゃんと病名がつかん(つかない)っていうか」
「え?」
「貧血だったり寝不足だったり、自律神経? が乱れとるとか、そういうのがいっぱい重なっとって。一言で言えば、疲労、なんよね」
「それは……大したことは……あるじゃろ」

 俺がそう言うと、尾崎は小さく笑った。

 仕事をして家事をして介護をして。その疲れが一気に出たということなのだろう。
 すぐに命に係わることではないとしても、のほほんと毎日を過ごす俺からしたら、やっぱり『大したこと』のように思える。

「ほうよね。じゃけえウチ、しばらく部活は休んで、お母さんを手伝おうと思うんじゃ」
「……うん」

 そういうことなら、仕方ない。仕方ないけれど、やっぱり寂しい。
 なんと言えばいいのかわからなくて、俺は曖昧に返事をするしかできない。

「ウチんち、ちょっと複雑でさ」
「うん」

 素直にうなずいた俺に、尾崎は顔を上げる。そして驚いたように言った。

「聞いとった?」
「あ、いや、……あの……」

 しまった。木下と、聞いたことは言わないと約束していたのに、知らないフリができなかった。
 しかし尾崎は苦笑しながら言う。

「いや別に、ええんじゃけど」
「ごめん……」
「じゃけえ、ええって」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら笑う。

「まあ、部活を休むいうても、そう長うはないわ。じいちゃんが施設に行くまで。施設の部屋の空きが出るまでよ」
「ほうなんか」
「じいちゃんは寝たきりじゃし、施設に預けようって話はずっと出とったんよね。お母さんが倒れて、ほいで今回、それが具体的に進みだしたいうか。じいちゃんが施設に行くまで、それまでの辛抱」
「ほうか」

 そういうことなら、とほっと息を吐く。終わりの見えない介護、というわけではなさそうだ。
 ただ、尾崎のじいちゃんは嫌かもしれない。だからここまで施設に預けなかったのかもしれない。でももう倒れるまでがんばったんだから、十分だろう。

「じいちゃんもそうしたがっとったけえ、なんか皆、安心しとる。むしろええほうに進んだ感じよ」
「へえ」

 介護施設に行くのを嫌がる老人は多いと聞くので、少し意外だった。

「だって、お母さんは女で、じいちゃんは男じゃろ? 下の世話とか、お互い、嫌じゃん。知っとる人間より、介護の専門家のほうが抵抗はないわ」
「……なるほど」

 たとえば自分が入院して、下の世話をしてもらうとしたら、母ちゃんや姉ちゃんにしてもらうのは、絶対に嫌だ。看護師さんなら女性でも、なんかそういうものだと思える気がする。

「それに、じいちゃんもお母さんに申し訳ないって言うし」
「ほうか」

 尾崎のじいちゃんは、尾崎のお母さんとは血の繋がりがない。さらに、お母さんの夫であるじいちゃんの息子は、浮気して出て行ったという体たらくだ。
 いろいろと申し訳ないと思うものではあるだろう。

「なのにお母さんが、家で見たほうがええんじゃないか、いうて躊躇しとって、それでここまで伸びたんよ」
「お母さんが?」
「お母さんはじいちゃんに、遠慮はせんで(しないで)くださいって言うんよ。家にいたいんなら、いいですから、って言いよったんじゃけど、さすがに倒れちゃあねえ」
「尾崎のお母さん、優しいな」

 そう言うと、尾崎は小さく笑った。

「どうかねえ。優しいんかねえ」
「まあ……改まってそう言われると……」

 結局、自分も倒れることになって。尾崎も部活を休まなければならなくなって。そして尾崎のじいちゃん自身にも、申し訳ないと言わせてしまった。
 優しさとは、少し違うのかもしれない。

「意地になっとったんじゃないかね」
「意地?」

 そう聞き直すと、尾崎はベンチに座って投げ出していた足をプラプラと振りながら、ゆっくりと口を開いた。
「お母さん、じいちゃんには恩があるんと」
「恩……」
「ウチを産んだときにね、母方のじいちゃんもばあちゃんも、ほいで父方のばあちゃんも、皆ね、『ありがとう』って言ったんだって。それが引っ掛かっとったみたいで」
「うん?」

 『ありがとう』のどこが、おかしいのだろうか。自然に出る言葉の気がするのだが、違うのだろうか。
 よくわからなくて、首を傾げる。
 その様子を見て、尾崎は苦笑しながら続ける。

「でも、じいちゃんだけが、『おめでとう』って言ったんだって。それで、この人の世話は私が一生する、って決めたんだって」
「……ごめん、ようわからん……」

 俺は素直にそう訊いてみる。

「ありがとう、いうのがいけんってわけじゃないとは思うけど、でも、おめでとう、のほうが嬉しかったんだって。それだけじゃないけど、それが一番心に残っとるんだって」
「ふうん……」

 けれど返ってきたのは、やっぱりよくわからない説明だった。もしかしたら、大人になったらわかることなのだろうか。
 首をひねる俺の肩をポンと叩き、尾崎は笑った。

「まあまあ。神崎も、いつか孫が生まれるときのために、『おめでとう』って言ったほうがええって、覚えとったらええわ」
「忘れとる気がする……」

 眉根を寄せる俺の顔を見て、尾崎はまた、あははと笑った。

「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは、意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」
「えっ」

 噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親。

「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」

 この場合、クソって言うな、とは、木下も言わないのではないだろうか。

「ほいでね、離婚するって」

 言っていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。

「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」
「今すぐ、じゃないんだ」
「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」

 そう言って、また尾崎は足をプラプラと振っている。
 俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。

「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」
「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」
「なんか……それはそれで腹立つな」

 そのお母さんの意地のために、尾崎は振り回されてきたのだ。
 尾崎も怒っとるけど、と木下は言っていた。ならば尾崎自身は離婚に賛成の立場だったのではないか。

 眉根を寄せる俺を見て尾崎は口の端を上げる。それから覗き込むようにして俺の顔を見てきた。

「なに? ウチのために怒ってくれとるん?」
「そんな高尚なんじゃないけど」

 こちらに身を乗り出す尾崎から逃れるように、慌てて身を引く。それを見て尾崎は、また笑った。
 完全に、からかわれた。
 少しだけ唇を尖らせて抗議の姿勢をとっても、まったく堪えていないのか、尾崎はくつくつと笑うだけだ。

 そしてふと、自分の腕時計に視線を落とすと、尾崎は言った。

「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」
「え?」
「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」

 そう言って、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。

「ここまでは、木下にもハルちゃんにも言うたんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」
「え、なに?」

 さきほどまで、自分の感情をごまかすかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。

「お願いが、あるんじゃ」
「お願い?」

 俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりとうなずいた。
 まっすぐに俺を見て、尾崎は続ける。

「そういうわけで、ウチ、しばらく園芸部に来れんかもしれんけえ、ハルちゃんと一緒におってあげて」
「え?」

 川内?

「あの子、ほっといたらイジメられるかもしれんけえ。ウチのこと、庇ったことがあるんよね。それで先輩に目を付けられとる」

 庇ったことがある?
 先輩に目を付けられている?
 それで、イジメられるかもしれない?
 川内の姿を思い浮かべてみる。けれど、どうもそういうものと結びつかない。

 たとえば、相手がクラスメートとかなら、気に入らないという理由で無視されたり、ということはあるかもしれない。川内は大人しいし、俯きがちだし、おどおどしすぎだから、悲しいかな、イジメの標的になるかもしれない、という気はする。
 幸い、今は気の強い尾崎がべったりとくっついているし、うちのクラスは全体的にのほほんとした雰囲気だから、その心配はなさそうだ。

 けれど、尾崎は先輩からのイジメを心配している。

「なにをやらかして(しでかして)目を付けられとるん?」

 なので、そう訊いてみた。

「二年になってすぐなんじゃけど、ウチらの教室の階のトイレね、全部埋まっとって」
「はあ?」

 いきなり話がすっ飛んだ気がする。なんでここでトイレ?

「それで、三年の階のトイレに行ったんよね。そしたら、中で捕まって。『ウチらの階のトイレ使いんさんな』って」
「……いや……ちょっとよく……」

 なぜ三年の階のトイレを使ってはいけないんだ? 意味がわからない。
 俺の言葉にクスクスと笑いながら尾崎は続ける。

「なんか、女子の間では、なんとなく決まっとるんよね。他の階のトイレ使っちゃいけんって。でもウチ、我慢できんくてさあ」
「……はあ」
「おまけに髪とか染めとるけえ、『生意気』じゃって言われて、囲まれて」

 怖い。
 のんびりした高校だと思っていたのに、そんなことがあるなんて。

「ほいでハルちゃんは、ウチが別の階のトイレに行こうとしよるのを見とったらしくて、心配になって付いてきたんと」

 たぶん尾崎は、「わー、トイレ空いてなーい! 下行こー!」とか大げさに騒ぎながら移動したのではないだろうか。簡単に、想像できる。
 それを見た川内が、心配になって、後をそっとついていった。それも、なんとなく、想像できる。
 そしてなかなか出てこないことに不安になった川内が、中を覗き込むと。
 尾崎が三年の先輩たちに囲まれていた。

「あんな小さくて、大きな声も出せんような子がね、ブルブル震えながら、『先生呼びますよ!』って」

 くすくす笑いながら尾崎が言う。

「ほいで、すれ違いざまに先輩らが、『覚えときんさいよ』って言ったんよ。じゃけえ、ウチ、ずっとハルちゃんと一緒におったんよね。なんか申し訳ないじゃん?」

 それで、系統がまったく違う二人が、ずっと一緒にいるようになったのか。
 尾崎は部活まで付き合って、園芸部員になったのか。サボテンを枯らしたような女の子が。

「そんな経緯があったんか」
「そう。ハルちゃんは最初は遠慮しとったけど、まあなんか、ウチもあの子の傍は居心地がええんよね。ハルちゃんはどうかわからんけど」

 そう言って、尾崎は肩をすくめる。

「いや」

 だから、俺は言う。

「川内も、尾崎の隣が居心地がいいみたいに、見える」

 俺の言葉に、何度か目を瞬かせた尾崎は。
 口を笑みの形にして、そして小さく「うん、ありがとね」と言った。
「まあもう時間も経っとるし、大丈夫なんかなって気はするけど、やっぱり誰かに傍におってもろうたほうが、安心なけえ」
「尾崎って」
「うん?」
「過保護な姉みたいよの」

 前々から思っていたことを、口にしてみる。
 言われてまんざらでもなかったのか、尾崎はふふんと鼻を鳴らした。

「ま、ウチはしっかりものじゃし?」
「そういうことにしといてもええけど、疑問は残るのう」

 ニヤつきながらそう返すと、尾崎は少し唇を尖らせて、返してきた。

「タカちゃんは意地悪なねー」

 ふいにそう言われて、思わず頭を下げて顔を隠した。

「……忘れとったのに……」

 くそ、姉ちゃんのせいだ。
 あはは、と笑いながら、尾崎は何度も俺の肩を叩く。

「まあまあ。とにかく、ウチのお願い、聞いてくれる?」

 そう言われて、ゆっくりと顔を上げる。
 尾崎は穏やかに微笑んで、こちらの返事を待っている。
 けれどきっと、答えはわかっているのだ。

「うん」

 俺はうなずいた。

「うん、大丈夫。なるべく近くにおるけえ」
「ほうね。ほいなら安心じゃわ」

 そう言って、ほっと息を吐いた尾崎だったが、なにかに気付いたようにこちらに顔を向けた。

「あ、トイレにまで付き合わんでもええんよ」
「当たり前じゃろ!」

 いったいなにを言い出すのか。
 慌てふためく俺を見て、尾崎はまた楽しそうに笑う。
 そして腕時計をもう一度見て、立ち上がった。

「時間じゃね。はあー、たいぎい(かったるい)わ」

 俺も立ち上がって、パイプ椅子を畳んで片付ける。
 温度計を見るとちょうどよさそうだったので、窓はそのままにして、そして二人で温室を出た。

 そして教室までの道のりで、ぽつぽつと話をする。

「名字が変わったら、尾崎って呼べんな」
「じゃあ、千夏って呼ぶ?」

 からかうように、そう言ってくる。

「ううーん……」

 名前呼びはさすがにちょっと、抵抗がある。
 なんというか、気恥ずかしいというか。

「ほいでもウチは、どうせ何年かしたらまた名字が変わるじゃろ。じゃけえ、なんでもええよ」

 ああ、なるほど。いつか結婚したら、また名字が変わるかもしれないのか。
 ふいに、からかいたくなって、こう言った。

「木下、に変わるかもしれんよ」
「さあ、それはわからんけど」

 そう言って、尾崎は微笑む。
 からかいは不発だったようで、特に恥ずかしがることもなく、穏やかな返事だった。

 わからない、か。
 絶対にない、ではないんだな、とちょっと温かな気持ちになった。

 俺のそういう思いに気付いているのかいないのか、横にいる尾崎は続ける。

「まあでも、離婚をここまでせんかったのは、良かったんかもしれん」
「え? なんで?」
「お母さんの旧姓、村上、なんよね」
「うん」
「そしたら、ウチらの出席番号、四人並べんかったじゃん?」
「ああ」

 なるほど。
 もしも尾崎が村上だったら、四人がここまで仲良くなっていなかった可能性もあるのか。

「なんでも、良し悪し(わるし)なんかもしれんねえ」
「うん」

 そんなことを話しながら、俺たちは教室への道のりを歩いたのだった。