「今の私は克也の気持ちには応えられないよ」
克也の気持ちはとても嬉しかった。
でもダメなんだ。
「どうしてだよ?」
「私の病気のこと、もう知ってるでしょ。私は男の子と付き合う資格ないんだ」
克也の顔をまともに見られなかった。
「違うだろ?」
「え?」
「分かるよ。他に好きなヤツができたんだろ?」
私は思わずたじろいだ。
「お前、本当に分かりやすいな。まあ、俺もそんなところを好きになったんだけどな」
どうして?
そんなに私って分かりやすいのかな?
「さっきのハルってやつか?」
やっぱり聞こえてたんだ。
克也はカンがいいからな。
「うん」
ヤケに素直に頷いてしまった自分にびっくりする。
「そいつのこと、本気で好きなのか?」
「うん」
しまった。
また素直に答えてしまった。
これ以上克也を傷付けたくないのに。
でも克也は私を見ながらほっとしたように笑っていた。
「よかった。本気で好きなヤツができたんだな」
「どういう意味?」
「お前、付き合ってる時も俺のこと本気で好きじゃなかっただろ」
その言葉は私の心にナイフにようにグサリと刺さった。
「そ・・・そんなこと無い・・・」
そう言いかけたが言葉が止まった。
そうなんだ。
私は克也から告白されて付き合うようになった。
悪い人ではないと思ってい付き合ったが、特別な感情も持つことはできなかった。
だからフラれた時もそんなにショックはなかった。
そんな中途半端な気持ちが克也に伝わったからフラれたのかもしれない。
「ごめん」
「いいさ。俺もすっきりした。本気で好きなやつができたならしようがないな。最初にフッたのは俺の方だし、ずっと引きずってたんだ」
「ごめん」
「そう何度も謝るなよ。なんか情けなくなるだろ。でもハルってどこのやつだよ?」
そうか。ハルって言っても克也は分からないんだ。
正直に彼のことを話そうか。
しばらく迷ったが、結局笑いながら誤魔化した。
「まあ、いいや。で、そいつには好きって言ったのか?」
私は黙って首を横に振った。
そう言えば私は彼に自分の気持ちを伝えたことがなかった。
「じゃあ、そいつに好きって言われたのか?」
今度は黙ったまま縦に振った。
そうだ。彼は私を好きだって言ってくれたんだ。
「なんだよ。そいつから告られてるのか。じゃあ、もう付き合ってんのか?」
「付き合ってないよ。私、断ったから」
「はああ? 悪い、お前の言ってること意味わかんねえ!」
私も自分で何を言っているのか分からなくなった。
「だから、付き合えないってその人に言っちゃったの」
「なんだそれ? 何考えてるんだよ? そのハルってやつのこと好きなんじゃないのか?」
私は答えに詰まったまま、目を窓の外に逃がした。
うーん。確かに私は何を考えているんだろう?
「やっぱり自分の病気のこと、気にしてるのか?」
「それもある・・・かな? でも一番はそれじゃない・・・かな?」
「ああああ、めんどくせえ! スズメらしくねえなあ!」
克也はやりきれないような顔をしながら叫んだ。
克也はハッキリしないのが嫌いなんだった。
「ううん。これが私だよ。素直じゃないんだ」
「分かった。俺が何とかしてやる。誰だよ、そいつ?」
「いいよ、余計なことしなくて。私は平気だから」
「じゃあ、なんでさっきあんなに寂しい顔してたんだよ」
やっぱり見られてたんだ。克也はやっぱり鋭い。
「見てたの?」
「お前のことはずっと見てるよ」
辛い言葉だった。
「ごめん」
「だからもう謝るなよ」
「ありがとう。でも本当にもういいんだ。彼は私の病気のことだってこと知っちゃったし、私のこと重荷になると思う」
「俺は、お前のこと重荷だなんて思ってなかったぜ」
「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないよ・・・」
ダメだ。これ以上は何を言っても克也を傷付けてしまう。
やっぱり私って酷い女だ。
「素直になれよ」
――え?
「本気で好きなら素直になれよ」
何も言えなかった。
そう、私は素直じゃない。
「俺、帰るわ」
克也はすっと立ち上がると出口へと向かった。
ドアに手を掛けると私のほうを振り返りフッと笑った。
「俺、やっぱりスズメが好きだ!」
克也の優しい目がさらに辛さに拍車をかける。
「ありがとう・・・・・」
克也の目があまりにも眩しくて思わず目を逸らした。
「な、俺はスゲエ素直だろ!」
克也はそう言うとすっと手を挙げて病室を出て行った。
気がつくと目に涙が溢れていた。
ありがとう克也。
私は心の中でもう一度呟いた。
私は何をグズグズ考えていたんだろう?
そうだ、もっと自分に素直になろう。
自分の気持ちに素直になればいいんだ。
何か黒いモヤのようなものがサアっと晴れた感じがした。
病気のことなんてどうでもいい。
素直に思う。
私はハルに逢いたい。
ハルと一緒にいたい。
それだけなんだ。
私はベッド脇のサイドテーブルに放っておいた携帯に手を伸ばした。
彼女のお見舞いに行った日からあっという間にひと月が経とうとしていた。
新学期が始まってから彼女は一度も学校に来ていない。
彼女のことは忘れようと思ってはいたが、やっぱり気になった。
病気、良くないのだろうか?
そんなに長い入院ではないと聞いていたので、不安な気持ちが膨らみ始めていた。
そんなある日、携帯の呼び出し音が鳴った。
音声通話の呼び出しは珍しいので、その音に思わずびっくりしてしまった。
誰からだろう、と携帯に表示された文字を見た。
僕は思わず動揺する。
画面には携帯を新しくしてから初めて彼女の名前が表示されていたのだ。
――え? 彼女から?
僕は嬉しさで慌てながら受信ボタンを押した。
しかし、携帯から聞こえてきた声は彼女のものではなかった。
僕は約束の時間よりも一時間ほど前に待ち合わせ場所に指定されたカフェに来た。
店のドアを開け、店内に入ると迎えのウエイターから人数を訊かれる。
待ち合わせであることを場慣れしない口調でたどたどしく伝えていると、店の奥で手を挙げてこちらに合図する女性を見つけた。
電話をくれた彼女のお母さんだ。
前に会った時も思ったが、とても綺麗な人だ。
彼女はやはりお母さん似だ。
まさか、先に来ているとは思わなかった僕は虚を突かれ、心を落ち着かせる時間を失った。
「すいません。お待たせしてしまって」
「何を言ってるの。まだ待ち合わせ時間の一時間も前よ。読みたい本があったから早めに来て読んでいたの」
お母さんはここに座ってと誘導するように向かい側の椅子に手を差し向けた。
「久しぶりね、冴木君。何飲む? ここのハーブディーはお勧めなの。ケーキもなかなかよ」
程なくウエイトレスがやってきて、僕はお母さんが勧めてくれたハーブティーを頼んだ。
ウエイトレスが席を離れたあと、しばらく沈黙が続いた。
重苦しい雰囲気に苦しくなる。
何か喋らないと・・・そう思いながらどんどんと焦りが加速する。
「あの、あの時は・・・葵さんを学校から連れ出してしまって本当にすいませんでした」
今、僕からできる会話は謝ることだけだった。
「ごめんなさい、冴木君。そのことで謝るのは私たちのほうだったのね」
お母さんの予想外の言葉に僕は戸惑った。
「あの日、学校抜け出して外に行こうって言い出したのは涼芽のでしょ」
「え?」
お母さんの悪戯っぽい笑顔も彼女に似ている。
「本人が言ってたわよ」
「葵・・・さんが?」
お母さんの僕を見つめるその目に委縮して思わず視線を逸らした。
「あなたって本当に嘘がつけない性格みたいね。最初は涼芽があなたを庇って言ったのかとも疑ったけど、あなたを見てたらどっちが本当かすぐに分かったわ」
「いえ。確かに最初は彼女から言い出したことですけど、最終的に行こうって言ったのは僕なんです。本当です。結局、僕が優柔不断なせいで彼女を危ない目に・・・」
「涼芽の言う通り人ね」
「え?」
「あなたは何でも自分のせいにしちゃうのかしら? 涼芽もね、嘘をつくのが昔からものすごく下手なの。あからさまに顔には出ないけど、雰囲気で分かるのよね」
そう言われると、彼女は雰囲気が違って見えることが時々あったっけ。
「今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あの子が入院したのはあなたのせいではないから」
僕のせいじゃないって、どういう意味なんだろうか?
お母さんは手に持っていたティーカップをテーブルの上に置いた。
「学校にはまだちゃんと伝えてなかったんだけど、あなたと涼芽が一緒に海に行った日にはあの子はすでに入院してたのよ」
「入院してた・・・・・?」
お母さんの言葉の意味がすぐに理解できなかった。
「あのころ、身体の調子があまり良くないからって、病院に検査に行ったの。そうしたらその検査の結果が良くなくて、すぐ入院になってしまって」
そう言えば彼女と最後に教室で話をした日、確かに様子がおかしかった。もしかして、その日に病院で検査をしたのかもしれない。
「入院がどれくらい長くなるか分からないってお医者様に言われてしまって、ちょっと落ち込んでしまって・・・。だから春休みに入る前に一日だけ学校に行けるように病院から外出許可をもらったの」
「一日だけ?・・・」
「そう。みんなに会いたいからって一日だけでいいから学校に行かせてくれって、あの子きかなくってね」
あの日はそんな貴重な一日だったんだ。
それなのに学校をサボって僕なんかと・・・。
僕は後悔と彼女に対する罪悪感でいっぱいになった。
「あら、そのペンギンのストラップ・・・」
お母さんが僕のカバンに付いているペンギンのストラップを見つけた。
海に行った時に彼女と一緒に買って交換したストラップだ。
「これ・・・ですか?」
「涼芽も同じもの持ってるわね。もしかして一緒に買ったの? あの子もすごく大切にしてたわ」
――え?
嬉しかった。
こんなもの、もうてっきり忘れられてると思っていた。
「やっぱりそうだったのね・・・・・」
「え?」
何がそうだったのだろうか?
お母さんの言っていることも彼女に負けずに分からないことが多い。
ウエイトレスが注文したハーブティーを僕の前に置いた。
僕はそのカップをゆっくりと口へと運んだ。
緊張のせいで喉が乾いていたせいだろうか、僕はハーブティを一気に飲みほした。
ハーブティーの熱さが喉に染みた。
「冴木君、あなたにお願いがあるの」
「お願い・・・ですか?」
改まったその言葉にちょっと驚いて身構える。
「これからもあの子の・・・涼芽のそばにいてあげてくれる?」
あまりにも想定外の言葉だった。
僕はもう彼女に会わないと決めたし、大体、僕は彼女にフラれているのだ。
お母さんはきっとそのことを知らないんだろう。
「すいません。僕はもう彼女には会えないんです」
「ごめんなさい。この前は二度と会うなとか言っておいて、勝手な話だとは分かってるの。でもお願いしたいの」
「すいません。そういうことじゃないんです」
お母さんは不思議そうな顔で僕を見つめた。
僕はお母さんに今までの彼女とのことを話した。
彼女が僕の告白を手伝ってくれたこと。
初めてのデートで途方に暮れていた僕に、デートの練習に付き合ってくれたこと。
そして、彼女に告白してフラれたこと・・・・・。
お母さんはずっと黙ったまま僕の話を聞いてくれていた。
「だから、僕が行くと彼女は迷惑がると思います」
お母さんは俯いたまましばらく考え込んでいた。
僕は残っていたハーブティーをゆっくりとすすった。
「冴木君。あなた、涼芽のこと、好き?」
余りにも唐突な質問に口に含んでいたハーブティーを吹き出しそうになる。
「好きです・・・・・」
慌てた分、僕は素直に答えてしまった。
お母さんはホッとしたように口を緩めて静かに微笑んだ。
「よかった。涼芽もあなたにとても逢いたがってる・・・・・」
「え?」
そんなはずはないだろう。
僕のお母さんの言葉を素直に受け入れられなかった。
「冴木君。あなたに聞いておいて欲しいことがあるの。あの子の病気のことで」
「病気?・・・」
「あの子はね。生まれつき心臓が弱いの。もしかしてあの子から聞いてる?」
「心臓があまり良くない悪いってことだけは」
でも、それほど大きな病気とは考えたことはなかった。
とてもそんな重い病人のようには見えなかったし。
「あの子は心臓の弁膜の病気でね。小さい時から病院の入退院を繰り返してたの」
お母さんは彼女の病気について話し始めた。
彼女は心臓弁に癒着があるという病気で先天性のものであるということ。手術がとてもに困難な場所であること。
「あの・・・それって命にかかわる病気なんですか?」
お母さんは黙ったまましばらく考え込む。
答えを聞くのが怖かった。
「あの子の心臓はいつ発作を起こすか分からない状態なの。身体の中に爆弾を抱えているようなものね。高校に入ってからしばらくは安定していたんだけど、最近また発作を起こすことが多くなってね」
「爆弾って?・・・・」
にわかには信じられないような話に僕は言葉が詰まった。
「まだ涼芽が幼い時にお医者様から宣告を受けてたの。あの子の心臓は身体の成長に耐え切れないだろうって。その時は中学生になるまでは生きられないだろうって言われてた。でも何とか今まで頑張ってこれた。これからは、あとどれくらい生きられるか・・・・・」
たんたんと話をするお母さんに困惑する。
現実として素直に頭に入ってくる内容ではなかったので気持ちの整理に時間がかかっていた。
「この前の検査では予想以上に心臓に負担がかかってきているのが分かって、もう手術が必要だって先生に言われたの」
「手術するれば治るんですか? 治るんでしょ?」
お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「心臓の弁膜の手術はとっても難しいの。成功率はかなり低いらしくてね。だから手術する決断がなかなかできなかった・・・・・。もし失敗したらって考えちゃって」
「あの・・・もし、手術をしなかったら、どうなるんですか?」
お母さんはまたしばらく黙って俯いた。
「このままだと、いつ大きな発作が起きるか分からない。あの子の心臓は遅かれ早かれダメになる。だからもう手術するしかないの。来るべき時が来たってことかしらね」
彼女の心臓がダメになる・・・・・?
その意味を深く考える前にその言葉を拒絶した。
僕に・・・・・僕にどうしろって言うんだろう?
僕に何ができるのだろう?
「手術って・・・いつですか?」
お母さんは小さく横に首を振る。
「まだ分からない。でも早いうちにしなければならないと思う・・・」
「でも手術が失敗したら・・・」
僕は慌てて言葉を止めた。
僕は何を言っているんだ。
「葵さん・・・・このことは?」
お母さんはゆっくりと頷いた。
「あの子にはきちんと話をしてるわ。もう手術をしなければ駄目なこと。そして、その手術はとても難しいってことも」
彼女の笑顔はいつも眩しかった。
とても不思議だったが、その理由が分かった気がした。
彼女は自分の持っている時間がとても貴重なものだと分かっていたんだ。彼女にとっての一日一日は僕たちよりも貴重なものなんだ。
いつまで生きられるか分からない。
だからこそ彼女の笑顔には常に一生分の笑顔が凝縮されていたんだ。
あの笑顔の裏側にどれだけの不安と怖さがあったのだろう。
それは僕には計り知れないものだ。
僕は彼女のあの明るさや積極的な性格には嫉妬すら感じていた。
自分の愚かさが情けなくて悔しくて、いた堪れなくなった。
「あの・・・僕に頼みって・・・?」
「ただあの子に会ってくれればいいの。普通に一緒にいてくれればいいの」
普通にって言われても・・・。
そんな話を聞かされて普通に会えるわけがないじゃないか。
「あと、今お話をしたことは涼芽には内緒にしてね。今まで通り普通に会って欲しいの。勝手ばかり言って申し訳ないけど」
そんなの無理だ。
無理に決まってる。
そもそも僕は嘘が苦手なんだ。
彼女の前で平然としてられる自信がない。
絶対に態度に出てしまう。
「すいません。やっぱり僕には・・・・・無理です」
「そうよね・・・・・」
僕は顔を上げることができなかった。
お母さんの顔を上目で少しだけ覗いた。
お母さんは懸命に涙を堪えていた。
僕は自分の情けなさと罪悪感に襲われた。
「ごめんなさい、無理言って。勝手な話よね。今の話は聞かなことにしてくれる。あなたにはもう連絡しないようにするから。今日は来てくれてありがとう」
お母さんはテーブルの上にあった伝票をスッと手に取るとレジへと向かった。
僕は座ったままゆっくりと頭を下げた。
そのまましばらく顔を上げられなかった。
本当にこれでよかったのか?
僕は何度も自分に問いかけた。
彼女が僕に逢いたがってる?
そんなこと、嘘だろ?
たとえそうだとしても病院に行く気持ちにはなれなかった。
彼女に会うのが嫌なのではない。
彼女の前でまともな自分でいられる自信がなかった。
自分の態度が彼女を傷付けるのが怖かった。
彼女を勇気付けるどころか、不安や怖さを大きくさせてしまうだろう。
その日、久しぶりにハルノートを開いた。
僕はもう一度小説を書くことを始めた。
まずは前に書いた小説《はなし》のラストシーンの書き直しだ。
ヒロインは死なせない。
ヒロインが死んでしまう話は書きたくなかった。
僕はラストシーンをハッピーエンドに書き換えた。
それは彼女が元気になるようにとの祈りだったかもしれない。
今の僕にできることはその程度のことだった。