「やっぱり・・・戻ろうか?」

彼女がぽつりと呟いた。

「え?」

彼女らしくない弱々しいその声に僕は一瞬、息が止まった。

発車のチャイム音がホーム内に響く。

彼女はがっかりしたように俯いていた。

彼女は何かに迷っているように見えた。
でもそれが何かは分からない。

シュッとした圧縮空気の音と共にドアが閉まり始める。
その瞬間だった。
僕はその音に対し、百メートル走のスタートホイッスルのように反応した。

僕の右手は彼女の左手をしっかりと掴み、次の瞬間ドアの内側へと飛び込んだ。
ガッチャっとドアの閉じた音が自分の後ろで響くのが聞こえた。

あ? 乗っちゃった!

電車はガタンという大きな音と同時にゆっくりと動き始める。
モーターの回転音が徐々に高くなってスピードが上がっていくのが分かった。

彼女はびっくりした顔をしていたが、
それ以上のびっくりしていたのは僕自身だ。

僕の右手は彼女の左手をまだしっかりと包み込んでいた。

男声のアナウンスが車内に流れる。

『発車間際の駆け込み乗車は、まことに危険ですのでご遠慮願います』

「ダメじゃん。怒られてるよ」

彼女はそう言いながら僕を横目で見た。

僕らは黙ったまましばらく顔を見合わせた。

僕は思わずプッとふき出したあと、堪え切れず笑い出してしまった。
でも彼女は笑わずに、そんな僕の顔をじっと見つめていた。

「えっ? 何?」
「冴木くん、初めて私の前で笑ってくれたね」

「え? そうだっけ?」
「そうだよ」

そんなこと僕は全然意識したことはなかった。
そんなに僕って笑わないんだ。

「そうだった? ごめんね」
「だから謝んなくていいって」

彼女もようやく笑い出した。

「どこ行く?」

僕は笑いながら問いかけた。

「んー、海!」

彼女は上を向きながら叫んだ。

「え?」
「海、見たいなあ」

「海?」
「そう、海!」

「海か・・・・いいね!」

僕は今、学校の授業を抜け出して、女の子と二人で電車に乗っている。

ずっとルールを守るのが当たり前だった僕には考えられないシチュエーションだ。

僕の心の中はいろいろな気持ちが複雑に入り混じっていた。
学校をサボっているという罪悪感と不安感。
しかし、それを全て払しょくするような高揚感が沸きあがる。
生まれて初めての感覚だった。