『まず私のことは置いておこう。無事逃げ切れたら教えてあげるよ。治安維持対策本部(アンチクライム)だが、要はこの世界における警察のような組織だね。電子錠が解除されてキミたちが不法侵入者と判断され、ああして駆けつけたのだろう。鍵を送った身で申し訳ないが、治安維持対策本部(アンチクライム)が出動しないようシステムを操作すべきだった。私のミスが招いた事態だ』
 反響する大人びた、それでいて愛らしさのある音色は、平常時のように取り乱しがない。その口調が、大地の心にわずかながらも余裕をもたらせてくれた。
「で、どうするんだ? 途中の階でエレベーターを止めるわけにもいかんだろうし」
「そうね、待ち伏せされてる可能性があるわ」
 停止階の選択肢は最上階、六〇階、四〇階、二〇階、一階の五つ。扉上に灯るランプから、現在位置は六〇階と四〇階の間。現状、一階のボタンが赤く灯されているが、今から四〇階、二〇階を選択したところで、各階で敵集団が伏している可能性は高い。
『いや、――止めるよ。選択肢にない階で止めればそれで済むハナシだ』
「ない階ならどうやって止めるんだよ! システムでもハッキングするってか!?」
『以前キミには伝えたけど、私がどういった存在かは覚えているかな?』
「どういった存在……? たしか……情報生命体とかなんとか……」
「ハァ? 情報生命体、ですって? それ、コンピュータに意思が宿ったモノ、って意味で捉えていい概念? そんな超科学、実現させるのに何十年かかると思ってるの!? ンなの存在したら世界はとっくにパニクッてるわよ!」
「だけどレミちゃん、街並みやこれを見てると……、信じるしかなさそう」
 空間投影されたディスプレイに目配せをするあおいを一瞥して、レミはグッと押し黙った。
『今は信じてくれなくてもいい。ともかく、2進数(デジタル)の世界に住む私ならハッキングだろうが電子制御だろうが容易いものさ。さあて、キミたちを秘密の階へと案内しようか』
 大地は階数表示を見る。たった今、四〇階を過ぎたところだ。
『あと数秒で着くよ。心の準備はいいかい?』
 するとエレベーターが緩やかに減速を始め、――音もなく停止する。
『作業用の通路がひしめく階だ。敵はいないだろうけど、暗いから足場には気をつけてほしい』
 両扉が開くと、大地を先頭にレミ、あおいの順でエレベーターを降りた。
(暗いな……、ほぼ見えねぇ。手探りで進むしかなさそうだ)
 怖さは拭えないが、周囲を手で確かめつつ前に進んでいく。少女の声による丁寧な案内のおかげで、ハプニングに遭うことなく進むことができた。
 そして――――、
『その扉から外に出られるよ。さあ、世界を身体で感じてほしい。ふふ、驚きで腰を抜かさないようにね』
「そうかい、そりゃあ楽しみだ。すっごく期待してやるぜ」
 開けるぞ……。大地はそっと扉を押した。
 そこには。
「うおおおぉぉぉぉぉ………………」
 頬を擽る冷たい外気に身を投じ、都市の匂いを鼻で嗅ぎ取り、そうして漏れたのはため息にも似た感嘆。
 高さ三十数階から望む街並みは、夜という暗闇に支配されることを拒むように、蛍の集まりのようなネオンで照らされる。空を彩る満点の星々も、世界を輝かす一員と言わんばかりに煌めいていた。
 世界を広大に見渡せる塔の頂きからの眺めとはまた違った、建築物の一本一本を肌身に感じるこの景観は、
「まるで宝石箱、見てるみたい。窓越しとじゃ……全然違うわ。目が痛くなるくらいね、まさに光の洪水よ……」
「こんなに綺麗な街並み、初めて見た……。す、すごい……」
 レミは固まり、あおいに至っては感極まって涙を浮かべてしまうほどに、それは圧巻だった。
『さ、降りていこうか。この塔は安全とは言えない。駆け足で安全圏まで向かおう』
 声に従い、三人は塔を囲む緩やかな螺旋状のスロープを、心地よい空気を顔に纏わせながら駆けてゆく。無論、幻想的な街並みを横目に見ることは欠かさずに。
虚数空間の世界(イマジナリーパート)の街並みは気に入っていただけたかな?』
「ってうおぉい!?」
 忽然と目の前に現れたので、大地は驚きのあまり足を縺れさせてしまった。
「どうかな、私の姿は? これまで二回ほどお見せしたけど、チラッとだけだからね」
 視界を埋めるほどに近い、白銀を主体としたベネチアンマスク。彼女が退いて遠ざかると、ピンクが褪せた銀髪ロング、それから赤い刺繍が入る白ローブを羽織った細身の形姿が、飄々と全貌を見せた。
「あれ、メガネ掛けてないけど見える。後ろの二人も見えるのか?」
「未来都市は私の力が及びにくいから、組み込みOSの操作ができなくてね。だから拡張世界(コンプレックスフィールド)でしか身なりを見せられなかった。けれども私の支配下であるこの虚数空間の世界(イマジナリーパート)なら照明器具を上手いこと操作して、こうして姿を見せられるのさ」
「まさか大地の言ってた銀髪の女って、この女のこと?」
「そうだ。未来都市でも見たんだよ、オレは」
 スロープを小走りで下ってゆくと、
「このまま三階に降りていけばデッキに繋がる。おそらくデッキは監視が必要ないと判断されているだろうから、そこを通って別の建物へ逃げようか」
 仮面の少女は白い布をはためかせ、大地の傍を離れずふわふわと浮きながら三人を見守ってくれる。さながら妖精のような印象を抱かせる趣だ。
「あのさ、この世界っていったい何なんだ?」
「この世界の名は虚数空間の世界(イマジナリーパート)。キミたちの住む未来都市とは根本的な次元が違う世界だよ」
「イマジナリー……? 複素平面の虚部(きょぶ)のことか?」
「あのぉそれって、私たちの世界を現実にある〝実数〟として考えて、この世界を現実にはない〝虚数〟に例えたってことですか?」
「さすがは数学と理科担当の二人だね、そのとおり。かつて“とある”科学者が〝とある〟方法で現実の次元(せかい)とは違う、裏の次元(せかい)とも呼べる空間を創り上げたのさ。それがこの科学都市、虚数空間の世界(イマジナリーパート)なんだよ」
「なるほど、“虚数”か。神代小町先輩のヒントの本当の意味がわかった気がするぞ」
 小町の言っていた“裏”とは実数に対する虚数の意味。そして“高次元”とは、実軸からの視点では虚軸を捉えることはできないため、複素平面という概念を導入することで虚軸を捉えろという解釈なのだろう。
「アンタ、……ハァ、情報生命体て……いっ、言った……わよね? そんならこの世界の……コンピュータ技術は……ハァ、ハァ……三〇年先を進んでることに……なる……けど?」
 言葉の端々を詰まらせ、喘ぎ尋ねたのは研究部情報技術担当のレミ。体力不足が見事に露呈している。
「三〇年という年数は技術的特異点(シンギュラリティ)から推測したと思われるけど、残念ながらそこまでコンピュータ技術は発達していないよ。せいぜい二〇年だ」
「なら、コンピュータに意思が宿るなんて……」
「詳しい説明は割愛するけど、コンピュータに意思が宿るという概念が情報生命体、という考えを逆転させれば、技術的特異点(シンギュラリティ)に到達しなくとも情報生命体は誕生可能ではないかな?」
「逆転させる……? まあいい、アンタの名前を教えてくれ」
「そうだ、まだ名乗っていなかったね」
 仮面の少女は大地の前にスッと移動し、彼にいたずらっぽく指を向けて、
「私はセリア。気軽にセリアと呼んでくれると嬉しいよ」
「よろしくな、セリア」
 情報生命体のセリアと話を交わしているうちに、大地らは着実に地上へと近づいてゆき、
「この階を降りれば施錠された扉があるけど、私が解錠するから問題ないよ。そこを通ろう。間違えて下に進むと治安維持対策本部(アンチクライム)に捕まるから要注意だ」
 セリアの指示どおりに先を進んでいく。スロープとの結合地点には施錠扉が構えていたが、セリアが瞬時に解錠してくれた。黒の武装集団が下の階に見えるも、察知されることなく三人は筒状になった半透明のペデストリアンデッキに進路を変え、ひた走る。
「セリアさんっ、……はぁ、……あとどれだけ走れば……安全ですか……っ?」
 網目状に張り巡らされた宙のデッキは迷路のように入り組んでいる。セリアは何度も角を曲がり、階段を上り、下り、研究部を先導しながら、
「正面のあのビルに入れば安全なはずだよ。あと少しだね、ファイトだ」
 大地は背後を一瞥すると、息を切らせ、胃袋を鷲掴みにされたような表情で足を動かすレミに、
「レミ、あと50メートル! ファイト!」
「ふぁ、ふぁいとぉ……っ」
 そうして銀髪とローブを煌びやかに靡かせるセリアに導かれ、三人はビルへと逃げ込めたのであった。
 ビルに入るや否や、三者同じく膝に手を付き、ぜぇぜぇと息を整える。特にレミは額に汗の粒を浮かべ、ツインテールを揺らすように荒い呼吸を繰り返す。
「お疲れさま。エスカレーターで降りようか。エレベーターの恐怖は先ほど体験しただろうし」
 呼吸を整えてからフロアを歩く大地ら。この建物はファッションビルなのだろか、若者用の衣服類がフロアの大半を占めていた。陳列も未来都市のショップで見かけるような珍しさのない並びだ。
「科学が発達してるとはいえ、このフロアは普通だな。投影されたディスプレイでポチポチやってる以外、未来都市と変わんねえ」
「ネットショッピングという手段もあるけど、試着して選ぶことを好みとする者も多い。だからどれだけ時が経とうと、こうした物販は廃れることがないだろうね」
 フロアを見物してからエスカレーターに乗った三人。階を下りながら各階の主要製品を眺めていく。
「へぇ、たくさんのロボットが並んでる。ま、まさか! あれってアンドロイド!?」
 ロボットと一括りにしても多種多様で、円盤型の掃除用ロボット、アームを主体とした産業用ロボット、ヒトを模したコミュニケーションロボット、果ては人間と断言できてしまいそうなアンドロイドまでがショールーム形式で展示されていた。
 ロボットに限らず、様々な科学技術の結晶を拝見しながらエスカレーターを下ってゆき、一行は一階へと到着する。セリアに手引きされる形で出入口の扉を抜けると――――、
「着いた――――――ッ!!」
 両手を大きく上げたのは先頭の大地。その後ろのレミとあおいは、疲れを忘れたように駆け足で前に出ると、
「す、すご……。上から見たのと全然違うじゃん!」
「うわぁ、夢見てるみたいっ」
 愕然と世界を見渡すレミ、魔法の世界に来たお姫様のごとくうっとりと天を眺めるあおい。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおッ、未来にタイムスリップしたのか!?」
 森の木々のように建ち並ぶ高層ビルの中、広告のネオンが七色に地上を彩る。
 人々は空間に投影されるディスプレイを手際よくタッチし、その人々の間を縫うように幾種ものロボットが自動制御で街を徘徊している。
「写メ撮らないと!」
「きっ、記録しないと!」
 レミとあおいはスマートフォンを手に、360度の景観をパシャパシャと撮影していく。
 表情こそ仮面で覆われているものの、十中八九苦笑いを浮かべているであろうセリアは、
「い、いい反応するね、キミたち……。ここまで案内した甲斐があったよ……」
 都会に来た田舎の修学旅行生かっ、と頭を抱えた大地も、次第に身体がうずき出してしまい、
「待て、オレを忘れるな! レミ、オレを撮れ! この街をバックにな!」
「ちょっと、私が先! アンタが私とあおいを撮りなさい!」
 大地はぐぬぬ……と食い下がるも、レミがしきりに『部長命令』と連呼するので後輩は仕方なしに、街を背景に笑顔でピースをする先輩たちを写真に収めた。
 世界を驚き楽しむ研究部三人の前に、セリアが浮いたまま現れ、
「せっかくだし虚数空間の世界(イマジナリーパート)を案内してあげようじゃないか。この私直々の案内、光栄に思ってくれたまえ」
「ありがとよ。じゃあ頼む」