ちらりと、手元の書類が視界に入り込み、
(い、今メモリを消しても、今後の計画に支障が出るだけだわ……)
〈拡張戦線〉の蒼穹祢の目的、――それは『拡張世界におけるヒトの行動パターンと心理の統計的情報収集』。
虚数空間の世界を〝空想〟によって構築する情報生命体と呼ばれる存在もあるが、仮想体としての存在は未だ解明されていない部分が多くを占めているのが実情だ。拡張世界におけるヒトの行動パターンに関わる情報は、緋那子が緋那子として在るために欠かせないもの。
(そのための計画を私が提案して、チームは賛同してくれたのよ。迷惑はかけられないわ)
緋那子の心理状態を鑑みれば、その目的はすでに意味を失ったのに。
(……だったら補助プログラムに細工して、記憶を封印させた状態でこの子を〈拡張戦線〉に送り込む。そこでエネミーが、もしくはエネミーに扮した私がゲームオーバーにさせることで、自然にこの子を消せば……)
緋那子のゲームオーバー=補助プログラムの破壊、という形でシステムの改修を施せば、この場でエンターキーを押すことと何ら変わらない。すなわち死を迎えることと同義になるはず。ゲームという形なら、今よりも軽い気持ちで事を運べるだろう。
「そうよ……、そこで決めればいいんだわ。……決めればいいんだわ」
その決意は単なる“先延ばし”だと心の奥底で囁かれても、蒼穹祢はその囁きを押し込めるように何度も言い訳を呟いた。
そして、やっぱり。
〈拡張戦線〉の間に妹を消すチャンスは何度もあったけれど、実行に移すことは無理だった。最後の決心で妹を攫っても、やはり何もできなかった。
最後の最後に、よりによってあの憎きロケットを連想させる場所を選んでしまったのは、どうして? 宇宙飛行の気分を妹と味わいたいから? 否――、そんな幻想はとうの前に捨てたはずなのに――――……。
◇
天井に散った星空を力なく見上げて。
妹のために何をすべきかと、今一度蒼穹祢は考える。そして考えに考えて、剣の柄を握る手に力を込めた。
「苦しいのは……当たり前よね。肉体を失って、誰にも気づかれずに拡張世界で生きることなんて、生きてるって言わないわよね……。ヒナを蘇らせたのだって、私のワガママ。ヒナの意思なんて無視して……だからッ!」
地に付いていた膝。右、左と浮かせ、静かに蒼穹祢は立ち上がり、
「HPをゼロにすれば、ヒナは拡張世界から……消える。こんな現実から、お姉ちゃんが助けてあげるから……ね?」
余計な心配をかけさせず、妹を安心で満たしてあげたいと思ったから、蒼穹祢は不慣れな笑みを浮かべる。けれども、
「お姉ちゃん。私ね、一つ言いたいことがあるんだ」
そう発したのは、姉に合わせて膝を伸ばした緋那子だった。口元も、今は穏やかに和らげている。
「研究部のみんなとゲームしながら思ったこと、伝えたいなって」
「……え?」
緋那子は柄を取る蒼穹祢の手をおもむろに握り、背後にいる研究部の三人を見てから、
「記憶がなくて困ってたら、大地くんが声をかけてくれたんだ。そしたらレミちゃん、あおいちゃんが一緒に戦わないかって誘ってくれて。それでね、みんなとゲームして思ったことなんだけど、――――すっごく楽しかった!」
「楽し……かった?」
「うん、楽しかった。エネミーを協力して倒したり、目標の場所に向かうためにどうしたらいいかって考え合ったりしてね」
妹は指を折りながら、他にも楽しかった出来事を姉に教えていく。
「だから私、もっと楽しいことしたいっ。たしかに肉体はもう……ダメかもしれないけど、生きてる限りまだ何かができるはず。うんっ、やりたいことがいっぱいあるよ!」
「……ヒナ」
「こうやってまた誰かと、お姉ちゃんとおしゃべりできる機会をつくってくれて――……」
緋那子は飾ることなくニコリとほほ笑んで、
「ありがと、お姉ちゃん」
握力を緩めた蒼穹祢。剣は落ち、粉々に消滅する。そして姉の身体は、回された妹の腕によって強く抱き寄せられた。仮想体同士だから伝わる、お互いの柔らかさ、温もり。
「ヒナ……ヒナぁ……。うっ、……うっ……うう」
くりくりとした瞳から零れる涙が妹の頬に染み渡る。
次第に増す嗚咽。だけど緋那子は決して鬱陶しがらずに、姉の身を一心に抱き続ける。
背後から、落ち着いた足音が近づき、
「詳しい話はまだよくわかんねえ。けどな、オレが保障してやるよ。プレイ中のヒナ、本当に楽しそうだった。だからヒナの言葉、嘘じゃないぞ」
後輩の偉そうな言葉を耳にしたと思ったら、蒼穹祢とは別の嗚咽が聞こえ、
「えぐっ……、ヒナちゃん、あの事故で……。蒼穹祢さん、ごめんなさい……。あの時は何も知らずに、科学とか犠牲とか偉そうに言って……」
「こら、泣かないのあおい。そうやって……泣くのは……っ……、ヒナに失礼だよ……っ」
顔は見ていないが、その詰まり声から研究部部長の心情は読み取れる。それと同時に、妹の境遇を理解してくれている人がいる、そんな事実に少なからずの嬉しさも生まれた。
蒼穹祢は顔を上げて涙を拭い、研究部の三人に事の経緯を改めて説明する。彼、彼女らは一言一句聞き逃すことなく、真剣な面持ちで話を聴いてくれた。
しんみりと目を伏せる三人だが、緋那子は健気に笑って、
「この三人と知り合えて本当によかったよ。もう一度言うけど、そのチャンスをくれてありがとう、蒼穹祢お姉ちゃん」
「私のしたこと、正しかったってことで……いいの? ちゃんと……ヒナのためになったの?」
恐る恐る妹の顔を伺ったが、その顔色を見て――、蒼穹祢はそっと表情を崩したのであった。
2
それからAP宇宙飛行センターを出て、人気のない路地へと降り立った大地、レミ、あおいと神代姉妹。
「みんな、本当にありがとうございました。お姉ちゃんと仲直りできたのは三人のおかげです」
緋那子は研究部の三人に改めて頭を下げる。
「いいってことよ、無事通じ合えてなによりだ。そういえばさ、二年前にオレと会ったことは思い出してくれたか?」
大地は諦め半分で問うが、緋那子は本意なく首を横に振り、
「ううん、それはやっぱり思い出せなくて。あの頃は何回か公演してたからかな。話を聞いてくれた人がたくさんいて。大地くんは……うーん? はは、ごめんね」
とはいえ、彼女はどこか誇らしげに、
「私がきっかけで科学に興味を持ってくれて嬉しい。宇宙飛行士に選ばれた時も、科学に興味を持ってくれる同年代が増えてほしいって想いで取り組んできたから」
それを聞いた大地もまた嬉しくなる。そして素直にこう思った。
(セリアのエピソードみたいに、科学には影だってあるのかもしれん。けどヒナが救われたように、誰かのためにだってなりえるんだ)
あおいは師を敬うような眼差しで緋那子へ、
「ヒナちゃんの持つ知識はきっと、宇宙飛行士になるためにがんばった努力の証なんだと思う。夢を叶えるために強く自分を信じた。それが……私との違いだったのかな」
蒼穹祢もまた、確固たる意志を緋那子への視線に含め、
「そう、夢を実現させたことはヒナの努力の結晶だわ。もう、つまらない嫉妬なんてしない。ヒナを手本にして私も頑張るから」
「あおいちゃん、それにお姉ちゃん。そう言ってもらえて光栄かな。お姉ちゃん、宇宙飛行士の夢にもう一度――……」
だけど、言いかけた言葉は妹自身が遮った。
「……?」
どうしたのだろう、大地は懐疑的に思った。蒼穹祢やあおいも緋那子に疑問符を浮かべている。しかし緋那子の隣にいるレミは、刮目して遥か彼方を凝視していたのだ。
「なんなのよ……あの黒いのは?」
「え、黒いの?」
大地は身を翻してレミの視線の先をたどった。そこには、
「ハァ? なんだ、アレ?」
禍々しいほどに黒い霧が遠目で視認できる所で、上空を貫かんばかりに渦を描いている。しかし渦が周囲の窓ガラスを割ったり、置物を吹き飛ばしたりすることはない。つまり、
「あれはARなのかっ? メガネを掛けてないのに見えてるってことは……、まさかコネクタが復活してる? どうなってんだ、いったい?」
「私も見えるよ! あ、ゲームのウィンドウも復活してるっ」
「先輩、あれは〈拡張戦線〉のエネミーなんですか!?」
「いえ、知らないわ……。ゲームの製作には関わったけど、あんな特徴のエネミーは……。まさかヒナたちが初期段階で仕込んだの?」
「ううん、知らない……。私はエネミーの設定にそこまで関わってないし。ってお姉ちゃん、外部に通信できない! これじゃあ運営と連絡が……っ。助けも呼べない!」
外部通信用のアイコンが、タッチのできない非活性の状態に陥ってしまっている。
「マジか、スマホも通信できねえし! チッ、何がどうなってやがる!?」
大地たちが狼狽えているうちに、霧の放出点は彼らへと確実に距離を詰め寄る。それが敵か味方か判別は付かないが、その底知れぬ雰囲気は到底味方とは思えない。
「見えてきたぞ……」
霧の中心となるもの、薄っすらとだが形の特徴が見え始めた。
固唾を呑んで前方を見つめる大地ら五人。
目を凝らして観察した、黒に包まれたそれの頭上に、赤いフォントで示されるその名は。
――――――Fase7 Selia Ver.Bluck_Angel
「……フェーズ……7、セリ……ア? バージョン、ブラック……エンジェル?」
黒くて禍々しい影はやがてハッキリとした風体を見せ、――――微かな冷笑にも似た奇妙な笑みを唇の端に浮かべた。
◇
セリア。
それはローブを羽織った長い銀髪が際立つ、情報生命体と自称した少女の名だ。自在に宙を浮き、虚数空間の世界へ迷い込んだ大地たちを親切に案内してくれたあの少女。
それがなぜ、今になって……。それも――……“エネミー”という立場で。
「やあ、こんばんは。とは言っても今は昼過ぎか。この世界はいつでも夜だからね、どっかの誰かさんのせいで」
その口調、声。疑いもなく聞き覚えのあるものだ。
「お前……、あのセリアなのか? オレたちを案内してくれた、あの……」
腰に伸びる、ピンクが褪せたような銀髪のロング。昨日のように白いローブを着た格好ではなく、肩が露わになった黒いセミオーダードレスを細身にあしらっていた。背にはドレスと同じ色合いの、彼女の背丈は優に超すほどの〝天使の羽根〟を広げている。
「そのとおり、キミたちを案内した張本人だよ」
顔を覆うベネチアンマスクはない。
幼さ蔭る童顔、深紅の瞳。どこか眠たげに、二重まぶたの目は半ばほど閉じられていた。
「おっと、顔は初めて見せるね。どうかな、このお顔は。気に入ってくれた?」
「何しに……、ここへ来たんだ?」
「おや、私の頭上の赤文字に気づかないか? その色で私の名が表示されるということは、もう言うまでもないはずだね?」
蒼穹祢が青髪を振りまくように前へ出て、
「本当にセリア本人なの? コピーがエネミーとしてプログラムに組み込まれているとか、虚数空間の世界の上層部に操られているとか、そういった類の……」
「ここで証明はできないが、私はセリア本人だ。コピーなんてツマラナイものじゃないから安心してくれたまえ。それと上層部の命令でここには来たが、操られの身分ではないよ」
「上層部って……。いったい、なんの狙いなのよ?」
セリアは細い腕をおもむろに水平に上げ、人差し指を真っすぐ一点に向けて、
「記憶を取り戻したそこの、――神代緋那子を消しにきた」
迷いや嘘偽りの皆無な言葉遣いで彼女は告げた。
「……ッ!?」
研究部の三人は咄嗟に緋那子を囲み、蒼穹祢もまたいっそうの警戒でセリアを睨んで、
(い、今メモリを消しても、今後の計画に支障が出るだけだわ……)
〈拡張戦線〉の蒼穹祢の目的、――それは『拡張世界におけるヒトの行動パターンと心理の統計的情報収集』。
虚数空間の世界を〝空想〟によって構築する情報生命体と呼ばれる存在もあるが、仮想体としての存在は未だ解明されていない部分が多くを占めているのが実情だ。拡張世界におけるヒトの行動パターンに関わる情報は、緋那子が緋那子として在るために欠かせないもの。
(そのための計画を私が提案して、チームは賛同してくれたのよ。迷惑はかけられないわ)
緋那子の心理状態を鑑みれば、その目的はすでに意味を失ったのに。
(……だったら補助プログラムに細工して、記憶を封印させた状態でこの子を〈拡張戦線〉に送り込む。そこでエネミーが、もしくはエネミーに扮した私がゲームオーバーにさせることで、自然にこの子を消せば……)
緋那子のゲームオーバー=補助プログラムの破壊、という形でシステムの改修を施せば、この場でエンターキーを押すことと何ら変わらない。すなわち死を迎えることと同義になるはず。ゲームという形なら、今よりも軽い気持ちで事を運べるだろう。
「そうよ……、そこで決めればいいんだわ。……決めればいいんだわ」
その決意は単なる“先延ばし”だと心の奥底で囁かれても、蒼穹祢はその囁きを押し込めるように何度も言い訳を呟いた。
そして、やっぱり。
〈拡張戦線〉の間に妹を消すチャンスは何度もあったけれど、実行に移すことは無理だった。最後の決心で妹を攫っても、やはり何もできなかった。
最後の最後に、よりによってあの憎きロケットを連想させる場所を選んでしまったのは、どうして? 宇宙飛行の気分を妹と味わいたいから? 否――、そんな幻想はとうの前に捨てたはずなのに――――……。
◇
天井に散った星空を力なく見上げて。
妹のために何をすべきかと、今一度蒼穹祢は考える。そして考えに考えて、剣の柄を握る手に力を込めた。
「苦しいのは……当たり前よね。肉体を失って、誰にも気づかれずに拡張世界で生きることなんて、生きてるって言わないわよね……。ヒナを蘇らせたのだって、私のワガママ。ヒナの意思なんて無視して……だからッ!」
地に付いていた膝。右、左と浮かせ、静かに蒼穹祢は立ち上がり、
「HPをゼロにすれば、ヒナは拡張世界から……消える。こんな現実から、お姉ちゃんが助けてあげるから……ね?」
余計な心配をかけさせず、妹を安心で満たしてあげたいと思ったから、蒼穹祢は不慣れな笑みを浮かべる。けれども、
「お姉ちゃん。私ね、一つ言いたいことがあるんだ」
そう発したのは、姉に合わせて膝を伸ばした緋那子だった。口元も、今は穏やかに和らげている。
「研究部のみんなとゲームしながら思ったこと、伝えたいなって」
「……え?」
緋那子は柄を取る蒼穹祢の手をおもむろに握り、背後にいる研究部の三人を見てから、
「記憶がなくて困ってたら、大地くんが声をかけてくれたんだ。そしたらレミちゃん、あおいちゃんが一緒に戦わないかって誘ってくれて。それでね、みんなとゲームして思ったことなんだけど、――――すっごく楽しかった!」
「楽し……かった?」
「うん、楽しかった。エネミーを協力して倒したり、目標の場所に向かうためにどうしたらいいかって考え合ったりしてね」
妹は指を折りながら、他にも楽しかった出来事を姉に教えていく。
「だから私、もっと楽しいことしたいっ。たしかに肉体はもう……ダメかもしれないけど、生きてる限りまだ何かができるはず。うんっ、やりたいことがいっぱいあるよ!」
「……ヒナ」
「こうやってまた誰かと、お姉ちゃんとおしゃべりできる機会をつくってくれて――……」
緋那子は飾ることなくニコリとほほ笑んで、
「ありがと、お姉ちゃん」
握力を緩めた蒼穹祢。剣は落ち、粉々に消滅する。そして姉の身体は、回された妹の腕によって強く抱き寄せられた。仮想体同士だから伝わる、お互いの柔らかさ、温もり。
「ヒナ……ヒナぁ……。うっ、……うっ……うう」
くりくりとした瞳から零れる涙が妹の頬に染み渡る。
次第に増す嗚咽。だけど緋那子は決して鬱陶しがらずに、姉の身を一心に抱き続ける。
背後から、落ち着いた足音が近づき、
「詳しい話はまだよくわかんねえ。けどな、オレが保障してやるよ。プレイ中のヒナ、本当に楽しそうだった。だからヒナの言葉、嘘じゃないぞ」
後輩の偉そうな言葉を耳にしたと思ったら、蒼穹祢とは別の嗚咽が聞こえ、
「えぐっ……、ヒナちゃん、あの事故で……。蒼穹祢さん、ごめんなさい……。あの時は何も知らずに、科学とか犠牲とか偉そうに言って……」
「こら、泣かないのあおい。そうやって……泣くのは……っ……、ヒナに失礼だよ……っ」
顔は見ていないが、その詰まり声から研究部部長の心情は読み取れる。それと同時に、妹の境遇を理解してくれている人がいる、そんな事実に少なからずの嬉しさも生まれた。
蒼穹祢は顔を上げて涙を拭い、研究部の三人に事の経緯を改めて説明する。彼、彼女らは一言一句聞き逃すことなく、真剣な面持ちで話を聴いてくれた。
しんみりと目を伏せる三人だが、緋那子は健気に笑って、
「この三人と知り合えて本当によかったよ。もう一度言うけど、そのチャンスをくれてありがとう、蒼穹祢お姉ちゃん」
「私のしたこと、正しかったってことで……いいの? ちゃんと……ヒナのためになったの?」
恐る恐る妹の顔を伺ったが、その顔色を見て――、蒼穹祢はそっと表情を崩したのであった。
2
それからAP宇宙飛行センターを出て、人気のない路地へと降り立った大地、レミ、あおいと神代姉妹。
「みんな、本当にありがとうございました。お姉ちゃんと仲直りできたのは三人のおかげです」
緋那子は研究部の三人に改めて頭を下げる。
「いいってことよ、無事通じ合えてなによりだ。そういえばさ、二年前にオレと会ったことは思い出してくれたか?」
大地は諦め半分で問うが、緋那子は本意なく首を横に振り、
「ううん、それはやっぱり思い出せなくて。あの頃は何回か公演してたからかな。話を聞いてくれた人がたくさんいて。大地くんは……うーん? はは、ごめんね」
とはいえ、彼女はどこか誇らしげに、
「私がきっかけで科学に興味を持ってくれて嬉しい。宇宙飛行士に選ばれた時も、科学に興味を持ってくれる同年代が増えてほしいって想いで取り組んできたから」
それを聞いた大地もまた嬉しくなる。そして素直にこう思った。
(セリアのエピソードみたいに、科学には影だってあるのかもしれん。けどヒナが救われたように、誰かのためにだってなりえるんだ)
あおいは師を敬うような眼差しで緋那子へ、
「ヒナちゃんの持つ知識はきっと、宇宙飛行士になるためにがんばった努力の証なんだと思う。夢を叶えるために強く自分を信じた。それが……私との違いだったのかな」
蒼穹祢もまた、確固たる意志を緋那子への視線に含め、
「そう、夢を実現させたことはヒナの努力の結晶だわ。もう、つまらない嫉妬なんてしない。ヒナを手本にして私も頑張るから」
「あおいちゃん、それにお姉ちゃん。そう言ってもらえて光栄かな。お姉ちゃん、宇宙飛行士の夢にもう一度――……」
だけど、言いかけた言葉は妹自身が遮った。
「……?」
どうしたのだろう、大地は懐疑的に思った。蒼穹祢やあおいも緋那子に疑問符を浮かべている。しかし緋那子の隣にいるレミは、刮目して遥か彼方を凝視していたのだ。
「なんなのよ……あの黒いのは?」
「え、黒いの?」
大地は身を翻してレミの視線の先をたどった。そこには、
「ハァ? なんだ、アレ?」
禍々しいほどに黒い霧が遠目で視認できる所で、上空を貫かんばかりに渦を描いている。しかし渦が周囲の窓ガラスを割ったり、置物を吹き飛ばしたりすることはない。つまり、
「あれはARなのかっ? メガネを掛けてないのに見えてるってことは……、まさかコネクタが復活してる? どうなってんだ、いったい?」
「私も見えるよ! あ、ゲームのウィンドウも復活してるっ」
「先輩、あれは〈拡張戦線〉のエネミーなんですか!?」
「いえ、知らないわ……。ゲームの製作には関わったけど、あんな特徴のエネミーは……。まさかヒナたちが初期段階で仕込んだの?」
「ううん、知らない……。私はエネミーの設定にそこまで関わってないし。ってお姉ちゃん、外部に通信できない! これじゃあ運営と連絡が……っ。助けも呼べない!」
外部通信用のアイコンが、タッチのできない非活性の状態に陥ってしまっている。
「マジか、スマホも通信できねえし! チッ、何がどうなってやがる!?」
大地たちが狼狽えているうちに、霧の放出点は彼らへと確実に距離を詰め寄る。それが敵か味方か判別は付かないが、その底知れぬ雰囲気は到底味方とは思えない。
「見えてきたぞ……」
霧の中心となるもの、薄っすらとだが形の特徴が見え始めた。
固唾を呑んで前方を見つめる大地ら五人。
目を凝らして観察した、黒に包まれたそれの頭上に、赤いフォントで示されるその名は。
――――――Fase7 Selia Ver.Bluck_Angel
「……フェーズ……7、セリ……ア? バージョン、ブラック……エンジェル?」
黒くて禍々しい影はやがてハッキリとした風体を見せ、――――微かな冷笑にも似た奇妙な笑みを唇の端に浮かべた。
◇
セリア。
それはローブを羽織った長い銀髪が際立つ、情報生命体と自称した少女の名だ。自在に宙を浮き、虚数空間の世界へ迷い込んだ大地たちを親切に案内してくれたあの少女。
それがなぜ、今になって……。それも――……“エネミー”という立場で。
「やあ、こんばんは。とは言っても今は昼過ぎか。この世界はいつでも夜だからね、どっかの誰かさんのせいで」
その口調、声。疑いもなく聞き覚えのあるものだ。
「お前……、あのセリアなのか? オレたちを案内してくれた、あの……」
腰に伸びる、ピンクが褪せたような銀髪のロング。昨日のように白いローブを着た格好ではなく、肩が露わになった黒いセミオーダードレスを細身にあしらっていた。背にはドレスと同じ色合いの、彼女の背丈は優に超すほどの〝天使の羽根〟を広げている。
「そのとおり、キミたちを案内した張本人だよ」
顔を覆うベネチアンマスクはない。
幼さ蔭る童顔、深紅の瞳。どこか眠たげに、二重まぶたの目は半ばほど閉じられていた。
「おっと、顔は初めて見せるね。どうかな、このお顔は。気に入ってくれた?」
「何しに……、ここへ来たんだ?」
「おや、私の頭上の赤文字に気づかないか? その色で私の名が表示されるということは、もう言うまでもないはずだね?」
蒼穹祢が青髪を振りまくように前へ出て、
「本当にセリア本人なの? コピーがエネミーとしてプログラムに組み込まれているとか、虚数空間の世界の上層部に操られているとか、そういった類の……」
「ここで証明はできないが、私はセリア本人だ。コピーなんてツマラナイものじゃないから安心してくれたまえ。それと上層部の命令でここには来たが、操られの身分ではないよ」
「上層部って……。いったい、なんの狙いなのよ?」
セリアは細い腕をおもむろに水平に上げ、人差し指を真っすぐ一点に向けて、
「記憶を取り戻したそこの、――神代緋那子を消しにきた」
迷いや嘘偽りの皆無な言葉遣いで彼女は告げた。
「……ッ!?」
研究部の三人は咄嗟に緋那子を囲み、蒼穹祢もまたいっそうの警戒でセリアを睨んで、