愛想笑いをしつつも顔を曇らせ、彼女は友達へ語りかけようと蒼穹祢への注目を外した。
 すれ違う二人。
「試験の結果、どうだった?」
 蒼穹祢は冷たく呟いた。妹の顔は一切見ずに。
「………………」
 緋那子は恐る恐る人差し指を一本立てた。それだけの所作。
 やはり妹の顔を一切見ることなく、
「あっそ、おめでとう」
 乱暴に言い放ったら蒼穹祢は逃げるように足早に、再び廊下を進み始めた。背後からは「なんであんな態度取るの? ホント、冷たいお嬢様なんだから」、「ヒナ、気にしないでっ」の声。さらには「ヒナからコミュニケーション能力を分けてもらえばいいのに」なんて心ない言葉も聞こえた。
「……全部、聞こえてるわよ」
 震える、か細い声。
 いつまでもまぶたの裏に残る、妹の人差し指。
 十分離れただろうか、蒼穹祢は振り返った。遠目で確認できる場所で、友達と楽しそうにおしゃべりをしている妹の姿。窓から覗く、どんよりと空を覆う雲が、今は無性に憎たらしい。
 その時、ポケットが振動した。メッセージの着信か。蒼穹祢は携帯電話を取り出して確認すると、『お姉ちゃん、せめてみんなの前では愛想よくして。それと友達少ないって噂もあるから、ちゃんとお友達つくってよね《`^´o》=3』という妹からのメッセージだった。蒼穹祢は手に持つそれを元のポケットに突っ込んだ。胸がチクリと痛む。
(遠い……。どんどん遠い場所に行こうとしてる……)
 妹は自分にないモノを持っている。運動神経だって、多くの友達だって。唯一の取り柄である勉学だって、中学へ入学以降は一度たりとも勝ったことはない。入学以来すべての定期試験で学年一位を取り続けている女子がいる、その噂は耳にタコができるくらいに聞いた。
 けれど、そんな現実をまざまざと見せつけられたとしても。
(まだ、諦めてないから。せめて勝てなくても、あの時のように、また隣で……。――――ヒナの、隣で)

 それが甘い妄想だと気づいたのは、高校入学試験の合否を知った時だった。

 その日は天候が悪く、雨がポツポツと侘しく降っていた。
「えっ、……」
 校舎の前の掲示板を前に絶句。自分の受験番号『30045425』が抜け落ちていたから。
 だが、
「お、お姉ちゃん……」
 蒼穹祢の番号に1を足した『30045426』は掲示板にある。その数字が示すのは、
「なんで、……なんで、なのよぉ……」
 妹の緋那子だけは、未来都市、ひいては国内において最上位に君臨する高等学校、――城ケ丘高校へ合格していたという事実。ただそれだけ。
 緋那子は気まずそうに視線をはぐらかして、
「じょ、城ケ丘はすごく……難しいから……。わっ、私だって運がよかっただけだって! 英語の最後の問題なんてわかんなかったから、適当にエイヤッって選んで……。他にも――……」
「やめて! 慰めになってない!! 私にできなくてヒナができたのなんて、納得できないこと……じゃないん……だからぁ…………ッ」
 蒼穹祢は拳を握り締め、長い青髪を、目尻に浮いた涙を振りまくようにその場を駆け出した。
「お姉ちゃん、待って!」
 背後から届く妹の叫び。だけれど、とてもじゃないが振り返ることなどできやしなかった。

       ◆

 城ケ丘高校の滑り止めとして受験した桜鈴館高校に入学して一か月、――妹が高校生宇宙飛行プロジェクト、ミッション『SS-01』の搭乗員に選ばれたという知らせが両親から入った。
「……夢、ほんとに叶えようとしてる」
 高校入学と同時に、親族から逃げるように始めた寮生活。机の隅に積まれた宇宙と星の図鑑を取り、パラパラとページを捲った。
「ヒナ……、どこまで遠い場所に行くの? ほんとに、行っちゃうの? あの真っ暗で……自分色に染めたいって言ってた……世界に……」
 蚊の鳴くような声で、蒼穹祢は囁く。
「……悔しい。ヒナに……並びたい……」
 それ以上、言葉が出ない。口にすることは自分の敗北を認めたようなものだと、なんとなく錯覚したから。
 床に散乱する紙きれ。それは親族だけに配られる、高校生宇宙飛行プロジェクトの概要を記した用紙。プロジェクトの目的、飛行士の訓練過程などがまとめられている。
「え……?」
 蒼穹祢は紙を眺める中、これまで気づかなかったとある一文を注視し、
「あと……、半年? 半年の訓練で宇宙に? それって、いくらなんでも……」
 いや、未来都市のバックには虚数空間の世界(イマジナリーパート)がある。あの世界に常識は通用しない。きっと短期間でプロジェクトを成功させる算段が未来都市にあるのだろう。
 だが、胸によぎる一抹の不安、ざわつき。それは緋那子が宇宙へ旅立つ瞬間をこの目で見届ければならない現実が、残り半年に迫っているからか。嫉妬心で押し潰される自分が、あと少しで訪れる未来が怖いからか。
「私は……、私は……ッ」

 ――――時は過ぎ、半年後。
 プロジェクトを知ってからの半年間はあっという間だったと、蒼穹祢は今でも思う。
 そして異国の地で訪れたのは、悪夢のような一日だった。

 雲に届きかけたタイミングでの、あの大爆発。目を疑った一時。
 妹の旅立ちの時に覚えた嫉妬心も、無事戻ってきてほしいという想いも粉々に砕かれた、あの一瞬。
「そん……なぁ……、嘘よ、こんなの嘘よ……。嘘でしょ、嘘でしょ!!」
 パニックに陥る周りの飛行士の親族たち。
「あぁ…………。ヒナ……、ヒナぁ……」
 ペタンと、尻もちを付いた。気づいたら、拭えないほどの涙で顔が濡れていた。
 涙で濁る瞳で捉えたのは、真っ赤な炎の膨らみと晴天を汚す黒い煙、弾け飛ぶ破片に、本来の形を失った機体。
 横の夫婦は泣き喚き、後ろの、蒼穹祢と同年代の少年と少女は強く手を取り合い、全身をわなわなと震わせていた。
 そんな中、蒼穹祢は静かに目をつむり、祈りを捧げるように手を組み、
「神様。どうか、どうか緋那子を助けてください。お願いします、緋那子に謝らせてください」


 高校生三名を含めた乗組員六名の死亡という悲報が届いたのは、事故から数時間が経ってから。ただ奇跡的にも、一人の高校生が一命を取り留めたとの知らせも一緒に届いた。
「……ヒナ、……緋那子」
 さらには生存者の一名が神代緋那子だということも蒼穹祢に伝えられた。しかし容体は極めて危険な状態であり、今は手術室で懸命の治療を受けている。
 手術室の前の椅子に腰掛け、蒼穹祢は妹の無事を祈り続ける。両親のほか神代一族の者たちが蒼穹祢の傍で、同じく緋那子の回復を祈る。
 そして手術室に運び込まれ、一〇時間が経過したその時。
「…………ッ!?」
 『手術中』のランプが消え、医師が手術室から出てきた。蒼穹祢を含む親族たちは固唾を呑み、医師の発言に注意を傾ける。
「一命は取り留めました。ただ…………」
 曇る日本人医師の顔。蒼穹祢の頬に一筋の汗が流れる。
「……――おそらく一生、目を覚ますことはないでしょう。脳に大きな損傷が見られました。生命維持装置を外せば、生きながらえることは不可能です」
「いやぁ……。それって、結局……」
 死んだのと同じじゃない……。口にはしなかったが、蒼穹祢は心の中でそう漏らした。
 やがて蒼穹祢は、悲鳴にも似た嗚咽を上げた。

       ◆

「私を研究チームに入れてください、お願いします」
 事故から二か月後のこと。数枚の書面が並び置かれた机の前で、蒼穹祢は深々と頭を下げる。
 対面に座る数人の科学者は幾度か〝緋那子〟と口にしたが、最終的には蒼穹祢を研究チームに加える許可を出してくれた。
(ヒナの姉だから……私を受け入れたのでしょうけど、入れるならなんでもいいわ。とにかく、必ずあの子を――……)
 事故後、緋那子の部屋を片付ける最中に見つけた数枚の書類。それは妹が宇宙飛行士に選ばれる前に協力していた、拡張現実研究所の資料と成果だった。名前のとおり、その研究所はARに関する様々な研究を担っており、城ケ丘高校とも提携をしていたらしい。ロケットに搭載していたARの技術も、この研究チームが一枚噛んでいた実績がある。
(ヒナが残したものを使わせてもらうわ)
 緋那子の主治医によれば、脳の記憶を司る部位に損傷はないとのこと。ならば、蒼穹祢にできることがまだ一つ残されている。
(生身は無理でも、仮想体としてなら目覚めさせることが可能なはず。だからヒナ、もう少し待ってて。お姉ちゃん、ヒナのしてきたことを勉強しないといけないから)

 ――――九か月後。

 エンターキーに触れる指が小刻みに震える。手首に装着した《パラレルコネクタ》ごと、蒼穹祢は利き手の震えをもう一方の手で押さえた。
 背後を伺えば、ベッドの上で多数の生命維持装置を付け、静かに眠る緋那子の姿。
「ついに……、ヒナと逢える日が……」
 この日を迎えるためにどれほどの努力を重ねてきたか。蒼穹祢は悪夢の日から今日に至るまでを走馬灯のように思い返し、――エンターキーを丁寧に押した。ディスプレイに映し出されたのは簡素な『Loding...』のみ。そして、
「……ヒナ」
 目の前に現れた、――生まれたままの姿で立つ妹、緋那子。
「……ヒナッ」
 いつもは鋭い目尻がシワを刻み、薄っすらと涙が浮かぶ。
 緋那子は大きく柔らかな瞳を開き、静かに周囲を見て、最後に真正面の姉を捉え、
「……お姉ちゃん? あれ、私……、どうして……?」
 お姉ちゃん、その一言を耳にするだけで胸が熱くなる。
 頬、喉の筋肉が痙攣し、上手く声が出せないけれども、蒼穹祢は懸命に声帯に力を込め、
「お、覚えてる? 自分の身に、何があったか……」
「私の身に、何が……って? たしかロケットに乗って、みんなで無事を祈って、それで……」
 それで……、それ以降はなかなか言葉が出ず、――次第に彼女の顔が曇り始め、
「き、訊いてごめんなさいっ。もう、つらいことは思い出さなくていいわ!」
 蒼穹祢は不安の念に苛む緋那子に思わず腕を回した。しかし、
「……え、お姉ちゃん?」
 生身で仮想体を抱くことは不可能、そんなことはわかり切っていたはずなのに。
「しまっ……。ヒナ、とりあえず話を……き、聞いて?」
 しかし緋那子はすでに、生命維持装置に囲まれて眠る自分自身を凝視していた。
「まさか、これって……。…………やっぱり、私……」
 拡張現実という概念を知り尽くし、頭のいい緋那子ならすぐに察しただろう、自分の置かれている立場に。
 刻々と震える唇、揺れるつぶらな瞳。
 やがて目元を歪め、緋那子はボロボロと涙を流す。姉の前だというのに、大きな嗚咽を上げて泣きじゃくる。しかしどれだけの涙が床へ零れても、決して雫は残らない。
「くぅうううっ!」
 歯を食いしばった蒼穹祢は、エンターキーを叩くように押した。すると仮想体の緋那子は眠るように喪失して、ふらりと床に崩れる。
「うううっ……うううううッ!!」
 爪が食い込むくらいに拳を握る。奥歯だって、歯茎が軋むほどに噛み締める。それでも心に圧しかかる罪悪感とも呼べそうな感情は決して紛れやしない。
 ポタリ、ポタリと水滴がキーボードに落ちる。
「これって結局、私の自己満足なの?」
 二度と目覚めることはない、と医師に宣告された妹の身体。ならば彼女に別の身体を与えてやろうと、こうして行動に移したのだけれど。結果、妹に現実を知らしめただけだった。
 蒼穹祢はキーを操作し、
(このエンターを押せば、SSDにあるヒナの記憶を補助するためのプログラムはすべて消える。再インストールはヒナにも負担を強いるし、難しい。だからプログラムをここで消せば仮想体なんて姿は二度と……)
 ロケット事故で損傷した緋那子の脳だが、サーバーの演算処理を借りることで記憶のプロセスを補助することが可能で、仮想体として活動する間も緋那子自身の脳が意思と記憶を持つ。だから補助プログラムをここで消してしまえば、緋那子は二度と仮想体として生きることはできないのだ。
 だけど、心の中で何度か決意をしても、キーは押せなかった。