ヒナはうなずく。しかしヒナの登場で些末の隙を生んでしまった大地を見計らい、騎士は翻って、ヒナを追って駆け出す。
「ヤベッ、しまった!」
がら空きの鎧の背中に大地は仕掛けるも、
「邪魔しないでと言っているの、わからないの!?」
勢いづけて見返った騎士は、薙ぐように刃を捌く。光に目が眩み、一撃をまともに浴びた大地。電源を入れていたコネクタが、彼の身体を電流で蝕む。
「ヒッ、ヒナ……、逃げろッ……」
大地は声帯に精一杯の力を込めてヒナへ言い放った。けれども、あろうことか彼女は足の動きを緩めていたのだ。自らに寄ろうとする騎士を、なぜか迫真の表情で凝視する。
「……あれ? その声……。どっかで……どっかで…………あれ?」
惑星を模った髪留め越しに、セミショートの赤髪を掴んだ記憶喪失の少女。唖然から困惑へと、段階を経て顔色が移り変わる。
「ヒナ! おい! どうした、逃げろ!」
「大地、ヒナはどうなってるの!? まさか立ち止まってるの!?」
「え、ヒナちゃん!? 立ち止まっちゃダメだよ! 逃げて!」
研究部の三人が声を張り上げながら戸惑う一方で、騎士は一歩一歩を確かめるようにヒナの下へ迫る。それでもヒナは逃げるという選択に移りはせず――……。
そして。
ヒナの前で佇立する騎士は、無言のままロングソードを掲げた。大地に変わってレミによる妨害を何度受けようとも体勢を立て直し、おもむろに。
(なんだ、なんだよ……、いったい何がどうなってるんだよ!?)
一撃を振り下ろさせまいと、研究部は抵抗を粘る。だが、スマートフォンのバッテリーがとうとう切れてしまい、そして――――、騎士の斬撃がヒナに放たれた。
「……くッ」
輝く刃の光が視界を潰し、……程なくして肩を落とした大地。
終わった。半ば諦めの心情で、彼は閉じたまぶたをやがて開けた。
「…………、え?」
消えてなんぞいなかった。――ヒナは直立不動のまま、騎士の前で変わらず立っていた。
騎士は長剣を完全に振り下ろしはせず、髪飾りに触れるよう腕を止めていた。
「――――やっぱりできるわけ、ないじゃない」
ポツリと、悲痛な女の声が白銀の鎧から漏れた。
両手で握られた長い剣は、赤髪から身体のラインを沿うように肩、腕、脇腹、それから脚へと下ろされ、手から離れた柄は乾いた音を立て、床に落ちる。
研究部の三人が黙然と見守る中、騎士は力なく右膝を床に突き、続いて左膝が崩れた。
頭を覆う兜が割れた音を立て、徐々に……、そうして跡形もなくすべてが崩れ落ちる。
現れたその顔、髪色は――――――、
「あ……、ああ……そうだった……。思い……出した…………」
ヒナは震える両手で赤髪に触れる。目の前の青髪を垂らせた少女、――神代蒼穹祢を真っすぐ見据えて、
「全部思い出したよ――――、蒼穹祢お姉ちゃん」
第四章 虚数世界の女王〈マージナル・ハート〉
1
「おねえ……ちゃんっ……」
赤髪の少女は今にも壊れてしまいそうな震える手で、前で膝を崩している顔立ちの似た少女に触れる。前髪から頬にかけて緩やかに、確かめるように指を滑らせて。
その呼び名で私を呼ぶのなら、この子は確かに記憶を戻したのね。肌を触れられた蒼穹祢はそっと考える。
次第に崩れる、白銀の鎧。地に落ちた装備は跡形もなく消えていく。そうして露わになったのは、白色の戦闘用スーツで映えるしなやかな身体つき。
「ヒナぁ……ッ、うっ……」
瞳を潤ませ、妹の手を優しく握る姉。仮想体同士であるがゆえに、温もりと呼べるようなものが肌に伝わってきた。
「ど、どういうことだよ……? お姉ちゃん? 神代先輩が……ヒナの姉ちゃん?」
背後からの混迷の声。研究部・逢坂大地のものだ。
ヒナは腰を折り、今の今まで敵としての立場だった蒼穹祢と目線を合わせ、
「思い出したよ、蒼穹祢お姉ちゃん……。ロケットに乗って事故に遭ったことも、……もう助からない……ことも、お姉ちゃんに……酷いトコ……見せたのもっ……全部……っ」
「ヒナ、いいから! ヒナはもう、つらい思いをする必要は……ないから…………っ」
ポツリと、一滴の雫が頬から顎にかけて滴る。だけど落ちた粒が床に残ることはなかった。
「お姉ちゃん……こそ、すごく……苦しそう……だよ? 無理してるの、バレバレ……だよ?」
それを言う妹の瞳だって揺れている。無理して引き上げた唇の端も小刻みに震えている。
背後に目をやると、逢坂大地のほか、深津檸御はあやふやな顔つきで眉間にしわを寄せ、中原あおいが困惑の面持ちでこちらを見ていた。
わかるはず、ないわよね……。姉は薄っすら思う。おそらく彼らは宇宙飛行プロジェクトを調べる一環で〈拡張戦線〉に参加したのだから。半信半疑でこのセンターへとやって来たのだから。だから〈拡張戦線〉における蒼穹祢の目的など知る由もないのだし、今の攻防が真の命のやり取りだったという事実にも気づくまい。
「……どうすれば、……どうすればッ……いいのよぉ……」
少女は虚空へ縋ると、一度落とした剣を迷いの手で握った。
そして追憶する、この結末を招いたあの“悲劇”を。あの“禁忌”を――――……。
◆
神代蒼穹祢は真面目で成績優秀だった。受験して入学した難関の私立小学校でも、在学中は一度も課題の提出を忘れたことはなかったし、テストだって毎回のように高得点。レベルの高い環境においても、彼女は周りから一目置かれた存在であった。
だけど、それは――――、
「えへへ、またお姉ちゃんに勝っちゃった。やったやった~」
青髪ロングの姉とは対照的な髪型、髪色の少女は、心から嬉しそうな笑顔でヒラヒラとテスト用紙を見せびらかす。紙の端には赤い『98』の数字が描かれていた。
「たった二点差でしょ。そんなに自慢しないの、みっともない」
「あはは、ごめんね~」
「ふふっ、もう」
――――一目置かれていたという事実は、双子の妹――神代緋那子も同じことだった。
「………………」
いや、薄々は気づいていたのだろう。ひょっとしたら妹のほうが自分よりも優れていることなんて。だけど小学生のころは〝優れた姉妹〟として妹と扱われていたから、蒼穹祢は気づかないふりをしていたのかもしれない――……。
「ねぇねぇ、おねーちゃんっ」
未来都市、平坦な研究施設が連なる中のバス停。バスを降りた緋那子はテスト用紙を鞄に仕舞い込み、先に降りていた蒼穹祢の前へ駆け足で現れると、ニコリと笑って天空に指を突き立てて、
「今日も一緒にお星さまを見よっ」
「晴れていて寒くないし、いいわね。アンドロメダが主役の夜空は悪くないわ」
「アンドロメダもそうだけど、わたしは近くのカシオペアも好きっ」
太陽を手で遮りつつ蒼穹祢は空を見上げた。晴天で、白い雲がプカプカと心地よさそうに浮いている。この調子なら日没後も天候は安定して、屋外で空を見渡せるだろう。
「彗星や流れ星もそろそろ見てみたいわ。それらを見たのっていつ?」
「うーん、だいぶ前だっけ? そうだよね。キラーンって光るお星さま、また見たいなあ」
それぞれの楽しみを胸に、姉妹は夜の訪れに期待を膨らませ――。
「あっ、カシオペア発見!」
自宅のベランダで、防寒具を着た姉妹は揃って夜空を眺める。代々優れた科学者を輩出してきた神代一族の生まれである彼女らの両親もやはり科学者で、専門の図鑑も、高価な望遠鏡も喜んで娘たちに買い与えてくれた。
「西にあるのがペガサスね」
蒼穹祢は分厚い本と照らし合わせながら、空をじっくりと眺める。
緋那子も姉と同じように、羨望の眼差しを夜空に向け、
「いつか宇宙に行ってみたいなぁ」
「宇宙飛行士になれるのなんてよっぽどすごくないと無理よ。世界中の人と枠の争奪戦ね」
「お姉ちゃんは行きたくないの?」
「行きたいわよ。だって宇宙には大きな可能性がある、そうでしょ? たくさんの星があって、未知の物質があって……」
大部分が液体・気体で構成された木星型惑星、星の終末期の姿である白色矮星、星が一生を終える際に起こす超新星爆発、見る者を魅了する銀河、極めて強力な重力をもったブラックホール……見たいと思うものなんて、数えても数えきれないほどに。
「でもお姉ちゃん、宇宙って“寂しい”よね。星はいっぱい見れても、結局真っ暗なトコを泳ぐだけだし。そう考えると、宇宙に行ってもなんだかなあ」
「宇宙飛行士は地球のためのお仕事をしてるのっ。観光に行くわけじゃないわ!」
言われなくてもわかってるってば、と緋那子は苦笑いで返したが、
「だけどね、宇宙ってメチャメチャ広いでしょ? だったらさ、宇宙のちょっとくらいを貸してもらって、わたし色に染めてみたいなって思うじゃん?」
「ヒナ色に? 家具でも置く……じゃなくて、浮かせるってこと? ダメよ、ゴミを捨てちゃ。スペースデブリの問題はヒナも知ってるでしょ?」
「実物を持ってくんじゃなくて、真っ暗な空間をバーチャルで上書きするの。それなら経済的で自由に染められるでしょ? 要するに、宇宙は超贅沢なわたしの塗り絵ってこと」
現実世界に仮想の情報をオーバーレイさせる概念、拡張現実。緋那子は拡張現実の話題を織り交ぜながら、具体的な目標を蒼穹祢に話していく。
「つまり宇宙をARで彩った〝わたしの宇宙〟を観ること、それが目標! だからまずはもっともっとARを勉強しないとね」
「へぇ、大きな目標……。ヒナ、お絵かき好きだもんね。だけどそれ、わたしも乗っていい? ヒナの言う自分色に染めた宇宙、わたしも興味ある」
緋那子は空へ向けていた意識を戻し、蒼穹祢の顔を見ると無邪気に笑って、
「一緒にがんばろうね、お姉ちゃん」
蒼穹祢も妹を見て、スッと表情を崩し、
「ええ、がんばりましょ」
その時。流星が長い光の糸を残し、虚空を斜めに堕ちていった。
「は、まさか流れ星!? しまったー……、見逃しちゃった! お願い事あったのに!」
「願い事? まさかそんなオカルトを信じてるなんて」
「いいじゃんオカルトでも。おまじない、わたしは好きですけどー?」
蒼穹祢はくすっと微笑した。
「実は……、わたしも好き。ねえヒナ、星が流れる間にお願いができなかった時のおまじない、知ってる? よかったら、一緒にやってみない?」
それはSNSなどで、天体好きの間で密かに流行となっているおまじないだ。星が流れる最中に願うことが難しいという理由から生まれたらしい。一人でもできるが、複数人で行うとそれだけの効力を得られるという話だ。
「あ、お姉ちゃんも知ってたんだ。それじゃ、せっかくだしやろうやろう」
「うんっ」
蒼穹祢は右手を差し出して緋那子の左手に触れると、指を絡ませるようにその手を握った。そして身体を寄せ、目をつむり、額と額を合わせる。妹の温もりが肌越しに染み渡った。
蒼穹祢は垣間見た星の流れを思い起こし、ある願いを心の中で唱える。宇宙に連れていってほしい、テストで緋那子に勝ちたい――……、数々の願望はあれど、彼女が思い描く願いはただ一つ。
やがて、二人は触れ合う額を離し、
「お姉ちゃん、どんなお願い事した?」
「ヒナが教えてくれたら教えてあげる」
「ふふーん、ナイショだよ」
「そっか。それならお互いナイショね」
◆
――――日頃から続けていた妹との天体観測も、私立中学校への入学を境に、その頻度は減少していった。
「…………くっ」
クシャリと、期末テストの結果の紙がシワを刻む。国語、数学、英語――……九教科の点数が並ぶ横に、学年順位の欄に刻まれる一桁の数字。
だけれども、彼女の顔は決してほころびはしない。
放課後、数人の女子に囲まれている赤髪の生徒が正面にいた。蒼穹祢が視線を投げて寄こすと、彼女――妹はその目配せに気づいたのか、わずかに目を逸らしながら、
「あ、お姉ちゃん……。その……今日、みんなとカラオケに行くから遅くなるね」
「ヤベッ、しまった!」
がら空きの鎧の背中に大地は仕掛けるも、
「邪魔しないでと言っているの、わからないの!?」
勢いづけて見返った騎士は、薙ぐように刃を捌く。光に目が眩み、一撃をまともに浴びた大地。電源を入れていたコネクタが、彼の身体を電流で蝕む。
「ヒッ、ヒナ……、逃げろッ……」
大地は声帯に精一杯の力を込めてヒナへ言い放った。けれども、あろうことか彼女は足の動きを緩めていたのだ。自らに寄ろうとする騎士を、なぜか迫真の表情で凝視する。
「……あれ? その声……。どっかで……どっかで…………あれ?」
惑星を模った髪留め越しに、セミショートの赤髪を掴んだ記憶喪失の少女。唖然から困惑へと、段階を経て顔色が移り変わる。
「ヒナ! おい! どうした、逃げろ!」
「大地、ヒナはどうなってるの!? まさか立ち止まってるの!?」
「え、ヒナちゃん!? 立ち止まっちゃダメだよ! 逃げて!」
研究部の三人が声を張り上げながら戸惑う一方で、騎士は一歩一歩を確かめるようにヒナの下へ迫る。それでもヒナは逃げるという選択に移りはせず――……。
そして。
ヒナの前で佇立する騎士は、無言のままロングソードを掲げた。大地に変わってレミによる妨害を何度受けようとも体勢を立て直し、おもむろに。
(なんだ、なんだよ……、いったい何がどうなってるんだよ!?)
一撃を振り下ろさせまいと、研究部は抵抗を粘る。だが、スマートフォンのバッテリーがとうとう切れてしまい、そして――――、騎士の斬撃がヒナに放たれた。
「……くッ」
輝く刃の光が視界を潰し、……程なくして肩を落とした大地。
終わった。半ば諦めの心情で、彼は閉じたまぶたをやがて開けた。
「…………、え?」
消えてなんぞいなかった。――ヒナは直立不動のまま、騎士の前で変わらず立っていた。
騎士は長剣を完全に振り下ろしはせず、髪飾りに触れるよう腕を止めていた。
「――――やっぱりできるわけ、ないじゃない」
ポツリと、悲痛な女の声が白銀の鎧から漏れた。
両手で握られた長い剣は、赤髪から身体のラインを沿うように肩、腕、脇腹、それから脚へと下ろされ、手から離れた柄は乾いた音を立て、床に落ちる。
研究部の三人が黙然と見守る中、騎士は力なく右膝を床に突き、続いて左膝が崩れた。
頭を覆う兜が割れた音を立て、徐々に……、そうして跡形もなくすべてが崩れ落ちる。
現れたその顔、髪色は――――――、
「あ……、ああ……そうだった……。思い……出した…………」
ヒナは震える両手で赤髪に触れる。目の前の青髪を垂らせた少女、――神代蒼穹祢を真っすぐ見据えて、
「全部思い出したよ――――、蒼穹祢お姉ちゃん」
第四章 虚数世界の女王〈マージナル・ハート〉
1
「おねえ……ちゃんっ……」
赤髪の少女は今にも壊れてしまいそうな震える手で、前で膝を崩している顔立ちの似た少女に触れる。前髪から頬にかけて緩やかに、確かめるように指を滑らせて。
その呼び名で私を呼ぶのなら、この子は確かに記憶を戻したのね。肌を触れられた蒼穹祢はそっと考える。
次第に崩れる、白銀の鎧。地に落ちた装備は跡形もなく消えていく。そうして露わになったのは、白色の戦闘用スーツで映えるしなやかな身体つき。
「ヒナぁ……ッ、うっ……」
瞳を潤ませ、妹の手を優しく握る姉。仮想体同士であるがゆえに、温もりと呼べるようなものが肌に伝わってきた。
「ど、どういうことだよ……? お姉ちゃん? 神代先輩が……ヒナの姉ちゃん?」
背後からの混迷の声。研究部・逢坂大地のものだ。
ヒナは腰を折り、今の今まで敵としての立場だった蒼穹祢と目線を合わせ、
「思い出したよ、蒼穹祢お姉ちゃん……。ロケットに乗って事故に遭ったことも、……もう助からない……ことも、お姉ちゃんに……酷いトコ……見せたのもっ……全部……っ」
「ヒナ、いいから! ヒナはもう、つらい思いをする必要は……ないから…………っ」
ポツリと、一滴の雫が頬から顎にかけて滴る。だけど落ちた粒が床に残ることはなかった。
「お姉ちゃん……こそ、すごく……苦しそう……だよ? 無理してるの、バレバレ……だよ?」
それを言う妹の瞳だって揺れている。無理して引き上げた唇の端も小刻みに震えている。
背後に目をやると、逢坂大地のほか、深津檸御はあやふやな顔つきで眉間にしわを寄せ、中原あおいが困惑の面持ちでこちらを見ていた。
わかるはず、ないわよね……。姉は薄っすら思う。おそらく彼らは宇宙飛行プロジェクトを調べる一環で〈拡張戦線〉に参加したのだから。半信半疑でこのセンターへとやって来たのだから。だから〈拡張戦線〉における蒼穹祢の目的など知る由もないのだし、今の攻防が真の命のやり取りだったという事実にも気づくまい。
「……どうすれば、……どうすればッ……いいのよぉ……」
少女は虚空へ縋ると、一度落とした剣を迷いの手で握った。
そして追憶する、この結末を招いたあの“悲劇”を。あの“禁忌”を――――……。
◆
神代蒼穹祢は真面目で成績優秀だった。受験して入学した難関の私立小学校でも、在学中は一度も課題の提出を忘れたことはなかったし、テストだって毎回のように高得点。レベルの高い環境においても、彼女は周りから一目置かれた存在であった。
だけど、それは――――、
「えへへ、またお姉ちゃんに勝っちゃった。やったやった~」
青髪ロングの姉とは対照的な髪型、髪色の少女は、心から嬉しそうな笑顔でヒラヒラとテスト用紙を見せびらかす。紙の端には赤い『98』の数字が描かれていた。
「たった二点差でしょ。そんなに自慢しないの、みっともない」
「あはは、ごめんね~」
「ふふっ、もう」
――――一目置かれていたという事実は、双子の妹――神代緋那子も同じことだった。
「………………」
いや、薄々は気づいていたのだろう。ひょっとしたら妹のほうが自分よりも優れていることなんて。だけど小学生のころは〝優れた姉妹〟として妹と扱われていたから、蒼穹祢は気づかないふりをしていたのかもしれない――……。
「ねぇねぇ、おねーちゃんっ」
未来都市、平坦な研究施設が連なる中のバス停。バスを降りた緋那子はテスト用紙を鞄に仕舞い込み、先に降りていた蒼穹祢の前へ駆け足で現れると、ニコリと笑って天空に指を突き立てて、
「今日も一緒にお星さまを見よっ」
「晴れていて寒くないし、いいわね。アンドロメダが主役の夜空は悪くないわ」
「アンドロメダもそうだけど、わたしは近くのカシオペアも好きっ」
太陽を手で遮りつつ蒼穹祢は空を見上げた。晴天で、白い雲がプカプカと心地よさそうに浮いている。この調子なら日没後も天候は安定して、屋外で空を見渡せるだろう。
「彗星や流れ星もそろそろ見てみたいわ。それらを見たのっていつ?」
「うーん、だいぶ前だっけ? そうだよね。キラーンって光るお星さま、また見たいなあ」
それぞれの楽しみを胸に、姉妹は夜の訪れに期待を膨らませ――。
「あっ、カシオペア発見!」
自宅のベランダで、防寒具を着た姉妹は揃って夜空を眺める。代々優れた科学者を輩出してきた神代一族の生まれである彼女らの両親もやはり科学者で、専門の図鑑も、高価な望遠鏡も喜んで娘たちに買い与えてくれた。
「西にあるのがペガサスね」
蒼穹祢は分厚い本と照らし合わせながら、空をじっくりと眺める。
緋那子も姉と同じように、羨望の眼差しを夜空に向け、
「いつか宇宙に行ってみたいなぁ」
「宇宙飛行士になれるのなんてよっぽどすごくないと無理よ。世界中の人と枠の争奪戦ね」
「お姉ちゃんは行きたくないの?」
「行きたいわよ。だって宇宙には大きな可能性がある、そうでしょ? たくさんの星があって、未知の物質があって……」
大部分が液体・気体で構成された木星型惑星、星の終末期の姿である白色矮星、星が一生を終える際に起こす超新星爆発、見る者を魅了する銀河、極めて強力な重力をもったブラックホール……見たいと思うものなんて、数えても数えきれないほどに。
「でもお姉ちゃん、宇宙って“寂しい”よね。星はいっぱい見れても、結局真っ暗なトコを泳ぐだけだし。そう考えると、宇宙に行ってもなんだかなあ」
「宇宙飛行士は地球のためのお仕事をしてるのっ。観光に行くわけじゃないわ!」
言われなくてもわかってるってば、と緋那子は苦笑いで返したが、
「だけどね、宇宙ってメチャメチャ広いでしょ? だったらさ、宇宙のちょっとくらいを貸してもらって、わたし色に染めてみたいなって思うじゃん?」
「ヒナ色に? 家具でも置く……じゃなくて、浮かせるってこと? ダメよ、ゴミを捨てちゃ。スペースデブリの問題はヒナも知ってるでしょ?」
「実物を持ってくんじゃなくて、真っ暗な空間をバーチャルで上書きするの。それなら経済的で自由に染められるでしょ? 要するに、宇宙は超贅沢なわたしの塗り絵ってこと」
現実世界に仮想の情報をオーバーレイさせる概念、拡張現実。緋那子は拡張現実の話題を織り交ぜながら、具体的な目標を蒼穹祢に話していく。
「つまり宇宙をARで彩った〝わたしの宇宙〟を観ること、それが目標! だからまずはもっともっとARを勉強しないとね」
「へぇ、大きな目標……。ヒナ、お絵かき好きだもんね。だけどそれ、わたしも乗っていい? ヒナの言う自分色に染めた宇宙、わたしも興味ある」
緋那子は空へ向けていた意識を戻し、蒼穹祢の顔を見ると無邪気に笑って、
「一緒にがんばろうね、お姉ちゃん」
蒼穹祢も妹を見て、スッと表情を崩し、
「ええ、がんばりましょ」
その時。流星が長い光の糸を残し、虚空を斜めに堕ちていった。
「は、まさか流れ星!? しまったー……、見逃しちゃった! お願い事あったのに!」
「願い事? まさかそんなオカルトを信じてるなんて」
「いいじゃんオカルトでも。おまじない、わたしは好きですけどー?」
蒼穹祢はくすっと微笑した。
「実は……、わたしも好き。ねえヒナ、星が流れる間にお願いができなかった時のおまじない、知ってる? よかったら、一緒にやってみない?」
それはSNSなどで、天体好きの間で密かに流行となっているおまじないだ。星が流れる最中に願うことが難しいという理由から生まれたらしい。一人でもできるが、複数人で行うとそれだけの効力を得られるという話だ。
「あ、お姉ちゃんも知ってたんだ。それじゃ、せっかくだしやろうやろう」
「うんっ」
蒼穹祢は右手を差し出して緋那子の左手に触れると、指を絡ませるようにその手を握った。そして身体を寄せ、目をつむり、額と額を合わせる。妹の温もりが肌越しに染み渡った。
蒼穹祢は垣間見た星の流れを思い起こし、ある願いを心の中で唱える。宇宙に連れていってほしい、テストで緋那子に勝ちたい――……、数々の願望はあれど、彼女が思い描く願いはただ一つ。
やがて、二人は触れ合う額を離し、
「お姉ちゃん、どんなお願い事した?」
「ヒナが教えてくれたら教えてあげる」
「ふふーん、ナイショだよ」
「そっか。それならお互いナイショね」
◆
――――日頃から続けていた妹との天体観測も、私立中学校への入学を境に、その頻度は減少していった。
「…………くっ」
クシャリと、期末テストの結果の紙がシワを刻む。国語、数学、英語――……九教科の点数が並ぶ横に、学年順位の欄に刻まれる一桁の数字。
だけれども、彼女の顔は決してほころびはしない。
放課後、数人の女子に囲まれている赤髪の生徒が正面にいた。蒼穹祢が視線を投げて寄こすと、彼女――妹はその目配せに気づいたのか、わずかに目を逸らしながら、
「あ、お姉ちゃん……。その……今日、みんなとカラオケに行くから遅くなるね」