君と交わした約束を僕は忘れない

「フッフッフ! 遅かったわね、悠里君。待っていたわよ」

 僕に気づいた奈津美先輩は、平らな胸の前で腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべた。
 昼休みに色々と失敗したから、この仕草と態度で部長の貫録を見せているつもりなのだろう。奈津美先輩は、割と〝先輩〟や〝部長〟としての面子に拘る人なのである。僕にかっこ悪い姿を見せるのが嫌らしい。

 もっとも、今日のような失敗をこの一年ちょっとの間に何度も見せられてきたのだ。今さら取り繕ったところで、後の祭りもいいところである。

「掃除が長引いたんです。それよりも先輩、さっさと本題に入ってください。昼休みに言おうとしていた話って、一体何ですか?」

 カバンをテーブルに置きつつ、奈津美先輩の対面に座る。
 奈津美先輩は『デキる部長』アピールは完全にスルーされ、少しご立腹のご様子。けれど、自分の手柄を自慢したいという欲求が勝ったのだろう。すぐにまた「フフフ……」と、ドヤ顔でにやつき始めた。

「悠里君がそんなに聞きたいと言うのなら、仕方ないわね。いいわ、教えてあげる!」

「あ、そんなに聞きたいわけではないので、仕方ないなら別に教えてくれなくていいです。お疲れ様でした、今日はこれで失礼します」

「わ~っ! 待って、待って、帰らないで~。私が悪かったわ。調子に乗って、ごめんなさい。反省するから、話を聞いて~~~~!!」

 本気で帰ろうと思って席を立ったら、思い切り手を引っ張られた。奈津美先輩の少しひんやりしていて柔らかな手の感触に、自然と頬が熱くなる。

 この人、パーソナルスペースが異常に狭いのか、何かあると咄嗟に手やら腰やらにしがみついてくるのだ。恥ずかしいから勘弁してほしい。
 というか、これではやっていることが、おもちゃを買ってもらえなかった子供と変わらないと思う。本当に威厳とは縁遠い人だ。

「わかりました。聞きます。だから、そろそろ手を放してください」

「へ? あ、ごめんなさい」

 イエスと言うまで放してくれそうにないので、仕方なく座り直す。奈津美先輩も自分が僕の手を握り締めていたと気づき、慌てて自分の手を離した。
 奈津美先輩はソファーに腰を下ろし、少し乱れたスカートの裾を整えている。そして、「コホン」とひとつ咳払いをして、僕の目を真正面から見据えた。
「それでは気を改めまして……。悠里君、私、ついにやったの!」

 バンッとテーブルを叩き、奈津美先輩が興奮した様子で身を乗り出してきた。間近に迫った黒い瞳の中には、星がキラキラと輝いている。開口一番、暴走超特急モードに突入したらしい。さっきスカートの裾を整えたのは何だったんだ、と思いつつ、僕は奈津美先輩にぶつからないよう体をのけぞらせた。

「それはもう聞きましたから。さっさとその続きを……」

「苦節二か月半、新年度になってから重ねてきた努力が、ついに実を結んだのよ。あ~、私って本当に偉い! 悠里君も、そう思うでしょ!」

 人の話を聞きゃしないよ、この人。
 握り締めた拳を震わせてしみじみ語ったかと思えば、うっとりとした表情で突然の自画自賛。しかも、結局何をやったのか一向に言いやしない。
 これで同意を求められても、こっちはどう反応すればいいんだ。

「あ、もしかして朝の英単語小テストで平均点でも取れましたか? 確かにそれは、素晴らしいことですね。おめでとうございます。この調子で、引き続き頑張ってください」

「いいえ、それは今回も五点で……って、違う! そうじゃなくて!」

 とりあえず適当なことを言ってみたら、ノリツッコミで返ってきた。
 そうか、今回も五点だったのか……。

 朝の英単語小テストとは、毎週月曜日の朝に全校一斉に行うテストだ。テストは二十点満点で、受験生でもある三年生の平均点は十四~十五点ほどと聞いたことがある。つまり、先輩の得点は平均点のおよそ三分の一だ。

 ちなみにこのテスト、平均点の半分以下を五回連続で取ると、もれなく補習がプレゼントされる。奈津美先輩はこれで四週連続平均点の半分以下だったはずだから、リーチが掛かったわけだ。

「悠里君、何で合掌なんかしているの?」

「いえ、『ご愁傷様です』という気持ちを表してみようかと思いまして」

「ま、まだ終わってないもん! 来週八点以上取れれば、まだ何とかなるもん!」

 奈津美先輩が手を振り回して喚く。人間は諦めが肝心ですよ、と教えてあげるべきか真剣に悩んだ。
「もう! 私の英単テストの結果はどうでもいいの! それよりも私の話!」

「はいはい、そうでしたね。どうぞ、話を続けてください」

 憐みによって優しい気持ちになれた僕は、穏やかな口調で先を促す。
 奈津美先輩は「まったく悠里君は……」と文句を言いつつも、話の方向を修正した。

「私が成し遂げたのは、他でもない。九條(くじょう)先生との粘り強い交渉の結果、私は遂に文集作成の自由を勝ち取ったのよ!」

 奈津美先輩が自信満々といった様子で、ついに今日の話とやらの核心を明かした。九條先生というのは、書籍部の顧問を務めている古典の先生だ。どうやら奈津美先輩がやってきたこととは、顧問との交渉のことだったらしい。
 ただ、その結果として勝ち取ってきたものが〝文集作成の自由〟とは、一体どういうことだろうか?

「文集作成の自由って、文集なら毎年作っているじゃないですか。というか、これがなくなったら、書籍部にまともな活動なんてないですよ」

「まともな活動がないとは失礼ね。悠里君は、書籍部への愛情が足りていないと思うわ」

「愛情って……。先輩によって拉致同然で入部させられた部活に、そんなもの感じているわけないじゃないですか」

「あ~、ひどい! 悠里君、またそういうこと言う。あれは拉致じゃないわ。合意の上だったもん!」

 両手を腰に当てて頬を膨らませる奈津美先輩に向かって、大きくため息をつく。
 そう。僕は好き好んでこんな存在意義のわからない部活に入ったわけではない。この人に、無理矢理入部させられたのだ。
 僕の頭の中に、高校に入学した日の出来事が鮮明に蘇る。
 あれは、奈津美先輩と七年ぶり(・・・・)に再会した直後のことだった。
「ようこそ、浅場南高校書籍部へ。私は、あなたを歓迎するわ!」

「……はい?」

 校門の前、唐突に歓迎されてしまった僕は、呆気に取られた声を上げていた。

 けれど、それも仕方がないことだと、僕は自分を弁護したい。だって、いきなり現れた見ず知らずの二年生に、いきなり入部を認められてしまったのだ。しかも、僕の意思とは関係なく……。
 これで動じないほど、僕は精神が強くも鈍くもない。それに、こんな状況に放りこまれたら、大抵の人間は僕と似たような反応をすると思う。

 ちなみに、僕を混乱の渦に落とし込んだ張本人は、手を差し伸べたまま悦に入った顔をしていた。感情が表に出やすい人のようで、「決まった!」と顔に書いてあった。
 何だか目の前の先輩のやり切った感が無性にイラッときて、僕の頭が急速に回り始める。

 一方、自己満足を終えたらしいその二年生は、差し出していた手で校舎の方を指さした。

「さあ、悠里君! 部長も待っているはずだから、早速、書籍部の部室へ行きましょう。案内するわ」

「いいえ、それには及びません」

 昇降口へ向かって歩き出そうとした二年の先輩へ、僕は拒否の意を込めて首を横に振った。
 二年生は不思議そうに立ち止まり、僕の顔を見る。きょとんとした顔は、あどけない感じでなかなかかわいらしい。

 ただ、何をどう勘違いしたのか、その顔はすぐに喜色満面に輝き始めた。
 嫌な予感がして僕が一歩下がると、彼女はそれを上回る勢いで詰め寄ってきた。

「すごいわ、悠里君! もう書籍部がどこにあるか知っていたのね。やっぱり私の目に間違いはなかったわ。あなたこそ、書籍部のエースになれる逸材よ!」

 興奮した様子で、早口に「すごい、すごい!」と連呼する二年生。彼女の斜め上を行く超理解に、僕は思わずずっこけた。

「部室を知っているなら話は早いわ。さあ、このまま顧問の先生のところへ、入部届を出しに行きましょう!」

「ああもう、違いますよ! さっきのは、『書籍部には入らない』って意味で言ったんです!」

 勝手に盛り上がって話を大きくする二年生へ、僕は負けずに声を大にして主張した。
 このままでは、僕の意思を完全無視したまま入部させられかねない。なので、はっきりと言葉にして拒絶する。
 すると、喜び飛び跳ねていた二年生は、一転してショックを受けた表情のまま固まってしまった。これが漫画なら、背後に「ガーン!」というオノマトペが表示されていることだろう。

「じゃあ、僕はこれで失礼します」

 若干の罪悪感を覚えつつも、茫然自失とした二年生を残し、その場から立ち去る。
 疲れているのに、さらに疲れることをしてしまった。深いため息をつきながら校門を出ようとする。
 その時、腰の辺りに何かがぶつかって来たような強い衝撃を受けた。

「……って、何やってんですか!」

 腰の衝撃の正体は、さっきの二年生だ。あろうことか彼女は、僕の腰にギュッとしがみついていた。抱きつかれた感触と温かさに、自然と頬が熱くなる。

「お、落ち着くのよ、悠里君! 早まってはいけないわ!」

「落ち着くのはあなたの方です! いいから、さっさと離れてください!」

「書籍部の初代部長は、現役の図書館司書よ。それに、他にも古典籍や書画の修復を行う会社に就職したOGもいるの。この人は私の知り合いだから、紹介してあげることもできるわ! 書籍部に入れば、きっとあなたの夢のプラスにもなるわよ!」

「人の話を聞けーっ!!」

 僕の言葉なんかこれっぽっちも聞かず、腰に抱きついたまま喚き立てる二年生。この人、もはや先輩然とした余裕やら何やらを色々かなぐり捨てて、手段を選ばず実力行使に出やがった。何が何でも逃がさないつもりなのか、より一層腕に力を込めてくる。

 何なんだよ、この人は!

 彼女を引き離そうと四苦八苦しつつ、思わず心の中で泣き言を漏らしてしまう。相手が女子とはいえ、腰に全力でしがみつかれたら、腕を外すのは難しい。ついでに言えば、僕は完全に文化系で腕力には自信がないんだ。ホント、誰か助けてくれ!

 救いを求め、勧誘街道の方へと目を向ける。
 けれど、これが更なる不幸の始まりだった。騒ぎを聞きつけ、近くの生徒たちも集まってきたのだ。それも、僕を助けるためではなく、おもしろそうな見世物を見物するために……。「なんだ、痴話喧嘩か?」「修羅場よ、修羅場!」という期待に満ちた声が聞こえてきて、僕は頬どころか全身が真っ赤になった。入学早々、公開処刑された気分だ。

 ともあれ、このままでは埒が明かない。僕は降参するように息を吐き、くっつき虫状態の二年生へ声を掛けた。

「わかりました。とりあえず逃げませんから、先輩も離れてください」

「……本当に? 本当に逃げない?」

「逃げません。逃げませんから離れてください。僕もいい加減、この視線に心が折れそうです」

「視線……?」

 抱きついた姿勢のまま、彼女は首を回して周囲の状況を確認する。そして、トマトのように顔を赤くして、ボンッと頭から湯気を吹いた。

「ご、ごごごごめんなさい! 私、つい……」

 パッと手を離し、彼女はササッと僕から距離を置いた。ようやく自分が如何にはしたないことをしていたか、察してくれたらしい。
 彼女が僕から離れると、興味を失ったのか、生徒たちは瞬く間に散っていった。
 これでやっと、人心地つける……と思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
「では、気を取り直して……。ようこそ、浅場南高校書籍部へ。私は、あなたを歓迎するわ!」

 なんとこの二年生は、懲りずに同じことを繰り返してきやがった。立ち直りが早い上に、学習しない人だ。
 と思ったら、顔は赤いままだった。どうやらやせ我慢しているだけみたいだ。どうにか余裕の笑みを浮かべている彼女に、僕は呆れ交じりの声でこう尋ねた。

「先輩、何でそこまでして、僕をその書籍部とやらに入れたがるんですか? 一年生なら、他にもたくさんいるでしょうに」

「悠里君なら、すぐにうちの部に入ってくれるかな~って思って。書籍部って、ここ数年は毎年入部者ひとりずつの少数精鋭なのよね。だから今年はいっそのこと、こっちから狙い撃ちしてみようかなって思ったの」

 えへん、と先輩が胸を張る。すごくガキっぽい。
 先輩、それは少数精鋭ではなく、単に人気がないというのです。
 そんな言葉が喉元までせり上がってきたけど、現実を突きつけるのもかわいそうなので必死に飲み込んだ。

「そうですか、それは結構なことで。でも、僕が他の部の勧誘に乗っていたら、どうするつもりだったんですか?」

「それは大丈夫! 悠里君なら、他の部の勧誘にも負けずに書籍部のところまで来てくれるって信じていたから! 校門で待っていれば、すぐに姿を現すって思っていたわ」

 彼女の、僕への信頼が重たい。そんな穴だらけの作戦に、そこまでの期待を乗せて待ち伏せないでほしい。
 まあ事実、僕は他の部になびくことなく勧誘街道を抜けて、このおかしな二年生に捕捉されてしまったわけだが……。そう思うと、この変な先輩の思い通りに動いてしまったようで、何だか無性に腹が立つ。

「それはほら、悠里君って小学生の頃から司書志望だったでしょ。書籍部とも相性バッチリじゃない?」

「は? 先輩、何でそんなこと知ってんですか?」

「え? 何で知っているのかって、昔、悠里君が教えてくれて……」

「僕が……先輩に……?」

 頭にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げる。
 僕の態度に、二年生はなぜかカチンと凍りついてしまった。表情は笑顔のままだけど、顔色がどんどん青ざめていく。ついでに、雪山で遭難でもしたかのように、ガチガチと体を震わせていた。
 感情が表に出やすい人というのは、こういう時に便利だ。動揺しまくっていることが、手に取るようにわかる。
 そんな状態のまま、彼女は縋るような口調でこんなことを聞いてきた。
「ま、まさかとは思うけど……悠里君、私が誰だかわからないなんてことは……あ、あるわけないわよね?」

「いや、バッチリ初対面だと思っていましたが……。どこかでお会いしたことありましたっけ?」

 バッサリと思ったままのことを告げる。
 少なくとも、こんな破天荒で素っ頓狂な行動をする女子に心当たりはない。

 ただ、そう思った瞬間、心に小さな引っ掛かりを感じた。

 そうだ、忘れていた。妙な行動の印象が強くなってしまってすっ飛んでいたけど、最初に名前を呼ばれた瞬間、なぜか懐かしい感じがしたのだ。
 もしかしたら本当に忘れているだけで、僕はこの人に会ったことがあるのかもしれない。僕がそう思い直して一応記憶を探り始めた瞬間、隣で「うわーん!」という泣き声が上がった。

「ひどい! 悠里君、私のことを忘れたなんて! 私は、入学式で悠里君が壇上に上がった時から気付いていたのに! ガチガチに固まってちょっと声が裏返っているところとか、猛烈にかわいいって微笑ましく思っていたのに!!」

「……先輩、もしかして僕にケンカ売ってますか? 売ってますよね?」

 両手で顔を覆った二年生に、僕は青筋を浮かべた笑顔のまま、優しく確認する。
 今のって、絶対腹いせだよな。僕が覚えていないことに対する腹いせだよな。
 すると、彼女は両手を下ろし、僕の方を見た。その目に涙はなく、むしろ憤りの炎が燃えている。彼女は怒りのままにビシッと僕を指差し、挑戦状でも叩きつけるように声を上げた。

「いいわ。忘れたというなら、絶対私からは名乗らない。意地でも悠里君自身に思い出してもらうんだから!」

「それは構わないですけど、このままだと僕、見ず知らずの先輩から勧誘を受けただけになりますよ。その場合、見ず知らずの先輩のために入部する義理はないので、このまま帰ることになりますが」

 上級生の大人気なさを目の当たりにして頭が冷えた僕が、冷静に指摘する。
 瞬間、彼女の勢いが目に見えて消沈した。心の中で葛藤しているらしく、口元をむにゃむにゃさせ、「あ~」とか「う~」とか唸っている。

 と思ったら、恨みがましい目つきで、僕のことを睨んできた。
「……七年前は、もっと素直でかわいい男の子だったのに~。少し会わない内に、どうしてこんなひねくれちゃったのかしら」

「ひねくれたとは何ですか。むしろ、ここまで付き合っているだけでもかなり心が広い部類だと……って、七年前?」

「そうよ! 七年前の夏、市立図書館、製本家、約束!」

 二年生が、キーワードのようにいくつかの単語を並べる。
 そのひとつひとつが僕の脳内に木霊し、ひとりの女の子の姿を映し出した。改めて彼女の顔をまじまじと見てみれば、確かに当時の面影もある。

 いや、でも、まさかな……。

 ありえないと思いつつも、僕は愛想笑いを浮かべて彼女に問い掛けた。

「あの~、つかぬことをお伺いしますが、先輩のお名前は栃折奈津美さんではないですよね……?」

「そうです! 私が栃折製本工房の栃折奈津美です!」

 両手を腰に当てた二年生が、ぷくっと頬を膨らませる。やっと思い出したのね、と言わんばかりだ。
 一方、僕の方は信じられないものを見たような心地だ。開いた口が塞がらない。もう少し体力が余っていたら、「うっそだ~っ!」と人目も憚らずに叫んでいたかもしれない。 

 確かに僕は七年前の夏、一週間だけ栃折奈津美という女の子と遊んでいた。けれど、当時の奈津美ちゃんは、芯は強いけどあまり自己主張しない、大人しい子だった。間違っても人前で腰にしがみつくような奇行をする子ではなかったはずだ。

「……まさか、偽物?」

「失礼ね。正真正銘、本人です」

 二年生が、ブレザーの胸ポケットから生徒手帳を取り出し、中を見せてきた。そこには確かに『栃折奈津美』という名前と、彼女の顔写真がある。
 何だか昔の思い出が崩れていく気がして、眩暈を起こしそうだ。
 そんな僕の心情に気づくこともなく、奈津美ちゃん改め奈津美先輩はなぜか勝ち誇った顔で、またもや超理論を展開し始めた。

「まあいいわ。さあ、これで納得できたでしょう? あなたはこの高校に入学したその時から、書籍部に入る運命だったのよ」

「いえ、わけがわかりませんから。先輩があの『奈津美ちゃん』だってことはわかりましたが、それとこれとは話が別です。僕、そろそろ勉強の時間なので失礼します」

 適当な理由をつけて帰ろうとしたら、また腰にしがみつかれた。

「七年前に約束したじゃない! まさか忘れたの!?」

「あの〝約束〟なら覚えていますが、〝書籍部に入る〟という約束を交わした覚えはありません!」

 再び奈津美先輩を引き離しながら、こちらも必死に反論する。
 すると、奈津美先輩も今度は意外とすんなり手を離してくれた。ただし、何だか様子がおかしい。先輩から、覚悟を決めた人間特有のオーラみたいなものを感じる。

「いいわ。それなら私も、最後の手段を取るから」

「は? 最後の手段?」

 嫌な予感を覚えながら尋ね返す。
 対する奈津美先輩は桜色の唇をニヤリと吊り上げ、おもむろに地面にうずくまった。
「ひどい! あんまりよ! 思わせぶりな態度で約束しておいて、飽きたらポイなのね! 女の子みたいに綺麗な顔して、中身は鬼畜外道なのね! 女ったらし! 天然ジゴロ!!」

 地面に伏せた奈津美先輩が、これ見よがしに大きな声で叫びながら泣き始めた。
 当然ながら、騒ぎを聞きつけて再び野次馬が集まってくる。どうやらこれが狙いだったようだ。この人、形振り構わな過ぎだろう!

 そうこうしている内に、野次馬の数は増えていく。突き刺さる野次馬からの白い視線。僕の方を見たり指さしたりしながら、ヒソヒソ話をしている。
 堪らず僕は、奈津美先輩に声を掛けた。

「ちょっ! 何やってんですか、先輩。みんな見ていますから、そんなみっともないマネ、やめてください」

「書籍部はもうおしまいよ! 今年も入部者0のまま、きっと私の代で廃部しちゃうんだわ~っ!」

 より一層大きな声で、奈津美先輩が喚き立てる。
 どうやらこの人、「死なばもろとも!」といらん覚悟を固めたらしい。先程の妙な威圧感の正体はこれだ。こうなっては、もうテコでも動きそうにない。

 泣きたいのは、僕の方だよ。何で入学早々、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。

 自分の不運を嘆きつつ、僕はもはやヤケクソで叫んだ。

「ああ、もう! わかりましたよ。入ればいいんでしょ、入れば! わかりましたから、さっさとやめてください」

「本当!」

 根負けして僕が折れた瞬間、奈津美先輩はパッと顔を輝かせながら立ち上がった。

「ありがとう、悠里君。君なら、きっと入部してくれるって信じていたわ!」

 僕の手を握り、目をキラキラさせる奈津美先輩。気のせいか、握る手の力がやたらと強い。僕を絶対に逃がさないという強い意志を感じる。

「そうと決まれば、早速部室へ行きましょう!」

「今からですか!? というか、そんな強く引っ張らないでください」

 僕の手を引っ張り、奈津美先輩はポカンとする野次馬の間を抜けていく。
 こうして僕は、抵抗虚しく書籍部の部室へ連行されたのだった。