あの日の彼女との出会い――いや、再会を、僕は一生忘れないだろう。
あれは、僕が高校生になった日のことだった。
つつがなく高校の入学式を終えた放課後、桜の花びら舞う昇降口から校門までの道は、様々な色で溢れていた。
道の脇で列を成す机。ユニフォームや思い思いの仮装で、メガホン片手に声を張り上げる先輩たち。浅場南高校伝統、新入生歓迎の部活動勧誘街道だ。
十人十色。目に入る光景も、耳から聞こえる声も、まるで虹のようにたくさんの色で煌いている。
先輩たちに出迎えられた新入生は、その熱量に圧倒され、同時に目を輝かせていた。みんな、華やかで激しい勧誘合戦を前に、これから始まる高校生活への期待を膨らませているようだった。
そんな新入生の中にあって、二日酔いのサラリーマンみたいに疲れ切った顔の生徒がひとり……。言うまでもないかもしれないが、僕のことだ。
ここはあえて、当時の気持ちを正直に言っておこう。この日の僕にとって、伝統の勧誘街道は、騒音のトンネル以外の何者でもなかった。ちょっと静かにしてくれ、と本気で叫びたかった。
無論、僕だって普段であれば、活気があっていいなと、この勧誘合戦を肯定的に思っただろう。僕だって健全な一高校生であり、これからの高校生活に人並みの期待を抱いていたのだ。青春の象徴ともいえる部活動に興味がないわけがない。
だけど、この日の僕は心身ともに疲れ切っていて、そんな心の余裕は微塵も残っていなかった。新入生総代の挨拶なんていう人生初の大役を果たし、とっくに精根尽き果てた出がらしとなっていたからだ。
早く帰って、ベッドに倒れ込みたい。それで、朝までぐっすり眠りたい。
僕の心は、そんな即物的な欲求でいっぱいだった。
勧誘の声に耳を傾けることなく、僕は人の群れを掻き分けて校門を目指した。差し出されるチラシをなけなしの気力を振り絞った愛想笑いで断りつつ、どうにか勧誘街道を切り抜ける。そうして人波を抜け、ホッと一息ついたその瞬間――彼女が僕の前に姿を現したのだ。
と言っても、僕がその女生徒の正体に気づくのは、もう数分先のことだけれど。
校門の支柱に寄りかかっていたその人は、僕の姿を見るなり微笑みを浮かべた。
背中まで伸びるまっすぐな黒髪に、子供の好奇心と大人の優しさを湛えた黒い瞳。肌の色は抜けるように白いが、頬はほんのり赤みが差している。
第一印象は、上品な日本人形といったところか。可憐と形容される笑顔を、僕はこの時、初めて見たような気がした。
支柱から体を離した彼女は、まっすぐ僕の方へ足を向ける。そして、僕の三歩手前で立ち止まった。夕日に煌めく絹糸のような黒髪が、春風になびいてサラリと揺れる。
胸元の校章の色は赤、どうやら二年生のようだ。
「――一ノ瀬悠里君」
綺麗な透き通る声で、彼女が僕の名前を呼ぶ。どこかで聞いたことがあるような、心に馴染む声の響きだ。
清水が染み渡るように、疲れていたはずの心が潤っていく。不思議な感覚を覚えて僕が立ち尽くしていると、再び彼女が口を開いた。
「一ノ瀬悠里君、君の夢は何?」
彼女の声が、僕の心の内側をくすぐる。まるで音叉のように、彼女の言葉に僕の心が共鳴する。
気が付けば、呆然と立ち尽くしていた僕は、自然と言葉を……心に秘めた自分の夢を口にしていた。
「僕の夢は……図書館司書になることです」
図書館で働く叔父さんの姿を見て、幼い頃から抱いていた僕の目標。小学生の時の出来事を経て、絶対に叶えなければと心に誓った夢。
なぜ僕は、誰とも知れない相手にそんな大事な夢を語っているのか。頭の片隅で、僕の理性が首を傾げている。
けれどこの時、僕は確かに感じたんだ。
なぜかはわからないけど、こうすることが正しいんだって。彼女には、はっきりと自分の夢を告げるべきなんだって。
「そう……。――よかったわ」
僕の答えを聞いたその人は、安心した様子で息をつき、うれしそうに笑った。
そして、僕に向かって手を差し出しながら、声を弾ませてこう言ったのだ。
「ようこそ、浅場南高校書籍部へ。私は、あなたを歓迎するわ!」
それが僕と彼女――栃折奈津美先輩との、二度目の出会いだった。
歳を取ると一年がとても早く過ぎるように感じると言うけれど、それは年長者だけの特権ではない。僕たち学生でも同じだと思う。
つまるところ、これはライフスタイルの問題なのだ。
毎日同じ時間に起きて、同じ時間に電車に乗る。朝から夕方まで、一定の間隔で授業を受け続ける。こんな決まり切った生活を続けていたら、時間の感覚だって麻痺してくるというものだ。
というわけで、高校に入学してからあっという間に一年と数カ月が経った。
僕は初々しい一年生から中間管理職的な二年生に進級し、今は六月下旬。校舎の外では、今日もどんよりとした雲が空を覆っていた。
これは、放課後には雨が降り出しているかもしれない。
僕は頬杖をついたまま、図書室のカウンターから灰色の雲を見つめる。
最近はずっとこんな天気ばかりだ。ここ一週間で、青空を見た記憶がない。こうもぐずついた天気ばかりだと、気分まで滅入ってくる。
「あの、すみません。この本の貸し出し、お願いします」
ふと声を掛けられ、視線と気持ちを室内に戻す。
今は、昼休みの図書室カウンター当番の真っ最中だ。カウンターの前には、一年生の校章を付けた男子生徒が立っていた。
男子生徒から貸出カードと本を受け取り、それぞれのバーコードを読み取っていく。
「お待たせしました。七月十二日までの貸し出しです」
本に期限日を書いたスリップをはさみ、男子生徒に手渡す。この学校の図書委員になって二年目。もはや目をつぶっていてもできそうなくらいに慣れた動作だ。
本を受け取った男子生徒は、「ありがとうございます」と頭を下げて去っていった。なかなか礼儀正しい後輩だ。
立ち去る後輩の後ろ姿を眺めていると、今度は自分の後ろから声が掛かった。
「一ノ瀬君、おつかれ。ごめんね、少し遅くなっちゃった。私、食べるの遅くて」
「いえ、時間通りですよ、宮野先輩」
声の主は、一緒にカウンター当番をやっている三年の先輩だ。
昼休みのカウンター当番は、ひとりがカウンターに座り、もうひとりが奥の準備室で昼食を取ることになっている。今日は僕が先にカウンターに入るシフトだ。
「今日はどんな感じ?」
席を代わりながら、宮野先輩が聞いてくる。三カ月近く一緒に当番をやっているだけあって、割とフランクな感じだ。
僕も同じく気楽な口調で引き継ぎをする。
「天気が悪い所為か、利用者多めですね。いつもより、少し忙しいです」
「了解。じゃあ、後はやっておくから、裏でお昼取ってきなよ」
「はい。よろしくお願いします」
宮野先輩に見送られ、カウンターから出る。
これで今日のお勤めは終わったようなものだ。後はいつも通り、昼休みが終わるまで、のんびり弁当を食べていればいい。
だけど、何の変哲もない日常というものは、得てして唐突に破られるもので……。
――バタンッ!
僕がカウンターから出たのと、まったく同時。出入り口の方から大きな音がして、図書室の静寂が打ち破られた。
いや、見方によっては真の静寂が作られたとも言えるかもしれない。なぜなら、図書室内にいた全員が驚いた顔で動きを止めたのだから。
ともあれ、おそらく今のは勢いよく開けられた扉が壁にぶつかった音だろう。扉にはめられているガラスにヒビが入っていないか、心配である。
まあ、それはとりあえず横に置いておこう。
大きな音に次いで、静まり返った図書室内にパタパタという軽やかな足音が響いた。
何だか聞き覚えのある足音である。というか、この足音は間違いない。この騒動の元凶は、絶対にあの人だ。
この学校の図書室は、カウンターから出入り口が見えない。出入り口とカウンター奥の準備室が横に並ぶ配置のため、背が高めの間仕切りがあるのだ。
よって数瞬の間、足音の主が姿を現すのを待つ。間仕切りの陰から姿を現したのは、やはり僕の予想通りの人物だった。
背中に流れる黒髪と、黒曜石のような黒い瞳。新雪のように白い肌と華奢な体。黙って立ってさえいれば、お淑やかな深窓の令嬢に見えなくもない女子生徒である。
ただし、今は興奮した様子でその白い頬をピンク色に上気させている。瞳は爛々と輝き、口元も笑みを抑え切れないといった様子だった。感情を隠すのが苦手な人なのだ。
ついでに言うなら、一度動き始めると、周りが見えなくなる人でもある。現に今も、周囲から向けられる奇異の視線に気付きもせず、図書室内をキョロキョロと見回している。
「あ、いた! おーい、悠里君!」
黒曜石の瞳に僕の姿を映し、彼女が大きく手を振ってきた。自然、図書室中の視線が僕の方に集まる。
恥ずかしいから、本当にやめてほしい。というか、隣から感じる宮野先輩の同情するような視線が心に痛い。
「探したわよ、悠里君。聞いて! 私、ついにやったの!」
パタパタと僕の前にやってきた彼女は、ウフフ、とうれしそうに笑う。
一方の僕は、仏頂面の半眼で答えた。
「ほう、そうですか。で、今回は何をやらかしたんですか、先輩? 職員室への呼び出しだったら、ひとりで行ってきてくださいね。補習だったら、逃げずに大人しく受けてきてください」
「もう、違うわよ! 人を問題児みたいに言わないで。〝やらかした〟んじゃなくて〝やった〟の!」
僕の皮肉に、奇怪な女生徒こと奈津美先輩は、上気した頬をぷくっと膨らませて憤慨した。笑ったり怒ったり、ころころと表情を変えて忙しない人だ。
あとひとつ言わせてもらえば、「問題児みたいに言わないで」も何も、現在進行形でやっていることがすでに問題だ。立派にやらかしている。
まあ、そんなことをいちいち突っこんでいては先に進まない。奈津美先輩と会話する上で大事なこと、それはスルースキルだ。過去を振り返ることなく、これからを大切にするため、僕は一切の感情を捨てた棒読みで言葉を紡いだ。
「わかりました。僕が間違っていました。先輩は問題児ではありませんし、やらかしてもいません。先輩は、僕が尊敬する立派な書籍部の部長です」
「うんうん。わかればいいのよ!」
奈津美先輩が、えへん! と胸を張る。
その仕草によって強調された部位が目に入った瞬間、僕の頭の中に〝関東平野〟の四文字が躍った。かわいそうに……。
「どうしたの、悠里君。お葬式みたいな顔をして」
「いえ、気にしないでください。ところで先輩、一度ゆっくり深呼吸をした後、周りを見回してみてくれますか?」
「へ? うん、わかったわ」
僕に言われた通り、奈津美先輩はその場でゆっくりと深呼吸をする。素直な人だ。
とりあえずこれで、先輩も少しは冷静になれたことだろう。安堵する僕の前で、奈津美先輩は周囲を見渡し……先程とは別の意味で頬を赤く染めた。
「気が付いてくれて、僕もうれしいです」
労わるような口調で重々しく言いながら、奈津美先輩の細い肩に手を置く。
頭が冷えたことで、ようやく自分が注目の的になっていることを察したようだ。それも、恥ずかしい意味での注目の的であることに……。
奈津美先輩に人並みの羞恥心を与えてくれた神様に、心から感謝したい。けど、欲を言うなら、猪突猛進な行動を起こさないための思慮深さも与えてほしかった。
ともあれ、これで奈津美先輩の暴走は治まった。今なら僕の話も耳に入るだろう。
「いいですか、先輩。僕は今、図書委員の仕事中です。それに、図書室はおしゃべりをする場所ではありません。この意味、わかりますよね」
まるで小さい子に言い聞かせるように、ゆっくりと図書室でのマナーを説く。
真っ赤な顔をした奈津美先輩は、驚くほど従順に、コクコクと何度も頷いた。
「お話は、放課後の部活の時に聞きます。今は大人しく、教室へ戻ってください。わかりましたか?」
最後にひとつ、コクリと頷き、奈津美先輩は回れ右をする。そのまま逃げるように、そそくさと図書室を後にした。これにて、一件落着。
それにしても、奈津美先輩の話って一体何だろうか。きっとロクなことじゃないんだろうな……。
去っていく奈津美先輩の後ろ姿を見送り、ひとつため息をつく。この一年数カ月の経験から鑑みるに、あの笑顔は絶対にろくでもないことを運んでくる。
せめて、職員室に謝りに行くような事態にはなりませんように。
どこの誰とも知れない神様に祈りつつ、僕は外の天気のようにどんよりした気分で、図書室の奥に引っ込んだ。