「純亜、聞いてんのカヨ!」

 ハッとして見ると、そこにあったのは、ミス・コケティッシュのソースより濃いバター顔だった。

「あんたの子が泣いてんダロ! ボーッとしてないで、解決策を考えろヨ」

 早紀ちゃんは、ミス・コケティッシュの小山のような胸に顔を埋めていた。というか、完全に埋まっていた。

「死ぬ!」

 早紀ちゃんが胸から首を抜いて、プハーッっと息を吐いた。確かにその顔には、涙の痕があった。香織ちゃんとよく似た小さい顔――そこに面影を見出して、ぼくも涙があふれてきた。

「チビが泣いてる……キモ」

 早紀ちゃんは、あの美しい母親が決して言わないような悪態をつくと、

「修一をなんとかして。あいつ、マジキチだから」

 父親のことを呼び捨てにした。

 ん、待てよ?

 実の父親はぼくか。この子も香織ちゃんも知らないけど、本当はそうなんだ。

 つまり、修一は育ての親だ。やつもまた、真実を知らずに、十四年間娘を育ててきた。

 が、今は頭がおかしくなって、ネズミみたいになったという。残念ながら、もはや父親の資格はない。それだけではない。香織ちゃんを幸せにしていないあいつには、夫である資格もないのだ!

 じゃあ、本当に、その資格があるのは――

「早紀ちゃん」

 ぼくは、一生分の勇気を振り絞って言った。

「修一の代わりに、ぼくがパパになっても、いいかな?」

「はあ? なにそれ。あんたもマジキチ?」

 自分の娘が指を頭に向けてくるくるまわすのを見て、この子をしっかり育てていかねばならんのだぞと、ずっしり重い責任を感じた。

「今までほっといてゴメンな。こんなこと、子どもに聞かせることじゃないけど、実はぼくと香織さんは、昔一度だけ手をつないだことがある」

「あ、そ」

「きみは、そのときにできた子なんだ。修一の子じゃない」

「へ?」

「いや、やっぱりよそう。このことは、あとでゆっくりお母さんと話す。それより今は、修一をどうするかだ」

「逮捕してよ」

「ぼくは警察じゃないから、それはできない」

「純亜」

 ミス・コケティッシュが、横から口をはさんだ。

「できないじゃナクて、逮捕されるようにしろヨ。殺人未遂なんてドウダ?」

「味の素を投げただけで?」

「香織か早紀ちゃんを、そろそろ喰い殺そうとするサ。純亜がそれを取り押さえて、ふんじばって警察に突き出せばいい」

「それはやめよう。この子たちを、危険にさらしたくない」

「ならどうすんダヨ」

「そうだなあ……」

 さてどうしたもんかと、頭がよじれるほど考えているうち、ふと、早紀ちゃんが着ていたTシャツのプリントに目が留まった。

 まるで、古いSF映画に出てくる宇宙人みたいな、緑色をした男の顔写真。おそらく特殊メイクか顔面ペイントだろうが、いったいなんのキャラクターだろう。

「その写真、誰?」

 指差して訊くと、早紀ちゃんは自分のシャツを見おろした。

「知らない? デャーモンだよ」

「デャーモン?」

「宇宙メタルのね。それも知らない?」

「全然」

「修一と一緒でなんにも知らないんだな。バンドのリーダーだよ。激しい曲をやるの」

「ふーん。ファンなんだ」

「一回聴いてみな。超絶イケてるから」

 やっぱり血は争えないな、と思った。ぼくも学生時代は、激しい音楽であるスピードメタルをよく聴いた。

 ああいうものを聴くと、つい暴れたくなる。たまにライブにも行ったが、客たちは頭やこぶしを振って身体をぶつけ合ったり、奇声を発したりして痴態を演じていた。

 修一こそ、ライブに行ったらいい。鬱屈した感情を、思いっきり暴れることで、発散させたらいいのだ。

「早紀ちゃん、そいつのこと好きナノカ?」

 ミス・コケティッシュがTシャツを指差して訊くと、早紀ちゃんは嬉しそうに、

「おばさん、デャーモン知ってるんだ」

「わたし、あいつ大っ嫌い! まったく、おとなしく研究してりゃいいのに、地球人にちょっかい出したりしてサ」

「デャーモンってめっちゃ謎だよねー。アメリカ人かな?」

「アメ……うん、そう」

「世界中のライブハウスをまわってるんだよね。アジアからヨーロッパからアフリカから南太平洋の島々まで、コアなファンがいるから」

「キチガイの音楽をやって、地球人、じゃなくって、全人類の頭をパーにしてやろうと思ってんのサ。そういうアホな実験をしてるやつだから、相手にしないほうがいいヨ」

「あとライブでさ、大きくなったり小さくなったりするじゃん。あれむっちゃ興奮する。どんなトリックかわかる?」

「子ども騙しだヨ。伸びたり縮んだりしてるだけサ」

「だってさ、大きいときは天井に頭がついてんのに、小さくなったらこのチビくらいになるんだよ。エグくない?」

「今度会ったら、悪ノリすんなってひっぱたいてやる」

「え、おばさん、会えるの?」

「あ……ソウネ。わたしもアメリカだから」

「すごい! 超尊敬! わたしも会わせて!」

 早紀ちゃんがソファから跳びあがり、なわとびの三重跳びくらいのスピードで腕をぐるぐるまわした。

「絶対デャーモンに会うぞーっ!」

 興奮した早紀ちゃんは、ぼくを正拳突きで殴り、まわし蹴りでテーブルのコップを割り、ミス・コケティッシュにダイビングして、弾きとばされて後ろに一回転した。

「かわいそうに……あいつの音楽を思い出しただけで、頭オカシクなっちゃって。これじゃあホントに、全地球人がパーになっちゃうかもネ」

「宇宙メタルって、そんなにヤバいのか」

 と、そうつぶやいたとき、あるアイディアが浮かんだ。

 修一が、宇宙メタルにノッてるところを想像する。凶暴な気分になって、暴れまくるネズミ。そこをさらに刺激してやったら――

「純亜、なに考えてんダヨ」

 ミス・コケティッシュを見た。彼女には、ぼくの心が視える。だからこんなふうに言うってことは、

「このアイディア、気に入らない?」

「デャーモンのライブに連れていけっていうんダロ。イヤだよ」

「でも早紀ちゃんを見てよ。こうなったら、会わせてあげるしかないんじゃない?」

 早紀ちゃんは胸を叩いてドラミングしたり、横にカニ走りして書類戸棚に体当たりしたり、ツイストしながら時々舌を出してウォーッと吠えたりした。

「仕方ナイ。会わせてあげるけど、ただのお調子モノだからネ。ところで純亜、なんだか変なことを思いついたナ」

「ま、少々危険な計画だけど、すべてはこの子と香織ちゃんを守るためさ」

 スキットルを呷った。オレンジの酸味が、やけに胸に沁みた。

「さあ、もう時間も遅いから、早紀ちゃんを家に送ってあげて。ぼくは今から久々にスピードメタルを聴いて、顔面ペイントの研究をするから」