そのまま死んだように寝てしまい、起きたら朝の七時だった。

 妻はどうしたろう。少しは眠ったろうか。

 そう考えながら階段を降りて、リビングのドアを開けた。和樹の両親が来ていた。義父、義母、雅斗くんもいた。そして貴美子。

 貴美子が和樹を、燃えるような目でにらんだ。

「新聞に大きく出ちゃったわよ。自分がなにをしたのか見て!」

 貴美子が新聞を投げつけた。屈辱に顔が火照る。

 新聞を拾って広げる。

『犯人のヤロー、八つ裂きでもまだ足りないぜ。皮剝いで切り刻んでやる! 被害者のおっさん、堂々の殺人宣言!?』

「あんたがペラペラしゃべったことで、わたしたちがどういう目で見られるか想像がつかない? バッカじゃないの。できもしないこと言わないで!」

 和樹は二階に戻った。妻を殴ってしまう前に。

 熊野刑事に電話をかけると、すぐに出た。

「村松です。教えられる範囲で結構ですので、現在の状況をお伺いしてもいいですか」

「いいですよ」

「小宮清伸は自白しましたか?」

 新聞にも載っていない名前を出して訊くと、一瞬詰まったような間があったが、

「誘拐・監禁についてはほぼ認めていますが、殺害については濁してます。まあ、今から取調べでギューギュー締めますよ」

「殺人で有罪にできますね?」

「凶器となったドライヤーのコードから、指紋が検出されています。あとは自白させれば」

「動機は?」

「それもこれからですがね。言わせますよ」

「わいせつ目的で誘拐して、バレたくなくてやったんでしょうか?」

「そんなところでしょう」

「精神障害とかで、無罪はないですね?」

「絶対ありません」

「生育歴で、情状酌量されてしまうとか」

「幼児の殺害に、同情すべき事情なんかありませんよ」

「向こうの親に会うことはできますか?」

「弁護士に言っときましょう」

「誘拐まで認めてるんなら、容疑者などではなく犯人です。できるだけ早くなんらかの行動をしてほしいと、母親に伝えてください」

「言っときましょう」

「小宮はこれからどうなります?」

「明日の午後に送検します。検察の調べがあって、その翌日こっちに戻されて、最大二十日間の勾留となります」

「未成年者の場合、裁判などにちがいがありますか?」

「まず家庭裁判所で非公開の少年審判があります。罪が軽ければそこまでですが、殺人だと、そのあと必ず刑事裁判になります。村松さんもそこで裁判を傍聴することができますけど、被告人の顔が見えないような措置がとられる可能性もあります。あと成人とちがうのは、犯人の未熟さや更生などについてかなり考慮されるということです」

「刑が、軽くなるのですね」

「でも重罪ですからね。なんとも言えませんが、十年くらいかと」

「軽いですね」

「まったくそのとおりです」

「行くのは少年院ですか?」

「いえ、少年院は保護処分となった少年を入れる施設ですから、今回のケースでは少年刑務所になるでしょう。少年といっても、成人も収監される刑務所です」

「メシ、風呂つきの生活ですね」

「おっしゃるとおりです」

「いつごろ仮釈放になります?」

「十年だとしたら、九年目くらいでしょうか」

「それでもう自由の身ですか?」

「ですね」

「幼女を誘拐して、殺したやつが?」

「そうです」

「ああいうのは拭いがたい性癖で、治るものではないと聞きますが」

「かもしれません」

「再犯なんかされたら、とんでもないじゃないですか」

「今度やったら無期、もしくは死刑もあるでしょう」

「そのときになって死刑判決が出ても、第二の友華が出てからじゃ遅いじゃないですか」

「本当にそうです」

「できるだけ罪が重くなるようにしてください。殺人だけじゃなくて、乱暴もきっとやってます。全部暴いてください」

「全力でやります」

 お願いしますと言って電話を切り、続けて勝間田に電話した。

「小宮の写真は手に入りましたか?」

「ええ。パソコンで送りましょうか」

 和樹はパソコンに詳しくなかったので、雅斗くんを呼び、雅斗くんのパソコンで勝間田とやりとりができるようにしてもらった。

「お礼はどうしましょう?」

「なに言ってるんですか。ぼくは被害者をむしるハイエナじゃありません。村松さんのために、できるかぎりのことをさせてください」

 嬉しい言葉。

「小宮の評判なんかは聞きましたか?」

「昨日話してくれた女子生徒がいました。学校では、おとなしくてほとんどしゃべらない生徒だったようです」

「非行歴は?」

「調査中です。もう少し情報を集めてから、メールで送りますよ」

 礼を言って電話を切ると、雅斗くんが引き締まった顔で、

「勝間田さんからメールが来ました」

 画面に写真。

「今年五月に撮影したクラスの集合写真で、後列の右から三人目が小宮だそうです」

 歯を食いしばって見る。伸びた前髪が眉を隠している。細い目。低い鼻。薄い唇。他の生徒はほとんどが笑ってるのに、小宮だけが暗い。

 おそらく学校では、誰からも相手にされていまい。女子にも男子にも。家で一人で異常なマンガでも読んでいそうだ。部屋のベッドの下には、児童ポルノが大量にしまってあるんじゃなかろうか。

 おまえみたいな人間は、この世にいてはいけない。

 一階に降りると、みんなで友華の写真を囲んでいた。ピアノを弾く友華。水遊びをする友華。バレエのポーズを決める友華。パパとママの絵を描く友華。

「写真見ても、生き返りゃしない」

 無念さがそう言わせた。それほど小宮の野郎は、取り返しのつかないことをした。

「あんたはもう、友華を忘れたの?」

 妻が、またしてもにらんできた。

「あんたは友華を愛してなかった。だから平気で目を離した。皮を剝ぐとか切り刻むとか、気持ち悪いことばっかり考えてる。犯人と一緒なのよ、あんたは」

 犯人と一緒――小宮と。

 殴った。

 床に倒れた妻に背を向けて家を出た。門の外にマスコミがいた。スコップを振りまわして追い払った。

 車は自宅に残してきたので、タクシーを呼んだ。

 十分ほどで来たタクシーに乗り込んだとき、念のため、

「もしマスコミが尾けてきたら撒いてくれ」

 と頼んでおき、愛人の海野多美のアパートの住所を告げた。
 アパートに多美はいなかった。合鍵で入る。九時を過ぎていたので、彼女はオフィスにいる時間だった。帰りを待っていたら夜になってしまう。

 電話をすると多美は出た。

「おれだけど、今日休める?」

「大丈夫? その……」

 当然、友華がどうなったかは、ニュースで知ったろう。友華が誘拐されてから一切連絡していなかったので、きっとずっと心配していたにちがいない。

「電話しなくてごめんな。最悪の結果になっちまった」

「…………」

「あのさ、おれ今アパートに来てるんだ、多美の」

「……わたしの?」

「会いたくて。でないと、どうかなっちゃいそうで」

「すぐ行く」

 多美の声は、仕事中だけに低く抑えられていたが、はっきりと愛情が籠っていた。それに飢えていた。

 棚を開けると赤ワインがあった。コップを出してつぐ。

 一気に飲み干した。こういう飲み方は初めてだ。しかし止まらない。二杯目を飲み干したときに携帯が鳴った。妻の実家から。電源を切る。

 酔いがきた。

 床に寝そべる。ドアノブがまわる音。多美。身体を起こそうとする。できない。

「和さん」

 多美が寄ってきて、心配そうな顔で見降ろしてきた。

「母親が具合悪くなったと言って帰ってきたの。ちょうどお盆の休みが終わったばかりなんだけど、うちの会社はけっこう休めるから」

「ごめん、水持ってきてくれ」

 コップ。差し出されたが頭が上がらない。それを見ると、多美は自分で水を含み、口移しで和樹に飲ませた。

 こんなこと、絶対に貴美子はするまい。

「おれ、犯人を殺すよ」

「だめよ。そしたら和さんが――」

「抱いてくれ」

 抱かれた。多美は筋肉質だ。とくに太ももがパツンパツンに太い。

 七面鳥のもも、あるいは、ブラジルのサンバダンサーを思い出す。三羽の七面鳥とサンバを踊る多美――妙な空想が湧いて、ふっと気持ちが和んだ。

 そのあと風呂に入り、一緒にメシを食った。

 夜の七時になったとき、タクシーを呼んだ。

 キスをして多美と別れる。タクシーの中で携帯の電源を入れた。貴美子からのメールが三件入っていた。読まなかった。

 ひとまず自宅へ。マスコミがいないのでほっとする。

 風呂場に行って湯を張り、そこに自分の髪の毛を落とす。アリバイ工作だ。

 車で妻の実家へ。しつこいマスコミに中指を立てて、家に入る。

 貴美子はリビングにいた。

 和樹に半分だけ顔を振り向けて、紙切れを差し出してきた。

 離婚届。

「わたしは殴られたことを赦さない。赦したらあんたはまたやる。どんな言い訳も、暴力を正当化することはできない。だからこれは決定。話し合いの余地はないのよ」

「待てよ。おれが手を出した原因が、そっちには一パーセントもないというのか?」

「何時間も前に、友華が帰ってきたのよ。あんたなにしてたの? 何回も電話したのに。こんなときに出て行くなんて、もう友華の父ですらないわ」

 忘れていた。遺体が午後に戻ってくると、警察に教えられていたのだった。

 家中に和樹を責める空気。カッとなった。

「友華が帰ってきたからって、なんだよ。ただの死体じゃないか。もう安置所で見たよ。生きた友華が帰ってくるんじゃなけりゃ、なんの意味もねえ」

 言いながら、感情が抑えられなくなってきた。

「葬式も出ないからな。死体なんてただの物体だろうが。そんなもん囲んで、女どもがキチガイみたいにヒーヒー泣くのに付き合ってられるか!」

 離婚届をひったくってリビングを出ようとした。すると雅斗くんが、

「待ってください。少し落ち着きましょう。この状況を作り出したのは小宮です。怒るべきは小宮に対してであって、家族で言い合ってる場合じゃないです」

「そうだ、勝間田さんからメールは来てたかな。パソコンを見ていいか」

 返事を待たずに二階へ行った。雅斗くんが来るのを待つあいだに、熊野刑事に電話した。

「友華のことで、新たにわかったことはありますか?」

「亡くなられたのは昨日の正午前後という推定です。コードで窒息させられたのが死因で、そのほかに外傷はありません」

「いたずらされた形跡は?」

「傷などはありません」

「それは友華が抵抗しなかったからですか?」

「わかりません。わいせつに関することは、なにも供述していませんので」

「女の子を誘拐して四日間、ただ眺めていたと?」

「お菓子やおもちゃを与えて、遊んであげていたと言うのですがね。そこは被疑者にしかわからない部分ですから、なんとしても勾留中に白状させますよ」

「頼みます」

「あとですね、弁護士に村松さんのお気持ちを話したんですが、村松さんの報復感情が強すぎるという理由で、母親に会わせることはできないというんですね」

「なんですって? 謝る気がないんですか?」

 まあお気持ちは察しますなどと、遺族でもない刑事がわかったようなことを言うので、電話を切った。壁を蹴る。

 雅斗くんが来てパソコンをつけた。

 小宮清伸に関する調査報告。まだ一日しか経っていないが、勝間田はよく調べてあった。

 現在十七歳と二か月。身長は百六十センチ弱、体重は五十キロ前後。高校二年生にしたら、かなり小柄だ。

 成績は中の下。スポーツは不得意。趣味は読書と音楽鑑賞。親しい友人はなし。

 中学一年生でイジメの標的になる。不登校にはならず。二年生に進級すると集団によるイジメ行為は終わったが、それ以降も同級生と会話することはあまりなかった。

 近所の住民によると、小宮は小学生のときからつい最近まで、幼児を相手に公園で遊ぶなどしていた。その様子からは優しいお兄ちゃんという印象しか受けなかったので、三歳の女の子を殺したことはまことに意外だった。

 ここからわかること。小宮清伸という背の小さい男は、イジメたくなるような性質を持っていた。同級生たちは、後年幼児を殺すに至るような不気味さを、いち早く嗅ぎとっていたのかもしれない。

 小宮は自分より小さく弱い相手に、慰めを求めた。同年代の女に相手にされないことは明らかだから、自然と幼児がその対象となる。性的な欲求が高まる。女の子を誘拐し、欲望を果たす。処置に困って首を絞める――

 メールには画像が添付されていた。小宮の母親の顔写真。

 四十四歳ということだが、童顔な印象。目も鼻も口も小ぶり。地味な顔。

「雅斗くん、紙とボールペンをくれ。あと封筒も」

 が、雅斗くんは動かない。

「それよりも姉のことですけど、離婚届書いたの、きっと後悔してると思いますよ」

「もう遅い」

「でも別れちゃったら、一緒に闘えないじゃないですか。おそらく裁判が終わるまで、一年以上かかるでしょうし」

「どうせ死刑にはならないんだろ? 裁判なんか見るだけ無駄だ。そんなら刑務所を出てきたときに殺そうって、雅斗くんも言ってたじゃないか」

 雅斗くんが目を伏せた。

「まさか、もう気が変わったの?」

「……すみません。よく考えずに言ってました」

 失望。

「まあいいや。紙をくれ」

 小宮彰子に手紙を書いた。

 拝啓。友華の父です。まだ謝罪がありませんね。あなたの家では誰かを傷つけたとき、ほっとけばいいよと教えましたか? そしたらあんな息子が育ちましたか? イジメられていたそうですが、人に謝れないからそうなったんじゃないですか? あなたがこれを読んでいるということは、まだ生きていますね? 生きているということは、食べたり飲んだり寝たりしているわけですね? われわれはこんなに苦しんでいるのに、あなたは寝ているのですね? 随分立派な家に住んでいますが、それを売ってわれわれに少しでも償おうという気は起こりませんか? 三歳のなんの罪もない子が猛烈な痛みと恐怖の末に殺されて、下劣な殺人犯が平気で生きていることはどう思いますか? あなたの息子がしたことを謝ってください。人として行動してください。われわれは死にそうです。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。
 封筒に手紙を入れて宛名と住所を書き、車でコンビニへ行って郵送を頼んだ。

 ついでに酒を買って車に戻ると、勝間田に電話した。

「たくさん調べてくださって、ありがとうございます」

「お役に立てたなら嬉しいです」

「一度お会いしたいですね。犯人の野郎を殺したいと思うのですが、そういう自然の感情を抑えつけようとする圧力が内外にありましてね。勝間田さんでしたら、きっとこの気持ちをわかってくださると思いまして」

「被害者の会の方を紹介しましょうか?」

「それはいいです。いつ会えるでしょう。明日の朝九時では?」

「いいですよ」

 海野多美のアパートで会うことにした。自宅にはマスコミが来る可能性があったし、外で会う気にはなれなかった。話を多美に聞かれることは構わない。

 多美のアパートに行った。

「妻とは別れる。今日から一緒に住もう」

 多美が息を呑んだ。唇をつけると、チューチュー吸われた。

 寝た。

 翌朝、勝間田が来ることを多美に話し、職場に電話した。上司を呼び出して退職の意志を告げる。

「退職じゃなくて、休職にすればいい」

「いえ、もう二度と働きたくないのです。みんなわたしの娘が殺されたことを知っています。そんな悲劇の主が近くにいたら、誰も冗談さえ言えない職場になるでしょう」

 すると明らかにほっとした声で、

「残念だなあ。気が変わったら、いつでも戻って来いよ」

 あとはもう、どこからの電話にも出たくなかったので、携帯の電源を切った。

 午前九時、約束どおりの時間に勝間田は現れた。黒のスーツ姿だった。

「ハハハ、葬式みたいな恰好ですね。気を遣わなくても、わたしなんてジーパンですよ」

 勝間田は和菓子の箱を差し出しながら、

「笑顔を見て安心しましたよ。村松さんは、実に立派ですね」

「リッパ? どこがです?」

「この状況によく耐えておられます。さぞ苦しいでしょうに」

「フフ。妻と離婚を決めて、愛人のアパートに転がり込んだところですよ。今日からは愛人じゃなくて、なんだろう、彼女かな? 海野多美といいます。多美、勝間田章吾さんにご挨拶して」

 互いにぎこちない表情で会釈した。

 事件の話をした。小宮のことをどう思うかと、勝間田に訊いた。

「あんな異常なことをする輩は、モンスターですよ」

「更正の見込みは?」

「ありません」

「再犯の可能性は?」

「あります」

「じゃあ殺したほうがいいですね」

「死刑にできればどれだけいいか」

「法律が変わる可能性はありますか?」

「難しいです。ですが、例えば小宮のようなやつが出所後に二度目の殺人を犯せば、少年法を変えろという大合唱が起こるでしょう」

「待ってられないな。ところで小宮が出所したら、インターネットに情報が出ますかね」

「でしょう。そのころは今より相当ネットも進化してるでしょうから、性犯罪者がどこに住んでどんな仕事をしてるかも、わかるようになるかもしれませんよ」

「そりゃあいい。いつでも殺しにいける」

「ハハハハ。やるなら完全犯罪でね。それで村松さんが捕まったら、どうにもやるせないですから」

「そうよ。和さんがやったら絶対にだめよ」

 多美が口を挟んだ。この女は道連れにしたい。多美という女には、そう思わせるところがある。一緒に堕ちる相手は多美だ。

「じゃあさ、実行犯はお願いしていいかな。あいつが出所してきたら、色仕掛けで誘い出すとかして」

 多美が反射的に笑った。まるで今のを冗談にするように。だが冗談ではなかった。

「どうでしょう、村松さんの今の率直なお気持ちを、わたしのする講演会の中でお話しくださることはできないでしょうか?」

 勝間田が言ってきた。即座に首を振った。

「せっかくですが、お断わりします。人前に出るつもりはありません」

「では、手記をお書きになるのはどうですか?」

「同じです。わたしは存在を消したいのです。復讐するんですから」

 勝間田は、わかりました、また会いましょうと言って去った。だがまた会うのは危険かもしれないと感じた。

 つい正直な気持ちを言いすぎてしまった。将来やるべき完全犯罪が、こういうことから崩れてしまってはいけない。

 勝間田が帰るとやることがなく、小宮の母親に糾弾の手紙の第二弾を書いて、ポストまで歩いた。そのときふと、小さな教会が目に留まった。

 ちょうど無料の講演会をしているようだったので、入った。

 演壇に牧師ふうの初老の男がいた。五十人ほどが行儀よく坐って聴いている。

 やがて講演が終わった。演壇にまっすぐ向かう。

 すると牧師が満面の笑みで、

「ようこそおいでくださいました。初めての方ですね?」

 和樹は相手の目を正面から見据え、

「神様は、どんな罪でもお赦しになりますか?」

 牧師が真剣な顔になる。

「赦されない罪もあります。ですが、ほとんどの罪は赦されます」

「赦されない罪とは?」

「神に対する冒瀆です。意図的に神に反逆し、神を辱める道を歩みつづけるなら、赦しは得られないでしょう。ですがたいていの過ちは、悔い改めることで赦されます」

「殺人は赦されますか」

「心から悔い改めるなら」

「悔い改めるだけで、いいんですね?」

「神から見て本当に心を入れ替えたならばです。生き方も、人格も変えなければなりません。ですから自分一人の力では無理でしょう。神の救けが必要です」

「人を殺しても、神に救けを求めたら赦されるよと、あなたは教えているのですか?」

「わたしの考えではありません。み言葉にそうあるのです」

「殺されたものの家族はどうなります? 殺人犯が神に赦されたら、たまったもんじゃないでしょう」

「わたしたちはみな罪人です。その罪を神は赦してくださいます。事実、神の大きな赦しがなければ、わたしたちは生きていけないのです。それなのに、誰かを決して赦さないとするなら、その人自身はどうして神に赦しを求められるでしょう」

「ちょっと待った! たとえばおれが、娘を殺されたとしよう。おれは殺人犯を決して赦さないと誓う。それによって神に赦してもらえなくなる。ところが犯人のほうは神に救いを求めて、心を入れ替えた結果、神に赦されたとする。するとどうなる? おれは地獄に堕ちて、そいつは天国に行くのか?」

 牧師の目に驚きの色が浮かんだ。近所で起きた殺人事件に思い至り、和樹が誰だか見当がついたのかもしれない。しかし牧師は声の調子を変えず、

「すべては神の目から見てどうかです。犯人の方がどうなるか、被害者の方がどうなるかは、それぞれの心によって最終的に神が――」

 みなまで聞かずに牧師を殴った。女たちの悲鳴が響いた。
 アパートに帰った。

 多美に、今度休暇を取れたら、イタリア旅行にでも行こうと言った。ローマ法王に、クソを投げるつもりだった。

 翌日、だらだらと十時過ぎまで寝た。ふと、小宮がどこまで供述したか知りたくなり、熊野刑事に電話をかけた。

「ああ村松さん。どこにおられるんですか。ずっと探してたんですよ」

「なにかあったんですか」

「被疑者の母親が、昨夜自殺しました。列車への飛び込みです。ニュースでごらんになりませんでしたか?」

「……いえ」

 驚きは大きかった。勝手に死なれた。

「所持していたハンドバックの中から、村松さんの出した手紙が見つかりました。母親の突発的な自殺の理由の一つと考えられますので、事情をお伺いしたいのです。唐木署まで来ていただけますか」

「事情もなにも、わたしはその女とは会ったこともないんですよ。手紙を出しただけで」

「あの手紙を送った経緯についてお聞きしたいのです」

「謝ってもらいたかったからですよ、人として」

「われわれとしては、非常に重要な証人を失いました。これはとても痛い」

「証人どころか、ある意味共犯でしょう。だいたい日曜から木曜まで、家に女の子が監禁されていたことに気づかないなんて、そんなバカな話はない。あいつは息子がなにかやってると気づいてながら、見て見ぬフリをしてたんだ」

「被疑者の部屋は二階にあって、最近は母親を決して中に入れなかったそうです。とくに夏休みになってからは、一日中閉じ籠ることも多かったといいます」

「それは自己弁護でしょう。幼児の声というのは響くんだ」

「われわれもそこは追及しました。それが彼女には堪えたのかもしれません」

「完全な責任放棄だ」

「しかしですね、月曜日には息子と面会することになってたんですよ。まさかその前に死ぬとは思いませんでした」

「おれの手紙が原因だと、警察ではもう決めてるんですね」

「遺書が見つかっていないものですから、断定的にはなにも言えません。どうでしょう、あとは署でお話ししませんか」

「じゃあ行きます」

 唐木署へ。話は取調室ですることになる。固いパイプ椅子に坐ると、手紙を書いた日時、場所、動機などについて淡々と訊かれたので、淡々と答えた。

 自殺の件はそれで終わり、和樹は小宮について訊いた。

 熊野刑事は煙草を吸いながら、

「誘拐するのは誰でもよかったそうです。被疑者は小学校六年生のときにはすでに、小さい女の子を連れ帰る夢想をしていたといいます」

「はっきり小宮と言ってください」

「小宮の夢は、幼児をさらってきて飼うことだったそうです」

「いたずら目的ですね」

「そうではないと今のところは言ってます」

「小宮の部屋に児童ポルノはありましたか?」

「ありませんでした。ただ、ホームビデオの本体に保存されていた動画の中には、幼児を映したものがありました」

「……友華ですか?」

「いえ。小宮の自宅近くの公園で、子どもたちの遊んでいる姿を撮影したものです。子どもを誘拐したいと思っても、いきなりそれはできないので、公園で隠し撮りをしながら子どもたちを観察していたそうです」

「変態め」

「ところが、公園に幼児が一人でいるという状況はない。近くに必ず大人や大きい子がいる。だから公園でやるのはあきらめました。ではどこで狙おうかと考えたとき、思いついたのが、スーパー森のトイレでした」

「ああ」

「あそこのトイレは駐車場の反対側にあって、人目につきにくい。子どもが一人でトイレに入ったときに、まわりに誰もいないという状況が大いに考えられる場所でした」

 事実、そうなった。

 友華には、一人でトイレに行かせるようにしていた。家でできるようになったのだから、外でもできるよと言って、あえてついて行かなかった。

 まさか、変質者がいるとは思いもせずに。

「小宮はトイレの入口から道に向かって、おもちゃのBB弾を撒いておきました。友華ちゃんはそれを拾っていき、路地に誘い込まれました。そこで待ち伏せしていた小宮は、これがもっと欲しいかい、ぼくの家はそこなんだ、あげるからついて来てと言います。子どもの扱いに慣れていた小宮は、巧みに友華ちゃんを家に入れます」

「なんでそんな簡単に……」

「小宮はアニメを次々に観せたりして友華ちゃんを手なずけ、いい子にしてたらパパとママにまた会えるけど、ぼくの言うことを聞かなかったり、勝手に部屋から出て行ったりしたらもう二度と会えないよと言います。友華ちゃんは素直にうなずいたようです」

 思わずテーブルを叩いた。灰皿が鳴る。

「小宮は友華ちゃんと一緒にお人形さんごっこをやったり、粘土で動物を作ったりしました。そういうことをするのが夢だったのです。食事は下から運んできて、自分の分を分け与えました。部屋に籠るのはいつものことだったので、母親は不審に思いませんでした。たまに話し声が聞こえても、テレビの音と思って気にも留めなかったそうです」

「……夜も泣かずに寝たんでしょうか」

「ということです。毎晩遅くまで遊ばせて、疲れて自然に眠るようにさせたそうです。翌日起きたらビデオを観せておいて、そのあいだにお菓子などを買いに出ました。友華ちゃんはビデオに夢中になっていて気づかず、また逃げるという発想もなかったようです。ですからなんのトラブルもなく、木曜日の朝を迎えました」

「その日ついに、友華が騒いだんですね。それで口を塞ごうとして――」

「いえ、そうではないと言っています。友華ちゃんの様子はいつもと変わらず、前日までと同じように買い物に出ました。それが午前十一時です。十五分か二十分くらいで帰ってくると、部屋の中で友華ちゃんが首にドライヤーのコードを巻きつけて死んでいた。小宮はそう供述しています」

「ふざけやがって」

「最初は事故だと思ったと言ってます。首にコードを巻いて遊んでいるうちに、固く絞まってしまったのかと。でもすぐにそんなはずはないと思い直し、誰かが家に入ってきて、友華ちゃんを殺したんだと考えます」

「じゃああのへんには、あいつのほかにも変質者がうろついてるってのか!」

「まだ現実を認めたくなくて、空想を語っているのかもしれませんね」

 怒りで目の前が赤くなる。

 それは血の色だ。小宮の血。それが噴き出るところを、どうしても見たい。

「村松さん」

 熊野刑事が身を寄せてきて、訊いた。

「もし、小宮が少年刑務所を出てきたら、どうしたいと思ってますか?」

 和樹は刑事を見た。

「そうですね」

 このときなぜか、不意にロックの旋律が胸を流れた。

 ポンポロポッピッピー
 あー、正義は正しいよー、正義はいいねー
 正しいことはー、正しいってー、いつも言いたいねー
 ポンぺロパッピッピー

「赦します」

「赦す?」

 刑事が驚いた顔をした。和樹も驚いていた。なんてことを、おれは言ったんだ。

「だって、小宮を赦さなかったら、おれは神様に赦してもらえない。でももし小宮を赦したら、ちょっとくらい、神様に褒めてもらえるでしょう?」

 いったい本当に、なにを言ってるんだ。
 イタリアの空が青い。

 この一月半で、色々なことが片付いた。貴美子と正式に離婚し、家を売り、復讐計画を立てた。

 裁判の傍聴はしないことにした。やつの言い訳など聞きたくない。小宮がいつ刑務所から出てくるかを知るだけでいい。熊野刑事によると、それは法務省から被害者の親に伝えられるということだった。

 旅行は七泊あった。バチカンでは、多美にせがまれてカメオを買い、ヴェネツィアではゴンドラに乗った。巨大な教会を見物し、宗教画の解説を聞いた。

 明日は帰国するという最後の晩、ホテルで和樹は言った。

「小宮への復讐を、一緒にしてくれるか?」

「……わたし、なにをするの?」

 計画のあらましを話すと、多美は顔を蒼くし、

「そんなこと、無理じゃない?」

「できないか?」

「できるかできないかじゃなくて、そんなふうに計算どおりにいく?」

「きっといくさ」

 多美が、じっと目を見てきた。

「あなたの顔……」

「顔?」

「狼に似てきたわ」

「狼に?」

 頬に触れてみた。手に当たるヒゲの感触が、硬い。

「ヒゲが伸びたからだろう。復讐計画を考えるのに忙しくって、剃るのを忘れた」

「鏡は見てない?」

「どうだろう。見てないかもしれない」

「見て」

 ユニットバスに連れて行かれた。鏡を見る。あれが……おれ?

「気がつかなかったの? 旅行中、みんなあなたを振り返ってたわ」

「そうか。きっと憎しみが、顔を変えたんだな」

 和樹は、前に飛び出した鼻を触り、横に大きく裂けた口を開いたり閉じたりし、鏡に牙を映してその鋭さを確認したりした。

「みんな小宮のせいだよ。あいつを破滅させたい。たとえ何年かかっても。なあ多美、協力してくれるな?」

 多美は黙った。沈黙は一分以上続いた。そのあいだ、テーブルに置いてあったカメオをいじっていた。貴婦人の横顔が彫ってある、バチカンで買ってやったカメオを。

 やがて多美は、吹っ切れたように笑顔を向け、

「和さんのためなら、やるわ」

 抱き締めた。本当に多美は、世界一の愛人だ。

「うまくいくかなあ。わたし、女の子を産むんだよね?」

「何年かかっても、だ」

「和さんの子じゃダメなのね」

「情が移るだろう。相手は見ず知らずの男じゃないと」

「……あなたは、それでいいの?」

「いい。おれはもう、人間の心は捨てた。おまえにも捨ててほしい。でなければ、この正義はできない」

「正義、なのね」

「そうさ。少年法なんか正義じゃない。あいつにふさわしい刑を執行する。おれたちが協力すれば、国に、それをさせるよう仕向けることができるんだ」

「わかったわ」

 ついに、多美は言った。

「わたしも人間の心は捨てる。狼みたいになる。あなたと一緒に、どこまでも堕ちていくわ」

 抱いた。

 計画が始動した。

 十年後、法務省より連絡があり、小宮清伸が少年刑務所を出所したことを知った。
 牛丼屋のテーブル席とカウンターを拭いてまわっているとき、女の客が手招きをしていることに気づいた。

 またあの女だ。

 この一週間で、もう三回は来ている。だいたい七時過ぎくらいに、いつも一人で来る。

 水商売っぽい。年齢は三十代の後半から四十くらい。妖しげな真っ赤なルージュ。

 なんのクレームかと思って近づいていくと、

「あなたがタイプなの。これ電話番号。必ず電話してね」

「…………」

 小宮清伸は、無言で紙切れを受け取った。

 バイトが終わると自転車で安アパートに帰り、電話した。

「もしもし。先ほど電話番号を渡されたものです」

「あら、嬉しい!」

「お名前を訊いてもいいですか」

「海野多美。あなたは?」

「小宮清伸です。海野さんは、いい声ですね」

「ありがとう、キヨノブさん。そう呼んでいい?」

「さんなんてつけなくても、呼び捨てでいいですよ」

「じゃあクンにするよ。キヨノブくん。キヨくん。キーくん。どれがいい?」

「……最後の、かな?」

「キーくん? じゃあそうするね。わたしは多美でいいよ」

「多美さん」

「ねえ、会いましょうよ。あなたのおうちに行っていい?」

「あ……はい」

 住所を教え、車を駐車できる場所を伝えた。

 心の準備をしようと努めた。大人の女性にどう接したらよいか――自分には縁のないことだとあきらめていたので、想像もできなかった。

 シルバーのフィアット500で、多美さんは来た。

 部屋に上げた。この部屋にはスリッパも座布団もなかったことに、初めて気づく。

 近くに坐られた。

 昂奮と恐怖。

 抱きつかれて、唇が寄ってきた。

 その瞬間。

 どういうわけか、友華ちゃんの死顔が浮かんできた。

 自殺したお母さんの、悲しそうな顔も。

 刑務所で、男たちに無理やりされた汚いことと、させられたことの映像も。

「待って! ぼくは前科者なんです!」

 たまらず多美さんを押しのけて、叫んだ。

「あの、ぼくはそれを黙ったまま、そういう関係になりたくないです。せっかくぼくを好きになってくれたあなたを、騙したくない」

 多美さんは、目を丸くした。

「前科って――」

「殺人です。嘘だと思ったら、ネットで検索してください。小宮清伸って」

 初めて他人にしゃべった。なぜ突然告白する気になったのか、自分でもよくわからない。

「わたし、ネットの情報って信じないの。直接キーくんの口から聞かせて」

「幼女の誘拐殺人です」

 言った。すると、言葉が勝手にあふれてきた。

「ぼくは、小さい女の子を育てるのが夢だったんです。でもどうせぼくなんか結婚できないと思ってて、十七歳のときに、どうしても我慢できなくなって、女の子をさらってきてしまったんです。ほんの何日かで帰すつもりで。そうしたら、誰かにその子を殺されて、警察にぼくがやったっていうストーリーを作られて、母親に自殺されてどうでもよくなって、嘘の自白をして刑務所に行きました」

「……嘘の、自白?」

「あ、でも、もうどうでもいいんです。その子の死に責任があることは、まちがいないですから」

「罪は償ったのね」

「一応。でも賠償金も払えてないし、遺族に謝罪させてももらってないし。こんな状態で、女の人とお付き合いなんて、とてもできません」

「誠実なのね」

「全然ちがいます」

「夢はどうするの」

「夢?」

「女の子を育てたいんでしょ。さっき、そう言ったじゃない」

「それは、でも……」

「わたしね、シングルマザーなの。今はちょっと親に預けてるけど、純っていう、生後半年になる女の子がいるの。キーくん、育ててみない?」

「えっ?」

 驚いて多美さんを見た。

 ポカンとあけた口を、真っ赤なルージュの唇でふさがれた。

 その夜、初めて女性を知った。
 多美さん。

 頭の中は、それ一色になった。

 翌日の夜も、多美さんは来てくれると言った。

 バイトが終わると自転車をとばして帰った。部屋をきれいに掃除して、正座して待つ。

 電話。

 保護観察官の、粕谷(かすや)さんからだった。

「元気?」

「はい。なんとか仕事は続いてます」

「伝言があるんだ。熊野刑事さんからだけど、憶えてる?」

「……ええ」

 思い出したくない名前。清伸のことを頭から殺人犯と決めつけ、誘導的な取調べをした刑事だった。

「熊野さんによると、村松和樹氏に、清伸くんの出所後の様子を探っている様子があるらしい。おそらく住所は知られていて、襲ってくる可能性があると。あるいは人を雇って襲わせるとか、車で撥ねるとか。とにかく充分注意して、静かな場所に一人でいるのは避けてほしいとのことだった。これまでになにか、不審な電話とか手紙はなかった?」

「いえ」

「もし謝りに来いとか、会って話をしようとか言われても、絶対に一人では行かないように。わたしか弁護士の高橋さんに連絡して。わかったね」

「わかりました」

 一応そう答えたが、友華ちゃんの父親に謝りに来いと言われて、拒否できる自信はなかった。

 清伸自身、そうすべきだと思っている。

 殺されても仕方がないと考えたこともある。でも多美さんを知った今は、安易に死にたくはなくなっていた。

 多美さんは来てくれた。その翌日も。

「来月の頭くらいから、わたしのアパートで一緒に住もう。純を育ててね」

 そんな話をした数日後、夕方六時半にチャイムが鳴った。

 いつもより早いなと思いながらドアをあけると、多美さんではなかった。

 スーツ姿の男が立っていた。

「こんばんは。フリーライターの勝間田章吾と申します。小宮清伸さんですね?」

 差し出された名刺を受け取りながら、小さくはいと答えた。

「生活は落ち着きましたか? わたくしは、現代社会の問題点を、少年犯罪を通して研究している者です。小宮さんほど、現代社会の歪みを身をもって体験された方はいないと思います。それをぜひお聞かせ願いたいと思ってまいりました」

 もう十年も経ってるのにと、清伸は唇を噛んだ。

「捜査に問題はありませんでしたか? 裁判で矛盾は感じませんでしたか? 日本の将来を良くするために、そのあたりを証言してほしいのです」

「……あの、いきなり来られても、心の準備がありませんし」

「ではいつがよろしいでしょう。明日では?」

 勝間田の片足が、強引にドアの内側に入ってきた。

「取材を受ける気はありません」

「プライバシーには配慮します。とくに教えていただきたいのは、警察の密室での取調べの様子です。警察のやることは、すべて公正と正義に適っていましたか?」

「そのことだけ、お話しすればいいですか?」

「そうです、そうです。三十分で終わります。明日六時でどうでしょう」

「……はい」

 押し切られてうなずいたとき、階段を昇ってくる多美さんが見えた。

 勝間田が振り向く。多美さんがその顔を見る。

「あ」

 勝間田が声をあげた。知ってる人間に偶然会って、驚いたというリアクション。多美さんも、ビクッとした。

 が、多美さんはそのままさっと部屋に入った。ドアが閉まる間際の勝間田の顔は、まるで幽霊でも見たかのようだった。

「知ってる人?」

 多美さんはそれには答えず、キッチンに行って換気扇をまわし、煙草を吸った。

「フリーライターだって言ってたけど」

 重ねて訊くと、多美さんは恐い顔で煙草をシンクに押しつけて消し、

「昔、うちの会社に取材に来た人よ。キーくん彼に、なにか話した?」

「明日取材を受けることになった」

「は? なに言ってんの。そんなの断わりなさいよ!」

 勝間田の名刺を見た。断われと言われても、いったいどう言ったらいいのか。

「かけないんなら貸して。わたしがかける」

 名刺をひったくられた。多美さんが携帯を出す。

「さきほど小宮さんのアパートでお会いした者ですけど、小宮さんはいかなる取材も受けませんので、もう来ないでください。いいですね」

 多美さんは電話を切ると、抱きついてきた。

 もしかして、勝間田は昔の彼氏かなと、ふと想像した。
 同棲一日目。

 多美さんのアパートはきれいだった。少しだけ、煙草が匂った。

「買い物に行ってくるから、純を見てて」

 生後半年の女の子と、二人で残された。

 寝顔に吸い寄せられる。透きとおるような唇の薄い皮膚を、目を近づけて見た。

 甘い息を嗅いだ。

 やっぱり幼女はいい。

 この世で最高の生き物だ。

 と、純が急に泣きだした。

 おしっこだろうか?

 おむつの上から局部に手を触れてみた。濡れているかどうかは、わからない。

 おむつをゆっくりと外した。黄色いうんちをしていた。

 おむつ拭きを取ってきて、優しく拭いた。何度も何度も、丁寧に。

 ドアのあく音がして、ビクッと振り返った。多美さんが帰ってきたのだ。

 ああ……二人っきりの時間が、終わってしまった。

「ねえ」

 多美さんに言った。

「ぼく、専業主夫になってもいい?」

「主夫? 結婚して、籍入れたいの?」

「そういうことじゃなくって、子育てに専念したいんだ」

「バイトを辞めたら、賠償金の送金ができないんじゃなかった?」

「せめて、純ちゃんが幼稚園に入るまでは、ちゃんと育てたい。だから」

「わかったわ。わたしが働くから、キーくんが育児に専念してね」

   *  *  *

 多美さんは、母乳をあげなかった。

 清伸がミルクを作った。

 離乳食も作った。

 お歌を聴かせ、抱っこであやした。

 夜泣きをすると、純をおんぶひもで担いで散歩に出た。

 多美さんは仕事から帰ってくると、テレビばかり観ていた。

 お風呂に入れるのも、一緒に寝るのも、すべて清伸がする。

   *  *  *

 三年が経過し、純は三歳半になった。

 ふと、友華ちゃんと同い年になったな、と思った。

   *  *  *

 純の首を絞める夢を見た。

 そうすれば、永遠に、純は三歳のまま。
 八月の中頃の、土曜日の朝だった。

 起きると、布団に純がいなかった。

 トイレかと思ったらちがった。多美さんの布団にもぐったかと思って見に行ったら、多美さんもいなかった。

 多美さんが純を連れてどこかに行ったらしい。伝言もなく、朝七時に。こんなことは、かつて一度もなかった。

 携帯に電話した。何度も何度もかけた。多美さんは出ない。

 まさか――家出?

 タンスの抽斗を開けた。ない。普段はそこにしまってある、カメオが。

 あれは多美さんが、昔イタリア旅行に行ったときに買ったもので、それがいちばんの宝物だと言っていた。その貴婦人の横顔のカメオがない。

 やられた。

 男ができて、そっちに走ったのだろうか?

 ふと、三年前に一度だけ会った、勝間田章吾の顔が浮かんだ。

 あの男は明らかに、多美さんを知っていた。もしかすると、今度の家出につながるようなことも、知っているかもしれない。

 名刺を探して電話をかけた。

「はい、勝間田です」

 出てくれた。

「小宮清伸です。以前取材の依頼を受けました、村松友華ちゃん事件の犯人です」

「ああ」

 勝間田が、意外そうな声をあげた。

「取材にはなんでも答えます。その代わり、教えていただきたいことがあるのです」

「もしかして、海野多美さんのこと?」

 やはりなにかを知っていたのか、すぐに言った。

「そうです。彼女が家出したんです。三歳の子を連れて」

「きみと、海野さんのあいだに……子ども?」

「いえ、その子は連れ子というか、シングルマザーの彼女と出会って、三年前から同棲していたんです」

「…………」

 勝間田が考え込むように、しばらく沈黙した。

 やがて、

「あの、小宮くん。身体の調子はおかしくない?」

「え、ぼくですか? 全然」

「そうか。ひょっとして、砒素でも盛られてるんじゃないかと心配してたけど」

「……どういうことですか?」

「きみは、海野多美さんを愛しているの?」

「え……それはまあ、はい」

「すぐに別れて逃げなさい。殺される前に」

「殺される?」

「海野さんは村松和樹氏の愛人だよ。友華ちゃんの父親の」

「ええっ?」

 勝間田の声が、急に遠くなったように感じた。

「彼は残酷な男だ。きみの母親も、手紙で追いつめて自殺させたそうじゃないか。そういう彼だからこそ、自分の愛人も平気できみに差し出せたんだ。村松氏と海野さんは、あの事件前から付き合っていて、村松氏が離婚するとすぐにくっついた。まるであの事件を、いいきっかけにしたみたいにね」

 そういうことがあったのかと、清伸は初めて知った。

「海野さんの連れ子というのは、女の子?」

「……はい」

「二人の子なのかな。それはきっと、生け贄だよ」

「生け贄?」

「村松氏は、きみに対する復讐を考えていた。もしきみが、成人になって二度目の殺人を犯せば、今度こそ必ず死刑になる。そう考えて、幼女と二人きりになる環境を作りあげたんだよ」

「そんな」

 思わず、声が裏返った。

「ぼくはそもそもやってないし、それに純のことは、本当に愛してるんだ。そんなこと、絶対にするわけがない!」

「まあまあ。だから彼の復讐計画っていうのは、その程度のものだったんだ。杜撰で誤算だらけ。しかしそれがうまくいかなかったとすると、今度は強引な手段に出てくる危険がある。彼の報復感情は、強烈だからね」

「……例えば、どんなことを?」

「そうだな。村松氏はあくまで完全犯罪を目指してたから、自分が殺人罪で捕まるようなことはするまい。事故を装うだろう。あ、そうだ!」

「なんですか?」

「大人を事故に見せかけて殺すのは難しい。しかし子どもなら、簡単に殺せる」

「どういうことでしょう?」

「その子は元々、きみに殺させるつもりだった。ところが逆に、まるでわが子のように愛するようになったのを、海野さんは知った。そこで計画を変更し、その子を事故を装って殺すことにした」

「どうして純を?」

「三歳の娘を突然殺された父親と同じ苦しみを、きみにも味わってもらう。村松氏なら、きっとそう考えるだろうね」

「なんてことを……」

 純が死ぬ。そんなこと、あってたまるもんか。

「おそらく彼は、決して証拠の残らない方法でやるだろう。とにかく相手は正気じゃない。警察に相談するか?」

「いえ」

 即座に言った。

「警察は、なにかあってからでなくては動きません。純を殺させないためには、ぼくが直接交渉するしかないんです」

「危険だぞ」

「いつかは会わなくちゃいけない人だったんです。ぼく自身は殺されても文句は言えないけど、純の命だけは、救けたい」

「そうか」

 電話を切った。いよいよそのときが来た。

 友華ちゃんの父親と会う。

 ずっと弁護士に止められていた。警察にも警告された。

 が、今や清伸には、村松和樹と交渉できるカードがあった。

 それは、ほんのかすかな、疑惑程度にすぎなかったけれど。

 携帯で、多美さんにメールを送った。

 多美さん。
 彼氏が、村松和樹さんであることを知りました。
 ぼくが純を殺すのを待っていたこと、そしてぼくにその徴候がないので、三歳の娘を殺された父親と同じ苦しみを味わわせようとしていることも、知っています。
 それを実行する前に、どうか村松さんと交渉させてください。ぼくはどうなっても構いません。どうかこの携帯に、電話をくださるようお願いします。