ミス・コケティッシュは、アメリカ人だ。
彼女との出会いは、十五年前にさかのぼる。ぼくは高校を卒業したけれど、どこに行っても子どもと誤解されて、就職どころかバイトすら全滅一直線でいたときだった。
「チッキショー!」
むしゃくしゃしていた。面接官にガキ扱いされることもそうだし、この先どうやって生きていけばいいのかという不安もそうだけど、それ以上に、ぼくはある出来事にすっかり打ちのめされていた。
「どうでもいいや、もう」
どうせ落ちると決まった面接の約束をすっぽかして、古本屋に入った。つらい現実から逃げたいとき、ぼくは決まってそうした。
ちょっと埃っぽい古本の匂い。うっとりとする。ガタガタと鳴る立て付けの悪い引き戸や、狭くて暗い店内や、棚に乱雑に突っ込まれた書籍たちの、いかにも時代遅れな感じの表紙やタイトルが、なんとも言えない安らぎの世界に引き込むのだ。
「ウハ、こりゃいいや」
翻訳ミステリーのずらっと並んだコーナーを見つけて、そこにしゃがみ込んだ。
新刊書店ではもはや見かけなくなった本たちが、蠱惑的に手招きしていた。
『ある晴れた朝突然に』
『カジノの金をまきあげろ』
『とむらいは俺がする』
『あぶく銭は身につかない』
『危険なやつは片づけろ』
こういうものは、タイトルを眺めているだけでもよろしい。
この五冊は、いずれも作者がジェイムズ・ハドリー・チェイスで、創元推理文庫。こういう一昔前のハードボイルドが、どういうわけか、ぼくは無性に好きだった。
「どれどれ」
その中の一冊を抜きとり、鼻を近づけて、ソムリエがワインの香りを味わうように古本の匂いを吸い込んだ。
そのときだった。
ぼくは、背中にゾクッとする気配を感じて、とっさに振り返った。
「あっ!」
思わず声が出た。というのも、身長百八十センチを超える大女が、すぐ後ろで腕組みをして、バレーボールの鬼監督みたいに仁王立ちしていたのだ。
女はブルーの瞳で見おろしていた。髪の毛はブルネットで、豊かにカールして鎖骨のへんまで被さっている。
(すごい美人だ。だけど……)
服装が異様だった。まだ肌寒い日もある三月とはいえ、バイク乗りが着るような黒のレザージャケットを着て、下も真っ黒なレザーパンツを穿いていた。
(まるでコウモリみたいだな。それとも深夜、闇に紛れて活躍する、女盗賊はたまた女スパイか)
と、女は、まるでぼくの心を読んだかのように、
「この恰好か? 地球は……いや、ニッポンは、とても寒いからネー」
独特の甲高い声で、独特のイントネーションでしゃべった。
「アメリカの方ですか?」
そう言ってから、いけない、西洋人はみんなアメリカ人だと決めつけるのは、日本人の悪い癖だぞと思ったが、
「アメリカ……うん、そうネ。わたし、アメリカ。名前は、えーと……ミス・コケティッシュです」
そう言って女が、ウスッと空手家みたいな変なお辞儀をしたとき、手に創元推理文庫を持っていることに気づいた。
『ミス・ブランディッシの蘭』
ジェイムズ・ハドリー・チェイスの代表作だ!
「チェイス、お好きなんですか? あ、すみません、ぼくの名前を言ってませんでした。蝶舌純亜と申します。ちょうは蝶々の蝶、ぜつはベロの舌、ぴゅは純粋の純、あは亜細亜の亜です」
つい親しみを覚えてしまって、自己紹介した。すると女は、くるんとカールした長いまつ毛をパチパチさせて、
「純亜。わたし、あなたに興味持ったヨ。研究したい」
妙なことを言った。どうやら日本人を研究しにアメリカから来たらしい。しかし、そんな頼みを受け入れる気持ちの余裕は全然なかった。
「光栄ですが、ぼくではサンプルにならないと思います。普通の日本人男性は、こんな身長じゃないですし」
いささか屈辱を感じながら言った。するとミス・コケティッシュは、目玉焼きをつくるお母さんくらい優しい笑顔になり、
「失恋したのね」
と言った。
絶句した。なんて不思議な女性だろう。また心を読まれた。
きっと、顔に出ていたのだろう。一生にただ一人、好きになるのはこの人だけと決めた女性から、永遠の別れを告げられたことによる絶望が。
「相手は初恋の人ネ。その香織ちゃんって子に、バッタリ会って、幼なじみの嶋田修一と結婚するって聞かされたんダナ」
「…………」
これはおかしい。いくらなんでも正確すぎる。ぼくはこの女性に尾行でもされてたんだろうか? それとも彼女、香織ちゃんか修一を知ってるのかな?
「……どうして、それを?」
動揺まる出しの声で訊いた。すると目の錯覚か、ミス・コケティッシュのブルーの瞳が、キラキラッと光ったように見えた。
「わたし、視たいもの視える。純亜が、香織ちゃんの手を握って、わ、こんなことしていいのかな、どうしよどうしよーと思ったのも視えるヨ」
まちがいない。特殊能力者だ。ここまで当てられると、さすがに信じざるをえない。
ぼくは、ゴクリと唾を呑んで、いちばん気になっていることを訊いた。
「あの、もしわかったらでいいんですけど、教えてもらってもいいですか」
「ナニ?」
「その、手をつないだとき、子どもができちゃったりなんか、してません、よね?」
羞ずかしくて、消え入るような声で言った。ミス・コケティッシュは首を傾げた。
と、やがて、なにかが視えたのか、オウオウオウと素っ頓狂な声を出し、
「手をつないだらベビーができる! いいね、それ、超絶ピュアじゃん! よし、わかった。エイイイッ! ハイ、今ベビーできました」
「今できた?」
「ソウヨ。あなたと香織ちゃんの子、できてマス」
「ああ……」
取り返しのつかないことをしてしまった。ぼくはあまりの責任の重大さに、お漏らししたみたいにその場にへたり込んだ。
「立ちなさい、純亜」
ミス・コケティッシュはそう言って手を伸ばしたが、うっかりストーブに触ったように手を引っ込めて、
「イケナイ、イケナイ。ベビーできちゃうネ、ウフフ。子どもは香織と修一が育てるから、心配しないでいいよ。純亜は、別の女性を見つけナ」
「いや、今はとてもそんな気には――」
「わたしの言うこと、純亜聞く。あなたハードボイルド好き。だったら探偵になれヨ。依頼人はわたしが見つける。女性たくさん連れてくる。選び放題ネ。わたしホントにあなた気に入った。ズット研究する」
ぼくは呆気にとられた。あまりにも、話が急展開すぎる。
だけど――
どうせ就職は無理だ。香織ちゃんと一緒になることも。
だったら、過去は振り捨てて、思いきって新しい人生に踏み出すべきじゃないか?
ぼくは、この不思議な女性、ミス・コケティッシュを見あげて頷いた。
「やります」
というわけで、ぼくは探偵になった。
彼女との出会いは、十五年前にさかのぼる。ぼくは高校を卒業したけれど、どこに行っても子どもと誤解されて、就職どころかバイトすら全滅一直線でいたときだった。
「チッキショー!」
むしゃくしゃしていた。面接官にガキ扱いされることもそうだし、この先どうやって生きていけばいいのかという不安もそうだけど、それ以上に、ぼくはある出来事にすっかり打ちのめされていた。
「どうでもいいや、もう」
どうせ落ちると決まった面接の約束をすっぽかして、古本屋に入った。つらい現実から逃げたいとき、ぼくは決まってそうした。
ちょっと埃っぽい古本の匂い。うっとりとする。ガタガタと鳴る立て付けの悪い引き戸や、狭くて暗い店内や、棚に乱雑に突っ込まれた書籍たちの、いかにも時代遅れな感じの表紙やタイトルが、なんとも言えない安らぎの世界に引き込むのだ。
「ウハ、こりゃいいや」
翻訳ミステリーのずらっと並んだコーナーを見つけて、そこにしゃがみ込んだ。
新刊書店ではもはや見かけなくなった本たちが、蠱惑的に手招きしていた。
『ある晴れた朝突然に』
『カジノの金をまきあげろ』
『とむらいは俺がする』
『あぶく銭は身につかない』
『危険なやつは片づけろ』
こういうものは、タイトルを眺めているだけでもよろしい。
この五冊は、いずれも作者がジェイムズ・ハドリー・チェイスで、創元推理文庫。こういう一昔前のハードボイルドが、どういうわけか、ぼくは無性に好きだった。
「どれどれ」
その中の一冊を抜きとり、鼻を近づけて、ソムリエがワインの香りを味わうように古本の匂いを吸い込んだ。
そのときだった。
ぼくは、背中にゾクッとする気配を感じて、とっさに振り返った。
「あっ!」
思わず声が出た。というのも、身長百八十センチを超える大女が、すぐ後ろで腕組みをして、バレーボールの鬼監督みたいに仁王立ちしていたのだ。
女はブルーの瞳で見おろしていた。髪の毛はブルネットで、豊かにカールして鎖骨のへんまで被さっている。
(すごい美人だ。だけど……)
服装が異様だった。まだ肌寒い日もある三月とはいえ、バイク乗りが着るような黒のレザージャケットを着て、下も真っ黒なレザーパンツを穿いていた。
(まるでコウモリみたいだな。それとも深夜、闇に紛れて活躍する、女盗賊はたまた女スパイか)
と、女は、まるでぼくの心を読んだかのように、
「この恰好か? 地球は……いや、ニッポンは、とても寒いからネー」
独特の甲高い声で、独特のイントネーションでしゃべった。
「アメリカの方ですか?」
そう言ってから、いけない、西洋人はみんなアメリカ人だと決めつけるのは、日本人の悪い癖だぞと思ったが、
「アメリカ……うん、そうネ。わたし、アメリカ。名前は、えーと……ミス・コケティッシュです」
そう言って女が、ウスッと空手家みたいな変なお辞儀をしたとき、手に創元推理文庫を持っていることに気づいた。
『ミス・ブランディッシの蘭』
ジェイムズ・ハドリー・チェイスの代表作だ!
「チェイス、お好きなんですか? あ、すみません、ぼくの名前を言ってませんでした。蝶舌純亜と申します。ちょうは蝶々の蝶、ぜつはベロの舌、ぴゅは純粋の純、あは亜細亜の亜です」
つい親しみを覚えてしまって、自己紹介した。すると女は、くるんとカールした長いまつ毛をパチパチさせて、
「純亜。わたし、あなたに興味持ったヨ。研究したい」
妙なことを言った。どうやら日本人を研究しにアメリカから来たらしい。しかし、そんな頼みを受け入れる気持ちの余裕は全然なかった。
「光栄ですが、ぼくではサンプルにならないと思います。普通の日本人男性は、こんな身長じゃないですし」
いささか屈辱を感じながら言った。するとミス・コケティッシュは、目玉焼きをつくるお母さんくらい優しい笑顔になり、
「失恋したのね」
と言った。
絶句した。なんて不思議な女性だろう。また心を読まれた。
きっと、顔に出ていたのだろう。一生にただ一人、好きになるのはこの人だけと決めた女性から、永遠の別れを告げられたことによる絶望が。
「相手は初恋の人ネ。その香織ちゃんって子に、バッタリ会って、幼なじみの嶋田修一と結婚するって聞かされたんダナ」
「…………」
これはおかしい。いくらなんでも正確すぎる。ぼくはこの女性に尾行でもされてたんだろうか? それとも彼女、香織ちゃんか修一を知ってるのかな?
「……どうして、それを?」
動揺まる出しの声で訊いた。すると目の錯覚か、ミス・コケティッシュのブルーの瞳が、キラキラッと光ったように見えた。
「わたし、視たいもの視える。純亜が、香織ちゃんの手を握って、わ、こんなことしていいのかな、どうしよどうしよーと思ったのも視えるヨ」
まちがいない。特殊能力者だ。ここまで当てられると、さすがに信じざるをえない。
ぼくは、ゴクリと唾を呑んで、いちばん気になっていることを訊いた。
「あの、もしわかったらでいいんですけど、教えてもらってもいいですか」
「ナニ?」
「その、手をつないだとき、子どもができちゃったりなんか、してません、よね?」
羞ずかしくて、消え入るような声で言った。ミス・コケティッシュは首を傾げた。
と、やがて、なにかが視えたのか、オウオウオウと素っ頓狂な声を出し、
「手をつないだらベビーができる! いいね、それ、超絶ピュアじゃん! よし、わかった。エイイイッ! ハイ、今ベビーできました」
「今できた?」
「ソウヨ。あなたと香織ちゃんの子、できてマス」
「ああ……」
取り返しのつかないことをしてしまった。ぼくはあまりの責任の重大さに、お漏らししたみたいにその場にへたり込んだ。
「立ちなさい、純亜」
ミス・コケティッシュはそう言って手を伸ばしたが、うっかりストーブに触ったように手を引っ込めて、
「イケナイ、イケナイ。ベビーできちゃうネ、ウフフ。子どもは香織と修一が育てるから、心配しないでいいよ。純亜は、別の女性を見つけナ」
「いや、今はとてもそんな気には――」
「わたしの言うこと、純亜聞く。あなたハードボイルド好き。だったら探偵になれヨ。依頼人はわたしが見つける。女性たくさん連れてくる。選び放題ネ。わたしホントにあなた気に入った。ズット研究する」
ぼくは呆気にとられた。あまりにも、話が急展開すぎる。
だけど――
どうせ就職は無理だ。香織ちゃんと一緒になることも。
だったら、過去は振り捨てて、思いきって新しい人生に踏み出すべきじゃないか?
ぼくは、この不思議な女性、ミス・コケティッシュを見あげて頷いた。
「やります」
というわけで、ぼくは探偵になった。