「ありがとう、坊や」
そう言って、電話は一方的に切れた。
バカにしちょる。ぼくはもう三十三だぞ。探偵だぞ。
そりゃま、見た目が坊ちゃんみたいなのは知ってるさ。どういうわけか顔は小学五年生のまま。身長も百三十八センチで止まった。
だからって、大人に向かって坊やと呼んでいい法はない。ぼくも男だ。プライドってもんがある。ぼくはハードボイルド・ヒーローを目指してる。裁くのはぼく、蝶舌純亜【ちょうぜつ・ぴゅあ】だ。
けど、さ。
今、電話してきた彼女、けっこうイケるんだ。
一年前に一回会っただけなんだけどね。切れ長の怪しい目をしててさ、いかにも大人の女性って感じで。
太ももがパツンパツンに太かった。ぼくはそれを見て、ブラジルのサンバ・ダンサーを思い出した。名前は多美さんといって、純和風なんだけどね。
とにかく、彼女の印象は強烈だった。ときどき夢に出てくるくらい。夢の中で多美さんは、いつも三羽の七面鳥と一緒にサンバを踊ってた。ま、そんな女性さ。
彼女、さっきの電話で、ギョッとすることを言った。
「信じられないけど、あなたの言ったとおりだった。本当に、元気な女の子が産まれたわ! ありがとう、坊や」
「…………」
ぼくはなんにも言えず、切れたスマホ画面を、凶のおみくじを引いたみたいに見つめた。
「やっちゃった」
思わずつぶやいて、自宅兼事務所の革張りのソファにひっくり返った。
ジーンズの尻ポケットからスキットルを出して、グイと呷る。中身はつぶつぶオレンジだ。これ、幼稚園のときからずっと好きなんだよねー。
そうか。やっぱりあのときベビーが――
あれはおよそ一年前、ちょうど今夜と同じ、いやに蒸し暑い夜だった。
「彼女、女の子が欲しいんだって」
そう言って、ミス・コケティッシュが連れてきたのが、海野多美さんだった。
「すごい超能力者ね。わたしの望みを見抜かれちゃった」
多美さんは、ミス・コケティッシュの力に度肝を抜かれていた。ま、ぼくも最初はそうだったけど、今じゃすっかり慣れっこさ。
「で、あなたに会うように言われて来たんだけど……」
戸惑っていた。ぼくは正直、嬉しくなかった。
「純亜、手をつないであげなさい。そうしたら、女の子ができるカラ」
ミス・コケティッシュが、例のソプラノ声で言った。例のってのは、ほらそのあれ、「ワレワレハ、宇宙人ダ」みたいな、変テコな高い声って意味だけど。
「嫌だよ。手をつなぐなんて……羞ずかしい」
抵抗すると、ミス・コケティッシュは興奮して声を荒らげ、
「依頼人の、依頼、断わるノカ!」
こうなっちゃうと、ぼくはいつもうんざりして、ミス・コケティッシュに負けてしまう。
「わかったよ。つなぐけどさ、やだなあ、女の人とそんなことするなんて」
多美さんの差し出した右手の指先を、指先でちょんとつまんだ。
電流が走った。イケナイことをしたっていう罪悪感。
そっと唇を噛んだ。
こんなこと、本当はするべきじゃない。手をつないでいいのは、一生に一人、心から愛したヒトだけって決めてたのに……
「いったいこれが、なに?」
手を離すと多美さんが言った。よく見ると、とてもキレイな人だった。
まぶしい。
多美さんの目をまともに見れずに、頬が朱く染まっていくのを意識しながら、
「だって、手をつないだら、子どもができちゃうでしょ?」
沈黙。ぼくはたまらず、両手で顔を覆った。
「帰るわ」
多美さんは突然立ち上がり、くるっと背中を向けて帰った。タイトなワンピースの裾から覗いた太ももを、左右にプリンプリン揺らしながら。
ぼくはヤケ酒、じゃなかった、ヤケオレンジを呷って、
「あーあ、もうあの人と、結婚するしかないかなあー」
するとミス・コケティッシュが、ずうずうしくソファのぼくの横に坐り、
「どうして?」
首を四十五度に傾けて、真っ赤なルージュの唇をペロペロ舐めて言った。
「よしなよ、唇舐める癖。なんかおかしいよ」
「でもこれは、地球人……じゃなかった、世の中の男を研究して、好感を持たれると判明した仕種ナンダヨ!」
「日本語もいつまで経っても変だしさ。あとさあ、もっと普通の依頼を探してきてよ。料金貰い損ねちゃったじゃない」
「どうしてさっきの女と結婚スル?」
「手をつないじゃったもん」
「いいことしたね、純亜。あの女、ベビーが欲しかったヨ」
「……ぼく、父親になるの?」
「ほっとけ。ガキは勝手に育つ」
「それでいいのかなあ……」
ぼくはこのときほど、女性を理解できないと思ったことはない。
子どもが欲しいんなら、好きになった男性と結婚して、手をつなげばいい。
見ず知らずの探偵にそれを頼んで、できたベビーは、いったいどうする気だろう。
自分一人で育てる? それとも、ぼく以外の誰かを父親代わりにする? そのぼく以外の男性は、もしかして、子どもをつくるための両手がないのかな?
『本当に、元気な女の子が産まれたわ!』
さっきの多美さんの嬉しそうな声を思い出しながら、おいおいそれでいいのかよと、心で突っ込みながらスキットルを傾けた。
そのとき、スマホが鳴った。多美さんか、と思って手に取ると、ミス・コケティッシュだった。
「純亜、仕事ダヨ」
ミス・コケティッシュは、アメリカ人だ。
彼女との出会いは、十五年前にさかのぼる。ぼくは高校を卒業したけれど、どこに行っても子どもと誤解されて、就職どころかバイトすら全滅一直線でいたときだった。
「チッキショー!」
むしゃくしゃしていた。面接官にガキ扱いされることもそうだし、この先どうやって生きていけばいいのかという不安もそうだけど、それ以上に、ぼくはある出来事にすっかり打ちのめされていた。
「どうでもいいや、もう」
どうせ落ちると決まった面接の約束をすっぽかして、古本屋に入った。つらい現実から逃げたいとき、ぼくは決まってそうした。
ちょっと埃っぽい古本の匂い。うっとりとする。ガタガタと鳴る立て付けの悪い引き戸や、狭くて暗い店内や、棚に乱雑に突っ込まれた書籍たちの、いかにも時代遅れな感じの表紙やタイトルが、なんとも言えない安らぎの世界に引き込むのだ。
「ウハ、こりゃいいや」
翻訳ミステリーのずらっと並んだコーナーを見つけて、そこにしゃがみ込んだ。
新刊書店ではもはや見かけなくなった本たちが、蠱惑的に手招きしていた。
『ある晴れた朝突然に』
『カジノの金をまきあげろ』
『とむらいは俺がする』
『あぶく銭は身につかない』
『危険なやつは片づけろ』
こういうものは、タイトルを眺めているだけでもよろしい。
この五冊は、いずれも作者がジェイムズ・ハドリー・チェイスで、創元推理文庫。こういう一昔前のハードボイルドが、どういうわけか、ぼくは無性に好きだった。
「どれどれ」
その中の一冊を抜きとり、鼻を近づけて、ソムリエがワインの香りを味わうように古本の匂いを吸い込んだ。
そのときだった。
ぼくは、背中にゾクッとする気配を感じて、とっさに振り返った。
「あっ!」
思わず声が出た。というのも、身長百八十センチを超える大女が、すぐ後ろで腕組みをして、バレーボールの鬼監督みたいに仁王立ちしていたのだ。
女はブルーの瞳で見おろしていた。髪の毛はブルネットで、豊かにカールして鎖骨のへんまで被さっている。
(すごい美人だ。だけど……)
服装が異様だった。まだ肌寒い日もある三月とはいえ、バイク乗りが着るような黒のレザージャケットを着て、下も真っ黒なレザーパンツを穿いていた。
(まるでコウモリみたいだな。それとも深夜、闇に紛れて活躍する、女盗賊はたまた女スパイか)
と、女は、まるでぼくの心を読んだかのように、
「この恰好か? 地球は……いや、ニッポンは、とても寒いからネー」
独特の甲高い声で、独特のイントネーションでしゃべった。
「アメリカの方ですか?」
そう言ってから、いけない、西洋人はみんなアメリカ人だと決めつけるのは、日本人の悪い癖だぞと思ったが、
「アメリカ……うん、そうネ。わたし、アメリカ。名前は、えーと……ミス・コケティッシュです」
そう言って女が、ウスッと空手家みたいな変なお辞儀をしたとき、手に創元推理文庫を持っていることに気づいた。
『ミス・ブランディッシの蘭』
ジェイムズ・ハドリー・チェイスの代表作だ!
「チェイス、お好きなんですか? あ、すみません、ぼくの名前を言ってませんでした。蝶舌純亜と申します。ちょうは蝶々の蝶、ぜつはベロの舌、ぴゅは純粋の純、あは亜細亜の亜です」
つい親しみを覚えてしまって、自己紹介した。すると女は、くるんとカールした長いまつ毛をパチパチさせて、
「純亜。わたし、あなたに興味持ったヨ。研究したい」
妙なことを言った。どうやら日本人を研究しにアメリカから来たらしい。しかし、そんな頼みを受け入れる気持ちの余裕は全然なかった。
「光栄ですが、ぼくではサンプルにならないと思います。普通の日本人男性は、こんな身長じゃないですし」
いささか屈辱を感じながら言った。するとミス・コケティッシュは、目玉焼きをつくるお母さんくらい優しい笑顔になり、
「失恋したのね」
と言った。
絶句した。なんて不思議な女性だろう。また心を読まれた。
きっと、顔に出ていたのだろう。一生にただ一人、好きになるのはこの人だけと決めた女性から、永遠の別れを告げられたことによる絶望が。
「相手は初恋の人ネ。その香織ちゃんって子に、バッタリ会って、幼なじみの嶋田修一と結婚するって聞かされたんダナ」
「…………」
これはおかしい。いくらなんでも正確すぎる。ぼくはこの女性に尾行でもされてたんだろうか? それとも彼女、香織ちゃんか修一を知ってるのかな?
「……どうして、それを?」
動揺まる出しの声で訊いた。すると目の錯覚か、ミス・コケティッシュのブルーの瞳が、キラキラッと光ったように見えた。
「わたし、視たいもの視える。純亜が、香織ちゃんの手を握って、わ、こんなことしていいのかな、どうしよどうしよーと思ったのも視えるヨ」
まちがいない。特殊能力者だ。ここまで当てられると、さすがに信じざるをえない。
ぼくは、ゴクリと唾を呑んで、いちばん気になっていることを訊いた。
「あの、もしわかったらでいいんですけど、教えてもらってもいいですか」
「ナニ?」
「その、手をつないだとき、子どもができちゃったりなんか、してません、よね?」
羞ずかしくて、消え入るような声で言った。ミス・コケティッシュは首を傾げた。
と、やがて、なにかが視えたのか、オウオウオウと素っ頓狂な声を出し、
「手をつないだらベビーができる! いいね、それ、超絶ピュアじゃん! よし、わかった。エイイイッ! ハイ、今ベビーできました」
「今できた?」
「ソウヨ。あなたと香織ちゃんの子、できてマス」
「ああ……」
取り返しのつかないことをしてしまった。ぼくはあまりの責任の重大さに、お漏らししたみたいにその場にへたり込んだ。
「立ちなさい、純亜」
ミス・コケティッシュはそう言って手を伸ばしたが、うっかりストーブに触ったように手を引っ込めて、
「イケナイ、イケナイ。ベビーできちゃうネ、ウフフ。子どもは香織と修一が育てるから、心配しないでいいよ。純亜は、別の女性を見つけナ」
「いや、今はとてもそんな気には――」
「わたしの言うこと、純亜聞く。あなたハードボイルド好き。だったら探偵になれヨ。依頼人はわたしが見つける。女性たくさん連れてくる。選び放題ネ。わたしホントにあなた気に入った。ズット研究する」
ぼくは呆気にとられた。あまりにも、話が急展開すぎる。
だけど――
どうせ就職は無理だ。香織ちゃんと一緒になることも。
だったら、過去は振り捨てて、思いきって新しい人生に踏み出すべきじゃないか?
ぼくは、この不思議な女性、ミス・コケティッシュを見あげて頷いた。
「やります」
というわけで、ぼくは探偵になった。
「中学二年生の早紀ちゃん。今度の依頼人は、超特別ヨ」
ミス・コケティッシュが連れてきた子は、勝気そうな目をしていた。ぼくの顔を、じっとにらむように見ている。
ショートカット。白のTシャツに、デニムのホットパンツ。小柄で細身だったが、身長はぼくより十センチは高かった。
時間はもう夜の九時だった。中二の子をこんな時間に連れてきたということは、きっと家庭に問題があるのだろう。
「探偵って、儲かるんだ」
彼女の第一声はそれだった。ぼくはいい服も着ていなければ、部屋に高級家具があるわけでもない。どうしてそう思ったのかと訊くと、
「だって、タワマンなんかに住んでんじゃん。高いんじゃないの、ここ」
高いといえば、高い。
「実はここ、プレゼントされたんだ。十年くらい前に、さる資産家の奥様からね」
「プレゼント? マジ?」
「不倫がばれるのを防いだお礼にね。安くはないけど、その人が失うはずだった金額を考えたら、バーゲン並みに安い」
「ボロい商売してやがんなー」
口の悪いお嬢様だ。
「エヘン。まあ、資産百億円の依頼人からなら、一億もらったっていいでしょ? 逆に貧乏だったら、一円ももらわないことだってあるしね」
「かっこつけてるつもり?」
だんだんと、反抗期の娘と話してる父親みたいな気分になってきた。このぐらいの齢の女の子は、どうも苦手だ。
「早紀ちゃんはサ」
ミス・コケティッシュが、女の子をソファに坐らせて言った。
「客じゃないんだ。道ですれちがって、驚いて呼び止めたんダヨ。さて問題です。わたしが驚いたのはナゼでしょう?」
「知らないよ」
ミス・コケティッシュにはいろんなものが視える。だから、探偵を必要としている人を見つけて、ここに連れてくることができる。
でもぼくには、なにも視えない。ぼくはただ、持ち込まれた依頼に対して、精いっぱい行動するだけだ。
もちろん、解決できるのは、この不思議なアメリカ人の力のおかげだけど。
「よく見なさい。なにも思い当たらナイか?」
そもそもミス・コケティッシュは、ぼくに運命の女性を見つけてくれるはずだった。依頼人の中から、それを選べという話だったのだ。
それがいつの間にか忘れられた。彼女は夢中になって依頼人を探すあまり、人妻とか、九十八歳のおばあちゃんまで連れてきた。そのおばあちゃんは、娘による婿の殺害計画を聞いて悩み苦しんでいたけれど、早い話認知症の幻聴だった。
今回もそうだ。中二の子では対象にならない。香織ちゃんを失った心の穴を埋める存在は、あれから十五年、ついに一人も現れなかった。
「じゃあヒント出すヨ。早紀ちゃんは十四歳。だからできたのは十五年前。十五年前、純亜にナニがあった?」
「十五年前?」
それはむろん、高校を卒業して、ミス・コケティッシュと運命的な出会いをし、探偵になった年だ。
なるほど。あのころにできた子どもがもう中二か。光陰矢のごとしだね。
「おばさん、嘘ついてるっしょ。こんなちんちくりんが、わたしのパパなわけないじゃん」
早紀ちゃんがソファにふんぞり返って、ぼくを虫でも見るように見て言った。
わたしのパパ?
どういうことだ。頭が激しく混乱する。
『元気な女の子が産まれたわ!』
と、言われたのは、ついさっきだ。それが一瞬で十四歳の少女に?
なるわけがない。これは別口だ。
とすると、ほかにぼくが女性と手をつないだのは、十五年前にたった一度――
「まだわからナイか? この子は嶋田早紀ちゃんダヨ。嶋田修一と香織の一人娘、ということになってるけど、本当は、香織と純亜の子サ」
スキットル。ぐいと呷る。むせた。
口からオレンジのつぶつぶが噴き出して、早紀ちゃんの顔にかかった。
「なにしてくれんだ、このチビ!」
嶋田早紀ちゃんにビンタされた。ジーンと痺れたほっぺをさすりながら、その怒った顔を見る。むき出した歯茎が、なんと、ぼくにそっくりじゃないか。
「純亜」
ミス・コケティッシュが、豊かにカールした髪――十五年間まったく変わらない髪型の――を、バサッと掻きあげて言った。
「問題は深刻よ。嶋田修一が、早紀ちゃんが自分の子であることを疑いだした。そしたら修一、悩みに悩んで、頭ヘンになったね。いつ惨劇が起こってもオカシクない」
「ホントに?」
早紀ちゃん、つまりぼくの血を引いた子が、不意に恐怖に襲われたような顔になり、ぶるっと身を震わせて言った。
「なにかにとり憑かれたみたいになっちゃって、夜中にケケケって笑ったり、ドアの隙間からわたしを見てニターッて笑ったり。かと思うと、突然キチガイみたいに怒って、わたしとママに向かって味の素を投げたりしたの」
「それだけじゃナイよ。修一はだんだんと、ネズミみたいになった」
「……え。わたし言ってないのに、どうしてそれを?」
「視えるのサ。地球人って、いや、人間って面白いネ。あんまり悩むと、動物みたいになるんダナ。狂気の成れの果てサ」
「このごろのパパ、巨大なネズミみたいに見えてきた。背中が丸くなって、爪がものすごく伸びて、前歯が出っ張ってきて、タクアンをカリカリカリって齧るの」
「猜疑心のせいダヨ。もはや人間じゃない。早紀ちゃんと香織、いつかネズミになった修一に喰い殺されるナ」
「怖い……」
「さあ純亜。あんたの出番よ。自分の娘と、かつて愛した香織を救うため、嶋田修一をなんとかしろヨ。それが探偵ダロ!」
修一。香織。
その名前の響きに、ぼくの心は、たちまち少年時代に戻った。
御子柴香織ちゃんは、小学五年生のときに転校してきた。
ほどなくして、クラスの男子全員が好きになった。
もちろん、ぼくも、修一も。
かわいかった。しかも抜群に性格がいい。
かわいい×性格いい=最強。
天使、いや聖母の降臨に、女子もみんなひれ伏した。最強にケチをつけるのは、全男子を敵にまわすも同然だったからね。
ぼくはそのころ暗かった。
女の子とは、どんな話をしたらいいかわからなかったし、男子のする話は、下品すぎて意味がわからず、全然ついていけなかった。
ぼくは無口な読書少年になった。いろんな本を読んだけど、とくに探偵の出てくるのが好きだった。男にも女にも強くって、颯爽と行動する探偵の姿に夢中になった。
ところが、である。
遠足のときだ。
香織ちゃんがぼくの横に来て、話しかけてくれたのである。
ピュアな男子にとって、これがどんなことか、おわかりだろうか?
まず、心臓が、跳ねあがる。
脈拍が百八十を超える。ハッハッハッハという呼吸だ。
手足はしびれ、やがて冷たくなる。足の裏の感覚がなくなるので、ふわふわと地面から浮いてる感じになる。宙にも浮く想いというのは、すなわちこれだ。
羞ずかしさに口は閉じる。しかし内心はあふれる感謝でいっぱいである。
(ぼくなんかに話してくれてありがとう。でもぼく、ちっとも面白いことを言えないんだ。ごめんなさい、ああごめんなさい)
そんなふうに思うものだから、感情が混乱して、涙と鼻水が勝手にだらだらと流れる。
「大丈夫、純亜くん?」
そう言って、ハンカチで涙を拭かれたのであるよ。
わかるか!
香織ちゃんが使ったハンカチで、拭かれたのであるよ?
そのとき吸い込んでしまった匂いの記憶は、一生消えない。
小学五年生という時代をなんだと思うか。
諸君はお忘れか?
あのころ、好きになった音楽、スポーツ、映画、本。
今でもそれが、いちばん好きではないだろうか?
ぼくは人権宣言のように宣言する。ぼくらは、小学五年生のときのぼくらに、支配されることを認めるものである。
その生ける証拠がぼくである。ぼくの身長と体重は、ジャストあの時代のままだ。
ああ。
香織ちゃんは、ぼくに話しかけることによって、その笑顔によって、永遠に消えないものを、ぼくという人間の深い部分に刻んでしまった。
誰にも絶対に消せない。
ぼくは現在、三十三である。年齢的には立派なおじさんだ。
が、そのおじさんは、十一歳のときの甘い記憶に、日々慰められているのである。
甘くて、ほろ苦い。
まるでビターチョコレートだ。
その苦さとは、
「御子柴」
修一の声。突然後ろから走ってきて、ぼくと香織ちゃんのあいだに割り込んできた。
ヤなやつである。
今から思えば、たんにわがままなガキだ。なんでも自分のものにしたがる。クラスの聖母がぼくにしゃべっているのが気に食わず、強引に奪いにきた。
でも香織ちゃんは、性格がものすごくいいので、そんな修一にも優しかった。
ぼくは二人からそっと離れた。
たったの五分間。人生で最高の思い出。永遠の記憶。
告白なんかできやしない。聖母にそれは畏れ多い。
中学に上がってクラスが変わった。その一学期のこと。
香織ちゃんと修一が、付き合っているという噂が聞こえてきた。
「修一が、無理やり抱きついたんだって。香織ちゃんはピュアだから、付き合わないといけないと思ったらしいよ」
噂だった。真相はわからない。
ただ痛かった。ただただ悲しかった。
「女子たちは、香織ちゃんが好きなのは、純亜だったって言ってるけど」
そんなわけはない。ぼくは耳を塞いだ。
ぼくは突然、ギターをやりたくなった。
激しい音楽に心を惹かれた。ひずんだでかい音が安らぎになった。
香織ちゃんを見ないようにして、中学時代を過ごした。そして高校が別になると、実際に一度も見なくなった。
ぼくはギターを続けたが、プロになるような腕もなく、夢もないまま高校を卒業した。
およそ三年ぶりに彼女の姿を見かけたのは、コンビニでだった。
目が合って、思わず「あ」と声が洩れた。
「純亜くん」
向こうもぼくがわかって、笑顔になった。
おわかりか。
再び心臓をつかまれたのである。
香織ちゃんは、ますますキレイになっていた。ほかの子とは断然ちがった。
「変わらないのね、ちっとも」
コロコロ笑う声に、また涙が出そうになるのをこらえた。ぼくの顔も身体もあのころと変わらないのは、きっと香織ちゃんに、心臓を射貫かれたからだよと思いながら。
あの遠足の続きを、したかった。
ふと、二人とも、無言になった。
(ぼくのことを好きだったっていう噂、もしかして、本当だったんじゃ……)
そんなことがよぎったり、それをすぐさま打ち消したりした。
「わたしね」
やがて香織ちゃんが言った。
「修一くんと結婚するの。式は来年」
「…………」
ぼんやりしていた。香織ちゃんの顔、どうしてちっとも嬉しそうじゃないんだろう?
「あ、ごめん。えーと、おめでとう」
慌てて言うと、香織ちゃんが目を伏せた。
「修一くんの強引さに負けちゃった。純亜くん、ごめんね」
「……ごめん?」
香織ちゃんが伏せた目をあげたとき、そこに涙が光っているように見えた。
「握手しよ」
両手を差し出してきた。ぼくは反射的に、その手を握った。
(わ、こんなことしていいのかな。子どもができたりしないかな? どうしよどうしよー)
「さようなら、純亜くん」
あれから十五年。目の前に、そのときできた子どもが坐っている――
「純亜、聞いてんのカヨ!」
ハッとして見ると、そこにあったのは、ミス・コケティッシュのソースより濃いバター顔だった。
「あんたの子が泣いてんダロ! ボーッとしてないで、解決策を考えろヨ」
早紀ちゃんは、ミス・コケティッシュの小山のような胸に顔を埋めていた。というか、完全に埋まっていた。
「死ぬ!」
早紀ちゃんが胸から首を抜いて、プハーッっと息を吐いた。確かにその顔には、涙の痕があった。香織ちゃんとよく似た小さい顔――そこに面影を見出して、ぼくも涙があふれてきた。
「チビが泣いてる……キモ」
早紀ちゃんは、あの美しい母親が決して言わないような悪態をつくと、
「修一をなんとかして。あいつ、マジキチだから」
父親のことを呼び捨てにした。
ん、待てよ?
実の父親はぼくか。この子も香織ちゃんも知らないけど、本当はそうなんだ。
つまり、修一は育ての親だ。やつもまた、真実を知らずに、十四年間娘を育ててきた。
が、今は頭がおかしくなって、ネズミみたいになったという。残念ながら、もはや父親の資格はない。それだけではない。香織ちゃんを幸せにしていないあいつには、夫である資格もないのだ!
じゃあ、本当に、その資格があるのは――
「早紀ちゃん」
ぼくは、一生分の勇気を振り絞って言った。
「修一の代わりに、ぼくがパパになっても、いいかな?」
「はあ? なにそれ。あんたもマジキチ?」
自分の娘が指を頭に向けてくるくるまわすのを見て、この子をしっかり育てていかねばならんのだぞと、ずっしり重い責任を感じた。
「今までほっといてゴメンな。こんなこと、子どもに聞かせることじゃないけど、実はぼくと香織さんは、昔一度だけ手をつないだことがある」
「あ、そ」
「きみは、そのときにできた子なんだ。修一の子じゃない」
「へ?」
「いや、やっぱりよそう。このことは、あとでゆっくりお母さんと話す。それより今は、修一をどうするかだ」
「逮捕してよ」
「ぼくは警察じゃないから、それはできない」
「純亜」
ミス・コケティッシュが、横から口をはさんだ。
「できないじゃナクて、逮捕されるようにしろヨ。殺人未遂なんてドウダ?」
「味の素を投げただけで?」
「香織か早紀ちゃんを、そろそろ喰い殺そうとするサ。純亜がそれを取り押さえて、ふんじばって警察に突き出せばいい」
「それはやめよう。この子たちを、危険にさらしたくない」
「ならどうすんダヨ」
「そうだなあ……」
さてどうしたもんかと、頭がよじれるほど考えているうち、ふと、早紀ちゃんが着ていたTシャツのプリントに目が留まった。
まるで、古いSF映画に出てくる宇宙人みたいな、緑色をした男の顔写真。おそらく特殊メイクか顔面ペイントだろうが、いったいなんのキャラクターだろう。
「その写真、誰?」
指差して訊くと、早紀ちゃんは自分のシャツを見おろした。
「知らない? デャーモンだよ」
「デャーモン?」
「宇宙メタルのね。それも知らない?」
「全然」
「修一と一緒でなんにも知らないんだな。バンドのリーダーだよ。激しい曲をやるの」
「ふーん。ファンなんだ」
「一回聴いてみな。超絶イケてるから」
やっぱり血は争えないな、と思った。ぼくも学生時代は、激しい音楽であるスピードメタルをよく聴いた。
ああいうものを聴くと、つい暴れたくなる。たまにライブにも行ったが、客たちは頭やこぶしを振って身体をぶつけ合ったり、奇声を発したりして痴態を演じていた。
修一こそ、ライブに行ったらいい。鬱屈した感情を、思いっきり暴れることで、発散させたらいいのだ。
「早紀ちゃん、そいつのこと好きナノカ?」
ミス・コケティッシュがTシャツを指差して訊くと、早紀ちゃんは嬉しそうに、
「おばさん、デャーモン知ってるんだ」
「わたし、あいつ大っ嫌い! まったく、おとなしく研究してりゃいいのに、地球人にちょっかい出したりしてサ」
「デャーモンってめっちゃ謎だよねー。アメリカ人かな?」
「アメ……うん、そう」
「世界中のライブハウスをまわってるんだよね。アジアからヨーロッパからアフリカから南太平洋の島々まで、コアなファンがいるから」
「キチガイの音楽をやって、地球人、じゃなくって、全人類の頭をパーにしてやろうと思ってんのサ。そういうアホな実験をしてるやつだから、相手にしないほうがいいヨ」
「あとライブでさ、大きくなったり小さくなったりするじゃん。あれむっちゃ興奮する。どんなトリックかわかる?」
「子ども騙しだヨ。伸びたり縮んだりしてるだけサ」
「だってさ、大きいときは天井に頭がついてんのに、小さくなったらこのチビくらいになるんだよ。エグくない?」
「今度会ったら、悪ノリすんなってひっぱたいてやる」
「え、おばさん、会えるの?」
「あ……ソウネ。わたしもアメリカだから」
「すごい! 超尊敬! わたしも会わせて!」
早紀ちゃんがソファから跳びあがり、なわとびの三重跳びくらいのスピードで腕をぐるぐるまわした。
「絶対デャーモンに会うぞーっ!」
興奮した早紀ちゃんは、ぼくを正拳突きで殴り、まわし蹴りでテーブルのコップを割り、ミス・コケティッシュにダイビングして、弾きとばされて後ろに一回転した。
「かわいそうに……あいつの音楽を思い出しただけで、頭オカシクなっちゃって。これじゃあホントに、全地球人がパーになっちゃうかもネ」
「宇宙メタルって、そんなにヤバいのか」
と、そうつぶやいたとき、あるアイディアが浮かんだ。
修一が、宇宙メタルにノッてるところを想像する。凶暴な気分になって、暴れまくるネズミ。そこをさらに刺激してやったら――
「純亜、なに考えてんダヨ」
ミス・コケティッシュを見た。彼女には、ぼくの心が視える。だからこんなふうに言うってことは、
「このアイディア、気に入らない?」
「デャーモンのライブに連れていけっていうんダロ。イヤだよ」
「でも早紀ちゃんを見てよ。こうなったら、会わせてあげるしかないんじゃない?」
早紀ちゃんは胸を叩いてドラミングしたり、横にカニ走りして書類戸棚に体当たりしたり、ツイストしながら時々舌を出してウォーッと吠えたりした。
「仕方ナイ。会わせてあげるけど、ただのお調子モノだからネ。ところで純亜、なんだか変なことを思いついたナ」
「ま、少々危険な計画だけど、すべてはこの子と香織ちゃんを守るためさ」
スキットルを呷った。オレンジの酸味が、やけに胸に沁みた。
「さあ、もう時間も遅いから、早紀ちゃんを家に送ってあげて。ぼくは今から久々にスピードメタルを聴いて、顔面ペイントの研究をするから」
チュ、チュ、チュ……
嶋田修一は、リビングの絨緞に寝そべって、ぬるいビールをちびちび啜っていた。
目はテレビ画面に向いている。が、内容はちっとも頭に入ってこない。その頭にあることは、ここ数か月間ただ一つ、
(もし早紀が、おれの子じゃなかったとしたら……)
やるせない疑惑のことだけだった。
怒りに毛が、ツンツンと逆立つ。昔はこうじゃなかった。産毛がこんなに硬いことはなかった。しかし、疑惑に身を焦がすようになってからは、なんだか身体が内側から変化して、ちがう自分になってしまったようだった。
疑惑。怒り。不安。怖れ。
そうしたマイナスの感情に呑み込まれると、ヒトは、こうまで変わってしまうものなのだろうか?
よくわからない。とにかく自分の意志では、もうどうにもならなかった。
毎朝、鏡を見てヒゲを剃るときに思う。いつからおれのヒゲは、左右に三本ずつ、横にピンと伸びるようになったのか。
歯を磨くときもそうだ。前歯をやるときは、歯ブラシを縦にしてゴシゴシこするようになった。昔の前歯はこんなじゃなかった。
朝食はチーズになった。それを両手で持って齧る。妻や子が見ていることに気づくと、サッとテーブルの下に隠れてコソコソ食べる。それでももし、妻が覗いてくるようなことがあったら、爪を立てて歯をむき出して威嚇した。
チュウー……
理性では、そんなことをしたくはなかった。でも身体は勝手にそうしてしまう。とても苦しい。理性ではなく、感情の奴隷になったおれは、もはや動物だ。背中を丸めて、後ろ肢でピョンピョン跳ねるとき、ああ元の自分に戻りたいと血を吐く思いで願うのだ。
(早紀はやっぱり自分の子だっていう、確実な証拠さえあれば……)
それにはDNA検査をするしかない。だがそんなことを言いだせば、妻とにあいだに決定的な亀裂が入るだろう。それにもし、もしだ。
「あなたが父親の確率は……ジャーン! 0パーセント」
ということになれば、おれは香織をどうするだろう。くわっと大口をあけて、喉笛を喰いちぎってしまいそうだ。
修一は、空になった缶を前肢で転がし、今夜四缶目のビールを取りに冷蔵庫に立った。
キッチンに香織がいた。
美しい。
結婚して十五年経っても、そう思う。
修一は今でも、熱烈に香織のことが好きだった。
小学校時代、クラスの男子全員が香織を好きになった。
けれどもみんな、手が出なかった。素晴らしすぎて、自分なんかにはもったいないと、誰もが遠慮してしまったのだ。
だが修一に遠慮はない。中学校に上がるとデートに誘い、公園で抱きついた。
香織は運命論者だった。
最初に抱きついた男性と結婚すると、幼いころから決めていたのだ。
だから、修一を運命の人として受け入れた。好きかどうかは、香織自身にもよくわかっていなかった。
その感情は修一にも伝わった。付き合ってはいても、香織は心から修一を好きなわけではない。たぶんほかに好きな男がいる。
「御子柴は、蝶舌のことが好きらしい」
そんなことを言ったやつがいた。修一は耳を塞いだ。
バカバカしい。あんなチビを好きなわけがない。が、もしかしてと思うと、気が狂いそうになり、結婚できる年齢になったらすぐに籍を入れ、悪い虫がつかないように家庭に閉じ込めた。
修一は再び絨緞に寝転がり、ビールを啜った。
チュ、チュ、チュ、チュ、チュ。
香織と結婚はした。誰もが羨んだ。
が、心はついに、修一のものにはならなかった。
あいつの心の中には別の男がいる。
そう感じつづけた十五年間だった。
そして――
一人娘の早紀の顔が、このごろちっとも、自分に似てないように思えるのだ。
あれはあいつが十四歳になったばかりのときだ。帰宅時間が遅いのを注意したら、歯をむき出して怒った。そのときあらわになった歯茎に、目を疑った。
全然おれとちがう!
それまで、娘の歯茎をじっくり見たことはなかった。初めてその機会が訪れたとき、気づいてしまった。
おれと香織のあいだから、あんな歯茎の子が産まれるはずはない。あれは他人の歯茎だ。そう思って観察すると、どこも自分に似ていない。嶋田修一のDNAの痕跡が、どこにも見当たらないのだ。
結婚したときすでに、香織は早紀を身籠っていた。だとしたら、あいつはおれと婚約していながら、別の男と関係を持ったのか?
香織はキッチンで、立ったままコーヒーを飲んでいる。それを見る自分の目が、猜疑心のために凶暴になり、怪しく赤く光るのが修一にもわかった。
玄関で音がした。
さっと壁の時計を見る。午後十時半。今夜もまた、早紀は門限を破った。
チュッ!
あの小娘め。父親の言うことを全然聞かない。実の娘じゃないからか? あいつはそれを知っていて、他人の言うことなんか聞けるかバーカと思ってるのか?
今夜こそ、思い知らせてやる。
修一が絨緞から立とうとすると、早紀が部活のダッシュ練習並みのスピードでリビングを抜けて、階段に向かった。
「待て!」
そう叫んだつもりだった。しかしそれは、チューという、およそ父親らしからぬおかしな音声になった。
酔っている。ここ最近、めっきり酒に弱くなった。
「おい待て! チュチュ親の言うことを聞け!」
「よしなさい!」
香織が早紀を修一から逃がすように、階段の前に立った。
「酔っ払いがみっともない。大きな声出さないで」
「娘に規則を教えてる。何度門限を破った」
早紀が二階に消えると、香織がリビングに来て、椅子に坐った。
「早紀が行ってるのはただのライブだって、何度も言ってるでしょ。唯一の趣味なんだから、そのくらい認めてあげなさい」
修一がフンと鼻を鳴らすと、ヒゲがいっせいに震えた。
「宇宙メタルとかいう、イカれた音楽に夢中らしいな」
「デャーモンさんっていう人が好きなんだって。ヴォーカルの」
「好き? おれとどっちが好きなんだ」
「バカ言わないで」
「バカじゃない。そっちのほうが好きだから、門限を破るんだろ。チュー学生はチュチュ親の言うことを聞くべきだ!」
香織が怯えた顔をした。気がつくと、興奮のあまり、前歯でビールのアルミ缶を喰い破っていた。
冷蔵庫から、新しいビールを取ってきて飲んだ。
「香織」
「なによ」
「こいつは非行の始まりだ。今すぐ手を打たないと」
「どうしろって言うの?」
「ライブに行くのを禁止する。それを守らないようなら、もう親でも子でもない」
言いながら、赤い目でねっとりと香織を見た。
「また極端なことを」
「デャーモンを選ぶかおれを選ぶかだ。いいな、本気だぞ。おまえはどっちの味方をする。おれか、デャーモンか?」
「それは話が全然――」
「おれと別の男を選ぶのか? えっ?」
香織が椅子から立って後ずさる。修一が背中を丸め、テーブルに前肢をかけて、今にも飛びかかりそうな体勢になったせいだった。
修一はビールを呷って、気を静めた。
「もし、どうしてもやめられないなら、脱洗脳士みたいなのに頼む。ほら、おかしな宗教から家族を取り返したりする、専門家がいるだろ」
「洗脳とはちがうでしょ」
「ある意味一緒だよ。あんなくだらない、宇宙メタルに夢中になるなんて」
「音楽ファンをやめさせるなんて、聞いたことないけど……」
香織がふと黙ってから、あ、そうだと、急になにかを思いついたように手を打ち、
「探偵さんに頼んでみる?」
「探偵?」
「別れさせ屋みたいなことも、探偵はやるんだって。物は試しで頼んでみたら?」
「デャーモンと付き合ってるわけでもないのに、どうやって?」
「それは探偵さんに訊いて。とにかく、この問題を解決するには、娘にファンをやめさせるか、それともあなたも一緒にファンになってしまうか、二つに一つしかないのよ」
「冗談じゃない。誰があんなもの聴くか」
「じゃあ探偵に依頼するしかないわね。わたしたちの力じゃ、とてもファンをやめさせるなんてできないから」
「うむ。しかし、法外な料金を請求されないかな」
「知り合いでいるよ。安くしてくれると思う」
「探偵の知り合い?」
「うん。蝶舌純亜くん」
「え?」
修一の毛が、ぞわっと逆立った。
「蝶舌って、あのチビか?」
「そうよ」
「なんで、あいつの職業を知ってる?」
「偶然コンビニで会ったの。で、今ぼく探偵やってるから、困ったことがあれば相談してねって名刺をくれて。事務所の電話番号は登録してあるから、かけてみる?」
「…………」
妻の顔をじっと見た。香織は微笑んでいる。なぜかそれが、蝶舌に向かって微笑んでいるように見えてきて、身体中の血が熱くなった。
(まさか、あの噂、本当だったのか……)
いやいやと首を振る。香織が言うように、偶然会っただけに決まってる。香織の浮気相手が、あんなガキ同然の蝶舌だったなんてこと、あるはずがない。
でも、万が一……
そうだ。蝶舌に会ってみよう。そしてどうにかして、あいつの歯茎を見てやるのだ。
それがもし、早紀とそっくりだったら――
「そうだな。頼んでみるよ。久しぶりに、あいつに会いたくなった」
「友だちだったもんね」
「ああ」
香織から番号を聞いて、修一は電話した。
駅前の三十階建てタワーマンション。
大型のショッピングモールが、すぐ目の前にある。修一の給料では、到底住むことの叶わぬ場所だ。
てっきり、どこかの雑居ビルの一室に、事務所を構えているのだと思った。それがまさか、こんな高級マンションに呼び出されるとはと、修一は気後れしながら最上階のドアのインターホンを押した。
「ドウゾ」
ドアを開けた人物を見あげて、思わずたじろいだ。
デカい。外人だ。しかも見たことのないような、超絶美人。それが、全身黒ずくめの、革の服に身を包んでいる。
女スパイか、はたまたコウモリか。しかしそんなものがどうして蝶舌の探偵事務所にいるのかと、不審に思いながらその美女についていくと、
「やあ」
広さ十畳ほどのこざっぱりとした部屋に、蝶舌純亜がいた。
会うのは中学三年生のとき以来だったから、およそ二十年ぶりだ。が、呆れるほどまったく変わっていない。
「久しぶり、修一。しかしまあ……ずいぶん変わったねえ」
修一は、ヒゲをピクッと震わせた。自分の容貌の変化を指摘されるのは、たまらなく不快だった。
蝶舌は、Tシャツにジーンズというラフな恰好で、ブラウンの革張りのソファに埋まるように坐っている。
テーブルはあるがデスクはない。探偵の事務所なら、盗聴器や小型カメラなどがあるのかと思ったが、そういうものは見当たらない。代わりに、変わった形のエレキギターが一台、部屋の隅に置いてあるのが目についた。
「まあ、坐ってよ」
うながされて、向かいのソファに坐る。革がひんやりと冷たい。
蝶舌が、ジーンズの尻ポケットから銀色の容器を出し、中身を一口飲んだ。
「なんだよ、昼間っから酒か?」
すると蝶舌は嬉しそうに笑い、
「つぶつぶオレンジだけどね。スキットルで飲むと、ハードボイルドっぽいでしょ」
「ハードボイルドって?」
「かっこいい小説のことさ」
蝶舌が照れてペロッと舌を出したとき、さっきの美女が来て、「ほら、飲めヨ」と、ドンとコーヒーを置いた。
「紹介するよ。彼女はミス・コケティッシュ。ぼくの助手をしてくれている」
「おまえの……助手?」
こんな超絶美人を雇うなんて、探偵ってのはどんだけ儲かるのだろう。どうせはした金で、ネズミみたいにコソコソ浮気調査でもしてるんだろうとタカを括っていただけに、同級生に出世した姿を見せつけられたようで、修一は激しく嫉妬した。
美人助手がドアの向こうに消えると、蝶舌が訊いた。
「ところで、香織ちゃんは元気?」
おまえには関係ないだろうと、つい怒鳴りそうになるのをこらえて、
「ああ」
とだけ言い、熱いコーヒーを啜った。
「性格は昔のまんま?」
「さあ。昔のことなんか忘れたよ」
蝶舌と香織の話をする気はなかったので、すぐ本題に入った。
「娘のことだけど、できるのか」
「憧れのミュージシャンを、嫌いにさせるんだね?」
「そうだ」
「いいよ」
蝶舌が、さも簡単そうに請け合う。
「娘さんは早紀ちゃんといったね」
「ああ」
「早紀ちゃんはさ、囚われの捕虜になったんだよ」
「捕虜?」
「宇宙メタルの虜になったってこと。このままだと、親の言うことを聞かなくなるだけじゃない。二十四時間デャーモンのことを考えて、勉強は手につかず、頭がパーの人間のクズになっちゃうだろうね」
「そこまで?」
「そうさ。ぼくも一時期激しい音楽にハマってたからわかる。音楽の力っていうのは恐ろしいんだ。ライブに行ったことはある?」
「ない」
「ミュージシャンの、さあバカになれっていうメッセージを受けて、みんなバカになる。酔ってるわけでもないのに、頭を振って騒いだり、絶叫したり泣いたりする。中には失神するバカもいる。どう考えてもマトモじゃない。ぼくはつい、こんな想像をしちゃうんだ。音楽っていうのは、地球を乗っ取ろうと考えた宇宙人が発明した、地球人をバカにする最強のツールじゃないかってね」
「まさか」
「いや、ありえる。ちゃんとした親だったら、子どもに音楽なんか聴かせるべきじゃない。修一は、早紀ちゃんがクズになってもいいのか?」
「それは困る」
「だったら、今すぐ手を打たないと。いやー、ぼくに連絡してくれて良かったよ。すんでのところで、罪のない一人の少女の人生を救えた」
「どうやって、ファンをやめさせるんだ?」
「デャーモンに会わせる」
「え?」
蝶舌は、意外すぎることを言った。
「早紀ちゃんは、デャーモンを天才だと思ってる。地球でいちばん才能のある男だと信じてるんだ。ところが実際に会ってみたら、普通のオジサンで、臭いオナラを連発したらどうだ? 百年の恋もたちまち冷めるでしょ?」
「ていうか、会っちゃくれないだろ」
「助手のミス・コケティッシュが、知り合いなんだ。同じアメリカ人のよしみでね」
「ホントか?」
「むちゃくちゃ熱い友情で結ばれている。すでに今回のことも頼んで、無料でやってくれることになったんだ。早紀ちゃんの前でボンボン屁をこいて、たちどころに幻滅させてやるって、今からやる気満々さ」
「もう? だって、おれがおまえに電話したの、つい昨日じゃないか」
「アメリカ人は即決なんだよ。まあ、舞台裏をバラしちゃうと、うちのミス・コケティッシュは、なんでも視えてね。今度の作戦に修一が乗ってくることも、デャーモンが引き受けてくれることも、すべてお見通しだったのさ」
「全然意味がわからん」
「わからなくても大丈夫。修一はただ、ぼくの言うとおりにしてくれたらいい」
「おれがなにかするのか?」
「実はデャーモンが、早紀ちゃんに会う前に、父親にもライブを体験してほしいと言ってきたそうなんだ。ただでやってくれるんだから、そのくらいの条件は呑まないとね」
「おれが……宇宙メタルのライブに?」
「ライブ終了後に、控室で二人っきりで会ってくれるらしい。そこで打ち合わせをしてから、いよいよ早紀ちゃんに会ってもらう段取りさ」
「おれとデャーモンが二人で……」
修一のヒゲが、またピクピク震えた。動物的な勘で、なにやらひどく禍々しいことが起こりそうな予感がし、腹をすかせた猫を前にしたように震えが止まらなくなった。