亜子は、気が遠くなるような感覚に襲われて、テーブルの端をつかんだ。

 お母さまがまちがっている。

 そんなはずはない。だとしたら、木村亜子の人生は、全部まちがっていたことになるではないか。

「おまえの母親は」

 変に甲高いその声は、鼓膜を通して脳に突き刺さるようだった。

「娘が命に危険があるほどガリガリに痩せても、ほっといている。これは虐待だ。イジメだ。きみは二十年間、イジメっ子と暮らし、支配されてきた。そこから逃げろ。イジメをするようなやつとは、きっぱり縁を切るんだ」

 亜子は椅子を立った。これはもう、限界でございます。

 吐き気がしてきて、洗面台に走り込んだ。

 すると、鏡に映った自分の顔が見えた。

 まあ。なんて醜い豚でございましょう。死んだほうがマシでございます。

「吐くな」

 異常な殺人鬼の殿方が、後ろに来て言った。

「吐けばまた痩せる。今より痩せたら死ぬぞ」

「嘘おっしゃい!」

 足元に、体重計がおいてあるのが見えた。体重計を見ると乗らずにはいられない。一日に何度でも体重を確認し、そこで自信を得ることによってのみ、かろうじて生きていた。

 ――二十六・二キロ。

 その場に崩れそうになった。

 そんなバカなでございます。今朝より一キロ以上も増えている!

 迂闊だった。赤沢さまに手作りスパゲッティを出されたとき、どうせあとで吐くからと、豚みたいに全部食べてしまった。

 トイレに立つタイミングが遅かったのかもしれない。それで吐く前に吸収された。こんなに努力してきたのに、たった一回の油断で、すべてが水の泡になった。

 ちくしょう。二十六キロなんて、そんなデブ、絶対アイドルになれませんわ。

「部屋に戻ろう」

 殿方に手を引かれた。抵抗する気力は、もはやなかった。

「状況を整理しよう。きみはアイドルになりたくて、つてを求めて赤沢に電話した。会うのは今日が初めてで、会ったところを見た人間はいない。きみは赤沢にいやらしいことをされた。襲われて、気でも失ったのかな? それはともかく、赤沢は誰かに殺された。犯人はきみではない。ここまではいいか?」

「はい」

「気がかりなのは、赤沢のオフィスの電話だ。そこには、芸能人に関する情報提供の電話もかかってくるだろうから、通話を録音している可能性は大きい。警察がそれを調べて星王子に連絡し、娘の存在を確認すれば、赤沢と今日会う約束をした女性がきみということはわかってしまうな」

「……はい」

「しかし星王子が、あくまでもわたしには娘などいないとしらを切れば、きみの存在が知られることはない」

「でもお父さまは、きっとわたくしのことを話すでしょう」

「どうして?」

「嘘をついて、警察の捜査に協力しない理由はございませんから」

「それはわからんぞ」

 殿方がそう言って、なにがおかしいのかケロケロと笑ったとき、再びドアノブがまわった。

 今度は鍵がかかっていなかったので、あいた。

 ドキッとした。蝶舌さまだわ。

 どうしましょう。殺人鬼さんがいることを、教えて差し上げなければ。

 でももう遅い。ドアがためらうように、ゆっくりと開かれると――

 亜子は息を呑んだ。

 ちがった。蝶舌さまではない。

 どういうわけか、母親の木村由利子がそこに立っていた。