恐怖で倒れそうになる身体を、その殿方が支えた。

「……大丈夫?」

 殿方のお口から、耳障りな甲高い声が洩れた。

 でもその口調は、意外にも優しかった。

「部屋に行こう。コーヒーでも淹れてあげる」

「……恐縮でございます」

 小さく言って、亜子はリビングに戻った。この殿方は、殺人鬼でいらっしゃるかもしれないけど、少なくとも、今すぐ亜子を殺しそうではない。

「ああ、これが死体だね。見事にやったもんだ」

 殿方が手で坐るようにうながしたので、亜子は赤沢さまの死体をよけて、テーブルについた。

「フンフンフン、ラララ、ケロケロケロ」

 殿方は、楽しそうに鼻歌を唄いながらお湯を沸かすと、戸棚を開けて、インスタントコーヒーを淹れた。

「殺人のあった家のカップが気持ち悪くなければ、どうぞ」

 湯気の立つコーヒーカップを置かれたけれど、やはり手は伸びない。

 あなたは誰ですの、の一言が訊けない。

 まず犯人さんにまちがいない。死体を見て、すっぱい血の匂いを嗅いでも、平然とコーヒーなんぞを淹れられるのは、それをやったお方以外にはとても考えられませんもの。

 異常者さんだ。

 それも超絶な。犯行現場に戻ってきて、ごくごくコーヒーを飲んでいらっしゃる。あちこち触って自分の指紋を残すことも、まったく気にしていない。

 この殿方は、わたくしを殺すだろうか?

 そうしない、と考える理由はない。亜子は、この殿方が犯人であることを知っている。顔も憶えた。鋭い目、鼻梁の高い西洋的な鼻、横に広い口。

 その女を、普通だったら生かしてはおかない。

 でも……

「豚の丸焼き殺人事件か。ケケケ。なかなか犯人もやるなあ!」

 まちがいなく普通ではございません。ここまで異常だと、かえって亜子を見逃してくれそうな気がする。でも逆に、気まぐれであっさり殺されそうな気もする。

 とにかく、なにを言われてもこのお方には逆らうまいと、亜子は心に決めた。

「冷めるぞ」

 殿方に言われて、亜子は慌ててコーヒーを飲んだ。

「警察は呼んだのかね?」

 亜子はむせそうになりながら、急いでカップを置いて答えた。

「いいえ、お呼びしておりません」

「ほう。どうして?」

「犯人さんと疑われるかもしれないと思ったからでございます。あと、こういうことで、世間さまに名前や顔を知られるのが怖ろしいのです」

「でもきみは、犯人じゃないんだろう?」

「もちろんでございます」

「だったら警察を呼ぶべきだ。遅くなればなるほど、立場が悪くなる」

「……お呼びしたくありません」

「なぜだ」

「わたくし、実を申しますと、アイドルデビューを目指しているのでございます。芸能誌の編集長である赤沢さまとお会いしたのは、今日が初めてなのですが、それなのに、こんな事件に巻き込まれてしまって」

「ふむ。もしきみが、事件の重要参考人ということになれば、世間の好奇の目にさらされる。そうなると、アイドルデビューの夢もついえる。それが心配だというんだな?」

「そのとおりでございます」

「なるほど。じゃあきみは、逃げるしかない」

「大丈夫でしょうか。わたくしの指紋が、きっとたくさん残っています」

「あとで、おれが拭いといてやるよ。玄関とリビングだけか?」

「あと、グラスやフォークと、トイレと、車の中と」

「車か。キーはこの豚のポケットの中かな? 探しておくよ。食器はおれが持って帰って処分する。ところできみは、警察に指紋を採られたことはあるか?」

「ございません」

「そりゃ良かった。きみがここに来たのを知ってる人は?」

「昨日お電話で、赤沢さまのオフィスに行く約束をいたしましたので、赤沢さまがそれを誰かにしゃべっていなければ」

「赤沢というのは、この死人だな」

「……はい」

「こいつはきみに、なにか変なことをしようとしたか?」

「いたしました」

「最初からそういう目的できみを呼んだのであれば、誰にも言ってないだろう。この家に入るところを、誰かに見られたか?」

「見られてない、と思います」

「なら大丈夫じゃないか」

「ですが、昨日のお電話で、わたくしの名前を申し上げたのでございます。もしそれが録音されておりましたら……」

「きみは、自分のフルネームを名乗ったのか?」

「ええと、確か木村と、名字しか言わなかったと思います」

「下の名前は言わなかったんだな?」

「わたくしは木村という者で、星王子の娘ですと、そう申し上げただけです」

「ホシオウジの娘、とね」

「昔、そういう名前の歌手がいたのです。ちっとも有名ではなくて、インターネットで探しても、画像も動画もないのですけど」

「そのことを知ってる者は?」

「いないと思います。というのは、母は父を憎んでいて、誰にも決して父の話をしなかったそうですし、わたくしにも、絶対言うなと口止めしておりましたので」

「きみはずっと、その言いつけを守ってきたんだな」

「はい。昨日までは」

「お母さんの言うことをよく聞くんだね」

「それはもちろんでございます」

「きみはお母さんが恐いのか?」

「…………」

「どうなんだ?」

「母は絶対でございますから」

「絶対正しい人間などいないだろう。反抗したことはないのかね」

「わたくしには母しかおりませんのに、反抗したら、生きていけなくなります」

「きみは、独り立ちできるように育ててもらってないのか?」

「まだ子どもですから」

「何歳だ」

「二十歳(はたち)でございます」

「立派な大人じゃないか」

「母は、まだ子どもだと申しております」

「おまえの母親は」

 殿方のお顔が、ぞっとするほど険しくなった。

「まちがっている」