***
一時的に目がおかしくなったか、酔っ払ったか――そう思ってその日は寝たのだけれど、翌朝になっても症状は改善していなかった。
とはいえ、「赤い糸が見えるようになった」と家族に話せば心配されるのはわかっている。下手をすると、病院に連れて行かれるかもしれない。でも、病院に行ったところで治らないのは確実だ。
赤い糸がちらついて落ち着いてテレビも見ていられないし、このままでいいわけもない。
困り果てた琴音は、花代に連絡をした。
離婚のことをいろいろ聞かれるかもしれない、お見合いを勧められるかもしれない、何より明るくパワフルな人を相手にする気力がない――足踏みする理由はたくさんあったものの、頼れる人が他にいなかったから。
けれど、そんな琴音の不安とは裏腹に、花代の反応はあっさりしたものだった。
『喫茶丸屋から手紙が来とった? 早かったねー。人手がいるって言っとったから、琴音ちゃんのことを話しとったんよ。働く気はある? それなら、住むところも手配しておこうね。やけん、琴音ちゃんは自分の必要なものだけ持ってきんしゃい』
赤い糸のことを伏せて届いた手紙について話すと、花代はすぐに何もかも了解したというふうな口ぶりでそう言った。「気分転換にもなるやろうけね。自分のことをよう知らん人たちばかりのところで心機一転するのも、琴音ちゃんのためになるやろ」とも言っていた。
過剰に憐れまれなかったことと深く尋ねられなかったことで、琴音の気持ちは一気に楽になった。花代に対して身構えていたのが嘘のように、素直に頼ろうという気分になっていた。
そういうわけで電話をかけた数日後、琴音は新幹線と私鉄に揺られ、花代のもとを訪ねていた。
「よう来たね、琴音ちゃん」
「久しぶり、花代おばちゃん」
「疲れたやろ。今、車を回してくるけね。とりあえず、琴音ちゃんの住む部屋に行って荷物下ろそうね」
改札を出ると、元気のいい花代に迎えられた。
大叔母ではあるけれど祖母の七歳下で琴音の母とは十三歳差だから、やはり大叔母というより叔母に感覚が近い。そして何より、六十五歳に見えないほど若々しい。縁結びのお節介を焼くという楽しみがあるから、生き生きしているのだろうか。
「久しぶりに来たけど、やっぱり雰囲気があっていいところだね」
駅前のロータリーから車に乗り込んで、琴音はしみじみと言った。
観光地とはいえシーズンを外れているからか、人がごみごみしていない。それでも常に外から人が訪れる場所として意識しているのだろう。清潔に整然と保たれていて、飾りつけや雰囲気づくりに余念がないのがいい。
「琴音ちゃんがおったのは埼玉やったっけ? ああいうところのほうが若い子にはいいんじゃないの?」
「確かに便利ではあったね。東京も近いからよく行ったし。……でも、私は馴染めなかったな」
埼玉での生活は、琴音にとって即ち結婚生活のことだ。そのことを思い出してつい声や表情が暗くなってしまいそうになったけれど、車を運転中の花代は気がつかなかったようだ。
「それなら、ここでの暮らしは水が合えばええねえ。水と言えば、川下り! 今度、気が向いたら川下りの船に乗ったらええわ。住んでしばらくすると乗ろうって気にならんけね、お客さん気分の抜けきらんうちに」
「そうだね」
このあたりは水郷として有名だから、町のいろんなところに川が流れている。暮らしの中に川があるというのは、他の地域から来た人間にとってはなかなか不思議な光景だ。
船頭によるガイドつきの川下りが観光の目玉のひとつなのだけれど、小さな頃に親と乗ったきりだ。また乗ってみたいと思いつつも、冬の寒空を見ればそんな気も失せてしまう。乗るにしても、もっと暖かくなってからがいい。
花代ととりとめもない話をしながら三十分ほど車に揺られているうちに、目的地に到着した。
それは趣きある三階建のアパートだった。外観からして古いけれどよく手入れされているのがわかる。古いというよりこれは、レトロというのかもしれない。
「これ、丸屋さんまでの地図ね。歩いていけるから。行ったら、住むことになったご挨拶も済ませときね」
アパート前で琴音を下ろすと、花代はまたいそいそと車に乗り込む。
「おばちゃん、どっか行くところだったの? 忙しそうなところありがとう」
「忙しいっていうか、今から若い人たちの顔合わせの付き添いにね。うふふ。やっぱり初回は付き添ってやらんとねえ。じゃあ、お夕飯の時間にはうちにいらっしゃいねー」
にこやかに手を振ると、花代の車は走り去ってしまった。その慌ただしさに、取り残された琴音は唖然とする。それに、車中でいろいろ言われなかったのは他に世話を焼く相手がいるからだとわかって、何だか脱力してしまう。花代は親切だけれど、やはりお節介なのは変わりないらしい。
(働き始めるのは後日だとしても、早めに行っておくにこしたことはないか。挨拶もってことは、喫茶店に大家さんがいるのかな?)
琴音が住むことになったのは、三階の部屋だ。花代に必要なことを説明されずおいてけぼりにされた感たっぷりで戸惑ってはいるものの、とりあえず身軽になろうとキャリーを引いて階段をのぼった。
渡されていた鍵でドアを開けると、すぐにキッチンが目に入った。
事前に渡されていた間取り図によると、五畳のダイニングキッチンとバスルームとトイレ、そしてその奥に六畳の洋室がある。手狭かと思っていたけれど、こうして実際に目の当たりにするとちょうどよい広さに思えた。
「今日からここが、私の部屋か……」
花代がどこかからもらって搬入しておいてくれた冷蔵庫と電子レンジ以外何もない部屋で、琴音は呟いた。
夫と幸せに暮らしていくのだと気合いを入れて不動産屋を回って探した部屋とは違い、なし崩し的に住むことになった何の思い入れもない部屋だ。でも、ここでこれから生きていくのだと思うと、妙にしっくりくる気もした。
長居をして新婚当初のことを思い出して泣きたくなってもいけないから、琴音はキャリーバックを適当なところに転がしてまた外に出ることにした。
先ほどまで大きなキャリーバックを引いていただけあって、小さなポシェットにスマホと財布だけ入れて歩くのは何だか自由な気分になった。
でもそれも、身体の軽さと動きやすさに関してだけだ。
少しでも視界に人が入れば、その人の指の先から伸びる糸が見えてしまう。
新幹線の中でも、私鉄でも、花代と一緒にいるときにも、実は相変わらず赤い糸は見えていた。でも、あまり意識しすぎると疲れるから、努めて視界から外すようにしていたのだけれど、それでもチラチラ目に入っていた。
(喫茶丸屋に行けば、何らかの解決策があるはずよね)
送られてきた仮雇用契約書に何か秘密があるのだろうと踏んで、それだけを頼りに慣れない土地を歩く。
同じ市内でも、観光地として大々的に売り出しているところを離れると普通の住宅街だ。特に目立つ目印もなく、おまけに花代の書いた地図はわかりにくい。
それでも何とか迷いながらもぐるぐると歩いて、やっとのことでたどり着いた。たどり着いてみると、おそらくアパートから十分もかからない場所にあることがわかる。
「ここか……」
樹齢のいった木をそのまま切り出したかのような板材に「丸屋」と墨文字で書かれた看板を掲げるその店は、二階建の日本家屋だった。確か、土蔵造の町家というのだったなと琴音は思い出す。
「……ごめんください」
引き戸をそっと開けると、ドアベルがカランと音を立てた。店内に人の気配はない。けれどそう感じたのは薄暗いからで、少しして目が慣れてくると、カウンターに男性がいるのがわかった。
着物を着流した気怠げな男性が、頬杖をついて目を閉じている。眠っているのだろうか。営業中なのに?
「あのー、すみません」
琴音は信じられない気持ちで、男性に声をかけた。すると、男性はおもむろに目を開けた。
「なに? 客?」
低く、それでいて響く声でそう問われ、琴音は驚いた。その発言や態度に対してもだけれど、無駄に美声なのと目を開けたらなかなかいい男だったことに。
歳は三十代半ばくらいだろうか。琴音はこれまで生きてきて、仕事中にこんなにやる気のない三十代男性を見たのが初めてで衝撃を受けていた。
「いえ、客ではなくて、吉田花代の紹介で来たんですけど」
「え? 誰?」
「初一と申します」
「バツイチ? ……ああ、花代さんのところの」
男性は気怠げな態度を崩すことなく、おまけに失礼なことまで言ってきた。おおかた、この男性の頭の中で琴音の情報は「花代の親戚の、離婚してバツイチになった女」という感じなのだろう。
そのことだけでもむかついたのに、男性の言葉はさらに琴音を苛立たせた。
「いや、話は聞いてたし人手はほしいからお願いしようと思ってたけどさあ、こうしていきなり押しかけられたら困るなあ」
「いきなりって……私は、この仮雇用契約書ってものが届いたからここにきたんですけど」
「契約書ぉ?」
腹を立てながら琴音がカバンから三つ折りにした契約書を取り出すと、男性はそれをひったくった。
「……俺は、こんなもの送ってないぞ」
「え?」
「だが、うちの社判が押されている。丸屋じゃなく九田屋のだけどな」
書類をじっと見つめて、男性は困り果てたように頭を抱えた。
この契約書は本当に覚えがないことらしく、さらに無下に突き返すこともできないもののようだ。
「あの、私も契約書を見たとき気になったんですけど、九田屋って何ですか? 喫茶丸屋さんとは違うんですか?」
差出人は喫茶丸屋だったのに、従事するのは九田屋の業務と書かれているのが引っかかっていたのだ。本来ならその疑問を解決するまで署名すべきではないなのだけれど、操られるようにして書かされてしまったのだから仕方がない。
「そんなことも知らねえでって……普通の契約書じゃないから仕方ねえのか。あいつらの仕業だよなあ……」
男性はブツブツ言ってから、悩ましげに頭をかいた。その動きに合わせて、一本に束ねた髪の先が肩の上で揺れている。髪型までものぐさな様子だ。
男性は苦悩し、迷っていたようだけれど、しばらく頭をもみくちゃにすると吹っ切れたように顔を上げ、琴音を見た。
「俺は九田だ。喫茶丸屋の店主で、九田屋の跡取りだ。一応な。で、九田屋ってのは――縁結び屋だ。あんたが契約を結んだのは、縁結び屋ってことだ」
九田と名乗った男性は、そう言い放った。それがすべてだというように、他に言うことも言いようもないというふうに。
それが、琴音と九田の出会いだった。
縁結びと聞いて、琴音の中で何割かのことが納得できた。
縁といえば、赤い糸だ。だから縁を結ぶために赤い糸が見えるようになったのだろう、と。
「……この仮雇用契約書に署名捺印してから赤い糸が見えるようになったから困ってたんですけど、業務に必要なものだったからなんですね」
言いながら、内心では「何そのオカルト」とツッコミを入れていた。自分の身に起きていることだから受け止めなければならないけれど、心のどこかではそれを信じきれていないし、バカバカしいとも思っている。
ただ、病院ではなくここに来た段階で、自分の身に起きている事態が鼻で笑えないものである自覚は持っているのだ。騒がないのは受け止めきれているからではなく、そんな気力がないだけだ。
「あいつら、そんなことまでしたのか……その目、不便だろ? このくらいの薄暗さならいくらかましだとは思うが」
「そういえば……」
九田に言われて、琴音は自分の指を見た。全く見えなくなっているわけではないけれど、明るいところよりも見え方が薄い。それだけで少し気が楽になった。
でも、九田の発言が他人事なのが気になる。
「あの、さっきから“あいつら”って言ってますけど、一体誰なんですか? 私に契約書を送ってきたり、目をこんなふうにしてしまったのは……」
「あー……見せないわけにもいかないよな。――おい、出てこい」
九田は少し悩んでから、店の奥に声をかけた。すると、トコトコと小さな足音がして、何かがひょっこりカウンターの上に現れた。
それは、茶色や白や灰色の毛玉だ。目がクリクリしていて、丸い耳が生えている。
「ハムスター?」
「いや、どう見ても違うだろ。こいつらはクダギツネだ。簡単に言えば、使い魔だな。俺の家はいつの頃からかこのクダギツネってあやかしを使って人と人の縁をつなぐことを生業(なりわい)とするようになったんだ」
「クダギツネ……」
ハムスターではないと言われて、琴音は改めてその生き物を見た。確かにネズミではないけれど、キツネにはとても見えない。近い生き物といえば、フェレットやイタチだろうか。でも、そのどちらもこんなに小さくはない。
「クダギツネで縁結びなんて、聞いたことありませんけど。縁結びといえば東京大神宮とか出雲大社とか神様に頼むことだし、そういった神のお使いはシカやウサギですよね。それに、クダギツネってあまりいいイメージがありませんし」
小さな生き物たちの手前控えめに、でも気になることを琴音は尋ねた。
「まあ、そうだろうな。大昔はクダギツネを使役する家は管屋(くだや)とか管使(くだつか)いとか呼ばれて嫌われたもんだからな。病気にしたり災いをもたらしたりするんだから、嫌われて当然だ。それで何代か前のうちのご先祖はこれじゃいかんと一念発起して、呪いを生業にするのをやめて、人に喜ばれる縁結びを始めたってわけだ」
気怠く面倒くさそうに九田は説明する。九田家が家業を呪いから縁結びに変えたという華々しい話だというのに、ちっとも誇らしそうではない。
「……俺はどうでもいいけどな。だから他人の縁なんぞ結ばず、こうして日々だらけて過ごしてるから、クダたちが痺れを切らしてあんたと仮契約を結んだんだろ」
「何て迷惑な!」
琴音は、九田のダラッとした態度や発言に腹が立って思わず叫んでしまった。でも、クダギツネたちがその声にビクッとしたあと悲しそうな顔をしたのを見て、悪いことをしたと少し反省した。
「迷惑なって言われてもなあ。俺は縁結びに興味ないし、いいものだとも思ってない。だからやらない。でも、喫茶店に人手が必要なのは間違いないし、巻き込んだのに帰れなんて言えねえから、明日から働きにきてくれて構わない。というわけで、以上」
「以上って……ちょっと……ええー……」
以上という言葉の通り、九田はこれ以上はとりあわないというように目を閉じた。挙げ句、小さくいびきをかきはじめた。
琴音は信じられない気持ちになったけれど、叩き起こして文句を言う気力は残っていなかった。明日から働きに来ていいというのだから、文句を言うにしても明日以降にすればいいと考えることにする。
「あれ? いない?」
店を出る前にもう一度、クダギツネとかいうあやかしを見ようと思ったのに、いなくなってしまっていた。小さくて柔らかそうだったから、少し触ってみたかった。
静かな店内に、九田の寝息が響いている。喫茶店なのに、音楽のひとつも流していないのはいかがなものだろうか。そんなことを思いつつ、琴音は店を出た。
それから、どこかに買い物に行こうかと考える。花代の家を訪ねるまでまだ時間があるし、買い揃えたいものもある。生きていくには、いろいろ必要なものがあるのだ。
***
琴音は花代宅で夕飯をごちそうになってから、ほろ酔いで帰宅した。
飲みすぎて泣いたり騒いだりという失態を演じてはいけないからと思って、本当にほろ酔いだ。だから、久しぶりに涙を流さずにお酒を飲んだということになる。
ほろ酔いがこんなに心地よいものだと思い出した。楽しく飲めたのは、花代宅で離婚のことを深く掘り下げられることも妙にいたわられることもなかったからだ。
ただ、就職おめでとうと言って小さな門出を祝われただけだ。どうやら九田家はこのあたりでは名の知れた家のようで、あんな開店休業中のような店でも雇ってもらったとなるとめでたいことで、安心できるということだった。
「ふふ。おめでとうって言われちゃったー」
冷たい床にコロンと転がって、琴音は呟いた。自分の人生にまた何かめでたいことがあるなんて思っていなかったから、誰かにおめでとうと言われる些細なことでもたまらなく嬉しかった。
離婚ですべてを失っただなんてことは考えていないけれど、いろんなものを失ったのは確かだ。夫の浮気による離婚だ。夫と浮気相手にはいろいろなものを踏みにじられたし、そのせいでいろんなものがすり減った。実家にいたときはそのことをたびたび思い出して悔しくて苦しかったけれど、こうして何もない部屋にいるとそんな気持ちは薄れていた。
久しぶりに、心が穏やかな夜だ。
お風呂に入らなくてはと思ったけれどあまりに心地よくて、琴音はほろ酔いのまま毛布に包まって眠りについた。泣かずに眠ったのは、かなり久々のことだった。
だからだろうか。不思議な夢を見た。
視覚情報はない。音だけの夢だ。カサカサとカツカツの中間のような音だ。
それが小さな生き物の足音だとわかったときには、その気配はすぐそばまで来ていた。
『むすんで むすんで』
可愛らしい声が聞こえた。子どもの声というより、オモチャみたいな声だ。作りものめいた可愛い声。
『結んで たくさんたくさん結んで』
可愛い声と気配は、琴音を急かすように言う。
結ぶって、何を?
心の中で問いかけてみるけれど、それに対する答えはない。
『結んで 結んで たくさん結んで 結ぶっていいことだって ヨリヒトに思い出させてあげてね そしたら、その目ももとに戻すよ』
それだけ言うと声はふっつり途絶え、気配もなくなった。
(言い逃げか。何だったの)
そんなことを思ったところで目が覚めた。
目が覚めて、あれはクダギツネたちの声だったのではと気がついた。つまり結んでとは、縁なり赤い糸なりのことだろう。でも、“ヨリヒト”というのが誰のことかはわからなかった。
「……お腹空いたな」
起き出してシャワーを浴びて部屋に戻ると、急に空腹を感じた。実家にいたときは当たり前のように母が用意してくれていたけれど、今日からそういうわけにもいかない。基本的に買ってくるか作るかしなければ、何も食べられないのだ。
冷蔵庫を開けると、食パンと昨夜花代が持たせてくれたサバの切り身があった。野菜室にはスーパーで見つけて買っておいたわさび菜がある。
サバを焼いて挟めばサンドイッチができるなと思い、少しためらってから切り身を取り出した。
料理をするのには、まだ少し抵抗がある。
本当はすごく料理が好きだったのに、夫と浮気相手に生活空間を踏み荒らされてからは、すっかり作る気をなくしていた。自分の作ったものにも何となく嫌悪感があって、作っても食べられなかったという事情もある。
でも今は、作らなければ何も食べるものがない。それに、魚を焼くくらい何だというのだ?
「あっ! ああー!」
そんなことを考えながらキッチンに立っていたからだろう。サバに火が入りすぎて、モクモクと煙を上げ始めた。軽く火事のようになってしまって、あわてて火を止めた。掃除がしてありそうだから大丈夫かと思ったけれど。やはり安全確認もせず備えつけのコンロを使うのはよくないのかもしれない。でも、サバは少し皮が焦げただけで無事だった。
「おい! 大丈夫か!?」
叫び声と、ドンドンドンとドアを殴る音。それに続いて、インターホンが慌ただしく鳴らされた。
サバによる混乱が落ち着いたばかりだから本当は嫌だったけれど、いつまでもドアの向こうで騒がれるのも嫌だったから出ることにした。
「はーい、どちらさま……って九田さん?」
チェーンをしたままドアを開けると、その向こうには喫茶丸屋の店主・九田がいた。だらしない着流しは昨日見たときと同じだけれど、様子が違った。焦っているみたいだ。
「あの、九田さんがどうしてここに?」
「どうしてって、大家が店子の心配して何が悪い? あんた、さっき煙が……火事にでもなったかと思ったんだよ。思いつめて、火でもつけたんじゃないかって思って……」
キッチンの小窓からの煙を見て大急ぎで来たのだろう。そこまで言って、九田は苦しそうに息を整えた。
「サバを焼いていたら焦がしてしまって、それですごい煙が……って、思いつめて火をつけるって、どういう意味ですか?」
「いや、あんた、離婚したばっかって聞いてたから……」
火事ではなくただのサバを焼く煙で、おまけに思いつめた様子のない琴音を見てバツが悪くなったのか、九田は困ったように頭をかいた。やる気はなさそうだけれど、こうして本気で心配してくれるあたり、いい人なのだろうと琴音は思った。
「……サバ、うまそうな匂いだな」
そのまま立ち去るのも何となく居心地が悪かったからだろう。ボソッと九田が呟いた。
「食べていきますか? 大したおかまいはできませんが」
「いいのか? やった。朝、まだ食べてなかったんだ」
琴音としても心配してくれた人を無下に追い返すこともできず、仕方なく上がってもらった。着流しの上に半纏(はんてん)を羽織った九田は、寒い寒いと呟きながら冷気をまとって部屋に入ってきた。
昨夜は酔っていてあまり気がつかなかったけれど、そういえば今は冬で、寒いなと思って琴音はエアコンをつけた。
「そういえば、大家さんって九田さんだったんですね。大叔母に任せきりにしてしまっていて知らなくて……昨日はご挨拶もなしにすみません」
パンにバターを塗りながら、琴音はペコリと頭を下げた。でも、ダンボールを組み合わせただけの簡易テーブルの前に居心地悪そうに座っている九田を見ると、謝るところはそこじゃなかったかと思い直す。
「ああ、いいよ、別に。花代さんから菓子折りもらってるし、知り合いのよしみだし。……それより、いらんテーブルあるから、いるか?」
「今、めちゃくちゃ私のこと憐れんでません? 大丈夫ですよ。荷物がまだ届いてないだけで、ちゃんとテーブルも椅子もありますから」
「そうか、それならいいんだが」
一刻も早くテーブルがほしいのだろうなと思って、少し申し訳なくなった。でも、じっと顔を見られて自分が今ノーメイクなのを思い出して、気にするのはそこではないと思い直す。とはいえ、テーブルも化粧も、人を招く予定などなかったのだから仕方がない。
「あ、丸屋のほうに行くの、荷物を受け取ってからでいいですか? たぶん、そんなに遅くならないと思うんですけど」
「いいよ、急いで来なくて。ちゃんと搬入してセッティングして、生活できるように整えてからで。何なら、手伝うけど」
「大丈夫です。ひとり暮らし用の小さめの家具ばかりで、量も少ないですし」
「そうか」
気怠げでやる気がなさそうに見えるけれど親切だなと、琴音は改めて九田を評価した。あの店で働くのはちょっとどうかなと思っていたけれど、この人とならうまくやれる気がする。
「できました。どうぞ」
「……和食の支度ではないと思っていたが、なんとパンに挟まれて出てくるとは」
「サバサンド、結構いけるんですよ」
できあがったサンドイッチを皿に乗せて出すと、九田は眠たげなたれ目を少し見開いた。そしておそるおそるといった様子でひと口かじって、さらに目を見開く。
「……うまいな」
「でしょう? 私もテレビの海外の食べ物を取りあげる番組でこういった魚を挟んだサンドイッチを見てから半信半疑でやってみたんですけど、意外にイケるなあって。ネットで調べたらレシピも結構あるから、わりと一般的なのかもしれません」
「そうか。……うまいなあ」
九田は黙々とサンドイッチをかじった。たまにサンドイッチと並べて出した紅茶を口にする。でも、すぐにまたサンドイッチに集中した。
その姿を見ると、琴音の中に小さな喜びがふつふつと湧いてくる。自分の作ったものを誰かがこうして美味しそうに食べてくれるというのは、琴音にとって救いだった。
(第一印象は控えめに言っても悪かったけど、九田さんはいろいろと私の救いになってくれるのかな)
そんなふうに九田との出会いに感謝しかけた琴音だったけれど、その後の九田の発言がすべてを台無しにしてしまった。
「料理うまいんだな、バツイチさんって」
ピキッと、琴音は自分のこめかみに青筋が浮くのがわかった。最近涙もろくなっているだけでなく怒りっぽいとも自覚してはいるものの、ひどい間違いだ。腹を立てるなというほうが難しい。それとも、わざとなのだろうか。あだ名的な?
「……ハ・ツ・イ・チ、です! それに今時、離婚したからって戸籍にバツなんてつかないんですからね!」
ふんっと鼻を鳴らして、琴音は自分のサンドイッチにかじりついく。それを見て、九田は口の端をニッと上げた。
「すまん、間違えた」
絶対わざとだ!――琴音はそのとき、九田がただ親切なだけの人間ではないと確信した。
スマホのアラームで目を覚まし、朝食を摂り、着替えて歯を磨いて顔を洗ってメイクをして、改めて鏡を覗き込んで琴音は「よし」と呟いた。
鏡の中には、そこそこ美人な顔がある。化粧さえすればなんとかなるものだなあと、特に感慨もなく思う。
琴音は化粧を落とすと眉毛がない。髪の毛を含め全体的に体毛の色素が薄いせいか、眉毛が薄いというよりほぼないように見えるのだ。おかげで、メイクができるような年頃になるまでわりと人相が悪かった。
おまけにいわゆる薄顔というかのっぺり顔で、メリハリをつけたメイクを心がけないとどうにも存在感が薄くなる。
でもその代わりに、メイクの技術さえ手に入れてしまえば、“美人風”を装えるから、得といえば得だ。
装うこと、繕うこと、それっぽく見せること――これらはいろんな場面で大事だなと、働き始めたばかりの職場・喫茶丸屋に出勤して琴音は思った。
「九田さん……もっとこのお店、内装だとか雰囲気作りだとかに力を入れませんか?」
店内を見回して、琴音は溜息まじりに言った。
カウンター席に四人がけのテーブルが八卓と、店内はまずまずの広さだ。けれども、店主の九田と同様に店内は何となくやる気がない、もとい味も素っ気もない。ただ空間の中にテーブルと椅子があるだけという感じだ。
音楽も流れていなければ、華やかさや趣きを添える飾りもない。これでは人が入ってこないし、もし入ってきたとしても寛ぐことはできないだろう。
「雰囲気作りー? 別にそういうのはいいや。だって俺は別に、この店が儲からなくてもいいし」
一応店主としての務めを果たす気はあるのか、琴音が出勤してくる頃合いにはふらりとやってきて鍵を開けてカウンターの奥に収まっている九田は、あくびを噛み殺しながら言った。
なんてやる気のない姿でなんてやる気のない発言なのだろうと、琴音はちょっぴり苛立つ。
「儲からなくていいって……どうやって生きていくつもりですか」
「不労所得で。あと、九田家はこれまでに稼いだ財産があるし。たかだか何代か前に人様のためになる縁結びに鞍替えしたからって、もともとは人を呪うことで興った家だ。……そんな金は俺が使い切ってやるんだよ」
「いや……まあ……言わんとすることはわかるんですけど」
悪いことをして稼いだお金はさっさと使い切ってしまいたいということなのだろう。その主張は、琴音も理解できた。
けれども雇われた手前、儲からなくてもいいという主張には同意しかねる。
「人手がほしくて私を雇ってくれたんですよね? それなら、儲からなくていいっていうのはおかしくないですか?」
「こんな店でもな、毎日最低でもひとりかふたりは客が来るんだよ。その客をあんたにさばいてもらったら、俺は楽できるなあって思ったんだ」
「なんてことを……!」
どこまで怠ければ気が済むのだと、琴音は目眩がしてきそうな心地だった。でも、くらりとした拍子にいいことを思いつく。
「あの……このお店、儲からなくてもマイナスを出してもいいんですよね?」
「んー? 別にいいけど」
「それなら、私にいくらか資金をください。少しお金をかけたら内装とか諸々、もっとどうにかできると思うので」
「……大人のお店屋さんごっこをやりたいってことか」
九田に問われ、琴音は頷いた。
儲からなくてもいい、お金を使い切ってもいいというのなら、資金として使わせてもらってもいいだろうと琴音は考えたのだ。
それなら九田の言うとおり、ごっこ遊びのようにいろいろやってみたい。失敗してもいいのだし、これで売上が上がれば万々歳だ。何より、琴音としては客が来てくれないと困る。……喫茶店のほうの客ではないけれど。
「面白いな。やってみたらいい。これ、通帳と印鑑な。一応この店の名義の通帳だから、この店の資金ってことになる。レシートや領収証をとっておいてくれたら、どこで何を買っても構わん」
面白そうに笑って、九田は店の二階に行って通帳と印鑑を取ってきた。それらを受け取ってどんなものかと開いてみて、その予想外の額に琴音は目が飛び出るかと思った。……これは一度、使ってもいい資金として限度を決めて引き出して、その中から使ったほうがいいだろうなと考える。とてもではないけれど、ホイと渡されて持ち歩いていい通帳ではない。
「……大事に使わせていただきます」
「好きにしたらいい。何か近場で買い物するなら、こいつらを道案内に連れて行ったらどうだ」
うやうやしく通帳と印鑑を押し頂いた琴音に、九田は顎でカウンターの上を指し示す。
そこには、いつの間にか現れていたクダギツネたちがいた。今日は折り重なっておらず、白い子、茶色い子、ミルクティー色の子、灰色の子がいるのがわかる。それを見て琴音の頭には「選べるアソートセット」という単語が浮かんだ。カラーリングが、何となくお菓子っぽい。
「よろしくね、クダちゃんたち」
あやかしというものがよくわかっていないけれど、じっと見てくるのが可愛くて、琴音はそう声をかけた。
「……見えない人間も多いんだから、外で話しかけるなよ」
「……はい」
クダギツネに代わって、少し引いた様子の九田に言われて琴音は凹んだ。でも確かに、クダギツネに話しかけているところをもし誰かに見られたら、動物に話しかける変な人か虚空に向かって独り言を言う危ない人だと思われるだろう。
「約束、守ってね」
店を出てすぐ、琴音はコソッと足元のクダギツネたちに言った。
「よくわからないけど、縁結び、すればいいんでしょ? するから、この目をもとに戻してね」
クダギツネたちは答える代わりに、てててと駆け出した。どうやら、ついて来いということらしい。
少しわくわくしながら、琴音はそのあとに続いた。
それから、琴音は丸屋での業務の合間に様々なものを少しずつ揃えていく日々を送った。
クダギツネたちは琴音を近所の古道具屋や古書店、花屋、文具店などに連れて行ってくれた。
夢の中のように言葉は話さないけれど、クダギツネは目つきや身振りで意思疎通を図ろうとしてくれる。琴音が古道具屋で花瓶を買えば、そのあとは花屋へ行こうと促してくれたり。メニュー表を作り変えたいと言えば、文具店に連れて行っておしゃれな和紙を勧めてきたり。
クダギツネたちは、丸屋に人を呼ばなければ縁結びもできないとわかっているのだろう。店主の九田よりもよほど協力的だ。……たまに変なものをほしがるけれど。
「それ、買わないよ」
今日も、古道具屋に入るや否やクダギツネはある置き物へと走っていく。
その置き物はどうやらイタチのようなのだけれど、体の色は汚れた白だし、目の周りがなぜかべっとりと黒い。その上、威嚇するかのように牙を向いている顔が絶妙に可愛くないのだ。いくら和っぽいテイストでも、これは店に置きたくない。
「あ、丸屋のところの。ほしがってた花器、いくつか仕入れてきたよ」
「ありがとうございます」
琴音の来店に気がついた店主が、箱を手に店の奥から出てきた。店主は信楽焼のタヌキにどことなく似た姿で、見るたび琴音の気持ちはちょっぴり和む。
「知り合いの質屋から手頃な価格のもんを買い取ってきただけだから、色も形もてんでバラバラだけどな。かろうじて、大きさは大体揃えたよ」
店主は緩衝材の紙を剥がしながら、ひとつひとつ花器を見せてくれた。四角いシンプルなもの、ころんとしたフォルムのもの、ウニの骨を思わせるもの、小さな土器のようなもの。どれも両手に包み込めるほどの大きさで、テーブルに置いても飲食の邪魔をしない。
「どれも素敵ですし、大きさもちょうどいいです」
「それなら、全部お買い上げかな」
「はい、お願いします」
「じゃあ、ついでにあれも持っておいでよ」
花器をもう一度包んでくれながら店主が目線で示したのは、あのイタチの置き物だ。ほしくてたまらないらしく、クダギツネたちは置き物にまとわりついている。
「店に来るたびに見てただろ? 迷ってるなら、あるうちに買っといたほうがいいよ。まけとくから」
「でも……」
「こういうのはご縁だから。な?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
置き物に群がるクダギツネたちを見ていたのが、店主の目には熱心に置き物を見ているように見えたのだろう。
結局琴音は、花器と一緒に不細工なイタチの置き物も包んでもらった。不本意だけれども、跳ねるように少し先を駆けていくクダたちを見れば、まあいいかという気がしてくる。
「あ、帰る前に古書店を覗かせて」
どうやら丸屋に戻るつもりだったらしいクダちに声をかけ、琴音は道を曲がった。それから、古い商店の並びにギュッと収まっている小さな店へと入った。
その古書店は小さいけれど、本棚がびっしりだ。その棚の間をスイスイ泳ぐように進んで、琴音は吸い寄せられるように一冊の本を手に取った。
「村岡花子先生の訳の『若草物語』だ」
「やはり、気に入りましたか。君が見つけてくれるんじゃないかと思って、棚に差しておいたんですよ」
琴音が感激していると、店の奥の椅子に座っていた店主が面白そうに言った。おじいさんと言っても差し支えない年齢なのだろうけれど、おしゃれで紳士的で、おじいさまという呼び方のほうが相応しい感じがする。
「『若草物語』、村岡先生の訳ではまだ読んでなかったので嬉しいです」
「君はもしかして、モンゴメリなんかは村岡女史の訳で読んだ人?」
「はい。子供のとき祖母の家で見つけて、夢中で読みました。そのせいか、『赤毛のアン』を他の人の翻訳で読んでもいまいちしっくり来なくて……」
「わかりますよ。海外文学は訳者との相性も大切ですから」
モンゴメリやオルコットなどの海外の少女小説の愛読家である琴音は、『若草物語』を大事に胸に抱いてその後も本棚を物色した。でも、収穫といえば琴音が好きな装画家の挿絵が入った『不思議の国のアリス』くらいで、ほかはあまり心惹かれるものはなかった。
「お店の本棚は、充実させられそうですか?」
「少しずつ、ですけど。店の片隅の本棚で、手に取ってもらえるかはわからないんですけど」
琴音は丸屋の一角に小さな本棚を置き、そこに状態の良い古書を充実させたいと考えている。インテリアとしてもおしゃれだと思うし、何より店に来た人が飲み物片手にそれらの本を読んで寛いでくれればと思ったのだ。
「本はいいですよ。あるだけでいい。居心地のいい空間に変えてくれますからね」
「そうですね」
「欲を言うなら、丸屋さんのメニューにケーキや軽食があればもっと居心地がよくなるんですけれど」
「そうですよね! 検討します」
この古書店の店主も古道具屋の店主も、琴音が店を訪れるようになってから興味を持ってくれたらしく丸屋に来てくれるようになった。
メニューはといえば今のところコーヒーか紅茶かオレンジジュースしかないというひどい状態なのだけれど、かろうじて九田の淹れるコーヒーも紅茶も美味しいのが救いだ。
とはいえ、デザートや軽食がほしいというのは、喫茶店に求める当然のことだろう。
貴重なアドバイスと本を手に、琴音は店を出た。
「あれ? そっちは帰り道じゃないでしょ」
アイスクリームやケーキスポンジなんかを仕入れればパフェを作れるだろうかなどと考えながら歩いていると、クダギツネたちが丸屋ではない方向に進み始めた。
声をかけるも、止まる様子はない。もしかするとどこか連れていきたい店があるのかと思い、琴音はそのあとに続いた。
すると、クダギツネたちは琴音がこれまでまだ来たことがなかった細い道に出た。そしてそこには、男性がうずくまっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
もしかしてこの人は急病人か何かで、それをクダギツネたちは知らせたかったのかと考え、琴音は慌てて声をかけた。
「え、あ、大丈夫です」
琴音に声をかけられ、男性は顔を上げた。まだ若い人だ。もしかすると大学生くらいだろうか。「大丈夫」と言っただけのことはあり顔色は特に悪くないけれど、表情に覇気がない。憔悴しきっている様子だ。
「どこかお加減が悪くて座り込んでたんじゃないんですか?」
「違います。川を下っちゃおうかなーなんて思ってここに来たんですけど。俺なんか川を下っちゃえよと思って……」
「えっと……川下りならここから駅のほうに戻ればいいんですよ。バス、出てますし」
観光で川下りをしに来て迷子になった……のではないだろうなと思いつつも、琴音は試しに言ってみた。
けれども、やはりやけになっているっぽい青年は悲しそうにふるふると首を振った。
「違うー。違うんですー……本当は川下りなんかじゃなくて、自分の生きる道を探しに来たんですー」
もう何かが限界だったのか、青年はそう言って駄々っ子のように泣き始めた。それを目の当たりにして、琴音は困惑する。
けれども何よりも困ったのは、クダギツネたちが青年の周りをウロウロし、何やら身振りで訴えかけてくることだ。
「えっと……とりあえず、落ち着ける場所に行きましょうか。それから、温かいものでも飲みましょう」
仕方なく、琴音はそう声をかけた。
弱りきった青年を丸屋に連れて帰り、琴音はとりあえず座らせてカフェオレを与えてみた。コーヒーを飲めるか尋ねたところ、「甘いものなら」と彼が答えたからだ。
琴音と一緒に店に入ってきた青年を見て、九田は「誰? え、何なの?」と小声で聞いてきた。「道に落ちてたので拾いました」と答えると、「犬猫みたいに気軽に人間を拾うなよー」と言ったきり、興味をなくしたようだけれど。
青年はカフェオレをちびちび飲みながら、しょんぼりしたままだ。でも、泣いても震えてもいないからマシにはなったのだろうと思い、しばらく放っておくことにした。
琴音はカウンターの端の席で、メモ帳とにらめっこを始めた。そこには店内のレイアウト案や、琴音が喫茶店にあったらいいなと思うメニューについて書かれている。
ドリンクメニューの充実を図ろうとしていたのだけれど、さっき古書店の店主に言われたようにフードメニューを作らなければならないだろう。
「ケーキ類は業務用スーパーで冷凍ものを仕入れたら何とかなるけど、問題は食事か……九田さん、この奥の厨房って調理しても大丈夫なんですか?」
「何する気だー?」
起きているのか寝ているのかわからない九田に声をかけると、目を閉じたまま不機嫌な返事が返ってくる。
「ここ、喫茶店なのでナポリタンとか出せたらいいと思うんですけど」
「食品衛生責任者も防火責任者も講習を受けてるから、飲食店としての基準は満たしてるよ。……でもな、俺はナポリタンは好かん」
「そうですか」
ひとまず食品を提供するのは問題ないとわかって、琴音がメニュー考案に意識を戻そうとしたとき、ガタッという音がした。そちらに目をやると、青年が椅子から立ち上がって、何やら必死の形相で琴音のほうに近づいてきた。
「あ、あの……! もし、料理人を探してるんだったら自分を雇ってもらえませんか! 調理師免許あります! 飲食店勤務経験も! 一生懸命頑張ります! よろしくお願いします!」
「え……!」
青年は琴音のそばまで来ると、一気にまくしたてるように言ってから勢いよく頭を下げた。その勢いにあっけにとられ、琴音はすぐに返答できない。
驚いて何も言えない琴音を見て断られると思ったのか、青年はまた顔をくしゃくしゃにして猫背になる。
「俺、どこかで雇ってもらえないと本当に行き場がなくて……」
「行き場って、働く場所のことだったんですね」
消沈する青年に、琴音はやっとのことでそう声をかけた。青年はそれにうんうんと頷く。
「小さい頃から親父に憧れてて、親父みたいな料理人になりたいって思ってたんです。でも、学校でしっかり学んで修業もしっかりしないと跡を継がさないって言われたから、中学卒業したらすぐに調理の専門学校に行って、そこを出てからは親父が若い頃に修業したのと同じ店で働かせてもらって、五年修業したからそろそろ親父の洋食屋で働かせてもらおうと思ってたんですけど……」
青年はそこまで言ってから、つらそうにして言葉を詰まらせた。これから何か悲しいことが語られるのだろうと予感し、琴音は身構えた。
「親父、店を閉めるって言いだしたんです。本当は、ずっと前から経営が厳しかったらしくて……良心的な価格でやってたんで。俺を修業に出させてたのは、店を立て直す時間稼ぎをするためだったみたいなんですけど、結局閉めることにしたそうです。赤字まみれの店、俺に継がせるわけにはいかないからって……」
「それは、つらいですね。仕方のないことだって、親御さんの気持ちもわかりますけど」
「でも……それだけじゃないんです!」
気持ちに寄り添うようにして琴音が相槌を打つから、青年はどんどんヒートアップしていく。
「修業させてもらってた師匠も、店を閉めるって言いだしたんです。……本当は、結構前から年齢的にきつくなってたのと持病が悪化したって理由で。せめて俺が立派になるまでって踏ん張ってくれてたらしいんです。弟子の息子は孫みたいなもんだから、面倒みてやろうって。でも、もう余生を過ごしたいって言われてしまって……」
「修業先の店まで……!」
「居場所をなくした俺に、師匠はかつて弟子だった人がこのあたりで店をやってるはずだって教えてくれたんです。だから俺、兄弟子(あにでし)にあたる人の店でならやっていけるかもしれないし、まだ学ばせてもらえるだろうと思って連絡してから訪ねていったんですけど……その人の店、レストランじゃなくてオカマバーになってました! 自分の可能性に目覚めたらしくて、料理人から転身……変身?して、バーのママになってたんです!」
「そんなことが……!」
涙なくしては語れないといった様子の青年につられて、琴音もポロポロ泣きだした。平気なふりをしていただけで、やはりまだ情緒不安定なのだ。
「落ち着いたら大したことないのかもしれないけど、子供のときからの夢が破れて、頼るところもなくなって、頼みの綱も切れて……予定にないことだらけでつらいんです」
「わかる! こんなはずじゃなかったって思うと、悲しいのとパニックなのでわけがわからなくなっちゃうよね!」
「そうなんです! 俺、今わけわかんなくて……」
「わけわかんないのつらい……私の人生も、こんなはずじゃなかった……」
病院の待合室なんかで幼児の号泣が伝染するように、ここでも悲しみが伝染し、大変なことになっていた。でも、幼児ではなく立派な大人がやっているのだからかなりシュールだ。
「おいおいおい……あんたら、何を共鳴してんだ。泣くなよ、うるさいから」
カウンターの奥でだらけている九田が、泣く大人ふたりを前にうろたえていた。そんなやる気のない声は届かないから、ふたりが泣くのをやめる気配はない。
静かな空間でただボーッとできることを望んでいるのだろう。九田は頭を抱えていた。彼まで「こんなはずじゃなかった」という顔をしている。
「あーもーうるさいな。わかったよ。雇えばいいんだろ? 雇うから、ふたりでメニューでも何でも考えたらいいじゃねえか」
困り果てた九田は、やけになったような口調でそう言った。
それを耳にしてすぐは琴音も青年も意味がわからずキョトンとしたのだけれど、理解できると大喜びして手を取り合った。
「やったー! いいんですか?」
「いい、いい。……これも何かの縁ってやつだ」
琴音が笑顔になって問えば、九田は面倒くさそうに言う。その肩を見るとクダギツネたちが乗っていて、琴音に向かってサムズアップしていた。……この子たちが何かしたということなのだろうか。
「ありがとうございますっ! 精一杯頑張ります!」
青年は九田に向かって、深々と頭を下げた。
その顔は晴れやかで、これからのことを思ってやる気に満ち溢れているようだった。
***
青年・飯田淳司(いいだじゅんじ)はその翌日から丸屋にやってきて、毎日せっせと働いた。
実家が洋食屋で、レストランでも五年間修業したというだけあって、料理の腕前は申し分なかった。何よりも研究熱心なため、まだ何もない丸屋のフードメニューを考案するのに大いに役に立ってくれている。
「琴音さん。試作品できたよ」
飯田は皿を両手に持ち、上機嫌で奥の厨房から出てきた。
「こっちがリボン型のパスタ、ファルファッレを使ったものです。ただのクリームソースだと見た目がちょっと寂しいから、鮭を入れてみました。で、こっちが“結ぶ”ことに引っかけてロールキャベツです。本当はこうやって縛らなくてもいけるんですけど、干瓢で可愛くリボン結びにしてみました」
「どっちも可愛いし、美味しそう!」
飯田は料理を二品、琴音の前に置いた。
琴音が縁結びにちなんだメニューを置きたいと相談すると、飯田は面白がっていろいろ考えてくれた。
“縁”とか“結ぶ”というのを食べ物でどう表現したものかと悩む琴音に、飯田は「リボンで表現しましょう」と言ってくれたのだ。だから琴音はデザートメニューとして、リボン型のクッキーやそれをトッピングに使ったパフェを考案することができた。
「前回のクリームソースより鮭が入ってるぶん、色味がついて可愛いね。ロールキャベツのほうは言うことなしだよ。盛りつけもすごくきれい」
「でも、どっちもトマト仕立てでやったほうが可愛いし縁結びっぽいと思うんですけどねー」
琴音が試作品を手放しで褒めると、飯田はちらっと九田のほうを見た。聞こえていたらしく、彼は気怠げに目を開ける。
「トマトは嫌だなあ」
「マスターが食べるわけじゃないからいいじゃないですか」
好きにしろというわりにこうして口を出してくる店主に、飯田は困った顔をした。でも彼は人懐っこくおおらかな性格らしく、九田のことをマスターと呼んで、カウンターで日がな一日だらけているこの勤務スタイルもあっという間に受け入れてしまったようだ。
「食べなくてもなあ、トマトは見るだけで……」
「見るだけで?」
「悲しくなる。赤が嫌いなんだ」
「あー、悲しくなるんですかー。じゃあ、仕方がないですね」
「うん」
九田は明らかにいい加減なことを言った感じなのに、飯田はそれに特につっこみを入れることなく流した。おおらかな青年だ。
トマトを使った料理がこの店で提供されるという危機が去ったとわかったからか、九田はまた目を閉じて眠ってしまった。近くにいたクダギツネたちがそんな九田を見て、困ったように首を振っていた。四匹揃ってやると、何だかそういうおもちゃのようだ。
(……もしかして赤色が嫌いなのって、赤い糸と関係してる?)
琴音はふとそんなことを考えたけれど飯田の前で確かめられるはずもなく、メニューの考案をするうちにそんなことも忘れてしまった。
丸屋の営業は午後6時に終わる。
だから琴音はそこから徒歩で帰宅して、毎日ゆっくりと夕食の支度をすることができる。
離婚して家に戻ってくるまでは、個人クリニックで医療事務の仕事をしていた。日頃はそこまで遅くなる仕事ではなかったものの、月末の締め日付近はレセプトをまとめるのに忙しくなるため、残業することも多々あった。
そういった生活に慣れていたから、今の職場や働き方は琴音にとって驚くほど快適だ。収入はやや減ったけれど、格安で今の部屋に住めているし、都会暮らしよりもお金がかからないのが利点だ。……時折、変な訪問者さえ来なければ。
「九田さん、ナチュラルに椅子を持ち込んで寛ぐのやめてもらえません?」
琴音はキッチンに立って鍋をかき混ぜながら、背後でだらけている九田に声をかけた。
「だってここ、椅子が一脚しかないじゃないか。それなら、持参するしかないだろう」
「いや、押しかけてくるなって言ってるんですよ」
九田は週に何回か、琴音の部屋を訪ねてくる。聞けば大家として、二部屋隣に住んでいるのだという。
建前は琴音がまたこの前みたいにサバを焦がしたりしないか心配でということだけれど、実際のところは食事狙いのようだ。その証拠に、朝食や夕食を作っているときばかりに来るのだから。
琴音の部屋に椅子がひとつしかなく、仕方なく最初のときのようにダンボールのミニテーブルで食事をさせていたのがよほど不満だったらしい。今日はついに自宅から椅子を持参してきた。
「押しかけてくるなって言うけど、花代さんに頼まれてるから来てるんだよ」
「花代おばちゃんが?」
「そう。ひとりにしとくのは心配だから、たまに見に行ってやってくれって」
「……何か、すいません」
「ま、俺はたまにうまい飯にありつけてるからいいんだけど」
「……そっちが主な目的ですよね?」
呆れたように言いつつも、琴音は料理の仕上げに取りかかった。茹で上がったパスタを、温めておいた卵ソースに手早く和えていく。卵がダマになるより先にさっと混ぜてしまわないと、そのぶん味が落ちてしまう。今日のメニューはカルボナーラ。卵の風味が命だ。
「できましたよ。今日はカルボナーラとオニオンスープです」
テーブルの上に敷いていたランチョンマットと鍋敷きの上に、琴音は配膳した。九田の皿は鍋敷きの上だ。琴音はこの部屋にひとりぶんのものしか置かないと徹底しているから、九田のぶんのランチョンマットはないのだ。
「うまそうだな。俺、カルボナーラ好きなんだよな」
「それはよかったです」
本当はトマト系のパスタが食べたかったのになと思いつつも、九田が美味しそうに食べる姿を見るとわざわざ言う気にはなれない。それに、カルボナーラは上出来だった。飴色タマネギを冷凍していたものを使ったスープも、簡単だったのにかなりおいしくできている。
「そういえば九田さん、縁結びってどうやるんですか?」
食後のお茶を飲みながら、琴音はふと気になったことを尋ねてみた。このくつろいだ雰囲気なら、少々聞きづらいことも聞けるのではないかと思ったのだ。
「聞いてどうするんだ?」
「後学のために。言うのを忘れてたんですけど、夢にクダギツネたちが出てきて、縁結びをしてくれって言われたんですよ。たくさん結んだら、この目をもとに戻すとも言ってました」
「……何だよそれ。普通に脅されてるじゃねえか」
あきらかに話したくなさそうだったけれど、琴音がクダギツネの夢について話すと態度が変わった。渋々といった様子で口を開く。
「縁を結びたい対象を指示すれば、クダたちが勝手に結んでくれる。能力が高いやつは見えるだけでなく結ぶこともできるが、あんたは無理だろうな。クダたちが仮初めの力を与えただけだから」
「仮初めの力……だから触ることができなかったんですね」
琴音は、自分の右手小指から伸びる赤い糸を掴もうとして空振った。何度やっても、やはり掴むことはできない。
「クダちゃんたち、糸を結んだりできるんですね。あんなちっちゃくて柔らかそうな手で」
「あんた、飯田と結ばれてたぞ」
「え? 本当ですか?」
九田に言われて慌てて自分の手を見るも、赤い糸の先には見えない。琴音の糸の先は、無理やり引きちぎったみたいに短くなっているだけだ。
「赤いのじゃなくて、別の色のだ。仕事とか、そういう縁の。あんたが丸屋のメニューを充実させたいって言ってたから、あいつらがそういう縁をたぐり寄せたんだろ」
「そういうことだったんですね。……飯田くんと恋愛フラグが立ったのかと思って焦りました」
「いや、あんたの糸はちょん切れてるから今は無理だぞ」
「え……」
「ちょっと考えればわかるだろ。そんな短いの、結べるわけがない」
「……ぐちゃぐちゃに絡まってる人に言われたくないです」
誰かと結ばれる気などまったくなかったものの、はっきり無理だと言われて悔しくなって、琴音は九田の指先を見た。彼の糸はネコか何かに蹂躙された毛糸のように、毛先も見えないほどこんがらがっている。
「糸を見るのには慣れたか? 人が多いとこ行くと、嫌になるだろ?」
ぐちゃぐちゃと言われても気にした様子もなく、九田は琴音に尋ねた。心底嫌そうな口振りだ。糸を見ることが自分にとって嫌なものだから、琴音も当然嫌なのだろうと気遣っているようだ。
「いくらか慣れました。最初の頃は目がチカチカする気がして疲れてたんですけど、今は『あの人の糸、三本くらい引っかかってる』とか『あのカップル、彼女のほうが色がくっきり』とか見て楽しんでます」
見えたばかりの頃はとにかく戸惑って疲れていたけれど、最近の琴音は見えるのを楽しめるようになっていた。それを聞いて、九田は信じられないものを見るような目になる。
「……何が楽しいんだ。糸が複数見えるのは気が多いのか多数に気を持たせてるかだし、付き合ってる片方だけ色が違ってるのは想いが釣り合っていないか変質してきてるかだな」
「へえ。やっぱり面白い」
解説を聞いて、琴音はさらに興味津々といった顔になる。それを見て、九田は呆れたように首を振った。
「面白くないより面白いほうが、まだいいか。どのみち面白がってても、自分の糸は結べないわけだしな」
***
琴音の努力が実って、丸屋は少しずつ客が入るようになってきていた。
飯田と一緒に新メニューを考えただけでなく、コーヒー無料チケットを駅前で配布したり、チラシを新聞に折り込んだり、黒板アートの看板を店の前に置いたり、様々なことをした。
その甲斐あって、まず近所の人が興味を持って訪れてくれるようになり、その中には週に何度か通ってくる人も現れた。
そして、縁結びとそれにちなんだメニューを打ち出しているから女子高生を始めとした若い女性たちの集団も足を運んでくれるようになった。
女子高生の若さゆえの眩しさに琴音が目を潤ませたことをきっかけに面白がられて親しくなり、年上のお姉さん的存在として恋愛相談もされている。
飯田の身の上話を聞いたとき同様、琴音は人が苦労した話や切ない話を聞くと涙腺が刺激されるのか盛大に泣き出す。その情緒不安定な様子を九田はドン引きした目で見ているけれど、話した本人や周囲の人たちは親身に聞いてくれていると感じるようだ。
飯田が「琴音さんに聞いてもらうと人生うまくいく」などと客の誰かに言ったこともあり、女子高生を中心に琴音に自分の話をして泣かせるのが流行っている。
ちなみに、飯田や親しくなった客たちが琴音を名字で呼ばないのは、「バツイチの初一(はついち)琴音です」という笑えない自己紹介をかましたからだ。
琴音としては、九田に散々いじられているから予防線のつもりで言ったのだけれど、いじろうなどと思っていない人間たちにはただ驚愕だった。みんな触れてはならぬと申し合わせたいように「琴音さん」と呼ぶようになった。
そんなふうに常連と呼べそうな人たちができて、店らしく営業できるようになったある日のこと。
いかにも観光客という男女が店を訪れた。
「ねえ、ここ縁結びにちなんだメニューがあるんだってぇ」
「へえ、いいね」
琴音の「いらっしゃいませ」には一切反応せず、その男女は空いている席に向かっていった。
別にレストランではないのだから「空いているお好きな席へ」というスタンスではあるものの、この反応は少し感じが悪いと言えるだろう。でも、琴音が気になったのは別のことだった。
「結びロールキャベツと結びオムライス、食後に結びクッキーセットひとつです」
「おお! カップルのお客様でがっつり縁結びメニューのオーダーだ! これは、特別なサービスの発動ですか?」
キッチンにオーダーを伝えると、飯田のテンションが上がった。
飯田には赤い糸のこともクダギツネのことも当然話していないけれど、縁結びを求めて来たお客さんには何か特別なことをしたいと濁して伝えてある。
今のところ具体的に「縁結びありますか」などと聞いてくるお客さんがいないため実施したことはないけれど、これはという人が来ればクダギツネに伝えようと考えているのだ。
「メイドカフェでオムライスに魔法かけるみたいに、何かありがたいことをしちゃう感じですかー?」
琴音の考案していることに興味津々な飯田はノリノリで尋ねるものの、琴音は渋い顔で首を振った。
「あの人たちはだめです。縁、結んじゃ。不倫カップルだから」
楽しそうに談笑するカップルを見て、琴音はこっそり嫌な顔をした。男性の小指から伸びる糸は緩くリボン結びされているのに、そこに女性の小指から伸びる糸がくるくる巻きついているのだ。男性はアラサーくらい、女性は女子大生くらいに見える。年齢差のあるカップルに見えなくもないけれど、この糸の状態を見れば健全な関係でないのは明白だった。
「え? どうしてそんなことわかるんですか?」
「あの二人、指輪がお揃いじゃないんです。男性がつけてるのはあるブランドのブライダルリングなのに対して、女性がつけてるのは同じブランドのカジュアルラインのもの。つまり、ペアリングをつけてるわけじゃないってことですね。男性は奥さんとペアのものをそのままつけてて、女性のほうはおそらく男性に贈られたものをつけてるんでしょ。……あくまで推測ですけど」
「おお……」
糸のことを話せない代わりに、琴音は注文を取る間に気づいたことを話した。店に入ってきたときから感じていた違和感を裏づけるために観察して気づいたことなのだけれど、飯田はそれで納得したらしい。調理に取りかかる前にちらっと店内を見てから、納得するように頷いていた。
「でも不倫って、純愛っぽくないですか? 道ならぬ恋っていうか」
「は?」
「いや、だって、いけないってわかっててもそれでも互いを求め合うって純粋な感じするじゃないですかー」
できあがった料理を手に琴音のところへやってきながら、飯田が無邪気に言った。その瞬間、琴音のまとう空気が凍りついた。
飯田は琴音が離婚経験者と知っていても、離婚の理由が夫の浮気によるものだとは知らない。だから仕方がない面はあるにしても、倫理的に問題のある考え方だ。離婚前から不倫や浮気というものを嫌悪している琴音にとっては、聞き流せないセリフだった。
「……じゃあ、サッカーの試合でボールを手で運んでゴールした人は純粋なんですか? そうまでして勝ちたかったんだ、勝ちたい気持ちがそれほどまでに純粋だったって言います? 言わないでしょ? 不倫は不倫、ルール違反はルール違反なんですよ!」
静かに怒りをたぎらせて吐き捨ててから、琴音はできあがった料理を提供しにいった。
そのときの琴音の顔や醸し出す雰囲気に気圧された飯田が「般若だ……」と呟いたのも、それを聞いた九田が「あれは般若になる前の生成(なまなり)だ。でも、罪や悪徳を美化しないあの人の姿勢には俺も賛成だな」と言って飯田を暗にたしなめたのも、琴音の耳には届いていなかった。
そんな感じで客が来るようになっても縁結びにつながらない日々を過ごしていたある日のこと。
「あの……ここって縁結びをしてもらえるって、本当ですか?」
これまでのお客さんとは少し雰囲気の異なる、若い女性が丸屋を訪れた。
「好きな人との仲を取り持ってもらいたいんです」
三つ編みの似合う高校生くらいに見えるその女の子は、恥ずかしそうに、でも目に決意を込めてそう言った。
「縁結び、ありますよ。まずはお好きなお席へどうぞ」
琴音は「ついに来た!」という喜びを抑えて、その三つ編み少女に座るよう促した。少女は少し落ち着かない様子で店内を見回してから、奥まった席へと歩いていった。この時間帯はちょうど客が引けていて、席は選り取り見取りだった。
「ここ、喫茶店になったんですね。おばあちゃんから聞いた縁結び屋さん、小物屋さんだったはずなんですけど……」
「そうみたいですね。今の店主の代になってから喫茶店らしいです」
少女の言葉を聞いて、不安そうにしていたのはそういうわけだったのかと納得した。
それから少女はそわそわとメニューを眺めてから、クッキーと紅茶のセットを注文した。
喫茶店というものにきっと慣れていないのだろう。注文してからも少女はキョロキョロしたり、またメニューを開いたりしていた。それを琴音と飯田は微笑ましく見守り、いつもより少しだけ丁寧に紅茶を淹れ、クッキーを焼いた。
「おばあちゃんに話を聞いたときは冗談みたいだなって思ってたんですけど、同じ学校の子たちがここの話をしてて、『琴音さんに話したらいろいろうまくいく』って言ってるのを聞いて本当なのかもって思ったんです。……店員さんが、琴音さんですか?」
クッキーと紅茶を運んでいくと、三つ編みの少女が勢い込んだように言った。きっと、注文したものが運ばれてくるまでの間、何と言って琴音に声をかけようか考えていたのだろう。
(まだ誰の縁も結んでないのにな……同じ学校の子たちとやらは、一体どんな話をしたんだろ?)
若干噂がひとり歩きして自分の存在が妖怪じみてきていることが気になったけれど、琴音は笑って頷いた。
「そうですよ。私が琴音です」
「よかった! ……じゃあ、琴音さんに聞いてもらわなきゃいけないんですよね? その、恋バナというか、好きな人のことを」
三つ編み少女は琴音が噂の人物だとわかってほっとしつつも、恥ずかしそうにもじもじした。
この店に来て自分のことを話すのが楽しい子もいれば、やはりこうして恥じらう子もいるのだなとわかる。琴音も自分が高校生の頃はこの少女のようだったなと思って、ちょっぴり親近感がわいた。
「そうですね。話してもらったほうがご縁が結びやすいですね」
琴音はちらっとカウンターのほうを振り返り、そこにいる九田とクダギツネたちを見た。九田は相変わらず寝ているのか起きているのかわからない状態でそこにおり、クダたちは古道具屋で買ってやった可愛くないイタチの置き物に寄り添ってこちらを見ていた。
だから琴音はさりげなくその置き物を手に取り、クダたちを引き連れて少女のいるテーブルに戻った。
「えっとですね……このイタチは店の守り神みたいなものなので、この子に聞かせるつもりで話してもらっていいですか?」
「は、はい。わかりました」
琴音はテーブルに置き物を置いてから言った。琴音をじっと見ていいのかどこを見ればいいのかわからない様子だった少女は、少し驚きつつも置き物に目をやった。それをクダギツネたちが見つめ返す。
これなら三つ編み少女の緊張もやわらぐし、クダギツネも縁結びの対象として少女を認識することができるだろう。咄嗟の思いつきだったけれど、どうやらよかったらしい。
「私の好きな人は、私よりひとつ歳上で幼馴染なんです。家が近くて、小さいときからずっと仲良しで……でも、好きになったのは今から十年くらい前なんです」
少女ははにかみながら、ポツポツと自分のことを話し始めた。
「私、ものすごく髪の毛がやわらかくてスルスルしてるので、結ったりしてもあまり長持ちしないんです。そのせいで毎朝お母さんを苦労させてて。でもあるとき、どこかにお呼ばれすることになってて、お母さんが張り切って可愛い髪型にしてくれて、夕方になってその用事が終わってからも髪型が保ったままだったから、公園に遊びに行ったんです。仲のいい子たちに、いつもより可愛い格好をしてるのを見せたくて」
「わかる。新しい服とか靴とか買ってもらったら、誰かに見てもらいたいもんね」
大人になってからも存在するそのわくわくした気持ちに、琴音は共感した。子供の頃はきれいな服を着たり髪型を可愛くしてもらったりするだけで、お姫様にでもなった気分がしたものだ。
「でも、当然といえば当然なんですけど、遊んでるうちに髪の毛はぐちゃぐちゃになっちゃって、それで私、泣いてしまったんです。そしたらいつも一緒に遊ぶ男の子のひとりが私のことをなだめつつ、慣れない手つきで何とか三つ編みにしてくれたんです。それで『さっきの髪も可愛かったけど、これもなかなか可愛いからもう泣くなよ』って言ってくれたんです。……その男の子が、好きな人なんですけど」
「わー! そのときからずっと好きなの? 可愛い! すごいねえ、一途だねえ。可愛いー!」
琴音は三つ編み少女のピュアさを前に感涙していた。自分がとっくに捨て去ったか失ったかしてしまったその純粋さに、拝まんばかりに感動しているのだ。
少女は琴音に感激され褒められ、照れて頬を赤くした。でも、気合いを入れ直したかのように表情を引き締めて首を振る。
「でも、一途なだけじゃだめなんです。ずっと好きで、仲良しで、そばにいたくて彼と同じ高校に入学したけど、全然そこから進展しないんです。ずっと幼馴染のまま、妹みたいな存在のままで……。そんなんじゃだめだと思って今年のバレンタインは思いきって誰の目にもわかる本命チョコをあげたんですけど、たぶん伝わってません。好きって言ったのに、『ありがとう。僕もだよ』ってにっこりして言われちゃったんで……」
そのときのことを思い出したのだろう。三つ編み少女は目に見えて落ち込んでいる。心なしか、三つ編みも元気がないように見える。
「でも、バレンタインにあげたんだったら、ホワイトデーに期待できない……? もしくは、そのときにもう一回ちゃんと告白してみるとか?」
何かなぐさめの言葉をと思って琴音がそう口にするも、少女はまたも首を振る。
「ホワイトデーじゃ、三月十四日じゃ、だめなんです。三月に入ってすぐ卒業式があって、その数日後に大学の合格発表だから。彼はきっと合格するから、そのあとはひとり暮らしの部屋探しや引っ越しで忙しくなっちゃうと思うんです。だから、その前に……」
「好きな人、受験生なんだね。……そっか」
琴音は自分が高校三年生だった頃のことを振り返り、確かに大変だったなと思い出した。合格してからの解放感に浸る間もなく、忙しなく部屋探しと引っ越しに追われるのだ。……たぶん、ホワイトデーどころではない。
「頑張って勉強して彼と同じ大学に入るつもりではいます。でもその前に、離れる前に、きっかけがほしいんです。それでだめなら……あきらめられるので」
少女はそう言ってから、思いつめるようにうつむいた。そして、そっと三つ編みの毛先を撫でる。
十年間、好きな人が「可愛い」と言ってくれた髪型を続けているのだ。それはきっと祈りであり願かけであり、決意なのだろう。それに思いの強さを感じて、琴音は彼女の恋を応援してあげたいと思った。
何より、想い人のほうも彼女に対して悪感情がないのは確かだろう。そうでなければ、二月十四日という入試の前期日程の前に顔を合わせてチョコを受け取ることなどしないはずだ。
「話を聞いていて、背中を押してやりたいなとは思ったよ。うまくいけばいいなとも。だが、お嬢さんには縁を結ぶ前に確認しておきたいことがある」
いつの間にカウンターから出てきたのだろうか。九田がすぐそばまで来ていて、三つ編み少女に語りかけた。そのあまりの気配のなさに琴音は驚いたけれど、九田の顔を見ると真剣で、どうやら邪魔しに来たわけではないらしい。
「確認したいこと、ですか?」
「そう。縁結びをするのはやぶさかではないけれど、縁結びが万能ではないことを伝えておきたいんだ。結んだところで永遠の愛が保証されるわけではないし、いい関係を築ける保証もできない。それでも、縁を結びたいか?」
九田は淡々と尋ねた。脅す意味ではなく、ありのままの事実なのだろう。
甘く淡い恋心の前に九田の問いかけは無粋で残酷に感じられて、琴音は少しひやひやした。
でも、三つ編み少女は九田の言葉に気持ちが挫けた様子はない。その目には、強い意思が宿ったままだ。
「わかってます。縁を結んでもらうのは、きっかけに過ぎないって。気持ちをつなぎとめられるかも自分次第だし、仲良く付き合っていけるかも二人次第だって。それでも、きっかけがほしいんです。振り向いてもらえたら、絶対に離しません!」
少女は九田の目を見て、そうきっぱりと言い切った。頬は赤く、唇は震えている。照れと緊張が入り混じっている様子だけれど、そこに迷いは感じない。
それが伝わったのか、九田も納得したように頷いた。
「じゃあ、お嬢さんの縁、結ばせてもらいましょうか」
「え!? 九田さん、いいんですか……?」
三つ編み少女の縁を結んでやりたいと思っていながらも、まさか九田がそんなことを言い出すとは思っていなかったため、琴音は驚いてしまった。でも、気が変わってはいけないから余計なことは言わずにおこうと慌てて口を噤(つぐ)む。
「あの……お代は?」
急に不安になったのだろう。三つ編み少女が九田に尋ねた。
確かに、メニューに書いているわけでもなくどこかに明示されているわけでもないのだから、いくら払えばいいのか不安になるのも無理ないことだ。
「そうだな……恋仲になったお相手と今度ここで何か食べてくれたら、それでいいよ。今日はその注文したぶんのお代だけで」
九田は少し考えてから、不安そうにしている少女に言った。
三つ編み少女は一瞬きょとんとして、でも意味がわかると満面の笑みを浮かべた。
「はい! 絶対に彼とここに来ます!」
紅茶とクッキーを楽しんでから、三つ編み少女が帰っていくのを琴音と飯田は出口まで見送った。日頃はそんなことはしないのだけれど、彼女は特別だ。期待とちょっぴりの不安を抱えて帰っていく少女を見守ってやりたかったのだ。
クダギツネたちは少女の肩に乗ってついていってしまった。二匹は彼女の小指から伸びる糸にぶら下がり、くいっくいっと引っ張るような動作をしていた。
(何だか釣りでもしてるみたい。もしかして、あの子の好きな人を引き寄せてるとか?)
そんなことを考えたものの、少女が遠ざかるにつれてそのうち見えなくなってしまった。
「ここの店の縁結びって、カウンセリングみたいなもんなんですか?」
赤い糸もクダギツネも見えず、単に喫茶店で働いているつもりの飯田が不思議そうに首を傾げる。九田や琴音にとっては意味のあるものだった三つ編み少女とのやりとりも、飯田にはただの悩み相談に見えていたのだろう。
「……まあ、そんなとこだな。縁結びにしてもカウンセリングにしても、本人の気持ちが一番大切ってとこは共通だし」
九田はしばらく考えて、何か適切な説明を探していたようだった。でも、面倒になったのかいい加減な言葉で片づけてしまった。
それなのに飯田は「へえ。いいことしてるんですね」などと感心している。……おおらかというか何というか、騙されないか心配になる。
「九田さんが縁結びする気になってくれて、よかったです」
飯田が厨房に戻ったのを見計らって、琴音は九田にそっと耳打ちした。
やるときはやるのだとほっとしたのだけれど、九田はムスッとした表情になる。
「実際にやってみせていったら、あんたにもわかるかもしれないと思ってな」
「わかるって、何がですか?」
「結ぶこと自体や、誰の縁は結んで誰の縁は結ばないって選択をすることのおこがましさだよ。……縁を結ぶなんていいことじゃないし、そこに介入するなんて何様のつもりなんだって気づくときが来るさ」
言うだけ言うと、九田はまたカウンターの向こうに戻ってしまった。
少女の恋の後押しをしていいことをしていた気になっていたのに、九田の言葉で琴音の胸はさざなみが立つようだった。
***
曇ったり小雨が降ったりはっきりしない天気が多い二月が駆け足で過ぎていき、春の訪れを少しずつ感じるような暖かな日が増えてきた三月のある日のこと。
一組の初々しい男女が丸屋にやってきた。
「琴音さん、来ました!」
おしゃれなボブヘアの女の子にそう声をかけられ、琴音は初め誰かわからなかった。
でも、よくよく見ればその子は三つ編み少女で、嬉しそうにしているのは傍らに連れているのが件の彼だからだと理解した。
「髪、切ったんですね。よく似合ってて可愛いですよ」
「片想いが終わったので、その区切りとして。それに、これからは一年は遠距離恋愛だから、彼の周りの大学生の女の人たちに負けないように可愛く大人っぽくしてなきゃと思って」
そう言って笑う少女は幸せそうで、好きな人の心をつなぎとめるのだという強い意思が感じられた。その横でニコニコしている彼も、とても幸せそうだ。
「あの日、このお店の帰り道にばったり彼と会って、そのときいろいろお話して、それで付き合うことになったんですよ。……縁を結んでもらったおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして。お幸せに」
嬉しそうに言う少女に、琴音も心の底からそう返した。
(あの女の子も彼も、あんなに幸せそうなんだもの。縁結びは、いいことに決まってる)
注文したパスタとケーキセットを仲良く分け合う二人を見て、琴音はそう思った。
でも、そう思うからこそ、より一層九田がなぜあんなことを言ったのか気になってしまうのだった。
三月に入り、日中は暖かい日が増えたけれど、やはり朝の空気はまだキンと冷たい。
琴音はぬくぬくとした布団の中から抜け出すことをためらいつつも、スマホのアラームを聞いた数分後に「えいっ」と起き上がった。そして冷蔵庫から昨夜の鍋の残りを取り出し、それを火にかけ、鍋の中身を温めているすきに簡単に身支度を整える。
不意打ちの九田の襲来があるため、寝起きといえども油断ならないのだ。化粧はしないまでも、起きて活動できる姿になっていないといけない。何となく、今朝は来そうな気がする。
九田が朝食や夕食のときにやってくるのを拒まないのは、大家であり雇い主であることもあるけれど、嫌ではないということもあった。
まだひとりでいることが気楽ではあるものの、美味しそうに手料理を食べるのを目の当たりにするのは悪い気はしない。
「はいはーい」
煮立った鍋にカレーのルゥを投入していると、予想していたとおりインターホンが鳴らされた。ドアスコープで九田の姿を確認してドアを開けるや否や、彼は俊敏な動きで家の中に入ってきた。
「寒かったー。春はまだ遠いな」
「いくらかましになったでしょ」
「……いい匂いがする。朝からカレーか」
「残り物のアレンジですけど」
着流しに半纏という残念な和風スタイルで震える九田は、キッチンに満ちるカレーの匂いに反応した。
「昨日、カレーだったのか? そういうときは呼んでくれよ。カレー、ひとりで食べるなよ」
「昨日は水炊きでしたよ。水炊きの残りをカレーアレンジです」
琴音はできあがったものを器に盛りつけ、食卓に並べる。九田のぶんの白米は冷凍庫で保存してあったものを解凍して出した。
「これはもとは水炊きだったのか……? って、鍋ならなおさら呼んでくれよ。鍋なんて、ひとりで食べるもんじゃないだろ」
出汁の香りが立ち上るカレーに心惹かれつつも、九田は昨夜の夕食に呼ばれなかったことに文句を言った。鍋が食べたかったからか、鍋をひとりで食べたからか、怒っている理由がわからない琴音は首を傾げる。
「この世にひとりで食べちゃだめなものなんてありませんよ。おひとり様バンザイです。……結婚してた頃は夫に取り分けてあげなきゃとか、この野菜は嫌がるから入れられないなとか、そんなことを考えるのが面倒だったなって、ひとりになってしみじみ思ったんですよ」
「……あんたの元夫、赤ちゃんかよ」
「ねー? だから、ひとり鍋は好きなように好きなものを食べられて最高ですよ」
「まあ……言わんとすることはわからなくもないが」
琴音のやさぐれスイッチを押してしまったのに気づいて、九田はそれ以上なにも言わず、目の前のカレーに集中した。
昆布出汁と鶏ガラの合わさったスープのカレーは、控えめでありながら上品なコクを感じるものに仕上がっている。一般的なカレーの中には入っていない白菜や大根が入っているから、それもまた意外な美味しさにつながっている。
「和風出汁のカレー、うまいな。こうやって白米にかけるのもうまいが、うどんにかけたらもっとうまそうだな」
きれいな所作でカレーを食す九田が、しみじみと言った。日頃は無表情だったりむっすりとしていたりな九田も、美味しいものを食べているときは機嫌のよさそうな顔をする。
「じゃあ、今度水炊きにした次の日にはそうしましょうかね」
「次の水炊きには呼んでくれよ」
「縁があればですねー」
九田と鍋を食べるのが嫌なわけではないのだけれど、まだ誰かと鍋を囲みたい気分ではないから、琴音は曖昧な返事を返しておく。それに、九田と食べてしまうとひとり鍋否定派に寝返ってしまった気もするから、もうしばらくはひとりで食べたいと思ったのだ。
(そういえば、この前初めて縁を結んだわけだけど、あとどれくらい結べばいいんだろ? それに、クダギツネが縁結びの良さを伝えたい“ヨリヒト”って、誰なの?)
不意にそんなことを考えたものの、機嫌がよさそうな九田に尋ねるのも何となくはばかられた。
けれど、それを知る機会は唐突に訪れた。
***
「ヨリヒトちゃーん」
その日の夕方、昼過ぎからいた客が引けた頃に、騒々しく丸屋のドアが開いた。入ってきたのは、女優帽にサングラス、トレンチコートを身に着けた派手な長身の女性だった。
その女性はカウンターに向かってヒラヒラ手を振ってから、勝手知ったるというように奥の席までヒールを鳴らしながら歩いていった。
「……何で来たんだよ」
カウンターの奥で置き物のようにじっとしていた九田が、その女性の来店に気づいてくわっと目を開けた。迷惑そうな顔をしている。どうやら、知り合いらしい。
「何でって、ヨリヒトちゃん冷たーい。今日はここでお客と待ち合わせなのよ」
「その呼び方やめろ。あと、待ち合わせならもっとメジャーな店でやれ」
「ヨリヒトちゃんはヨリヒトちゃんでしょ。あと、流行ってない店だから安心して使えるんじゃない」
「黙れ栄太郎」
「その捨てた名で呼ぶなー! あたしの名は栄子だ!」
派手な女性が九田と言い合っていたかと思ったのに、九田に言い返す声は低くドスのきいた男のものになっていた。
(え? ヨリヒトって九田さんのこと? あの人、女性かと思ったら男性……!?)
わりの重要なことを知れたはずなのに、それよりも女性がどうやら男性だとわかって琴音は混乱していた。どういうことなのかと九田を見つめると、面倒くさそうに首を振られた。
「こいつは栄太郎、縁切り屋だ。適当に何か飲み物を出してやってくれ」
「どうも、栄子でーす。レディグレイある? ミルクと一緒にお願いねぇ」
捨てた名で紹介されたことには触れず、栄子は琴音にひらひらと手を振った。琴音は混乱しつつも、言われるがまま紅茶を淹れに厨房へ戻る。
「琴音さん、何か強烈なの来たの?」
明日の仕込みをしていた飯田が、コソッと耳打ちしてきた。あれだけ野太い声で叫んでいたのだ。厨房まで聞こえていたのだろう。
「縁切り屋さんで、栄子さんっていうらしいです」
「縁切り屋? それって別れさせ屋みたいなものですか?」
「わかんないけど、ここでお客さんと待ち合わせなんだって」
飯田に説明しながら、丁寧に紅茶を淹れていく。白地に青い花柄のカップにそれを注いで、ミルクピッチャーと共にトレイに乗せて運ぶ。
「お待たせいたしました」
「待って待って。お客が来るまで時間があるから、おしゃべりしましょ」
紅茶を運んですぐに立ち去ろうとしたのに、栄子は琴音の手を掴んで向かいの椅子に座らせてしまった。
「店員さん、お名前何ていうの?」
「初一琴音です」
「琴音ちゃんね。琴音ちゃんはヨリヒトちゃんのお嫁さん? 彼女ー?」
「お、お嫁さんでも彼女でもないです。ただの店員です」
「わかってるわよ。ヨリヒトちゃんと赤い糸でつながってないのはバッチリ確認済みよん」
栄子は琴音をからかいたかっただけらしく、焦ったのを見て笑っている。いい年して誰かの嫁だ彼女だとからかわれただけで焦ってしまったことに、琴音は恥ずかしくなった。
「そういえば、九田さんはヨリヒトって名前なんですね」
「そうよー。縁に人って書いて縁人(よりひと)っていうの。縁結びに相応しい名前よね」
栄子さんはそう言ってケラケラ笑う。おそらく、そう言われるのを九田が嫌がるのを知ってのことに違いない。
「あの、縁切り屋ってどんな感じのことをするんですか?」
縁結びについてもまだ完全にわかったわけではないから、その耳なじみのない言葉に琴音は戸惑っていた。それに、その言葉が持つ物騒な言葉の響きにも、何となく落ち着かない気持ちになる。
「あらん。このお店で働くのなら、結ぶこととセットで切ることも知っておかなくちゃ。縁切り屋は文字通り、人の縁を切るのを生業としてるの。この子たちを使ってね」
栄子がパチンと指を鳴らすと、テーブルの上に小さなつむじ風が起きた。そしてそこに、三匹のイタチが現れる。
「イタチ!?」
「そう。カマイタチよ」
「でも、カマイタチって人に怪我をさせるものなんじゃないんですか?」
琴音はあまり妖怪について詳しくないけれど、カマイタチについては少しだけ知っていた。確か、突風が吹いたあとに怪我をしているのに血が出ていないという状態のことを、「カマイタチにやられた」などと言うのではなかっただろうか。
「そうよー。一般的にカマイタチといえば、つむじ風に乗って現れて人を斬りつける妖怪のことね。倒れさせるもの、切りつけるもの、薬をつけるものの三匹いるの」
「……だから出血がないんだ」
「うちの家はいつの頃からかこのカマイタチを使役して縁切りをしてるってわけ。結んでやらなきゃならない縁があるなら、切ってやらなきゃならない縁もあるからね」
「切らなきゃならない縁……」
栄子の説明に合わせるようにして、イタチ三匹はかっこいいポーズをとってみせた。栄子同様、イタチも仕事に誇りを持っているのだろう。
「琴音ちゃんさ、縁切り屋のことをちょっと物騒だとか嫌な仕事だとか思ったでしょー?」
琴音の戸惑いを見透かしたように、栄子はカップを手に不敵な笑みを浮かべる。そこまでのことは思っていなかったにせよポジティブにとらえてもいなかったから、琴音はひかえめに頷いた。
「わかるわ。やっぱり“切る”ってのがイメージ悪いのよね。そのせいか恨まれることもある。だから、我が家は店舗をかまえず、こうやってどこかでお客と待ち合わせして仕事してんの。あたしが旅行したい気分だったら、お客が指定するところに出向くこともあるけどねー」
大変なことだろうに、栄子はあっけらかんと言った。恨みを買うことがあるから店舗をかまえないということは、店舗をかまえると報復なり嫌がらせなりを受けるということだ。
「琴音ちゃんは優しいのね。そんな顔しなくていいのよ。あたしはこの仕事に誇りを持ってるし、誰かの幸せの後押しをしてるって思ってるから」
「自分の仕事に誇りを持てるのは、とても素敵なことですね」
生活のためにお金を稼ぐという意味以外で働いたことがない琴音は、自信に満ちた栄子を少し羨ましく思った。
でも、そんなふうに思う琴音に栄子は首を振る。
「ま、いつもいつも誇りを持って向き合える依頼ばかりじゃないけどねぇ。今日の依頼なんて控えめに言ってもクソオブクソよ。『なぁ〜んでこんな仕事しなくちゃいけないんだろ』って思うことがあるんだけど、今回の仕事はまさにそれね」
よほど憂鬱な依頼なのだろう。栄子は鼻の頭に皺を寄せ、嫌だという気持ちを激しく表現した。
一体どんな人からの依頼なのかと琴音が考えたとき、来客を告げるドアベルが鳴った。
「……ダサい店」
控えめに吐き捨てたのだろうけれど、入ってきた人物が発したその声は静かな店内に響いた。
琴音は驚いてそのお客さんを注視して、そしてさらに驚愕する。
キャスケットを目深に被り地味な色の上着を着て、あきらかに人目を忍んでやってきた様子のその人物は、琴音の元夫の不倫相手だったのだ。
入ってきた客が元夫の不倫相手・横井裕香だとわかった瞬間、琴音は反射的に席を立ってカウンターの内側に身を隠してしまった。眠っていたらしい九田はそれにギョッとしたけれど、入ってきた裕香がそれに気づいた様子はない。
「あなたが縁切り屋?」
「ええ、そうよ。あたしが縁切り屋の桐島栄子よ」
「何でこんな遠いところを指定するんですか? 新幹線と電車とバスを乗り継がなきゃならないなんて、ありえないでしょ」
「でも、そんな遠路はるばるやってくるほど、縁切りが必要だったってことでしょ? それなら、仕方ないじゃない」
席について早々文句を言う裕香に、栄子は飄々と返す。先ほどあらわにした嫌悪感はすっかり押し隠し、わりと感じよく接しているあたり、さすがプロといったところだ。
「それじゃ、縁切りの前にもう一度以来の内容を確認させてもらうわね。不倫相手と縁を切りたいのよね?」
「そうです。私との不倫がバレて離婚した途端、ものすごく執着され始めて……気楽な関係がいい、遊びがちょうどいいなんて言ってたくせに。そういうダサいの、無理なんで切りたいんです」
憎々しげに吐き捨てる裕香の言葉を聞いて、琴音の心臓はキュッと締めつけられた。不倫がバレて離婚したというのは、琴音と元夫――葛原博行のことに違いない。
「ダサいって、離婚したんだったら万々歳じゃない? 無事に奪えたんだから、ありがたくもらっときゃいいじゃない。不倫って、略奪したくてするんじゃないの?」
「私のはそういうんじゃないんで。むしろ、帰る家がある男だから楽っていうか。だって世話してやんなきゃいけないのとか絶対嫌だし。それなのに離婚した途端あの人、何か服装がだらしなくなってダサくなっちゃって」
「あー、なるほどぉ。奥さんにアイロンがけとかクリーニングとか任せきりのタイプだったんだ。それで離婚したあと身なりがだらしなくなったんだ。そりゃダサいわ」
容赦なくこき下ろす裕香の言葉に、栄子も呆れたように笑って同意した。悪く言われているのは琴音のことではなく博行のことなのに、聞いていると気分が悪くなってくる。
それに、裕香の悪態は博行のことだけに留まらなかった。
「離婚してそんなふうになっちゃう男もダサくて嫌なんですけど、自分の夫とか彼氏をそんなふうにダメにする女が大っ嫌いなんですよね。手料理至上主義で家事とか無駄に頑張っちゃって、自分のことをイイ女だとか勘違いしてんの。イイ女なわけないのに。だからダンナが浮気するんじゃんっていう。結局、私と付き合っていきいきして仕事頑張れてんのなら、それって実質私のおかげでしょ? 私のほうがイイ女だから私を選んだのに、それがわかってないのが本当にダサくて嫌」
反吐が出るとでも言いたげに、裕香は吐き捨てる。その言葉は、琴音に向けられたものに違いない。彼女は琴音がここにいることには気づいていないけれど、これは確実に琴音についての悪口だとわかる。
「まあ、言いたいことはわかるわよ。結局、そういう尽くす系の女性って自分のためにやってることを相手のためって思い込んで押しつけたりしがちなところがあるものね」
「そうそう。買えばいいものをわざわざ作ったりとかね。お菓子なんてパティシエに任せとけばいいのに手作りする女ってキモくないですか? だから私、アップルパイ捨ててやったことありますよ。ま、その現場を押さえられて離婚することになっちゃったんですけど」
キャハハとさも楽しいことのように笑いながら裕香は言った。彼女にとっては不倫がバレたときの修羅場すら、こうして人に語って聞かせる武勇伝にすぎないのだろう。
裕香は、帰宅した琴音にアップルパイを捨てようとした現場を見咎められたときですら、悪びれもせず「いらないって言われたから捨てといてあげようと思って」などと笑って、目の前でゴミ箱に投げ入れるような女だ。善悪の基準は、おそらく一般的な人とは異なっているのだろう。
「……あんた、ずいぶん派手にやってんのね」
「次からはもうそんなヘマしないから大丈夫です。『絶対帰ってくるの遅いから』なんて言葉を信じて家に上がったのがまずかったんですよ。ホテル代を浮かせようとする男とはもう付き合わないから平気平気」
栄子の声にあきれがにじんでいるのにも気づかず、しゃあしゃあと裕香は答える。
カウンターの内側にいても、琴音には彼女がどんな顔で話しているのか想像できた。それだけに、ドロドロしたものがこみ上げてくるのを抑えるのが大変だ。
「それじゃあ、縁を切るとしましょうかね」
もう十分話を聞いたからか、流れを変えるように栄子が言った。
ようやくこの地獄のような時間が終わると琴音がほっとしたのも束の間、話の流れだけでなくその場の空気が変わった。
「――で、どの縁を切ればいいわけ?」
「え?」
「あんた、今までに相当悪さしてきたでしょ? 同時進行で遊びまくったりもしてるみたいだし。そのせいでぐちゃぐちゃになってて、どれを切ったらいいのかわかんないわぁ。ひとつの縁を三万五千円で切るって話だから、いち、に、さん、よん……三十万円いただければ全部処理できるかしらねぇ」
高笑いするのは今度は栄子の番だった。
栄子が黙って裕香の不愉快な話を聞いていたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。
「……ちょっと、どういうことですか? 三万五千円で縁切りしてくれるって言うから、わざわざ旅費をかけてここまで来たのに!」
「だから、あんたに関わる諸々の余計な縁を切るには三十万円くらいかかるわよって言ってるのよ。切らなくていいなら、あたしは全然かまわないけど」
「ふざけないでよ! 切らなきゃ困るからここまで来てんのよ!」
提示されていた金額よりはるかに高いことに、裕香はかなり取り乱していた。琴音はどんな顔をしているのだろうと気になってカウンターから目だけ覗かせて、見えた裕香の小指から伸びる糸にギョッとした。
店に入ってきたときは気がつかなったけれど、裕香の小指の糸はぐちゃぐちゃだった。九田のように単独で絡まっているのとは違い、ほうぼうから伸びている糸が巻きついたり硬く玉結びのようになっていたりするのだ。これが裁縫用の糸なら、ほどくことはあきらめて新しいものを使うだろう。
「テキトーでいいから切ってよ! じゃなきゃ何のためにここまで来たのかわかんない!」
「テキトー? じゃあ、ジャキンっていくけどいいの?」
「いい! 早くして!」
裕香が苛立つように叫んだのを聞いて、栄子はパチンと指を鳴らした。それに応えるように小さなつむじ風が起こり、現れたイタチの一匹が鎌をふるった。
すると、裕香の小指から伸びていた糸が、手強く絡まっていた部分も含めて根元からすっぱり切れていた。
「……終わったの?」
糸もイタチも見えていない裕香でも、つむじ風が起こったのは感じたのだろう。不安そうに、落ち着かない様子で栄子に尋ねた。
「終わったわよ」
「……じゃあ、これで」
財布から取り出したお札を数枚テーブルに叩きつけるようにして、裕香が店を出ていった。
あとに残された栄子はそのお札を数え、イタチたちはなぜか琴音のいるカウンターに駆けてきた。
「な、なに……?」
イタチの一匹は琴音の右手を押さえ、鎌を持ったイタチはそれを虚空にふるい、残りのイタチはポンと琴音の頭を撫でて去っていった。
「琴音ちゃんの指から伸びてた黒い糸、切っておいたからね」
「黒い糸?」
「そう。糸にはいろんな色があるのよ。黒は恨みや憎しみの色。あの女に向かって伸びてた糸、切っておいたからね。もう、忘れちゃいなさい。恨んでたってあんたが幸せになれるわけじゃないし、あの女はこれから勝手に不幸になっていくから放っておいたらいいわ」
栄子は席を立ち、つかつかと琴音のいるカウンターまでやってきた。上から覗き込まれているとわかるけれど、自分が今ひどい顔をしているとわかっているから、琴音は立ち上がることも顔を上げることまできなかった。
「……あの人が言っていたこと、私のことだってわかったんですか?」
「わかったっていうか、あたしには糸が見えてるし。琴音ちゃんが被害者のひとりだってのは話を聞く前に気づいたわ。ていうか、縁って怖いわね。今回この店にあの女を呼び寄せたのは琴音ちゃんよ」
「え……」
「恨みの念ってすごいのね。せっかくだから、あの女から慰謝料をふんだくる? 名前も勤め先もメアドも知ってるし、不倫してたって言質もとれてる。いい弁護士も紹介するわ。すっぱり忘れる前に取れるもの取っちゃいましょー」
「……」
意気揚々と栄子に問われ、琴音はすぐに言葉を返せなかった。
裕香に対して恨みがないと言えば嘘になる。恨んでいるし憎んでいる。この世からいなくなってほしいとまでは思わないまでも、琴音が苦しんだぶんの何分の一かくらいは苦しんでほしいとは思う。
でもそれは、結婚生活を続けていればの話だ。
博行との結婚が続いていれば、琴音は裕香への恨みと博行への不信感に苦しみ続けただろう。それが無理で、離婚したのだ。恨みと不信感にジリジリ焼かれるように暮らすことは、琴音にはできなかった。
「いいです。慰謝料なら、もうたっぷりもらいましたから。一円も支払いたくないっていう元夫をひっぱたいて向こうの両親が支払ってくれたんです。だから、お金はもういいです」
「あらん。お金はいくらあってもいいし、苦しめるためにお金くらいむしりとってやろうって言ってるのに。ま、放っておいても破滅するけどね。パパ活で得たコネで入った会社はクビになるし、ちょこちょこ生活を援助してくれてた男たちともみんな縁が切れちゃったし、これから男を引っかけようにも小指の糸は超短いし。……あとは、色恋が絡まない人間関係をあの女がどれだけ築けてるかよねー。誰か助けてくれるといいわねー」
琴音に訴える気がないとわかると、栄子は興味を失ったらしく、お札を一枚テーブルに置いて店を出ていってしまった。五千円札だ。紅茶代としては多すぎるから、場所代ということだろうか。
「あんた……大丈夫か?」
テーブルの上を片づけようとしていたところ、九田に声をかけられた。そのときになって琴音はそこに九田がいたことを思い出した。
「えっと……大丈夫ですよ?」
「大丈夫じゃないだろ! 泣いてる! ……おい、飯田! 塩持ってこい!」
九田に指摘されて気づいたけれど、琴音は泣いていた。気づいた途端、涙はポロポロ溢れ出る。それを見た九田はオロオロし、厨房に向かって叫んだあと、カウンターから飛び出していってドアを素早く開け閉めした。どうやら「open」の札を「close」にしてきたらしい。
「九田さん、塩って何に……って琴音さん、泣いてる!? 九田さんがいじめたんすか!?」
塩の入った容器を抱えて厨房から出てきた飯田が、琴音を見てギョッとした。
「俺がいじめたんじゃない! クソ不倫女のせいで嫌なことを思い出して泣いてたんだ。泣かせといてやれ。そんなことより塩だ、塩! あばずれは外ー!」
九田は飯田から容器を奪うと、塩を掴んで思いきり投げ始めた。わけはわかっていないようだけれど、飯田も一緒になってやっていた。だから、かけ声のおかしい豆まきみたいだ。
自分でも制御できない涙を流していた琴音は、その光景を見ておかしくなって笑ってしまった。いつも眠たげな九田が不届き者に怒り、自分の涙にうろたえ、場を清めようと塩をまいてくれているのだ。嬉しいのか何なのかわからない感情が湧き上がってきて、それが涙を笑いに変えていた。
「……何を笑ってるんだ? まだ泣いてていいんだぞ。我慢するな。ほら、もっと泣け」
琴音が笑いだしたのに気づいた九田が、また戸惑うように言う。何をそんなにオロオロしているのだろうとおかしくなって、琴音はさらに笑った。
「もう、大丈夫です。九田さんと飯田さんが塩をまいているのがおかしくて、それを見てたら元気が出ました」
「そ、そうか。それなら、よかった」
琴音が本当に笑っているのがわかったのか、九田はあからさまに安堵した顔になる。
「それじゃあ、食事に行くか。今日の売上げ、全部持っていくぞ」
「やった! 肉! 焼き肉がいいです!」
「お前に聞いてない! 何がいい?」
はしゃぐ飯田を黙らせ、九田が琴音に尋ねる。
これは自分が答えなければ収集がつかないだろうと思い、琴音は少し考えた。食事どころではない気がするけれど、食欲不振になるのも何だか癪だ。
「それなら、お鍋が食べたいです。春が来る前に、あったかいものを食べ納めしておきたいです」
「よし、わかった。すき焼きに行くぞ、すき焼き」
「やったー! 肉だー!」
大喜びする飯田を先頭に、三人は店を出た。
あのままいつもと同じように仕事を終えて帰宅していたら、きっと何も食べる気力などなかっただろう。
でも今は、九田がどんなところに連れていってくれるのか楽しみな気持ちになっている。そのことを自覚して、琴音はホッとした。
三人で店を出たあとタクシーに乗って九田が連れてきてくれたのは、肉料理の専門店だった。
赤い暖簾に屋号と牛の絵が白く染め抜かれている、こぢんまりとした店だ。
「こんな店があったんですね。へえ、しゃぶしゃぶも焼き肉もあるのか」
「二人とも丸屋の周辺しか歩かんから知らんだろうが、ここいらじゃ人気の店だ。町のオヤジ共の会合や何かの祝い事はよくここで開かれてる」
店に入って肉々しいメニューに感激している飯田に、九田はどこか誇らしげに答える。これまでの人生で入ったことのないタイプの店で、琴音も飯田ほどではないけれどわくわくしていた。
「そういえば琴音さんって、埼玉に嫁いでたんですよね? 向こうの人と結婚してたってことは、すき焼きは関東風のやつを作ってたんですか?」
注文してから待つ間、メニューを眺めていた飯田がふと気がついたように尋ねてきた。
「そうですよ。お肉を焼いて、ネギを焼いて、割り下を入れてひたひたにして、あとはお野菜を煮ていく感じです」
「聞いてはいたけど、全然違いますね。こっちは肉を焼いて砂糖をたっぷりまぶして、醤油を入れて、あとは水気の出やすい野菜って感じですもんね」
「そうそう。調理方法の違いにも慣れるまで戸惑ったんですけど、何より困ったのは味つけの違いですね。初めてすき焼きを作ったときも『こんな甘いの食べられない!』って言われちゃって……煮物とかに甘みがあるのも信じられないって言われました」
故郷を離れて生活するときに新しい土地の食べ物が口に合わず苦労するという話はよく聞く話だけれど、結婚相手と味の好みが合わないというのもよくあることだし、つらいことだ。
丸屋があるこの町も琴音が育った場所も、醤油が甘い地域だ。その上、砂糖をたっぷり使った甘い料理が多いため、そういった味つけに不慣れな人には戸惑われることもしばしばある。
ようは味の好みの問題なのだけれど、“甘いしょうゆ=ゲテモノ”くらいの拒絶反応を示す人もいるのだ。
「人の好みをとやかく言うつもりはないが、妻の作ってくれた料理を食えないだなんだとぬかす赤ちゃん男とは別れて正解だったと思うぞ。――お、来た来た」
九田は琴音を励まそうとしてくれてたのか、いいことを言おうとしたのかわからないけれど、注文していた鍋が運ばれてくると意識をそちらに移してしまった。
「うまそー。いただきまーす!」
「飯田くん、肉から食うなよ」
「えー? すき焼きと言えば肉でしょ。琴音さんは豆腐から食べるんですね」
「俺はまずネギだ」
飯田も九田もやいやい言いながら鍋に箸を伸ばしていく。琴音は最初に何を食べるかというこだわりはなかったものの、入っているのが焼き豆腐ではなく厚揚げだったのが気になって食べてみた。
揚げの部分が甘辛い汁をよく吸っていて、噛むとそれがジュワッと口の中に溢れた。中の豆腐の部分にもよく味が染みていて、噛めば噛むほどその甘辛さが広がって幸せな気分になる。
飯田はすき焼きと言えば肉だと言っていたけれど、琴音はすき焼きの醍醐味はこの汁の味にあると思っている。だからこの甘辛い汁の中で煮られた具材を食べるのはもちろん、残った汁に白米やうどんを入れて食べるのが好きなのだ。
「すき焼きって、幸せを噛み締められるメニューですよね」
「肉だし、甘くてうまいですもんね。幸せホルモンであるセトロニンがダバダバ出る食べ物ですよ。脳内物質セトロニンを出すにはまず原料となるトリプトファン、それからセトロニンを作るための炭水化物、その合成を促すビタミンB6が必要なわけなんです。だから、とりあえず動物性たんぱく質と米と豆類を食っとけ!ってことで、すき焼きが幸せになるための最適解っしょ」
「本当かぁ? でもまあ、飯田くんは調理師だからなあ……」
琴音の呟きに、飯田が薀蓄を披露した。琴音は「さすが料理人だ」と感心して聞いていたけれど、九田は胡散臭そうに見ていた。
「セトロニン云々はわかりませんけど、こうして楽しく鍋を囲むと幸せな気分になりますよね。だから、お鍋は幸せになる食べ物なのかも」
今夜ひとりでなくてよかったなと、しみじみ思いながら琴音は言った。こうして九田たちと一緒にいなければ、きっと食事も取れていなかったし、陰鬱とした気分を引きずったままだったのは間違いない。
それに、この食事は誰かと一緒に食べることはいいなと思い出させてくれた。
「そうだろうそうだろう。今度から鍋をするときには俺にちゃんと声をかけろよ。たまには飯田も誘えばいいし」
琴音の心境の変化がわかったのか、九田がどこか勝ち誇った様子で言う。いわゆるドヤ顔というやつだ。勝手に押しかけてきて食べ物にありつこうとする人のセリフではないと思うものの、今夜は美味しいものをご馳走してくれるからよしとする。
「琴音さん、一人鍋とかするんですか? リッチっすね。鍋のひとりぶんって高くつきますからねー。でも、自由で素敵な楽しみ方だと思います」
「飯田さん、わかってる! そうなんですよ。ひとりぶんって何でも高くつきますけど、鍋は特にねー。“贅沢”って感じで気に入ってるんですよ。好きなものを好きなように食べられますし」
「ちょっと飯田くん! 一人鍋を肯定するなよ。俺が鍋の日に誘ってもらえなくなるだろ」
飯田が琴音の一人鍋に共感したことで、九田が眉間に皺を寄せた。琴音が前向きになったことで食事にありつきやすくなるとでも考えていたのだろう。
「一人鍋は全然アリですけど、彼氏は作ったほうがいいんじゃないかと思いますけど。じゃないとそのうち九田さんに居座られますよ」
九田が食事を求めて琴音の部屋を突然訪問するのを知っている飯田は、わりと真剣な顔で言う。ニヤニヤしていないのを見る限り、ひやかしたりからかったりする意図はないのだろう。
「新しい恋はしないんですか? 不倫するようなクソ男との関係が最後だなんて嫌でしょ。恋愛遍歴、更新したいでしょ」
「それは、確かにそうですけど……」
飯田に言われ、琴音は考え込んだ。
博行との関係に絶望して、それからのことなど考えたこともなかった。傷ついた心と自分の人生を立て直すことだけに執心していて、今後誰かを好きになることがあるなんて頭に浮かばなかった。
「そうですね……。元夫が最後の男ってのも嫌ですし『もう恋なんてしない!』なんて誓ってるわけじゃないんですけど、今はまだそんな気分になれないんですよね。脚を骨折してリハビリ中なのにバイクに乗って遠出しようとするようなもんですから。しかも私の場合、かなり複雑な骨折なのに。普通なら、まず身体を治すことに専念しろって感じでしょ」
「まあ、不倫されて離婚って、複雑骨折みたいなもんか。それに今日、その相手の不倫女と再会しちゃうなんて、折れた骨に蹴りを入れられる感じですかね」
「そうですね。それに、まだ骨がつながってないし時々痛むっていうのもあるんですけど、今のこの自由な心がいいなって思うんです。離婚してまず思ったのが、『もう嫉妬しなくてもいいんだ』だったんですよ。それまでずっとドス黒い感情に支配されていたのが、ふっと楽になったんです。誰かを好きになるって、そういう汚い感情と無関係ではいられないでしょ? だから、しばらく自由でいたいなって思うんです」
まだ少しひりつくように痛む気がする胸を押さえて、琴音は噛みしめるみたいに言った。恋愛も恋する気持ちも否定しないけれど、まだそれが自分の人生に必要なことだとは思えないというのが本音だった。
それが今うまく言語化できて、琴音は少しすっきりしていた。
「自由かー。自由は満喫しないとですね。だったら九田さんはどうなんですか? 何か恋バナを聞かせてくださいよ」
琴音から色っぽい話が聞けないとわかると、飯田は今度は九田に水を向けた。それまで黙々と食べていた九田は驚いたあと、苦いものを食べたような顔になる。
「……飯田くんはおっさんの恋バナが聞きたいのか?」
「そうやって言われるとすげぇ嫌な気になるんすけど、何かないんですか?」
「何もないな。何かあると思ったか? 日がな一日寝てるんだぞ」
「……堂々と言うことじゃないでしょ。じゃあ、お見合いとかしないんすか?」
「一度そういう話があったんだが、会う前に断られてしまった」
「うわー、盛り上がらねえ。九田さんの話、盛り上がらねえー」
九田は嫌そうにしながらも話してやったのに、飯田は容赦なく言い放つ。確かに面白みに欠けるけれど、さすがにこの言われようは気の毒だと琴音は思った。
「飯田さん、人にそういう話をしてほしがるなら、自分の話もしなきゃだめですよ」
「……何もないからせめて人の話でもって思うんですよ」
九田だけでなく、飯田もげっそりしてしまった。今この場にいるメンバーが揃いも揃って色気がないとわかって、琴音も何だかげっそりな気分になる。
「その九田さんのお見合い予定だった人、せめて会うだけでもしてくれたらよかったんですけどね。もったいないな」
琴音は九田を慰めようとそう言ったのに、なぜか睨まれてしまった。
整った顔や無駄に良い声、着物が似合う細躯、そして不労所得があるそこそこの資産家でありながらそれに無頓着でギラギラしていない様子はかなり好条件だと思うし、何よりわかりにくいけれど優しい人なのがわかるから、琴音としてはお世辞やお追従ではなかったのに。
「……人と人との縁なんて、タイミングがずれりゃうまく結べないもんだ。相性や条件だけの問題じゃないんだよ」
「そ、そうですか。すみません……」
九田の言葉は抽象的で何のことを言っているのかわからなかったけれど、とりあえず怒らせてしまったようだから琴音は謝っておいた。でも九田は何も言い返してこず、何だか悲しそうに溜息をついただけだった。
***
春めいてくるにつれ水郷を訪れる観光客が増えるからか、少し離れたところにある丸屋も流れてきた客でぼちぼちにぎわった。
琴音が働き始めてからずっと店内を賑わせてくれていた学生たちも、春休みの間は丸屋まで足を運ぶことはなくすっかり見かけなくなっていた。それが少し、琴音は寂しかった。
売り上げのことだけで言えば、喫茶メインの学生たちも流れてきた観光客のほうがよくお金を落とすからありがたい。でも、ここが縁結びにちなんだメニューを推す店であることを知らないし重要視しない観光客よりも、口コミでそれを広げ、楽しんでくれている学生たちのほうが琴音はお気に入りなのだ。
だから、新学期が始まってまた学生たちが放課後に立ち寄ってくれるようになったのが嬉しかった。
その男子高校生たちが来るようになったのは、新学期の騒々しさが落ち着き始めた様子の、四月半ばのことだった。