スマホのアラームで目を覚まし、朝食を摂り、着替えて歯を磨いて顔を洗ってメイクをして、改めて鏡を覗き込んで琴音は「よし」と呟いた。
 鏡の中には、そこそこ美人な顔がある。化粧さえすればなんとかなるものだなあと、特に感慨もなく思う。
 琴音は化粧を落とすと眉毛がない。髪の毛を含め全体的に体毛の色素が薄いせいか、眉毛が薄いというよりほぼないように見えるのだ。おかげで、メイクができるような年頃になるまでわりと人相が悪かった。
 おまけにいわゆる薄顔というかのっぺり顔で、メリハリをつけたメイクを心がけないとどうにも存在感が薄くなる。
 でもその代わりに、メイクの技術さえ手に入れてしまえば、“美人風”を装えるから、得といえば得だ。
 装うこと、繕うこと、それっぽく見せること――これらはいろんな場面で大事だなと、働き始めたばかりの職場・喫茶丸屋に出勤して琴音は思った。

「九田さん……もっとこのお店、内装だとか雰囲気作りだとかに力を入れませんか?」

 店内を見回して、琴音は溜息まじりに言った。
 カウンター席に四人がけのテーブルが八卓と、店内はまずまずの広さだ。けれども、店主の九田と同様に店内は何となくやる気がない、もとい味も素っ気もない。ただ空間の中にテーブルと椅子があるだけという感じだ。
 音楽も流れていなければ、華やかさや趣きを添える飾りもない。これでは人が入ってこないし、もし入ってきたとしても寛ぐことはできないだろう。

「雰囲気作りー? 別にそういうのはいいや。だって俺は別に、この店が儲からなくてもいいし」

 一応店主としての務めを果たす気はあるのか、琴音が出勤してくる頃合いにはふらりとやってきて鍵を開けてカウンターの奥に収まっている九田は、あくびを噛み殺しながら言った。
 なんてやる気のない姿でなんてやる気のない発言なのだろうと、琴音はちょっぴり苛立つ。

「儲からなくていいって……どうやって生きていくつもりですか」
「不労所得で。あと、九田家はこれまでに稼いだ財産があるし。たかだか何代か前に人様のためになる縁結びに鞍替えしたからって、もともとは人を呪うことで興った家だ。……そんな金は俺が使い切ってやるんだよ」
「いや……まあ……言わんとすることはわかるんですけど」

 悪いことをして稼いだお金はさっさと使い切ってしまいたいということなのだろう。その主張は、琴音も理解できた。
 けれども雇われた手前、儲からなくてもいいという主張には同意しかねる。

「人手がほしくて私を雇ってくれたんですよね? それなら、儲からなくていいっていうのはおかしくないですか?」
「こんな店でもな、毎日最低でもひとりかふたりは客が来るんだよ。その客をあんたにさばいてもらったら、俺は楽できるなあって思ったんだ」
「なんてことを……!」

 どこまで怠ければ気が済むのだと、琴音は目眩がしてきそうな心地だった。でも、くらりとした拍子にいいことを思いつく。

「あの……このお店、儲からなくてもマイナスを出してもいいんですよね?」
「んー? 別にいいけど」
「それなら、私にいくらか資金をください。少しお金をかけたら内装とか諸々、もっとどうにかできると思うので」
「……大人のお店屋さんごっこをやりたいってことか」

 九田に問われ、琴音は頷いた。
 儲からなくてもいい、お金を使い切ってもいいというのなら、資金として使わせてもらってもいいだろうと琴音は考えたのだ。
 それなら九田の言うとおり、ごっこ遊びのようにいろいろやってみたい。失敗してもいいのだし、これで売上が上がれば万々歳だ。何より、琴音としては客が来てくれないと困る。……喫茶店のほうの客ではないけれど。

「面白いな。やってみたらいい。これ、通帳と印鑑な。一応この店の名義の通帳だから、この店の資金ってことになる。レシートや領収証をとっておいてくれたら、どこで何を買っても構わん」
 
 面白そうに笑って、九田は店の二階に行って通帳と印鑑を取ってきた。それらを受け取ってどんなものかと開いてみて、その予想外の額に琴音は目が飛び出るかと思った。……これは一度、使ってもいい資金として限度を決めて引き出して、その中から使ったほうがいいだろうなと考える。とてもではないけれど、ホイと渡されて持ち歩いていい通帳ではない。

「……大事に使わせていただきます」
「好きにしたらいい。何か近場で買い物するなら、こいつらを道案内に連れて行ったらどうだ」

 うやうやしく通帳と印鑑を押し頂いた琴音に、九田は顎でカウンターの上を指し示す。
 そこには、いつの間にか現れていたクダギツネたちがいた。今日は折り重なっておらず、白い子、茶色い子、ミルクティー色の子、灰色の子がいるのがわかる。それを見て琴音の頭には「選べるアソートセット」という単語が浮かんだ。カラーリングが、何となくお菓子っぽい。

「よろしくね、クダちゃんたち」

 あやかしというものがよくわかっていないけれど、じっと見てくるのが可愛くて、琴音はそう声をかけた。

「……見えない人間も多いんだから、外で話しかけるなよ」
「……はい」

 クダギツネに代わって、少し引いた様子の九田に言われて琴音は凹んだ。でも確かに、クダギツネに話しかけているところをもし誰かに見られたら、動物に話しかける変な人か虚空に向かって独り言を言う危ない人だと思われるだろう。

「約束、守ってね」

 店を出てすぐ、琴音はコソッと足元のクダギツネたちに言った。

「よくわからないけど、縁結び、すればいいんでしょ? するから、この目をもとに戻してね」

 クダギツネたちは答える代わりに、てててと駆け出した。どうやら、ついて来いということらしい。
 少しわくわくしながら、琴音はそのあとに続いた。


 それから、琴音は丸屋での業務の合間に様々なものを少しずつ揃えていく日々を送った。
 クダギツネたちは琴音を近所の古道具屋や古書店、花屋、文具店などに連れて行ってくれた。
 夢の中のように言葉は話さないけれど、クダギツネは目つきや身振りで意思疎通を図ろうとしてくれる。琴音が古道具屋で花瓶を買えば、そのあとは花屋へ行こうと促してくれたり。メニュー表を作り変えたいと言えば、文具店に連れて行っておしゃれな和紙を勧めてきたり。
 クダギツネたちは、丸屋に人を呼ばなければ縁結びもできないとわかっているのだろう。店主の九田よりもよほど協力的だ。……たまに変なものをほしがるけれど。

「それ、買わないよ」

 今日も、古道具屋に入るや否やクダギツネはある置き物へと走っていく。
 その置き物はどうやらイタチのようなのだけれど、体の色は汚れた白だし、目の周りがなぜかべっとりと黒い。その上、威嚇するかのように牙を向いている顔が絶妙に可愛くないのだ。いくら和っぽいテイストでも、これは店に置きたくない。

「あ、丸屋のところの。ほしがってた花器、いくつか仕入れてきたよ」
「ありがとうございます」

 琴音の来店に気がついた店主が、箱を手に店の奥から出てきた。店主は信楽焼のタヌキにどことなく似た姿で、見るたび琴音の気持ちはちょっぴり和む。

「知り合いの質屋から手頃な価格のもんを買い取ってきただけだから、色も形もてんでバラバラだけどな。かろうじて、大きさは大体揃えたよ」

 店主は緩衝材の紙を剥がしながら、ひとつひとつ花器を見せてくれた。四角いシンプルなもの、ころんとしたフォルムのもの、ウニの骨を思わせるもの、小さな土器のようなもの。どれも両手に包み込めるほどの大きさで、テーブルに置いても飲食の邪魔をしない。

「どれも素敵ですし、大きさもちょうどいいです」
「それなら、全部お買い上げかな」
「はい、お願いします」
「じゃあ、ついでにあれも持っておいでよ」

 花器をもう一度包んでくれながら店主が目線で示したのは、あのイタチの置き物だ。ほしくてたまらないらしく、クダギツネたちは置き物にまとわりついている。

「店に来るたびに見てただろ? 迷ってるなら、あるうちに買っといたほうがいいよ。まけとくから」
「でも……」
「こういうのはご縁だから。な?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 置き物に群がるクダギツネたちを見ていたのが、店主の目には熱心に置き物を見ているように見えたのだろう。
 結局琴音は、花器と一緒に不細工なイタチの置き物も包んでもらった。不本意だけれども、跳ねるように少し先を駆けていくクダたちを見れば、まあいいかという気がしてくる。

「あ、帰る前に古書店を覗かせて」

 どうやら丸屋に戻るつもりだったらしいクダちに声をかけ、琴音は道を曲がった。それから、古い商店の並びにギュッと収まっている小さな店へと入った。
 その古書店は小さいけれど、本棚がびっしりだ。その棚の間をスイスイ泳ぐように進んで、琴音は吸い寄せられるように一冊の本を手に取った。

「村岡花子先生の訳の『若草物語』だ」
「やはり、気に入りましたか。君が見つけてくれるんじゃないかと思って、棚に差しておいたんですよ」

 琴音が感激していると、店の奥の椅子に座っていた店主が面白そうに言った。おじいさんと言っても差し支えない年齢なのだろうけれど、おしゃれで紳士的で、おじいさまという呼び方のほうが相応しい感じがする。

「『若草物語』、村岡先生の訳ではまだ読んでなかったので嬉しいです」
「君はもしかして、モンゴメリなんかは村岡女史の訳で読んだ人?」
「はい。子供のとき祖母の家で見つけて、夢中で読みました。そのせいか、『赤毛のアン』を他の人の翻訳で読んでもいまいちしっくり来なくて……」
「わかりますよ。海外文学は訳者との相性も大切ですから」

 モンゴメリやオルコットなどの海外の少女小説の愛読家である琴音は、『若草物語』を大事に胸に抱いてその後も本棚を物色した。でも、収穫といえば琴音が好きな装画家の挿絵が入った『不思議の国のアリス』くらいで、ほかはあまり心惹かれるものはなかった。

「お店の本棚は、充実させられそうですか?」
「少しずつ、ですけど。店の片隅の本棚で、手に取ってもらえるかはわからないんですけど」

 琴音は丸屋の一角に小さな本棚を置き、そこに状態の良い古書を充実させたいと考えている。インテリアとしてもおしゃれだと思うし、何より店に来た人が飲み物片手にそれらの本を読んで寛いでくれればと思ったのだ。

「本はいいですよ。あるだけでいい。居心地のいい空間に変えてくれますからね」
「そうですね」
「欲を言うなら、丸屋さんのメニューにケーキや軽食があればもっと居心地がよくなるんですけれど」
「そうですよね! 検討します」

 この古書店の店主も古道具屋の店主も、琴音が店を訪れるようになってから興味を持ってくれたらしく丸屋に来てくれるようになった。
 メニューはといえば今のところコーヒーか紅茶かオレンジジュースしかないというひどい状態なのだけれど、かろうじて九田の淹れるコーヒーも紅茶も美味しいのが救いだ。
 とはいえ、デザートや軽食がほしいというのは、喫茶店に求める当然のことだろう。
 貴重なアドバイスと本を手に、琴音は店を出た。

「あれ? そっちは帰り道じゃないでしょ」

 アイスクリームやケーキスポンジなんかを仕入れればパフェを作れるだろうかなどと考えながら歩いていると、クダギツネたちが丸屋ではない方向に進み始めた。
 声をかけるも、止まる様子はない。もしかするとどこか連れていきたい店があるのかと思い、琴音はそのあとに続いた。
 すると、クダギツネたちは琴音がこれまでまだ来たことがなかった細い道に出た。そしてそこには、男性がうずくまっていた。

「だ、大丈夫ですか?」

 もしかしてこの人は急病人か何かで、それをクダギツネたちは知らせたかったのかと考え、琴音は慌てて声をかけた。
 
「え、あ、大丈夫です」

 琴音に声をかけられ、男性は顔を上げた。まだ若い人だ。もしかすると大学生くらいだろうか。「大丈夫」と言っただけのことはあり顔色は特に悪くないけれど、表情に覇気がない。憔悴しきっている様子だ。

「どこかお加減が悪くて座り込んでたんじゃないんですか?」
「違います。川を下っちゃおうかなーなんて思ってここに来たんですけど。俺なんか川を下っちゃえよと思って……」
「えっと……川下りならここから駅のほうに戻ればいいんですよ。バス、出てますし」

 観光で川下りをしに来て迷子になった……のではないだろうなと思いつつも、琴音は試しに言ってみた。
 けれども、やはりやけになっているっぽい青年は悲しそうにふるふると首を振った。

「違うー。違うんですー……本当は川下りなんかじゃなくて、自分の生きる道を探しに来たんですー」

 もう何かが限界だったのか、青年はそう言って駄々っ子のように泣き始めた。それを目の当たりにして、琴音は困惑する。
 けれども何よりも困ったのは、クダギツネたちが青年の周りをウロウロし、何やら身振りで訴えかけてくることだ。

「えっと……とりあえず、落ち着ける場所に行きましょうか。それから、温かいものでも飲みましょう」

 仕方なく、琴音はそう声をかけた。