縁結びと聞いて、琴音の中で何割かのことが納得できた。
縁といえば、赤い糸だ。だから縁を結ぶために赤い糸が見えるようになったのだろう、と。
「……この仮雇用契約書に署名捺印してから赤い糸が見えるようになったから困ってたんですけど、業務に必要なものだったからなんですね」
言いながら、内心では「何そのオカルト」とツッコミを入れていた。自分の身に起きていることだから受け止めなければならないけれど、心のどこかではそれを信じきれていないし、バカバカしいとも思っている。
ただ、病院ではなくここに来た段階で、自分の身に起きている事態が鼻で笑えないものである自覚は持っているのだ。騒がないのは受け止めきれているからではなく、そんな気力がないだけだ。
「あいつら、そんなことまでしたのか……その目、不便だろ? このくらいの薄暗さならいくらかましだとは思うが」
「そういえば……」
九田に言われて、琴音は自分の指を見た。全く見えなくなっているわけではないけれど、明るいところよりも見え方が薄い。それだけで少し気が楽になった。
でも、九田の発言が他人事なのが気になる。
「あの、さっきから“あいつら”って言ってますけど、一体誰なんですか? 私に契約書を送ってきたり、目をこんなふうにしてしまったのは……」
「あー……見せないわけにもいかないよな。――おい、出てこい」
九田は少し悩んでから、店の奥に声をかけた。すると、トコトコと小さな足音がして、何かがひょっこりカウンターの上に現れた。
それは、茶色や白や灰色の毛玉だ。目がクリクリしていて、丸い耳が生えている。
「ハムスター?」
「いや、どう見ても違うだろ。こいつらはクダギツネだ。簡単に言えば、使い魔だな。俺の家はいつの頃からかこのクダギツネってあやかしを使って人と人の縁をつなぐことを生業(なりわい)とするようになったんだ」
「クダギツネ……」
ハムスターではないと言われて、琴音は改めてその生き物を見た。確かにネズミではないけれど、キツネにはとても見えない。近い生き物といえば、フェレットやイタチだろうか。でも、そのどちらもこんなに小さくはない。
「クダギツネで縁結びなんて、聞いたことありませんけど。縁結びといえば東京大神宮とか出雲大社とか神様に頼むことだし、そういった神のお使いはシカやウサギですよね。それに、クダギツネってあまりいいイメージがありませんし」
小さな生き物たちの手前控えめに、でも気になることを琴音は尋ねた。
「まあ、そうだろうな。大昔はクダギツネを使役する家は管屋(くだや)とか管使(くだつか)いとか呼ばれて嫌われたもんだからな。病気にしたり災いをもたらしたりするんだから、嫌われて当然だ。それで何代か前のうちのご先祖はこれじゃいかんと一念発起して、呪いを生業にするのをやめて、人に喜ばれる縁結びを始めたってわけだ」
気怠く面倒くさそうに九田は説明する。九田家が家業を呪いから縁結びに変えたという華々しい話だというのに、ちっとも誇らしそうではない。
「……俺はどうでもいいけどな。だから他人の縁なんぞ結ばず、こうして日々だらけて過ごしてるから、クダたちが痺れを切らしてあんたと仮契約を結んだんだろ」
「何て迷惑な!」
琴音は、九田のダラッとした態度や発言に腹が立って思わず叫んでしまった。でも、クダギツネたちがその声にビクッとしたあと悲しそうな顔をしたのを見て、悪いことをしたと少し反省した。
「迷惑なって言われてもなあ。俺は縁結びに興味ないし、いいものだとも思ってない。だからやらない。でも、喫茶店に人手が必要なのは間違いないし、巻き込んだのに帰れなんて言えねえから、明日から働きにきてくれて構わない。というわけで、以上」
「以上って……ちょっと……ええー……」
以上という言葉の通り、九田はこれ以上はとりあわないというように目を閉じた。挙げ句、小さくいびきをかきはじめた。
琴音は信じられない気持ちになったけれど、叩き起こして文句を言う気力は残っていなかった。明日から働きに来ていいというのだから、文句を言うにしても明日以降にすればいいと考えることにする。
「あれ? いない?」
店を出る前にもう一度、クダギツネとかいうあやかしを見ようと思ったのに、いなくなってしまっていた。小さくて柔らかそうだったから、少し触ってみたかった。
静かな店内に、九田の寝息が響いている。喫茶店なのに、音楽のひとつも流していないのはいかがなものだろうか。そんなことを思いつつ、琴音は店を出た。
それから、どこかに買い物に行こうかと考える。花代の家を訪ねるまでまだ時間があるし、買い揃えたいものもある。生きていくには、いろいろ必要なものがあるのだ。
***
琴音は花代宅で夕飯をごちそうになってから、ほろ酔いで帰宅した。
飲みすぎて泣いたり騒いだりという失態を演じてはいけないからと思って、本当にほろ酔いだ。だから、久しぶりに涙を流さずにお酒を飲んだということになる。
ほろ酔いがこんなに心地よいものだと思い出した。楽しく飲めたのは、花代宅で離婚のことを深く掘り下げられることも妙にいたわられることもなかったからだ。
ただ、就職おめでとうと言って小さな門出を祝われただけだ。どうやら九田家はこのあたりでは名の知れた家のようで、あんな開店休業中のような店でも雇ってもらったとなるとめでたいことで、安心できるということだった。
「ふふ。おめでとうって言われちゃったー」
冷たい床にコロンと転がって、琴音は呟いた。自分の人生にまた何かめでたいことがあるなんて思っていなかったから、誰かにおめでとうと言われる些細なことでもたまらなく嬉しかった。
離婚ですべてを失っただなんてことは考えていないけれど、いろんなものを失ったのは確かだ。夫の浮気による離婚だ。夫と浮気相手にはいろいろなものを踏みにじられたし、そのせいでいろんなものがすり減った。実家にいたときはそのことをたびたび思い出して悔しくて苦しかったけれど、こうして何もない部屋にいるとそんな気持ちは薄れていた。
久しぶりに、心が穏やかな夜だ。
お風呂に入らなくてはと思ったけれどあまりに心地よくて、琴音はほろ酔いのまま毛布に包まって眠りについた。泣かずに眠ったのは、かなり久々のことだった。
だからだろうか。不思議な夢を見た。
視覚情報はない。音だけの夢だ。カサカサとカツカツの中間のような音だ。
それが小さな生き物の足音だとわかったときには、その気配はすぐそばまで来ていた。
『むすんで むすんで』
可愛らしい声が聞こえた。子どもの声というより、オモチャみたいな声だ。作りものめいた可愛い声。
『結んで たくさんたくさん結んで』
可愛い声と気配は、琴音を急かすように言う。
結ぶって、何を?
心の中で問いかけてみるけれど、それに対する答えはない。
『結んで 結んで たくさん結んで 結ぶっていいことだって ヨリヒトに思い出させてあげてね そしたら、その目ももとに戻すよ』
それだけ言うと声はふっつり途絶え、気配もなくなった。
(言い逃げか。何だったの)
そんなことを思ったところで目が覚めた。
目が覚めて、あれはクダギツネたちの声だったのではと気がついた。つまり結んでとは、縁なり赤い糸なりのことだろう。でも、“ヨリヒト”というのが誰のことかはわからなかった。
「……お腹空いたな」
起き出してシャワーを浴びて部屋に戻ると、急に空腹を感じた。実家にいたときは当たり前のように母が用意してくれていたけれど、今日からそういうわけにもいかない。基本的に買ってくるか作るかしなければ、何も食べられないのだ。
冷蔵庫を開けると、食パンと昨夜花代が持たせてくれたサバの切り身があった。野菜室にはスーパーで見つけて買っておいたわさび菜がある。
サバを焼いて挟めばサンドイッチができるなと思い、少しためらってから切り身を取り出した。
料理をするのには、まだ少し抵抗がある。
本当はすごく料理が好きだったのに、夫と浮気相手に生活空間を踏み荒らされてからは、すっかり作る気をなくしていた。自分の作ったものにも何となく嫌悪感があって、作っても食べられなかったという事情もある。
でも今は、作らなければ何も食べるものがない。それに、魚を焼くくらい何だというのだ?
「あっ! ああー!」
そんなことを考えながらキッチンに立っていたからだろう。サバに火が入りすぎて、モクモクと煙を上げ始めた。軽く火事のようになってしまって、あわてて火を止めた。掃除がしてありそうだから大丈夫かと思ったけれど。やはり安全確認もせず備えつけのコンロを使うのはよくないのかもしれない。でも、サバは少し皮が焦げただけで無事だった。
「おい! 大丈夫か!?」
叫び声と、ドンドンドンとドアを殴る音。それに続いて、インターホンが慌ただしく鳴らされた。
サバによる混乱が落ち着いたばかりだから本当は嫌だったけれど、いつまでもドアの向こうで騒がれるのも嫌だったから出ることにした。
「はーい、どちらさま……って九田さん?」
チェーンをしたままドアを開けると、その向こうには喫茶丸屋の店主・九田がいた。だらしない着流しは昨日見たときと同じだけれど、様子が違った。焦っているみたいだ。
「あの、九田さんがどうしてここに?」
「どうしてって、大家が店子の心配して何が悪い? あんた、さっき煙が……火事にでもなったかと思ったんだよ。思いつめて、火でもつけたんじゃないかって思って……」
キッチンの小窓からの煙を見て大急ぎで来たのだろう。そこまで言って、九田は苦しそうに息を整えた。
「サバを焼いていたら焦がしてしまって、それですごい煙が……って、思いつめて火をつけるって、どういう意味ですか?」
「いや、あんた、離婚したばっかって聞いてたから……」
火事ではなくただのサバを焼く煙で、おまけに思いつめた様子のない琴音を見てバツが悪くなったのか、九田は困ったように頭をかいた。やる気はなさそうだけれど、こうして本気で心配してくれるあたり、いい人なのだろうと琴音は思った。
「……サバ、うまそうな匂いだな」
そのまま立ち去るのも何となく居心地が悪かったからだろう。ボソッと九田が呟いた。
「食べていきますか? 大したおかまいはできませんが」
「いいのか? やった。朝、まだ食べてなかったんだ」
琴音としても心配してくれた人を無下に追い返すこともできず、仕方なく上がってもらった。着流しの上に半纏(はんてん)を羽織った九田は、寒い寒いと呟きながら冷気をまとって部屋に入ってきた。
昨夜は酔っていてあまり気がつかなかったけれど、そういえば今は冬で、寒いなと思って琴音はエアコンをつけた。
「そういえば、大家さんって九田さんだったんですね。大叔母に任せきりにしてしまっていて知らなくて……昨日はご挨拶もなしにすみません」
パンにバターを塗りながら、琴音はペコリと頭を下げた。でも、ダンボールを組み合わせただけの簡易テーブルの前に居心地悪そうに座っている九田を見ると、謝るところはそこじゃなかったかと思い直す。
「ああ、いいよ、別に。花代さんから菓子折りもらってるし、知り合いのよしみだし。……それより、いらんテーブルあるから、いるか?」
「今、めちゃくちゃ私のこと憐れんでません? 大丈夫ですよ。荷物がまだ届いてないだけで、ちゃんとテーブルも椅子もありますから」
「そうか、それならいいんだが」
一刻も早くテーブルがほしいのだろうなと思って、少し申し訳なくなった。でも、じっと顔を見られて自分が今ノーメイクなのを思い出して、気にするのはそこではないと思い直す。とはいえ、テーブルも化粧も、人を招く予定などなかったのだから仕方がない。
「あ、丸屋のほうに行くの、荷物を受け取ってからでいいですか? たぶん、そんなに遅くならないと思うんですけど」
「いいよ、急いで来なくて。ちゃんと搬入してセッティングして、生活できるように整えてからで。何なら、手伝うけど」
「大丈夫です。ひとり暮らし用の小さめの家具ばかりで、量も少ないですし」
「そうか」
気怠げでやる気がなさそうに見えるけれど親切だなと、琴音は改めて九田を評価した。あの店で働くのはちょっとどうかなと思っていたけれど、この人とならうまくやれる気がする。
「できました。どうぞ」
「……和食の支度ではないと思っていたが、なんとパンに挟まれて出てくるとは」
「サバサンド、結構いけるんですよ」
できあがったサンドイッチを皿に乗せて出すと、九田は眠たげなたれ目を少し見開いた。そしておそるおそるといった様子でひと口かじって、さらに目を見開く。
「……うまいな」
「でしょう? 私もテレビの海外の食べ物を取りあげる番組でこういった魚を挟んだサンドイッチを見てから半信半疑でやってみたんですけど、意外にイケるなあって。ネットで調べたらレシピも結構あるから、わりと一般的なのかもしれません」
「そうか。……うまいなあ」
九田は黙々とサンドイッチをかじった。たまにサンドイッチと並べて出した紅茶を口にする。でも、すぐにまたサンドイッチに集中した。
その姿を見ると、琴音の中に小さな喜びがふつふつと湧いてくる。自分の作ったものを誰かがこうして美味しそうに食べてくれるというのは、琴音にとって救いだった。
(第一印象は控えめに言っても悪かったけど、九田さんはいろいろと私の救いになってくれるのかな)
そんなふうに九田との出会いに感謝しかけた琴音だったけれど、その後の九田の発言がすべてを台無しにしてしまった。
「料理うまいんだな、バツイチさんって」
ピキッと、琴音は自分のこめかみに青筋が浮くのがわかった。最近涙もろくなっているだけでなく怒りっぽいとも自覚してはいるものの、ひどい間違いだ。腹を立てるなというほうが難しい。それとも、わざとなのだろうか。あだ名的な?
「……ハ・ツ・イ・チ、です! それに今時、離婚したからって戸籍にバツなんてつかないんですからね!」
ふんっと鼻を鳴らして、琴音は自分のサンドイッチにかじりついく。それを見て、九田は口の端をニッと上げた。
「すまん、間違えた」
絶対わざとだ!――琴音はそのとき、九田がただ親切なだけの人間ではないと確信した。
縁といえば、赤い糸だ。だから縁を結ぶために赤い糸が見えるようになったのだろう、と。
「……この仮雇用契約書に署名捺印してから赤い糸が見えるようになったから困ってたんですけど、業務に必要なものだったからなんですね」
言いながら、内心では「何そのオカルト」とツッコミを入れていた。自分の身に起きていることだから受け止めなければならないけれど、心のどこかではそれを信じきれていないし、バカバカしいとも思っている。
ただ、病院ではなくここに来た段階で、自分の身に起きている事態が鼻で笑えないものである自覚は持っているのだ。騒がないのは受け止めきれているからではなく、そんな気力がないだけだ。
「あいつら、そんなことまでしたのか……その目、不便だろ? このくらいの薄暗さならいくらかましだとは思うが」
「そういえば……」
九田に言われて、琴音は自分の指を見た。全く見えなくなっているわけではないけれど、明るいところよりも見え方が薄い。それだけで少し気が楽になった。
でも、九田の発言が他人事なのが気になる。
「あの、さっきから“あいつら”って言ってますけど、一体誰なんですか? 私に契約書を送ってきたり、目をこんなふうにしてしまったのは……」
「あー……見せないわけにもいかないよな。――おい、出てこい」
九田は少し悩んでから、店の奥に声をかけた。すると、トコトコと小さな足音がして、何かがひょっこりカウンターの上に現れた。
それは、茶色や白や灰色の毛玉だ。目がクリクリしていて、丸い耳が生えている。
「ハムスター?」
「いや、どう見ても違うだろ。こいつらはクダギツネだ。簡単に言えば、使い魔だな。俺の家はいつの頃からかこのクダギツネってあやかしを使って人と人の縁をつなぐことを生業(なりわい)とするようになったんだ」
「クダギツネ……」
ハムスターではないと言われて、琴音は改めてその生き物を見た。確かにネズミではないけれど、キツネにはとても見えない。近い生き物といえば、フェレットやイタチだろうか。でも、そのどちらもこんなに小さくはない。
「クダギツネで縁結びなんて、聞いたことありませんけど。縁結びといえば東京大神宮とか出雲大社とか神様に頼むことだし、そういった神のお使いはシカやウサギですよね。それに、クダギツネってあまりいいイメージがありませんし」
小さな生き物たちの手前控えめに、でも気になることを琴音は尋ねた。
「まあ、そうだろうな。大昔はクダギツネを使役する家は管屋(くだや)とか管使(くだつか)いとか呼ばれて嫌われたもんだからな。病気にしたり災いをもたらしたりするんだから、嫌われて当然だ。それで何代か前のうちのご先祖はこれじゃいかんと一念発起して、呪いを生業にするのをやめて、人に喜ばれる縁結びを始めたってわけだ」
気怠く面倒くさそうに九田は説明する。九田家が家業を呪いから縁結びに変えたという華々しい話だというのに、ちっとも誇らしそうではない。
「……俺はどうでもいいけどな。だから他人の縁なんぞ結ばず、こうして日々だらけて過ごしてるから、クダたちが痺れを切らしてあんたと仮契約を結んだんだろ」
「何て迷惑な!」
琴音は、九田のダラッとした態度や発言に腹が立って思わず叫んでしまった。でも、クダギツネたちがその声にビクッとしたあと悲しそうな顔をしたのを見て、悪いことをしたと少し反省した。
「迷惑なって言われてもなあ。俺は縁結びに興味ないし、いいものだとも思ってない。だからやらない。でも、喫茶店に人手が必要なのは間違いないし、巻き込んだのに帰れなんて言えねえから、明日から働きにきてくれて構わない。というわけで、以上」
「以上って……ちょっと……ええー……」
以上という言葉の通り、九田はこれ以上はとりあわないというように目を閉じた。挙げ句、小さくいびきをかきはじめた。
琴音は信じられない気持ちになったけれど、叩き起こして文句を言う気力は残っていなかった。明日から働きに来ていいというのだから、文句を言うにしても明日以降にすればいいと考えることにする。
「あれ? いない?」
店を出る前にもう一度、クダギツネとかいうあやかしを見ようと思ったのに、いなくなってしまっていた。小さくて柔らかそうだったから、少し触ってみたかった。
静かな店内に、九田の寝息が響いている。喫茶店なのに、音楽のひとつも流していないのはいかがなものだろうか。そんなことを思いつつ、琴音は店を出た。
それから、どこかに買い物に行こうかと考える。花代の家を訪ねるまでまだ時間があるし、買い揃えたいものもある。生きていくには、いろいろ必要なものがあるのだ。
***
琴音は花代宅で夕飯をごちそうになってから、ほろ酔いで帰宅した。
飲みすぎて泣いたり騒いだりという失態を演じてはいけないからと思って、本当にほろ酔いだ。だから、久しぶりに涙を流さずにお酒を飲んだということになる。
ほろ酔いがこんなに心地よいものだと思い出した。楽しく飲めたのは、花代宅で離婚のことを深く掘り下げられることも妙にいたわられることもなかったからだ。
ただ、就職おめでとうと言って小さな門出を祝われただけだ。どうやら九田家はこのあたりでは名の知れた家のようで、あんな開店休業中のような店でも雇ってもらったとなるとめでたいことで、安心できるということだった。
「ふふ。おめでとうって言われちゃったー」
冷たい床にコロンと転がって、琴音は呟いた。自分の人生にまた何かめでたいことがあるなんて思っていなかったから、誰かにおめでとうと言われる些細なことでもたまらなく嬉しかった。
離婚ですべてを失っただなんてことは考えていないけれど、いろんなものを失ったのは確かだ。夫の浮気による離婚だ。夫と浮気相手にはいろいろなものを踏みにじられたし、そのせいでいろんなものがすり減った。実家にいたときはそのことをたびたび思い出して悔しくて苦しかったけれど、こうして何もない部屋にいるとそんな気持ちは薄れていた。
久しぶりに、心が穏やかな夜だ。
お風呂に入らなくてはと思ったけれどあまりに心地よくて、琴音はほろ酔いのまま毛布に包まって眠りについた。泣かずに眠ったのは、かなり久々のことだった。
だからだろうか。不思議な夢を見た。
視覚情報はない。音だけの夢だ。カサカサとカツカツの中間のような音だ。
それが小さな生き物の足音だとわかったときには、その気配はすぐそばまで来ていた。
『むすんで むすんで』
可愛らしい声が聞こえた。子どもの声というより、オモチャみたいな声だ。作りものめいた可愛い声。
『結んで たくさんたくさん結んで』
可愛い声と気配は、琴音を急かすように言う。
結ぶって、何を?
心の中で問いかけてみるけれど、それに対する答えはない。
『結んで 結んで たくさん結んで 結ぶっていいことだって ヨリヒトに思い出させてあげてね そしたら、その目ももとに戻すよ』
それだけ言うと声はふっつり途絶え、気配もなくなった。
(言い逃げか。何だったの)
そんなことを思ったところで目が覚めた。
目が覚めて、あれはクダギツネたちの声だったのではと気がついた。つまり結んでとは、縁なり赤い糸なりのことだろう。でも、“ヨリヒト”というのが誰のことかはわからなかった。
「……お腹空いたな」
起き出してシャワーを浴びて部屋に戻ると、急に空腹を感じた。実家にいたときは当たり前のように母が用意してくれていたけれど、今日からそういうわけにもいかない。基本的に買ってくるか作るかしなければ、何も食べられないのだ。
冷蔵庫を開けると、食パンと昨夜花代が持たせてくれたサバの切り身があった。野菜室にはスーパーで見つけて買っておいたわさび菜がある。
サバを焼いて挟めばサンドイッチができるなと思い、少しためらってから切り身を取り出した。
料理をするのには、まだ少し抵抗がある。
本当はすごく料理が好きだったのに、夫と浮気相手に生活空間を踏み荒らされてからは、すっかり作る気をなくしていた。自分の作ったものにも何となく嫌悪感があって、作っても食べられなかったという事情もある。
でも今は、作らなければ何も食べるものがない。それに、魚を焼くくらい何だというのだ?
「あっ! ああー!」
そんなことを考えながらキッチンに立っていたからだろう。サバに火が入りすぎて、モクモクと煙を上げ始めた。軽く火事のようになってしまって、あわてて火を止めた。掃除がしてありそうだから大丈夫かと思ったけれど。やはり安全確認もせず備えつけのコンロを使うのはよくないのかもしれない。でも、サバは少し皮が焦げただけで無事だった。
「おい! 大丈夫か!?」
叫び声と、ドンドンドンとドアを殴る音。それに続いて、インターホンが慌ただしく鳴らされた。
サバによる混乱が落ち着いたばかりだから本当は嫌だったけれど、いつまでもドアの向こうで騒がれるのも嫌だったから出ることにした。
「はーい、どちらさま……って九田さん?」
チェーンをしたままドアを開けると、その向こうには喫茶丸屋の店主・九田がいた。だらしない着流しは昨日見たときと同じだけれど、様子が違った。焦っているみたいだ。
「あの、九田さんがどうしてここに?」
「どうしてって、大家が店子の心配して何が悪い? あんた、さっき煙が……火事にでもなったかと思ったんだよ。思いつめて、火でもつけたんじゃないかって思って……」
キッチンの小窓からの煙を見て大急ぎで来たのだろう。そこまで言って、九田は苦しそうに息を整えた。
「サバを焼いていたら焦がしてしまって、それですごい煙が……って、思いつめて火をつけるって、どういう意味ですか?」
「いや、あんた、離婚したばっかって聞いてたから……」
火事ではなくただのサバを焼く煙で、おまけに思いつめた様子のない琴音を見てバツが悪くなったのか、九田は困ったように頭をかいた。やる気はなさそうだけれど、こうして本気で心配してくれるあたり、いい人なのだろうと琴音は思った。
「……サバ、うまそうな匂いだな」
そのまま立ち去るのも何となく居心地が悪かったからだろう。ボソッと九田が呟いた。
「食べていきますか? 大したおかまいはできませんが」
「いいのか? やった。朝、まだ食べてなかったんだ」
琴音としても心配してくれた人を無下に追い返すこともできず、仕方なく上がってもらった。着流しの上に半纏(はんてん)を羽織った九田は、寒い寒いと呟きながら冷気をまとって部屋に入ってきた。
昨夜は酔っていてあまり気がつかなかったけれど、そういえば今は冬で、寒いなと思って琴音はエアコンをつけた。
「そういえば、大家さんって九田さんだったんですね。大叔母に任せきりにしてしまっていて知らなくて……昨日はご挨拶もなしにすみません」
パンにバターを塗りながら、琴音はペコリと頭を下げた。でも、ダンボールを組み合わせただけの簡易テーブルの前に居心地悪そうに座っている九田を見ると、謝るところはそこじゃなかったかと思い直す。
「ああ、いいよ、別に。花代さんから菓子折りもらってるし、知り合いのよしみだし。……それより、いらんテーブルあるから、いるか?」
「今、めちゃくちゃ私のこと憐れんでません? 大丈夫ですよ。荷物がまだ届いてないだけで、ちゃんとテーブルも椅子もありますから」
「そうか、それならいいんだが」
一刻も早くテーブルがほしいのだろうなと思って、少し申し訳なくなった。でも、じっと顔を見られて自分が今ノーメイクなのを思い出して、気にするのはそこではないと思い直す。とはいえ、テーブルも化粧も、人を招く予定などなかったのだから仕方がない。
「あ、丸屋のほうに行くの、荷物を受け取ってからでいいですか? たぶん、そんなに遅くならないと思うんですけど」
「いいよ、急いで来なくて。ちゃんと搬入してセッティングして、生活できるように整えてからで。何なら、手伝うけど」
「大丈夫です。ひとり暮らし用の小さめの家具ばかりで、量も少ないですし」
「そうか」
気怠げでやる気がなさそうに見えるけれど親切だなと、琴音は改めて九田を評価した。あの店で働くのはちょっとどうかなと思っていたけれど、この人とならうまくやれる気がする。
「できました。どうぞ」
「……和食の支度ではないと思っていたが、なんとパンに挟まれて出てくるとは」
「サバサンド、結構いけるんですよ」
できあがったサンドイッチを皿に乗せて出すと、九田は眠たげなたれ目を少し見開いた。そしておそるおそるといった様子でひと口かじって、さらに目を見開く。
「……うまいな」
「でしょう? 私もテレビの海外の食べ物を取りあげる番組でこういった魚を挟んだサンドイッチを見てから半信半疑でやってみたんですけど、意外にイケるなあって。ネットで調べたらレシピも結構あるから、わりと一般的なのかもしれません」
「そうか。……うまいなあ」
九田は黙々とサンドイッチをかじった。たまにサンドイッチと並べて出した紅茶を口にする。でも、すぐにまたサンドイッチに集中した。
その姿を見ると、琴音の中に小さな喜びがふつふつと湧いてくる。自分の作ったものを誰かがこうして美味しそうに食べてくれるというのは、琴音にとって救いだった。
(第一印象は控えめに言っても悪かったけど、九田さんはいろいろと私の救いになってくれるのかな)
そんなふうに九田との出会いに感謝しかけた琴音だったけれど、その後の九田の発言がすべてを台無しにしてしまった。
「料理うまいんだな、バツイチさんって」
ピキッと、琴音は自分のこめかみに青筋が浮くのがわかった。最近涙もろくなっているだけでなく怒りっぽいとも自覚してはいるものの、ひどい間違いだ。腹を立てるなというほうが難しい。それとも、わざとなのだろうか。あだ名的な?
「……ハ・ツ・イ・チ、です! それに今時、離婚したからって戸籍にバツなんてつかないんですからね!」
ふんっと鼻を鳴らして、琴音は自分のサンドイッチにかじりついく。それを見て、九田は口の端をニッと上げた。
「すまん、間違えた」
絶対わざとだ!――琴音はそのとき、九田がただ親切なだけの人間ではないと確信した。