入ってきた客が元夫の不倫相手・横井裕香だとわかった瞬間、琴音は反射的に席を立ってカウンターの内側に身を隠してしまった。眠っていたらしい九田はそれにギョッとしたけれど、入ってきた裕香がそれに気づいた様子はない。
「あなたが縁切り屋?」
「ええ、そうよ。あたしが縁切り屋の桐島栄子よ」
「何でこんな遠いところを指定するんですか? 新幹線と電車とバスを乗り継がなきゃならないなんて、ありえないでしょ」
「でも、そんな遠路はるばるやってくるほど、縁切りが必要だったってことでしょ? それなら、仕方ないじゃない」
席について早々文句を言う裕香に、栄子は飄々と返す。先ほどあらわにした嫌悪感はすっかり押し隠し、わりと感じよく接しているあたり、さすがプロといったところだ。
「それじゃ、縁切りの前にもう一度以来の内容を確認させてもらうわね。不倫相手と縁を切りたいのよね?」
「そうです。私との不倫がバレて離婚した途端、ものすごく執着され始めて……気楽な関係がいい、遊びがちょうどいいなんて言ってたくせに。そういうダサいの、無理なんで切りたいんです」
憎々しげに吐き捨てる裕香の言葉を聞いて、琴音の心臓はキュッと締めつけられた。不倫がバレて離婚したというのは、琴音と元夫――葛原博行のことに違いない。
「ダサいって、離婚したんだったら万々歳じゃない? 無事に奪えたんだから、ありがたくもらっときゃいいじゃない。不倫って、略奪したくてするんじゃないの?」
「私のはそういうんじゃないんで。むしろ、帰る家がある男だから楽っていうか。だって世話してやんなきゃいけないのとか絶対嫌だし。それなのに離婚した途端あの人、何か服装がだらしなくなってダサくなっちゃって」
「あー、なるほどぉ。奥さんにアイロンがけとかクリーニングとか任せきりのタイプだったんだ。それで離婚したあと身なりがだらしなくなったんだ。そりゃダサいわ」
容赦なくこき下ろす裕香の言葉に、栄子も呆れたように笑って同意した。悪く言われているのは琴音のことではなく博行のことなのに、聞いていると気分が悪くなってくる。
それに、裕香の悪態は博行のことだけに留まらなかった。
「離婚してそんなふうになっちゃう男もダサくて嫌なんですけど、自分の夫とか彼氏をそんなふうにダメにする女が大っ嫌いなんですよね。手料理至上主義で家事とか無駄に頑張っちゃって、自分のことをイイ女だとか勘違いしてんの。イイ女なわけないのに。だからダンナが浮気するんじゃんっていう。結局、私と付き合っていきいきして仕事頑張れてんのなら、それって実質私のおかげでしょ? 私のほうがイイ女だから私を選んだのに、それがわかってないのが本当にダサくて嫌」
反吐が出るとでも言いたげに、裕香は吐き捨てる。その言葉は、琴音に向けられたものに違いない。彼女は琴音がここにいることには気づいていないけれど、これは確実に琴音についての悪口だとわかる。
「まあ、言いたいことはわかるわよ。結局、そういう尽くす系の女性って自分のためにやってることを相手のためって思い込んで押しつけたりしがちなところがあるものね」
「そうそう。買えばいいものをわざわざ作ったりとかね。お菓子なんてパティシエに任せとけばいいのに手作りする女ってキモくないですか? だから私、アップルパイ捨ててやったことありますよ。ま、その現場を押さえられて離婚することになっちゃったんですけど」
キャハハとさも楽しいことのように笑いながら裕香は言った。彼女にとっては不倫がバレたときの修羅場すら、こうして人に語って聞かせる武勇伝にすぎないのだろう。
裕香は、帰宅した琴音にアップルパイを捨てようとした現場を見咎められたときですら、悪びれもせず「いらないって言われたから捨てといてあげようと思って」などと笑って、目の前でゴミ箱に投げ入れるような女だ。善悪の基準は、おそらく一般的な人とは異なっているのだろう。
「……あんた、ずいぶん派手にやってんのね」
「次からはもうそんなヘマしないから大丈夫です。『絶対帰ってくるの遅いから』なんて言葉を信じて家に上がったのがまずかったんですよ。ホテル代を浮かせようとする男とはもう付き合わないから平気平気」
栄子の声にあきれがにじんでいるのにも気づかず、しゃあしゃあと裕香は答える。
カウンターの内側にいても、琴音には彼女がどんな顔で話しているのか想像できた。それだけに、ドロドロしたものがこみ上げてくるのを抑えるのが大変だ。
「それじゃあ、縁を切るとしましょうかね」
もう十分話を聞いたからか、流れを変えるように栄子が言った。
ようやくこの地獄のような時間が終わると琴音がほっとしたのも束の間、話の流れだけでなくその場の空気が変わった。
「――で、どの縁を切ればいいわけ?」
「え?」
「あんた、今までに相当悪さしてきたでしょ? 同時進行で遊びまくったりもしてるみたいだし。そのせいでぐちゃぐちゃになってて、どれを切ったらいいのかわかんないわぁ。ひとつの縁を三万五千円で切るって話だから、いち、に、さん、よん……三十万円いただければ全部処理できるかしらねぇ」
高笑いするのは今度は栄子の番だった。
栄子が黙って裕香の不愉快な話を聞いていたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。
「……ちょっと、どういうことですか? 三万五千円で縁切りしてくれるって言うから、わざわざ旅費をかけてここまで来たのに!」
「だから、あんたに関わる諸々の余計な縁を切るには三十万円くらいかかるわよって言ってるのよ。切らなくていいなら、あたしは全然かまわないけど」
「ふざけないでよ! 切らなきゃ困るからここまで来てんのよ!」
提示されていた金額よりはるかに高いことに、裕香はかなり取り乱していた。琴音はどんな顔をしているのだろうと気になってカウンターから目だけ覗かせて、見えた裕香の小指から伸びる糸にギョッとした。
店に入ってきたときは気がつかなったけれど、裕香の小指の糸はぐちゃぐちゃだった。九田のように単独で絡まっているのとは違い、ほうぼうから伸びている糸が巻きついたり硬く玉結びのようになっていたりするのだ。これが裁縫用の糸なら、ほどくことはあきらめて新しいものを使うだろう。
「テキトーでいいから切ってよ! じゃなきゃ何のためにここまで来たのかわかんない!」
「テキトー? じゃあ、ジャキンっていくけどいいの?」
「いい! 早くして!」
裕香が苛立つように叫んだのを聞いて、栄子はパチンと指を鳴らした。それに応えるように小さなつむじ風が起こり、現れたイタチの一匹が鎌をふるった。
すると、裕香の小指から伸びていた糸が、手強く絡まっていた部分も含めて根元からすっぱり切れていた。
「……終わったの?」
糸もイタチも見えていない裕香でも、つむじ風が起こったのは感じたのだろう。不安そうに、落ち着かない様子で栄子に尋ねた。
「終わったわよ」
「……じゃあ、これで」
財布から取り出したお札を数枚テーブルに叩きつけるようにして、裕香が店を出ていった。
あとに残された栄子はそのお札を数え、イタチたちはなぜか琴音のいるカウンターに駆けてきた。
「な、なに……?」
イタチの一匹は琴音の右手を押さえ、鎌を持ったイタチはそれを虚空にふるい、残りのイタチはポンと琴音の頭を撫でて去っていった。
「琴音ちゃんの指から伸びてた黒い糸、切っておいたからね」
「黒い糸?」
「そう。糸にはいろんな色があるのよ。黒は恨みや憎しみの色。あの女に向かって伸びてた糸、切っておいたからね。もう、忘れちゃいなさい。恨んでたってあんたが幸せになれるわけじゃないし、あの女はこれから勝手に不幸になっていくから放っておいたらいいわ」
栄子は席を立ち、つかつかと琴音のいるカウンターまでやってきた。上から覗き込まれているとわかるけれど、自分が今ひどい顔をしているとわかっているから、琴音は立ち上がることも顔を上げることまできなかった。
「……あの人が言っていたこと、私のことだってわかったんですか?」
「わかったっていうか、あたしには糸が見えてるし。琴音ちゃんが被害者のひとりだってのは話を聞く前に気づいたわ。ていうか、縁って怖いわね。今回この店にあの女を呼び寄せたのは琴音ちゃんよ」
「え……」
「恨みの念ってすごいのね。せっかくだから、あの女から慰謝料をふんだくる? 名前も勤め先もメアドも知ってるし、不倫してたって言質もとれてる。いい弁護士も紹介するわ。すっぱり忘れる前に取れるもの取っちゃいましょー」
「……」
意気揚々と栄子に問われ、琴音はすぐに言葉を返せなかった。
裕香に対して恨みがないと言えば嘘になる。恨んでいるし憎んでいる。この世からいなくなってほしいとまでは思わないまでも、琴音が苦しんだぶんの何分の一かくらいは苦しんでほしいとは思う。
でもそれは、結婚生活を続けていればの話だ。
博行との結婚が続いていれば、琴音は裕香への恨みと博行への不信感に苦しみ続けただろう。それが無理で、離婚したのだ。恨みと不信感にジリジリ焼かれるように暮らすことは、琴音にはできなかった。
「いいです。慰謝料なら、もうたっぷりもらいましたから。一円も支払いたくないっていう元夫をひっぱたいて向こうの両親が支払ってくれたんです。だから、お金はもういいです」
「あらん。お金はいくらあってもいいし、苦しめるためにお金くらいむしりとってやろうって言ってるのに。ま、放っておいても破滅するけどね。パパ活で得たコネで入った会社はクビになるし、ちょこちょこ生活を援助してくれてた男たちともみんな縁が切れちゃったし、これから男を引っかけようにも小指の糸は超短いし。……あとは、色恋が絡まない人間関係をあの女がどれだけ築けてるかよねー。誰か助けてくれるといいわねー」
琴音に訴える気がないとわかると、栄子は興味を失ったらしく、お札を一枚テーブルに置いて店を出ていってしまった。五千円札だ。紅茶代としては多すぎるから、場所代ということだろうか。
「あんた……大丈夫か?」
テーブルの上を片づけようとしていたところ、九田に声をかけられた。そのときになって琴音はそこに九田がいたことを思い出した。
「えっと……大丈夫ですよ?」
「大丈夫じゃないだろ! 泣いてる! ……おい、飯田! 塩持ってこい!」
九田に指摘されて気づいたけれど、琴音は泣いていた。気づいた途端、涙はポロポロ溢れ出る。それを見た九田はオロオロし、厨房に向かって叫んだあと、カウンターから飛び出していってドアを素早く開け閉めした。どうやら「open」の札を「close」にしてきたらしい。
「九田さん、塩って何に……って琴音さん、泣いてる!? 九田さんがいじめたんすか!?」
塩の入った容器を抱えて厨房から出てきた飯田が、琴音を見てギョッとした。
「俺がいじめたんじゃない! クソ不倫女のせいで嫌なことを思い出して泣いてたんだ。泣かせといてやれ。そんなことより塩だ、塩! あばずれは外ー!」
九田は飯田から容器を奪うと、塩を掴んで思いきり投げ始めた。わけはわかっていないようだけれど、飯田も一緒になってやっていた。だから、かけ声のおかしい豆まきみたいだ。
自分でも制御できない涙を流していた琴音は、その光景を見ておかしくなって笑ってしまった。いつも眠たげな九田が不届き者に怒り、自分の涙にうろたえ、場を清めようと塩をまいてくれているのだ。嬉しいのか何なのかわからない感情が湧き上がってきて、それが涙を笑いに変えていた。
「……何を笑ってるんだ? まだ泣いてていいんだぞ。我慢するな。ほら、もっと泣け」
琴音が笑いだしたのに気づいた九田が、また戸惑うように言う。何をそんなにオロオロしているのだろうとおかしくなって、琴音はさらに笑った。
「もう、大丈夫です。九田さんと飯田さんが塩をまいているのがおかしくて、それを見てたら元気が出ました」
「そ、そうか。それなら、よかった」
琴音が本当に笑っているのがわかったのか、九田はあからさまに安堵した顔になる。
「それじゃあ、食事に行くか。今日の売上げ、全部持っていくぞ」
「やった! 肉! 焼き肉がいいです!」
「お前に聞いてない! 何がいい?」
はしゃぐ飯田を黙らせ、九田が琴音に尋ねる。
これは自分が答えなければ収集がつかないだろうと思い、琴音は少し考えた。食事どころではない気がするけれど、食欲不振になるのも何だか癪だ。
「それなら、お鍋が食べたいです。春が来る前に、あったかいものを食べ納めしておきたいです」
「よし、わかった。すき焼きに行くぞ、すき焼き」
「やったー! 肉だー!」
大喜びする飯田を先頭に、三人は店を出た。
あのままいつもと同じように仕事を終えて帰宅していたら、きっと何も食べる気力などなかっただろう。
でも今は、九田がどんなところに連れていってくれるのか楽しみな気持ちになっている。そのことを自覚して、琴音はホッとした。
「あなたが縁切り屋?」
「ええ、そうよ。あたしが縁切り屋の桐島栄子よ」
「何でこんな遠いところを指定するんですか? 新幹線と電車とバスを乗り継がなきゃならないなんて、ありえないでしょ」
「でも、そんな遠路はるばるやってくるほど、縁切りが必要だったってことでしょ? それなら、仕方ないじゃない」
席について早々文句を言う裕香に、栄子は飄々と返す。先ほどあらわにした嫌悪感はすっかり押し隠し、わりと感じよく接しているあたり、さすがプロといったところだ。
「それじゃ、縁切りの前にもう一度以来の内容を確認させてもらうわね。不倫相手と縁を切りたいのよね?」
「そうです。私との不倫がバレて離婚した途端、ものすごく執着され始めて……気楽な関係がいい、遊びがちょうどいいなんて言ってたくせに。そういうダサいの、無理なんで切りたいんです」
憎々しげに吐き捨てる裕香の言葉を聞いて、琴音の心臓はキュッと締めつけられた。不倫がバレて離婚したというのは、琴音と元夫――葛原博行のことに違いない。
「ダサいって、離婚したんだったら万々歳じゃない? 無事に奪えたんだから、ありがたくもらっときゃいいじゃない。不倫って、略奪したくてするんじゃないの?」
「私のはそういうんじゃないんで。むしろ、帰る家がある男だから楽っていうか。だって世話してやんなきゃいけないのとか絶対嫌だし。それなのに離婚した途端あの人、何か服装がだらしなくなってダサくなっちゃって」
「あー、なるほどぉ。奥さんにアイロンがけとかクリーニングとか任せきりのタイプだったんだ。それで離婚したあと身なりがだらしなくなったんだ。そりゃダサいわ」
容赦なくこき下ろす裕香の言葉に、栄子も呆れたように笑って同意した。悪く言われているのは琴音のことではなく博行のことなのに、聞いていると気分が悪くなってくる。
それに、裕香の悪態は博行のことだけに留まらなかった。
「離婚してそんなふうになっちゃう男もダサくて嫌なんですけど、自分の夫とか彼氏をそんなふうにダメにする女が大っ嫌いなんですよね。手料理至上主義で家事とか無駄に頑張っちゃって、自分のことをイイ女だとか勘違いしてんの。イイ女なわけないのに。だからダンナが浮気するんじゃんっていう。結局、私と付き合っていきいきして仕事頑張れてんのなら、それって実質私のおかげでしょ? 私のほうがイイ女だから私を選んだのに、それがわかってないのが本当にダサくて嫌」
反吐が出るとでも言いたげに、裕香は吐き捨てる。その言葉は、琴音に向けられたものに違いない。彼女は琴音がここにいることには気づいていないけれど、これは確実に琴音についての悪口だとわかる。
「まあ、言いたいことはわかるわよ。結局、そういう尽くす系の女性って自分のためにやってることを相手のためって思い込んで押しつけたりしがちなところがあるものね」
「そうそう。買えばいいものをわざわざ作ったりとかね。お菓子なんてパティシエに任せとけばいいのに手作りする女ってキモくないですか? だから私、アップルパイ捨ててやったことありますよ。ま、その現場を押さえられて離婚することになっちゃったんですけど」
キャハハとさも楽しいことのように笑いながら裕香は言った。彼女にとっては不倫がバレたときの修羅場すら、こうして人に語って聞かせる武勇伝にすぎないのだろう。
裕香は、帰宅した琴音にアップルパイを捨てようとした現場を見咎められたときですら、悪びれもせず「いらないって言われたから捨てといてあげようと思って」などと笑って、目の前でゴミ箱に投げ入れるような女だ。善悪の基準は、おそらく一般的な人とは異なっているのだろう。
「……あんた、ずいぶん派手にやってんのね」
「次からはもうそんなヘマしないから大丈夫です。『絶対帰ってくるの遅いから』なんて言葉を信じて家に上がったのがまずかったんですよ。ホテル代を浮かせようとする男とはもう付き合わないから平気平気」
栄子の声にあきれがにじんでいるのにも気づかず、しゃあしゃあと裕香は答える。
カウンターの内側にいても、琴音には彼女がどんな顔で話しているのか想像できた。それだけに、ドロドロしたものがこみ上げてくるのを抑えるのが大変だ。
「それじゃあ、縁を切るとしましょうかね」
もう十分話を聞いたからか、流れを変えるように栄子が言った。
ようやくこの地獄のような時間が終わると琴音がほっとしたのも束の間、話の流れだけでなくその場の空気が変わった。
「――で、どの縁を切ればいいわけ?」
「え?」
「あんた、今までに相当悪さしてきたでしょ? 同時進行で遊びまくったりもしてるみたいだし。そのせいでぐちゃぐちゃになってて、どれを切ったらいいのかわかんないわぁ。ひとつの縁を三万五千円で切るって話だから、いち、に、さん、よん……三十万円いただければ全部処理できるかしらねぇ」
高笑いするのは今度は栄子の番だった。
栄子が黙って裕香の不愉快な話を聞いていたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。
「……ちょっと、どういうことですか? 三万五千円で縁切りしてくれるって言うから、わざわざ旅費をかけてここまで来たのに!」
「だから、あんたに関わる諸々の余計な縁を切るには三十万円くらいかかるわよって言ってるのよ。切らなくていいなら、あたしは全然かまわないけど」
「ふざけないでよ! 切らなきゃ困るからここまで来てんのよ!」
提示されていた金額よりはるかに高いことに、裕香はかなり取り乱していた。琴音はどんな顔をしているのだろうと気になってカウンターから目だけ覗かせて、見えた裕香の小指から伸びる糸にギョッとした。
店に入ってきたときは気がつかなったけれど、裕香の小指の糸はぐちゃぐちゃだった。九田のように単独で絡まっているのとは違い、ほうぼうから伸びている糸が巻きついたり硬く玉結びのようになっていたりするのだ。これが裁縫用の糸なら、ほどくことはあきらめて新しいものを使うだろう。
「テキトーでいいから切ってよ! じゃなきゃ何のためにここまで来たのかわかんない!」
「テキトー? じゃあ、ジャキンっていくけどいいの?」
「いい! 早くして!」
裕香が苛立つように叫んだのを聞いて、栄子はパチンと指を鳴らした。それに応えるように小さなつむじ風が起こり、現れたイタチの一匹が鎌をふるった。
すると、裕香の小指から伸びていた糸が、手強く絡まっていた部分も含めて根元からすっぱり切れていた。
「……終わったの?」
糸もイタチも見えていない裕香でも、つむじ風が起こったのは感じたのだろう。不安そうに、落ち着かない様子で栄子に尋ねた。
「終わったわよ」
「……じゃあ、これで」
財布から取り出したお札を数枚テーブルに叩きつけるようにして、裕香が店を出ていった。
あとに残された栄子はそのお札を数え、イタチたちはなぜか琴音のいるカウンターに駆けてきた。
「な、なに……?」
イタチの一匹は琴音の右手を押さえ、鎌を持ったイタチはそれを虚空にふるい、残りのイタチはポンと琴音の頭を撫でて去っていった。
「琴音ちゃんの指から伸びてた黒い糸、切っておいたからね」
「黒い糸?」
「そう。糸にはいろんな色があるのよ。黒は恨みや憎しみの色。あの女に向かって伸びてた糸、切っておいたからね。もう、忘れちゃいなさい。恨んでたってあんたが幸せになれるわけじゃないし、あの女はこれから勝手に不幸になっていくから放っておいたらいいわ」
栄子は席を立ち、つかつかと琴音のいるカウンターまでやってきた。上から覗き込まれているとわかるけれど、自分が今ひどい顔をしているとわかっているから、琴音は立ち上がることも顔を上げることまできなかった。
「……あの人が言っていたこと、私のことだってわかったんですか?」
「わかったっていうか、あたしには糸が見えてるし。琴音ちゃんが被害者のひとりだってのは話を聞く前に気づいたわ。ていうか、縁って怖いわね。今回この店にあの女を呼び寄せたのは琴音ちゃんよ」
「え……」
「恨みの念ってすごいのね。せっかくだから、あの女から慰謝料をふんだくる? 名前も勤め先もメアドも知ってるし、不倫してたって言質もとれてる。いい弁護士も紹介するわ。すっぱり忘れる前に取れるもの取っちゃいましょー」
「……」
意気揚々と栄子に問われ、琴音はすぐに言葉を返せなかった。
裕香に対して恨みがないと言えば嘘になる。恨んでいるし憎んでいる。この世からいなくなってほしいとまでは思わないまでも、琴音が苦しんだぶんの何分の一かくらいは苦しんでほしいとは思う。
でもそれは、結婚生活を続けていればの話だ。
博行との結婚が続いていれば、琴音は裕香への恨みと博行への不信感に苦しみ続けただろう。それが無理で、離婚したのだ。恨みと不信感にジリジリ焼かれるように暮らすことは、琴音にはできなかった。
「いいです。慰謝料なら、もうたっぷりもらいましたから。一円も支払いたくないっていう元夫をひっぱたいて向こうの両親が支払ってくれたんです。だから、お金はもういいです」
「あらん。お金はいくらあってもいいし、苦しめるためにお金くらいむしりとってやろうって言ってるのに。ま、放っておいても破滅するけどね。パパ活で得たコネで入った会社はクビになるし、ちょこちょこ生活を援助してくれてた男たちともみんな縁が切れちゃったし、これから男を引っかけようにも小指の糸は超短いし。……あとは、色恋が絡まない人間関係をあの女がどれだけ築けてるかよねー。誰か助けてくれるといいわねー」
琴音に訴える気がないとわかると、栄子は興味を失ったらしく、お札を一枚テーブルに置いて店を出ていってしまった。五千円札だ。紅茶代としては多すぎるから、場所代ということだろうか。
「あんた……大丈夫か?」
テーブルの上を片づけようとしていたところ、九田に声をかけられた。そのときになって琴音はそこに九田がいたことを思い出した。
「えっと……大丈夫ですよ?」
「大丈夫じゃないだろ! 泣いてる! ……おい、飯田! 塩持ってこい!」
九田に指摘されて気づいたけれど、琴音は泣いていた。気づいた途端、涙はポロポロ溢れ出る。それを見た九田はオロオロし、厨房に向かって叫んだあと、カウンターから飛び出していってドアを素早く開け閉めした。どうやら「open」の札を「close」にしてきたらしい。
「九田さん、塩って何に……って琴音さん、泣いてる!? 九田さんがいじめたんすか!?」
塩の入った容器を抱えて厨房から出てきた飯田が、琴音を見てギョッとした。
「俺がいじめたんじゃない! クソ不倫女のせいで嫌なことを思い出して泣いてたんだ。泣かせといてやれ。そんなことより塩だ、塩! あばずれは外ー!」
九田は飯田から容器を奪うと、塩を掴んで思いきり投げ始めた。わけはわかっていないようだけれど、飯田も一緒になってやっていた。だから、かけ声のおかしい豆まきみたいだ。
自分でも制御できない涙を流していた琴音は、その光景を見ておかしくなって笑ってしまった。いつも眠たげな九田が不届き者に怒り、自分の涙にうろたえ、場を清めようと塩をまいてくれているのだ。嬉しいのか何なのかわからない感情が湧き上がってきて、それが涙を笑いに変えていた。
「……何を笑ってるんだ? まだ泣いてていいんだぞ。我慢するな。ほら、もっと泣け」
琴音が笑いだしたのに気づいた九田が、また戸惑うように言う。何をそんなにオロオロしているのだろうとおかしくなって、琴音はさらに笑った。
「もう、大丈夫です。九田さんと飯田さんが塩をまいているのがおかしくて、それを見てたら元気が出ました」
「そ、そうか。それなら、よかった」
琴音が本当に笑っているのがわかったのか、九田はあからさまに安堵した顔になる。
「それじゃあ、食事に行くか。今日の売上げ、全部持っていくぞ」
「やった! 肉! 焼き肉がいいです!」
「お前に聞いてない! 何がいい?」
はしゃぐ飯田を黙らせ、九田が琴音に尋ねる。
これは自分が答えなければ収集がつかないだろうと思い、琴音は少し考えた。食事どころではない気がするけれど、食欲不振になるのも何だか癪だ。
「それなら、お鍋が食べたいです。春が来る前に、あったかいものを食べ納めしておきたいです」
「よし、わかった。すき焼きに行くぞ、すき焼き」
「やったー! 肉だー!」
大喜びする飯田を先頭に、三人は店を出た。
あのままいつもと同じように仕事を終えて帰宅していたら、きっと何も食べる気力などなかっただろう。
でも今は、九田がどんなところに連れていってくれるのか楽しみな気持ちになっている。そのことを自覚して、琴音はホッとした。