はなまる縁結び〜バツイチさんとこじらせ店主〜

 丸屋の営業は午後6時に終わる。
 だから琴音はそこから徒歩で帰宅して、毎日ゆっくりと夕食の支度をすることができる。
 離婚して家に戻ってくるまでは、個人クリニックで医療事務の仕事をしていた。日頃はそこまで遅くなる仕事ではなかったものの、月末の締め日付近はレセプトをまとめるのに忙しくなるため、残業することも多々あった。
 そういった生活に慣れていたから、今の職場や働き方は琴音にとって驚くほど快適だ。収入はやや減ったけれど、格安で今の部屋に住めているし、都会暮らしよりもお金がかからないのが利点だ。……時折、変な訪問者さえ来なければ。

「九田さん、ナチュラルに椅子を持ち込んで寛ぐのやめてもらえません?」

 琴音はキッチンに立って鍋をかき混ぜながら、背後でだらけている九田に声をかけた。
 
「だってここ、椅子が一脚しかないじゃないか。それなら、持参するしかないだろう」
「いや、押しかけてくるなって言ってるんですよ」

 九田は週に何回か、琴音の部屋を訪ねてくる。聞けば大家として、二部屋隣に住んでいるのだという。
 建前は琴音がまたこの前みたいにサバを焦がしたりしないか心配でということだけれど、実際のところは食事狙いのようだ。その証拠に、朝食や夕食を作っているときばかりに来るのだから。
 琴音の部屋に椅子がひとつしかなく、仕方なく最初のときのようにダンボールのミニテーブルで食事をさせていたのがよほど不満だったらしい。今日はついに自宅から椅子を持参してきた。

「押しかけてくるなって言うけど、花代さんに頼まれてるから来てるんだよ」
「花代おばちゃんが?」
「そう。ひとりにしとくのは心配だから、たまに見に行ってやってくれって」
「……何か、すいません」
「ま、俺はたまにうまい飯にありつけてるからいいんだけど」
「……そっちが主な目的ですよね?」

 呆れたように言いつつも、琴音は料理の仕上げに取りかかった。茹で上がったパスタを、温めておいた卵ソースに手早く和えていく。卵がダマになるより先にさっと混ぜてしまわないと、そのぶん味が落ちてしまう。今日のメニューはカルボナーラ。卵の風味が命だ。

「できましたよ。今日はカルボナーラとオニオンスープです」

 テーブルの上に敷いていたランチョンマットと鍋敷きの上に、琴音は配膳した。九田の皿は鍋敷きの上だ。琴音はこの部屋にひとりぶんのものしか置かないと徹底しているから、九田のぶんのランチョンマットはないのだ。

「うまそうだな。俺、カルボナーラ好きなんだよな」
「それはよかったです」

 本当はトマト系のパスタが食べたかったのになと思いつつも、九田が美味しそうに食べる姿を見るとわざわざ言う気にはなれない。それに、カルボナーラは上出来だった。飴色タマネギを冷凍していたものを使ったスープも、簡単だったのにかなりおいしくできている。

「そういえば九田さん、縁結びってどうやるんですか?」

 食後のお茶を飲みながら、琴音はふと気になったことを尋ねてみた。このくつろいだ雰囲気なら、少々聞きづらいことも聞けるのではないかと思ったのだ。

「聞いてどうするんだ?」
「後学のために。言うのを忘れてたんですけど、夢にクダギツネたちが出てきて、縁結びをしてくれって言われたんですよ。たくさん結んだら、この目をもとに戻すとも言ってました」
「……何だよそれ。普通に脅されてるじゃねえか」

 あきらかに話したくなさそうだったけれど、琴音がクダギツネの夢について話すと態度が変わった。渋々といった様子で口を開く。

「縁を結びたい対象を指示すれば、クダたちが勝手に結んでくれる。能力が高いやつは見えるだけでなく結ぶこともできるが、あんたは無理だろうな。クダたちが仮初めの力を与えただけだから」
「仮初めの力……だから触ることができなかったんですね」

 琴音は、自分の右手小指から伸びる赤い糸を掴もうとして空振った。何度やっても、やはり掴むことはできない。

「クダちゃんたち、糸を結んだりできるんですね。あんなちっちゃくて柔らかそうな手で」
「あんた、飯田と結ばれてたぞ」
「え? 本当ですか?」

 九田に言われて慌てて自分の手を見るも、赤い糸の先には見えない。琴音の糸の先は、無理やり引きちぎったみたいに短くなっているだけだ。

「赤いのじゃなくて、別の色のだ。仕事とか、そういう縁の。あんたが丸屋のメニューを充実させたいって言ってたから、あいつらがそういう縁をたぐり寄せたんだろ」
「そういうことだったんですね。……飯田くんと恋愛フラグが立ったのかと思って焦りました」
「いや、あんたの糸はちょん切れてるから今は無理だぞ」
「え……」
「ちょっと考えればわかるだろ。そんな短いの、結べるわけがない」
「……ぐちゃぐちゃに絡まってる人に言われたくないです」

 誰かと結ばれる気などまったくなかったものの、はっきり無理だと言われて悔しくなって、琴音は九田の指先を見た。彼の糸はネコか何かに蹂躙された毛糸のように、毛先も見えないほどこんがらがっている。

「糸を見るのには慣れたか? 人が多いとこ行くと、嫌になるだろ?」 

 ぐちゃぐちゃと言われても気にした様子もなく、九田は琴音に尋ねた。心底嫌そうな口振りだ。糸を見ることが自分にとって嫌なものだから、琴音も当然嫌なのだろうと気遣っているようだ。

「いくらか慣れました。最初の頃は目がチカチカする気がして疲れてたんですけど、今は『あの人の糸、三本くらい引っかかってる』とか『あのカップル、彼女のほうが色がくっきり』とか見て楽しんでます」

 見えたばかりの頃はとにかく戸惑って疲れていたけれど、最近の琴音は見えるのを楽しめるようになっていた。それを聞いて、九田は信じられないものを見るような目になる。

「……何が楽しいんだ。糸が複数見えるのは気が多いのか多数に気を持たせてるかだし、付き合ってる片方だけ色が違ってるのは想いが釣り合っていないか変質してきてるかだな」
「へえ。やっぱり面白い」

 解説を聞いて、琴音はさらに興味津々といった顔になる。それを見て、九田は呆れたように首を振った。

「面白くないより面白いほうが、まだいいか。どのみち面白がってても、自分の糸は結べないわけだしな」


 ***

 琴音の努力が実って、丸屋は少しずつ客が入るようになってきていた。
 飯田と一緒に新メニューを考えただけでなく、コーヒー無料チケットを駅前で配布したり、チラシを新聞に折り込んだり、黒板アートの看板を店の前に置いたり、様々なことをした。
 その甲斐あって、まず近所の人が興味を持って訪れてくれるようになり、その中には週に何度か通ってくる人も現れた。
 そして、縁結びとそれにちなんだメニューを打ち出しているから女子高生を始めとした若い女性たちの集団も足を運んでくれるようになった。
 女子高生の若さゆえの眩しさに琴音が目を潤ませたことをきっかけに面白がられて親しくなり、年上のお姉さん的存在として恋愛相談もされている。
 飯田の身の上話を聞いたとき同様、琴音は人が苦労した話や切ない話を聞くと涙腺が刺激されるのか盛大に泣き出す。その情緒不安定な様子を九田はドン引きした目で見ているけれど、話した本人や周囲の人たちは親身に聞いてくれていると感じるようだ。
 飯田が「琴音さんに聞いてもらうと人生うまくいく」などと客の誰かに言ったこともあり、女子高生を中心に琴音に自分の話をして泣かせるのが流行っている。
 ちなみに、飯田や親しくなった客たちが琴音を名字で呼ばないのは、「バツイチの初一(はついち)琴音です」という笑えない自己紹介をかましたからだ。
 琴音としては、九田に散々いじられているから予防線のつもりで言ったのだけれど、いじろうなどと思っていない人間たちにはただ驚愕だった。みんな触れてはならぬと申し合わせたいように「琴音さん」と呼ぶようになった。

 そんなふうに常連と呼べそうな人たちができて、店らしく営業できるようになったある日のこと。
 いかにも観光客という男女が店を訪れた。

「ねえ、ここ縁結びにちなんだメニューがあるんだってぇ」
「へえ、いいね」

 琴音の「いらっしゃいませ」には一切反応せず、その男女は空いている席に向かっていった。
 別にレストランではないのだから「空いているお好きな席へ」というスタンスではあるものの、この反応は少し感じが悪いと言えるだろう。でも、琴音が気になったのは別のことだった。

「結びロールキャベツと結びオムライス、食後に結びクッキーセットひとつです」
「おお! カップルのお客様でがっつり縁結びメニューのオーダーだ! これは、特別なサービスの発動ですか?」

 キッチンにオーダーを伝えると、飯田のテンションが上がった。
 飯田には赤い糸のこともクダギツネのことも当然話していないけれど、縁結びを求めて来たお客さんには何か特別なことをしたいと濁して伝えてある。
 今のところ具体的に「縁結びありますか」などと聞いてくるお客さんがいないため実施したことはないけれど、これはという人が来ればクダギツネに伝えようと考えているのだ。

「メイドカフェでオムライスに魔法かけるみたいに、何かありがたいことをしちゃう感じですかー?」

 琴音の考案していることに興味津々な飯田はノリノリで尋ねるものの、琴音は渋い顔で首を振った。

「あの人たちはだめです。縁、結んじゃ。不倫カップルだから」

 楽しそうに談笑するカップルを見て、琴音はこっそり嫌な顔をした。男性の小指から伸びる糸は緩くリボン結びされているのに、そこに女性の小指から伸びる糸がくるくる巻きついているのだ。男性はアラサーくらい、女性は女子大生くらいに見える。年齢差のあるカップルに見えなくもないけれど、この糸の状態を見れば健全な関係でないのは明白だった。
 
「え? どうしてそんなことわかるんですか?」
「あの二人、指輪がお揃いじゃないんです。男性がつけてるのはあるブランドのブライダルリングなのに対して、女性がつけてるのは同じブランドのカジュアルラインのもの。つまり、ペアリングをつけてるわけじゃないってことですね。男性は奥さんとペアのものをそのままつけてて、女性のほうはおそらく男性に贈られたものをつけてるんでしょ。……あくまで推測ですけど」
「おお……」

 糸のことを話せない代わりに、琴音は注文を取る間に気づいたことを話した。店に入ってきたときから感じていた違和感を裏づけるために観察して気づいたことなのだけれど、飯田はそれで納得したらしい。調理に取りかかる前にちらっと店内を見てから、納得するように頷いていた。

「でも不倫って、純愛っぽくないですか? 道ならぬ恋っていうか」
「は?」
「いや、だって、いけないってわかっててもそれでも互いを求め合うって純粋な感じするじゃないですかー」

 できあがった料理を手に琴音のところへやってきながら、飯田が無邪気に言った。その瞬間、琴音のまとう空気が凍りついた。
 飯田は琴音が離婚経験者と知っていても、離婚の理由が夫の浮気によるものだとは知らない。だから仕方がない面はあるにしても、倫理的に問題のある考え方だ。離婚前から不倫や浮気というものを嫌悪している琴音にとっては、聞き流せないセリフだった。

「……じゃあ、サッカーの試合でボールを手で運んでゴールした人は純粋なんですか? そうまでして勝ちたかったんだ、勝ちたい気持ちがそれほどまでに純粋だったって言います? 言わないでしょ? 不倫は不倫、ルール違反はルール違反なんですよ!」

 静かに怒りをたぎらせて吐き捨ててから、琴音はできあがった料理を提供しにいった。
 そのときの琴音の顔や醸し出す雰囲気に気圧された飯田が「般若だ……」と呟いたのも、それを聞いた九田が「あれは般若になる前の生成(なまなり)だ。でも、罪や悪徳を美化しないあの人の姿勢には俺も賛成だな」と言って飯田を暗にたしなめたのも、琴音の耳には届いていなかった。


 そんな感じで客が来るようになっても縁結びにつながらない日々を過ごしていたある日のこと。
 
「あの……ここって縁結びをしてもらえるって、本当ですか?」

 これまでのお客さんとは少し雰囲気の異なる、若い女性が丸屋を訪れた。

「好きな人との仲を取り持ってもらいたいんです」

 三つ編みの似合う高校生くらいに見えるその女の子は、恥ずかしそうに、でも目に決意を込めてそう言った。
「縁結び、ありますよ。まずはお好きなお席へどうぞ」

 琴音は「ついに来た!」という喜びを抑えて、その三つ編み少女に座るよう促した。少女は少し落ち着かない様子で店内を見回してから、奥まった席へと歩いていった。この時間帯はちょうど客が引けていて、席は選り取り見取りだった。

「ここ、喫茶店になったんですね。おばあちゃんから聞いた縁結び屋さん、小物屋さんだったはずなんですけど……」
「そうみたいですね。今の店主の代になってから喫茶店らしいです」

 少女の言葉を聞いて、不安そうにしていたのはそういうわけだったのかと納得した。
 それから少女はそわそわとメニューを眺めてから、クッキーと紅茶のセットを注文した。
 喫茶店というものにきっと慣れていないのだろう。注文してからも少女はキョロキョロしたり、またメニューを開いたりしていた。それを琴音と飯田は微笑ましく見守り、いつもより少しだけ丁寧に紅茶を淹れ、クッキーを焼いた。

「おばあちゃんに話を聞いたときは冗談みたいだなって思ってたんですけど、同じ学校の子たちがここの話をしてて、『琴音さんに話したらいろいろうまくいく』って言ってるのを聞いて本当なのかもって思ったんです。……店員さんが、琴音さんですか?」

 クッキーと紅茶を運んでいくと、三つ編みの少女が勢い込んだように言った。きっと、注文したものが運ばれてくるまでの間、何と言って琴音に声をかけようか考えていたのだろう。

(まだ誰の縁も結んでないのにな……同じ学校の子たちとやらは、一体どんな話をしたんだろ?)

 若干噂がひとり歩きして自分の存在が妖怪じみてきていることが気になったけれど、琴音は笑って頷いた。

「そうですよ。私が琴音です」
「よかった! ……じゃあ、琴音さんに聞いてもらわなきゃいけないんですよね? その、恋バナというか、好きな人のことを」

 三つ編み少女は琴音が噂の人物だとわかってほっとしつつも、恥ずかしそうにもじもじした。
 この店に来て自分のことを話すのが楽しい子もいれば、やはりこうして恥じらう子もいるのだなとわかる。琴音も自分が高校生の頃はこの少女のようだったなと思って、ちょっぴり親近感がわいた。

「そうですね。話してもらったほうがご縁が結びやすいですね」

 琴音はちらっとカウンターのほうを振り返り、そこにいる九田とクダギツネたちを見た。九田は相変わらず寝ているのか起きているのかわからない状態でそこにおり、クダたちは古道具屋で買ってやった可愛くないイタチの置き物に寄り添ってこちらを見ていた。
 だから琴音はさりげなくその置き物を手に取り、クダたちを引き連れて少女のいるテーブルに戻った。

「えっとですね……このイタチは店の守り神みたいなものなので、この子に聞かせるつもりで話してもらっていいですか?」
「は、はい。わかりました」

 琴音はテーブルに置き物を置いてから言った。琴音をじっと見ていいのかどこを見ればいいのかわからない様子だった少女は、少し驚きつつも置き物に目をやった。それをクダギツネたちが見つめ返す。
 これなら三つ編み少女の緊張もやわらぐし、クダギツネも縁結びの対象として少女を認識することができるだろう。咄嗟の思いつきだったけれど、どうやらよかったらしい。

「私の好きな人は、私よりひとつ歳上で幼馴染なんです。家が近くて、小さいときからずっと仲良しで……でも、好きになったのは今から十年くらい前なんです」

 少女ははにかみながら、ポツポツと自分のことを話し始めた。

「私、ものすごく髪の毛がやわらかくてスルスルしてるので、結ったりしてもあまり長持ちしないんです。そのせいで毎朝お母さんを苦労させてて。でもあるとき、どこかにお呼ばれすることになってて、お母さんが張り切って可愛い髪型にしてくれて、夕方になってその用事が終わってからも髪型が保ったままだったから、公園に遊びに行ったんです。仲のいい子たちに、いつもより可愛い格好をしてるのを見せたくて」
「わかる。新しい服とか靴とか買ってもらったら、誰かに見てもらいたいもんね」

 大人になってからも存在するそのわくわくした気持ちに、琴音は共感した。子供の頃はきれいな服を着たり髪型を可愛くしてもらったりするだけで、お姫様にでもなった気分がしたものだ。

「でも、当然といえば当然なんですけど、遊んでるうちに髪の毛はぐちゃぐちゃになっちゃって、それで私、泣いてしまったんです。そしたらいつも一緒に遊ぶ男の子のひとりが私のことをなだめつつ、慣れない手つきで何とか三つ編みにしてくれたんです。それで『さっきの髪も可愛かったけど、これもなかなか可愛いからもう泣くなよ』って言ってくれたんです。……その男の子が、好きな人なんですけど」
「わー! そのときからずっと好きなの? 可愛い! すごいねえ、一途だねえ。可愛いー!」

 琴音は三つ編み少女のピュアさを前に感涙していた。自分がとっくに捨て去ったか失ったかしてしまったその純粋さに、拝まんばかりに感動しているのだ。
 少女は琴音に感激され褒められ、照れて頬を赤くした。でも、気合いを入れ直したかのように表情を引き締めて首を振る。

「でも、一途なだけじゃだめなんです。ずっと好きで、仲良しで、そばにいたくて彼と同じ高校に入学したけど、全然そこから進展しないんです。ずっと幼馴染のまま、妹みたいな存在のままで……。そんなんじゃだめだと思って今年のバレンタインは思いきって誰の目にもわかる本命チョコをあげたんですけど、たぶん伝わってません。好きって言ったのに、『ありがとう。僕もだよ』ってにっこりして言われちゃったんで……」

 そのときのことを思い出したのだろう。三つ編み少女は目に見えて落ち込んでいる。心なしか、三つ編みも元気がないように見える。

「でも、バレンタインにあげたんだったら、ホワイトデーに期待できない……? もしくは、そのときにもう一回ちゃんと告白してみるとか?」

 何かなぐさめの言葉をと思って琴音がそう口にするも、少女はまたも首を振る。

「ホワイトデーじゃ、三月十四日じゃ、だめなんです。三月に入ってすぐ卒業式があって、その数日後に大学の合格発表だから。彼はきっと合格するから、そのあとはひとり暮らしの部屋探しや引っ越しで忙しくなっちゃうと思うんです。だから、その前に……」
「好きな人、受験生なんだね。……そっか」

 琴音は自分が高校三年生だった頃のことを振り返り、確かに大変だったなと思い出した。合格してからの解放感に浸る間もなく、忙しなく部屋探しと引っ越しに追われるのだ。……たぶん、ホワイトデーどころではない。

「頑張って勉強して彼と同じ大学に入るつもりではいます。でもその前に、離れる前に、きっかけがほしいんです。それでだめなら……あきらめられるので」

 少女はそう言ってから、思いつめるようにうつむいた。そして、そっと三つ編みの毛先を撫でる。
 十年間、好きな人が「可愛い」と言ってくれた髪型を続けているのだ。それはきっと祈りであり願かけであり、決意なのだろう。それに思いの強さを感じて、琴音は彼女の恋を応援してあげたいと思った。
 何より、想い人のほうも彼女に対して悪感情がないのは確かだろう。そうでなければ、二月十四日という入試の前期日程の前に顔を合わせてチョコを受け取ることなどしないはずだ。

「話を聞いていて、背中を押してやりたいなとは思ったよ。うまくいけばいいなとも。だが、お嬢さんには縁を結ぶ前に確認しておきたいことがある」

 いつの間にカウンターから出てきたのだろうか。九田がすぐそばまで来ていて、三つ編み少女に語りかけた。そのあまりの気配のなさに琴音は驚いたけれど、九田の顔を見ると真剣で、どうやら邪魔しに来たわけではないらしい。

「確認したいこと、ですか?」
「そう。縁結びをするのはやぶさかではないけれど、縁結びが万能ではないことを伝えておきたいんだ。結んだところで永遠の愛が保証されるわけではないし、いい関係を築ける保証もできない。それでも、縁を結びたいか?」

 九田は淡々と尋ねた。脅す意味ではなく、ありのままの事実なのだろう。
 甘く淡い恋心の前に九田の問いかけは無粋で残酷に感じられて、琴音は少しひやひやした。
 でも、三つ編み少女は九田の言葉に気持ちが挫けた様子はない。その目には、強い意思が宿ったままだ。

「わかってます。縁を結んでもらうのは、きっかけに過ぎないって。気持ちをつなぎとめられるかも自分次第だし、仲良く付き合っていけるかも二人次第だって。それでも、きっかけがほしいんです。振り向いてもらえたら、絶対に離しません!」

 少女は九田の目を見て、そうきっぱりと言い切った。頬は赤く、唇は震えている。照れと緊張が入り混じっている様子だけれど、そこに迷いは感じない。
 それが伝わったのか、九田も納得したように頷いた。

「じゃあ、お嬢さんの縁、結ばせてもらいましょうか」
「え!? 九田さん、いいんですか……?」

 三つ編み少女の縁を結んでやりたいと思っていながらも、まさか九田がそんなことを言い出すとは思っていなかったため、琴音は驚いてしまった。でも、気が変わってはいけないから余計なことは言わずにおこうと慌てて口を噤(つぐ)む。

「あの……お代は?」

 急に不安になったのだろう。三つ編み少女が九田に尋ねた。
 確かに、メニューに書いているわけでもなくどこかに明示されているわけでもないのだから、いくら払えばいいのか不安になるのも無理ないことだ。

「そうだな……恋仲になったお相手と今度ここで何か食べてくれたら、それでいいよ。今日はその注文したぶんのお代だけで」

 九田は少し考えてから、不安そうにしている少女に言った。
 三つ編み少女は一瞬きょとんとして、でも意味がわかると満面の笑みを浮かべた。

「はい! 絶対に彼とここに来ます!」


 紅茶とクッキーを楽しんでから、三つ編み少女が帰っていくのを琴音と飯田は出口まで見送った。日頃はそんなことはしないのだけれど、彼女は特別だ。期待とちょっぴりの不安を抱えて帰っていく少女を見守ってやりたかったのだ。
 クダギツネたちは少女の肩に乗ってついていってしまった。二匹は彼女の小指から伸びる糸にぶら下がり、くいっくいっと引っ張るような動作をしていた。

(何だか釣りでもしてるみたい。もしかして、あの子の好きな人を引き寄せてるとか?)

 そんなことを考えたものの、少女が遠ざかるにつれてそのうち見えなくなってしまった。

「ここの店の縁結びって、カウンセリングみたいなもんなんですか?」

 赤い糸もクダギツネも見えず、単に喫茶店で働いているつもりの飯田が不思議そうに首を傾げる。九田や琴音にとっては意味のあるものだった三つ編み少女とのやりとりも、飯田にはただの悩み相談に見えていたのだろう。

「……まあ、そんなとこだな。縁結びにしてもカウンセリングにしても、本人の気持ちが一番大切ってとこは共通だし」

 九田はしばらく考えて、何か適切な説明を探していたようだった。でも、面倒になったのかいい加減な言葉で片づけてしまった。
 それなのに飯田は「へえ。いいことしてるんですね」などと感心している。……おおらかというか何というか、騙されないか心配になる。

「九田さんが縁結びする気になってくれて、よかったです」

 飯田が厨房に戻ったのを見計らって、琴音は九田にそっと耳打ちした。
 やるときはやるのだとほっとしたのだけれど、九田はムスッとした表情になる。

「実際にやってみせていったら、あんたにもわかるかもしれないと思ってな」
「わかるって、何がですか?」
「結ぶこと自体や、誰の縁は結んで誰の縁は結ばないって選択をすることのおこがましさだよ。……縁を結ぶなんていいことじゃないし、そこに介入するなんて何様のつもりなんだって気づくときが来るさ」

 言うだけ言うと、九田はまたカウンターの向こうに戻ってしまった。
 少女の恋の後押しをしていいことをしていた気になっていたのに、九田の言葉で琴音の胸はさざなみが立つようだった。

 ***
 
 曇ったり小雨が降ったりはっきりしない天気が多い二月が駆け足で過ぎていき、春の訪れを少しずつ感じるような暖かな日が増えてきた三月のある日のこと。
 一組の初々しい男女が丸屋にやってきた。

「琴音さん、来ました!」

 おしゃれなボブヘアの女の子にそう声をかけられ、琴音は初め誰かわからなかった。
 でも、よくよく見ればその子は三つ編み少女で、嬉しそうにしているのは傍らに連れているのが件の彼だからだと理解した。

「髪、切ったんですね。よく似合ってて可愛いですよ」
「片想いが終わったので、その区切りとして。それに、これからは一年は遠距離恋愛だから、彼の周りの大学生の女の人たちに負けないように可愛く大人っぽくしてなきゃと思って」

 そう言って笑う少女は幸せそうで、好きな人の心をつなぎとめるのだという強い意思が感じられた。その横でニコニコしている彼も、とても幸せそうだ。

「あの日、このお店の帰り道にばったり彼と会って、そのときいろいろお話して、それで付き合うことになったんですよ。……縁を結んでもらったおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして。お幸せに」

 嬉しそうに言う少女に、琴音も心の底からそう返した。

(あの女の子も彼も、あんなに幸せそうなんだもの。縁結びは、いいことに決まってる)

 注文したパスタとケーキセットを仲良く分け合う二人を見て、琴音はそう思った。
 でも、そう思うからこそ、より一層九田がなぜあんなことを言ったのか気になってしまうのだった。 


 
 三月に入り、日中は暖かい日が増えたけれど、やはり朝の空気はまだキンと冷たい。
 琴音はぬくぬくとした布団の中から抜け出すことをためらいつつも、スマホのアラームを聞いた数分後に「えいっ」と起き上がった。そして冷蔵庫から昨夜の鍋の残りを取り出し、それを火にかけ、鍋の中身を温めているすきに簡単に身支度を整える。
 不意打ちの九田の襲来があるため、寝起きといえども油断ならないのだ。化粧はしないまでも、起きて活動できる姿になっていないといけない。何となく、今朝は来そうな気がする。
 九田が朝食や夕食のときにやってくるのを拒まないのは、大家であり雇い主であることもあるけれど、嫌ではないということもあった。
 まだひとりでいることが気楽ではあるものの、美味しそうに手料理を食べるのを目の当たりにするのは悪い気はしない。

「はいはーい」

 煮立った鍋にカレーのルゥを投入していると、予想していたとおりインターホンが鳴らされた。ドアスコープで九田の姿を確認してドアを開けるや否や、彼は俊敏な動きで家の中に入ってきた。

「寒かったー。春はまだ遠いな」
「いくらかましになったでしょ」
「……いい匂いがする。朝からカレーか」
「残り物のアレンジですけど」

 着流しに半纏という残念な和風スタイルで震える九田は、キッチンに満ちるカレーの匂いに反応した。

「昨日、カレーだったのか? そういうときは呼んでくれよ。カレー、ひとりで食べるなよ」
「昨日は水炊きでしたよ。水炊きの残りをカレーアレンジです」

 琴音はできあがったものを器に盛りつけ、食卓に並べる。九田のぶんの白米は冷凍庫で保存してあったものを解凍して出した。

「これはもとは水炊きだったのか……? って、鍋ならなおさら呼んでくれよ。鍋なんて、ひとりで食べるもんじゃないだろ」

 出汁の香りが立ち上るカレーに心惹かれつつも、九田は昨夜の夕食に呼ばれなかったことに文句を言った。鍋が食べたかったからか、鍋をひとりで食べたからか、怒っている理由がわからない琴音は首を傾げる。

「この世にひとりで食べちゃだめなものなんてありませんよ。おひとり様バンザイです。……結婚してた頃は夫に取り分けてあげなきゃとか、この野菜は嫌がるから入れられないなとか、そんなことを考えるのが面倒だったなって、ひとりになってしみじみ思ったんですよ」
「……あんたの元夫、赤ちゃんかよ」
「ねー? だから、ひとり鍋は好きなように好きなものを食べられて最高ですよ」
「まあ……言わんとすることはわからなくもないが」

 琴音のやさぐれスイッチを押してしまったのに気づいて、九田はそれ以上なにも言わず、目の前のカレーに集中した。
 昆布出汁と鶏ガラの合わさったスープのカレーは、控えめでありながら上品なコクを感じるものに仕上がっている。一般的なカレーの中には入っていない白菜や大根が入っているから、それもまた意外な美味しさにつながっている。

「和風出汁のカレー、うまいな。こうやって白米にかけるのもうまいが、うどんにかけたらもっとうまそうだな」

 きれいな所作でカレーを食す九田が、しみじみと言った。日頃は無表情だったりむっすりとしていたりな九田も、美味しいものを食べているときは機嫌のよさそうな顔をする。

「じゃあ、今度水炊きにした次の日にはそうしましょうかね」
「次の水炊きには呼んでくれよ」
「縁があればですねー」

 九田と鍋を食べるのが嫌なわけではないのだけれど、まだ誰かと鍋を囲みたい気分ではないから、琴音は曖昧な返事を返しておく。それに、九田と食べてしまうとひとり鍋否定派に寝返ってしまった気もするから、もうしばらくはひとりで食べたいと思ったのだ。

(そういえば、この前初めて縁を結んだわけだけど、あとどれくらい結べばいいんだろ? それに、クダギツネが縁結びの良さを伝えたい“ヨリヒト”って、誰なの?)

 不意にそんなことを考えたものの、機嫌がよさそうな九田に尋ねるのも何となくはばかられた。
 けれど、それを知る機会は唐突に訪れた。

 ***

「ヨリヒトちゃーん」

 その日の夕方、昼過ぎからいた客が引けた頃に、騒々しく丸屋のドアが開いた。入ってきたのは、女優帽にサングラス、トレンチコートを身に着けた派手な長身の女性だった。
 その女性はカウンターに向かってヒラヒラ手を振ってから、勝手知ったるというように奥の席までヒールを鳴らしながら歩いていった。

「……何で来たんだよ」

 カウンターの奥で置き物のようにじっとしていた九田が、その女性の来店に気づいてくわっと目を開けた。迷惑そうな顔をしている。どうやら、知り合いらしい。

「何でって、ヨリヒトちゃん冷たーい。今日はここでお客と待ち合わせなのよ」
「その呼び方やめろ。あと、待ち合わせならもっとメジャーな店でやれ」
「ヨリヒトちゃんはヨリヒトちゃんでしょ。あと、流行ってない店だから安心して使えるんじゃない」
「黙れ栄太郎」
「その捨てた名で呼ぶなー! あたしの名は栄子だ!」

 派手な女性が九田と言い合っていたかと思ったのに、九田に言い返す声は低くドスのきいた男のものになっていた。

(え? ヨリヒトって九田さんのこと? あの人、女性かと思ったら男性……!?)

 わりの重要なことを知れたはずなのに、それよりも女性がどうやら男性だとわかって琴音は混乱していた。どういうことなのかと九田を見つめると、面倒くさそうに首を振られた。

「こいつは栄太郎、縁切り屋だ。適当に何か飲み物を出してやってくれ」
「どうも、栄子でーす。レディグレイある? ミルクと一緒にお願いねぇ」

 捨てた名で紹介されたことには触れず、栄子は琴音にひらひらと手を振った。琴音は混乱しつつも、言われるがまま紅茶を淹れに厨房へ戻る。

「琴音さん、何か強烈なの来たの?」

 明日の仕込みをしていた飯田が、コソッと耳打ちしてきた。あれだけ野太い声で叫んでいたのだ。厨房まで聞こえていたのだろう。

「縁切り屋さんで、栄子さんっていうらしいです」
「縁切り屋? それって別れさせ屋みたいなものですか?」
「わかんないけど、ここでお客さんと待ち合わせなんだって」

 飯田に説明しながら、丁寧に紅茶を淹れていく。白地に青い花柄のカップにそれを注いで、ミルクピッチャーと共にトレイに乗せて運ぶ。

「お待たせいたしました」
「待って待って。お客が来るまで時間があるから、おしゃべりしましょ」

 紅茶を運んですぐに立ち去ろうとしたのに、栄子は琴音の手を掴んで向かいの椅子に座らせてしまった。

「店員さん、お名前何ていうの?」
「初一琴音です」
「琴音ちゃんね。琴音ちゃんはヨリヒトちゃんのお嫁さん? 彼女ー?」
「お、お嫁さんでも彼女でもないです。ただの店員です」
「わかってるわよ。ヨリヒトちゃんと赤い糸でつながってないのはバッチリ確認済みよん」

 栄子は琴音をからかいたかっただけらしく、焦ったのを見て笑っている。いい年して誰かの嫁だ彼女だとからかわれただけで焦ってしまったことに、琴音は恥ずかしくなった。

「そういえば、九田さんはヨリヒトって名前なんですね」
「そうよー。縁に人って書いて縁人(よりひと)っていうの。縁結びに相応しい名前よね」

 栄子さんはそう言ってケラケラ笑う。おそらく、そう言われるのを九田が嫌がるのを知ってのことに違いない。

「あの、縁切り屋ってどんな感じのことをするんですか?」

 縁結びについてもまだ完全にわかったわけではないから、その耳なじみのない言葉に琴音は戸惑っていた。それに、その言葉が持つ物騒な言葉の響きにも、何となく落ち着かない気持ちになる。

「あらん。このお店で働くのなら、結ぶこととセットで切ることも知っておかなくちゃ。縁切り屋は文字通り、人の縁を切るのを生業としてるの。この子たちを使ってね」

 栄子がパチンと指を鳴らすと、テーブルの上に小さなつむじ風が起きた。そしてそこに、三匹のイタチが現れる。

「イタチ!?」
「そう。カマイタチよ」
「でも、カマイタチって人に怪我をさせるものなんじゃないんですか?」

 琴音はあまり妖怪について詳しくないけれど、カマイタチについては少しだけ知っていた。確か、突風が吹いたあとに怪我をしているのに血が出ていないという状態のことを、「カマイタチにやられた」などと言うのではなかっただろうか。

「そうよー。一般的にカマイタチといえば、つむじ風に乗って現れて人を斬りつける妖怪のことね。倒れさせるもの、切りつけるもの、薬をつけるものの三匹いるの」
「……だから出血がないんだ」
「うちの家はいつの頃からかこのカマイタチを使役して縁切りをしてるってわけ。結んでやらなきゃならない縁があるなら、切ってやらなきゃならない縁もあるからね」
「切らなきゃならない縁……」

 栄子の説明に合わせるようにして、イタチ三匹はかっこいいポーズをとってみせた。栄子同様、イタチも仕事に誇りを持っているのだろう。

「琴音ちゃんさ、縁切り屋のことをちょっと物騒だとか嫌な仕事だとか思ったでしょー?」

 琴音の戸惑いを見透かしたように、栄子はカップを手に不敵な笑みを浮かべる。そこまでのことは思っていなかったにせよポジティブにとらえてもいなかったから、琴音はひかえめに頷いた。

「わかるわ。やっぱり“切る”ってのがイメージ悪いのよね。そのせいか恨まれることもある。だから、我が家は店舗をかまえず、こうやってどこかでお客と待ち合わせして仕事してんの。あたしが旅行したい気分だったら、お客が指定するところに出向くこともあるけどねー」

 大変なことだろうに、栄子はあっけらかんと言った。恨みを買うことがあるから店舗をかまえないということは、店舗をかまえると報復なり嫌がらせなりを受けるということだ。

「琴音ちゃんは優しいのね。そんな顔しなくていいのよ。あたしはこの仕事に誇りを持ってるし、誰かの幸せの後押しをしてるって思ってるから」
「自分の仕事に誇りを持てるのは、とても素敵なことですね」

 生活のためにお金を稼ぐという意味以外で働いたことがない琴音は、自信に満ちた栄子を少し羨ましく思った。
 でも、そんなふうに思う琴音に栄子は首を振る。

「ま、いつもいつも誇りを持って向き合える依頼ばかりじゃないけどねぇ。今日の依頼なんて控えめに言ってもクソオブクソよ。『なぁ〜んでこんな仕事しなくちゃいけないんだろ』って思うことがあるんだけど、今回の仕事はまさにそれね」

 よほど憂鬱な依頼なのだろう。栄子は鼻の頭に皺を寄せ、嫌だという気持ちを激しく表現した。
 一体どんな人からの依頼なのかと琴音が考えたとき、来客を告げるドアベルが鳴った。

「……ダサい店」

 控えめに吐き捨てたのだろうけれど、入ってきた人物が発したその声は静かな店内に響いた。
 琴音は驚いてそのお客さんを注視して、そしてさらに驚愕する。
 キャスケットを目深に被り地味な色の上着を着て、あきらかに人目を忍んでやってきた様子のその人物は、琴音の元夫の不倫相手だったのだ。
 入ってきた客が元夫の不倫相手・横井裕香だとわかった瞬間、琴音は反射的に席を立ってカウンターの内側に身を隠してしまった。眠っていたらしい九田はそれにギョッとしたけれど、入ってきた裕香がそれに気づいた様子はない。

「あなたが縁切り屋?」
「ええ、そうよ。あたしが縁切り屋の桐島栄子よ」
「何でこんな遠いところを指定するんですか? 新幹線と電車とバスを乗り継がなきゃならないなんて、ありえないでしょ」
「でも、そんな遠路はるばるやってくるほど、縁切りが必要だったってことでしょ? それなら、仕方ないじゃない」

 席について早々文句を言う裕香に、栄子は飄々と返す。先ほどあらわにした嫌悪感はすっかり押し隠し、わりと感じよく接しているあたり、さすがプロといったところだ。

「それじゃ、縁切りの前にもう一度以来の内容を確認させてもらうわね。不倫相手と縁を切りたいのよね?」
「そうです。私との不倫がバレて離婚した途端、ものすごく執着され始めて……気楽な関係がいい、遊びがちょうどいいなんて言ってたくせに。そういうダサいの、無理なんで切りたいんです」

 憎々しげに吐き捨てる裕香の言葉を聞いて、琴音の心臓はキュッと締めつけられた。不倫がバレて離婚したというのは、琴音と元夫――葛原博行のことに違いない。

「ダサいって、離婚したんだったら万々歳じゃない? 無事に奪えたんだから、ありがたくもらっときゃいいじゃない。不倫って、略奪したくてするんじゃないの?」
「私のはそういうんじゃないんで。むしろ、帰る家がある男だから楽っていうか。だって世話してやんなきゃいけないのとか絶対嫌だし。それなのに離婚した途端あの人、何か服装がだらしなくなってダサくなっちゃって」
「あー、なるほどぉ。奥さんにアイロンがけとかクリーニングとか任せきりのタイプだったんだ。それで離婚したあと身なりがだらしなくなったんだ。そりゃダサいわ」

 容赦なくこき下ろす裕香の言葉に、栄子も呆れたように笑って同意した。悪く言われているのは琴音のことではなく博行のことなのに、聞いていると気分が悪くなってくる。
 それに、裕香の悪態は博行のことだけに留まらなかった。

「離婚してそんなふうになっちゃう男もダサくて嫌なんですけど、自分の夫とか彼氏をそんなふうにダメにする女が大っ嫌いなんですよね。手料理至上主義で家事とか無駄に頑張っちゃって、自分のことをイイ女だとか勘違いしてんの。イイ女なわけないのに。だからダンナが浮気するんじゃんっていう。結局、私と付き合っていきいきして仕事頑張れてんのなら、それって実質私のおかげでしょ? 私のほうがイイ女だから私を選んだのに、それがわかってないのが本当にダサくて嫌」

 反吐が出るとでも言いたげに、裕香は吐き捨てる。その言葉は、琴音に向けられたものに違いない。彼女は琴音がここにいることには気づいていないけれど、これは確実に琴音についての悪口だとわかる。

「まあ、言いたいことはわかるわよ。結局、そういう尽くす系の女性って自分のためにやってることを相手のためって思い込んで押しつけたりしがちなところがあるものね」
「そうそう。買えばいいものをわざわざ作ったりとかね。お菓子なんてパティシエに任せとけばいいのに手作りする女ってキモくないですか? だから私、アップルパイ捨ててやったことありますよ。ま、その現場を押さえられて離婚することになっちゃったんですけど」

 キャハハとさも楽しいことのように笑いながら裕香は言った。彼女にとっては不倫がバレたときの修羅場すら、こうして人に語って聞かせる武勇伝にすぎないのだろう。
 裕香は、帰宅した琴音にアップルパイを捨てようとした現場を見咎められたときですら、悪びれもせず「いらないって言われたから捨てといてあげようと思って」などと笑って、目の前でゴミ箱に投げ入れるような女だ。善悪の基準は、おそらく一般的な人とは異なっているのだろう。

「……あんた、ずいぶん派手にやってんのね」
「次からはもうそんなヘマしないから大丈夫です。『絶対帰ってくるの遅いから』なんて言葉を信じて家に上がったのがまずかったんですよ。ホテル代を浮かせようとする男とはもう付き合わないから平気平気」

 栄子の声にあきれがにじんでいるのにも気づかず、しゃあしゃあと裕香は答える。
 カウンターの内側にいても、琴音には彼女がどんな顔で話しているのか想像できた。それだけに、ドロドロしたものがこみ上げてくるのを抑えるのが大変だ。

「それじゃあ、縁を切るとしましょうかね」

 もう十分話を聞いたからか、流れを変えるように栄子が言った。
 ようやくこの地獄のような時間が終わると琴音がほっとしたのも束の間、話の流れだけでなくその場の空気が変わった。

「――で、どの縁を切ればいいわけ?」
「え?」
「あんた、今までに相当悪さしてきたでしょ? 同時進行で遊びまくったりもしてるみたいだし。そのせいでぐちゃぐちゃになってて、どれを切ったらいいのかわかんないわぁ。ひとつの縁を三万五千円で切るって話だから、いち、に、さん、よん……三十万円いただければ全部処理できるかしらねぇ」

 高笑いするのは今度は栄子の番だった。
 栄子が黙って裕香の不愉快な話を聞いていたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。

「……ちょっと、どういうことですか? 三万五千円で縁切りしてくれるって言うから、わざわざ旅費をかけてここまで来たのに!」
「だから、あんたに関わる諸々の余計な縁を切るには三十万円くらいかかるわよって言ってるのよ。切らなくていいなら、あたしは全然かまわないけど」
「ふざけないでよ! 切らなきゃ困るからここまで来てんのよ!」

 提示されていた金額よりはるかに高いことに、裕香はかなり取り乱していた。琴音はどんな顔をしているのだろうと気になってカウンターから目だけ覗かせて、見えた裕香の小指から伸びる糸にギョッとした。
 店に入ってきたときは気がつかなったけれど、裕香の小指の糸はぐちゃぐちゃだった。九田のように単独で絡まっているのとは違い、ほうぼうから伸びている糸が巻きついたり硬く玉結びのようになっていたりするのだ。これが裁縫用の糸なら、ほどくことはあきらめて新しいものを使うだろう。

「テキトーでいいから切ってよ! じゃなきゃ何のためにここまで来たのかわかんない!」
「テキトー? じゃあ、ジャキンっていくけどいいの?」
「いい! 早くして!」

 裕香が苛立つように叫んだのを聞いて、栄子はパチンと指を鳴らした。それに応えるように小さなつむじ風が起こり、現れたイタチの一匹が鎌をふるった。
 すると、裕香の小指から伸びていた糸が、手強く絡まっていた部分も含めて根元からすっぱり切れていた。

「……終わったの?」

 糸もイタチも見えていない裕香でも、つむじ風が起こったのは感じたのだろう。不安そうに、落ち着かない様子で栄子に尋ねた。

「終わったわよ」
「……じゃあ、これで」

 財布から取り出したお札を数枚テーブルに叩きつけるようにして、裕香が店を出ていった。
 あとに残された栄子はそのお札を数え、イタチたちはなぜか琴音のいるカウンターに駆けてきた。

「な、なに……?」

 イタチの一匹は琴音の右手を押さえ、鎌を持ったイタチはそれを虚空にふるい、残りのイタチはポンと琴音の頭を撫でて去っていった。

「琴音ちゃんの指から伸びてた黒い糸、切っておいたからね」
「黒い糸?」
「そう。糸にはいろんな色があるのよ。黒は恨みや憎しみの色。あの女に向かって伸びてた糸、切っておいたからね。もう、忘れちゃいなさい。恨んでたってあんたが幸せになれるわけじゃないし、あの女はこれから勝手に不幸になっていくから放っておいたらいいわ」

 栄子は席を立ち、つかつかと琴音のいるカウンターまでやってきた。上から覗き込まれているとわかるけれど、自分が今ひどい顔をしているとわかっているから、琴音は立ち上がることも顔を上げることまできなかった。

「……あの人が言っていたこと、私のことだってわかったんですか?」
「わかったっていうか、あたしには糸が見えてるし。琴音ちゃんが被害者のひとりだってのは話を聞く前に気づいたわ。ていうか、縁って怖いわね。今回この店にあの女を呼び寄せたのは琴音ちゃんよ」
「え……」
「恨みの念ってすごいのね。せっかくだから、あの女から慰謝料をふんだくる? 名前も勤め先もメアドも知ってるし、不倫してたって言質もとれてる。いい弁護士も紹介するわ。すっぱり忘れる前に取れるもの取っちゃいましょー」
「……」

 意気揚々と栄子に問われ、琴音はすぐに言葉を返せなかった。
 裕香に対して恨みがないと言えば嘘になる。恨んでいるし憎んでいる。この世からいなくなってほしいとまでは思わないまでも、琴音が苦しんだぶんの何分の一かくらいは苦しんでほしいとは思う。
 でもそれは、結婚生活を続けていればの話だ。
 博行との結婚が続いていれば、琴音は裕香への恨みと博行への不信感に苦しみ続けただろう。それが無理で、離婚したのだ。恨みと不信感にジリジリ焼かれるように暮らすことは、琴音にはできなかった。

「いいです。慰謝料なら、もうたっぷりもらいましたから。一円も支払いたくないっていう元夫をひっぱたいて向こうの両親が支払ってくれたんです。だから、お金はもういいです」
「あらん。お金はいくらあってもいいし、苦しめるためにお金くらいむしりとってやろうって言ってるのに。ま、放っておいても破滅するけどね。パパ活で得たコネで入った会社はクビになるし、ちょこちょこ生活を援助してくれてた男たちともみんな縁が切れちゃったし、これから男を引っかけようにも小指の糸は超短いし。……あとは、色恋が絡まない人間関係をあの女がどれだけ築けてるかよねー。誰か助けてくれるといいわねー」

 琴音に訴える気がないとわかると、栄子は興味を失ったらしく、お札を一枚テーブルに置いて店を出ていってしまった。五千円札だ。紅茶代としては多すぎるから、場所代ということだろうか。

「あんた……大丈夫か?」

 テーブルの上を片づけようとしていたところ、九田に声をかけられた。そのときになって琴音はそこに九田がいたことを思い出した。

「えっと……大丈夫ですよ?」
「大丈夫じゃないだろ! 泣いてる! ……おい、飯田! 塩持ってこい!」

 九田に指摘されて気づいたけれど、琴音は泣いていた。気づいた途端、涙はポロポロ溢れ出る。それを見た九田はオロオロし、厨房に向かって叫んだあと、カウンターから飛び出していってドアを素早く開け閉めした。どうやら「open」の札を「close」にしてきたらしい。

「九田さん、塩って何に……って琴音さん、泣いてる!? 九田さんがいじめたんすか!?」

 塩の入った容器を抱えて厨房から出てきた飯田が、琴音を見てギョッとした。

「俺がいじめたんじゃない! クソ不倫女のせいで嫌なことを思い出して泣いてたんだ。泣かせといてやれ。そんなことより塩だ、塩! あばずれは外ー!」

 九田は飯田から容器を奪うと、塩を掴んで思いきり投げ始めた。わけはわかっていないようだけれど、飯田も一緒になってやっていた。だから、かけ声のおかしい豆まきみたいだ。
 自分でも制御できない涙を流していた琴音は、その光景を見ておかしくなって笑ってしまった。いつも眠たげな九田が不届き者に怒り、自分の涙にうろたえ、場を清めようと塩をまいてくれているのだ。嬉しいのか何なのかわからない感情が湧き上がってきて、それが涙を笑いに変えていた。

「……何を笑ってるんだ? まだ泣いてていいんだぞ。我慢するな。ほら、もっと泣け」

 琴音が笑いだしたのに気づいた九田が、また戸惑うように言う。何をそんなにオロオロしているのだろうとおかしくなって、琴音はさらに笑った。

「もう、大丈夫です。九田さんと飯田さんが塩をまいているのがおかしくて、それを見てたら元気が出ました」
「そ、そうか。それなら、よかった」

 琴音が本当に笑っているのがわかったのか、九田はあからさまに安堵した顔になる。

「それじゃあ、食事に行くか。今日の売上げ、全部持っていくぞ」
「やった! 肉! 焼き肉がいいです!」
「お前に聞いてない! 何がいい?」

 はしゃぐ飯田を黙らせ、九田が琴音に尋ねる。
 これは自分が答えなければ収集がつかないだろうと思い、琴音は少し考えた。食事どころではない気がするけれど、食欲不振になるのも何だか癪だ。

「それなら、お鍋が食べたいです。春が来る前に、あったかいものを食べ納めしておきたいです」
「よし、わかった。すき焼きに行くぞ、すき焼き」
「やったー! 肉だー!」

 大喜びする飯田を先頭に、三人は店を出た。
 あのままいつもと同じように仕事を終えて帰宅していたら、きっと何も食べる気力などなかっただろう。
 でも今は、九田がどんなところに連れていってくれるのか楽しみな気持ちになっている。そのことを自覚して、琴音はホッとした。

 三人で店を出たあとタクシーに乗って九田が連れてきてくれたのは、肉料理の専門店だった。
 赤い暖簾に屋号と牛の絵が白く染め抜かれている、こぢんまりとした店だ。

「こんな店があったんですね。へえ、しゃぶしゃぶも焼き肉もあるのか」
「二人とも丸屋の周辺しか歩かんから知らんだろうが、ここいらじゃ人気の店だ。町のオヤジ共の会合や何かの祝い事はよくここで開かれてる」

 店に入って肉々しいメニューに感激している飯田に、九田はどこか誇らしげに答える。これまでの人生で入ったことのないタイプの店で、琴音も飯田ほどではないけれどわくわくしていた。

「そういえば琴音さんって、埼玉に嫁いでたんですよね? 向こうの人と結婚してたってことは、すき焼きは関東風のやつを作ってたんですか?」

 注文してから待つ間、メニューを眺めていた飯田がふと気がついたように尋ねてきた。

「そうですよ。お肉を焼いて、ネギを焼いて、割り下を入れてひたひたにして、あとはお野菜を煮ていく感じです」
「聞いてはいたけど、全然違いますね。こっちは肉を焼いて砂糖をたっぷりまぶして、醤油を入れて、あとは水気の出やすい野菜って感じですもんね」
「そうそう。調理方法の違いにも慣れるまで戸惑ったんですけど、何より困ったのは味つけの違いですね。初めてすき焼きを作ったときも『こんな甘いの食べられない!』って言われちゃって……煮物とかに甘みがあるのも信じられないって言われました」

 故郷を離れて生活するときに新しい土地の食べ物が口に合わず苦労するという話はよく聞く話だけれど、結婚相手と味の好みが合わないというのもよくあることだし、つらいことだ。
 丸屋があるこの町も琴音が育った場所も、醤油が甘い地域だ。その上、砂糖をたっぷり使った甘い料理が多いため、そういった味つけに不慣れな人には戸惑われることもしばしばある。
 ようは味の好みの問題なのだけれど、“甘いしょうゆ=ゲテモノ”くらいの拒絶反応を示す人もいるのだ。

「人の好みをとやかく言うつもりはないが、妻の作ってくれた料理を食えないだなんだとぬかす赤ちゃん男とは別れて正解だったと思うぞ。――お、来た来た」

 九田は琴音を励まそうとしてくれてたのか、いいことを言おうとしたのかわからないけれど、注文していた鍋が運ばれてくると意識をそちらに移してしまった。
 
「うまそー。いただきまーす!」
「飯田くん、肉から食うなよ」
「えー? すき焼きと言えば肉でしょ。琴音さんは豆腐から食べるんですね」
「俺はまずネギだ」

 飯田も九田もやいやい言いながら鍋に箸を伸ばしていく。琴音は最初に何を食べるかというこだわりはなかったものの、入っているのが焼き豆腐ではなく厚揚げだったのが気になって食べてみた。
 揚げの部分が甘辛い汁をよく吸っていて、噛むとそれがジュワッと口の中に溢れた。中の豆腐の部分にもよく味が染みていて、噛めば噛むほどその甘辛さが広がって幸せな気分になる。
 飯田はすき焼きと言えば肉だと言っていたけれど、琴音はすき焼きの醍醐味はこの汁の味にあると思っている。だからこの甘辛い汁の中で煮られた具材を食べるのはもちろん、残った汁に白米やうどんを入れて食べるのが好きなのだ。

「すき焼きって、幸せを噛み締められるメニューですよね」
「肉だし、甘くてうまいですもんね。幸せホルモンであるセトロニンがダバダバ出る食べ物ですよ。脳内物質セトロニンを出すにはまず原料となるトリプトファン、それからセトロニンを作るための炭水化物、その合成を促すビタミンB6が必要なわけなんです。だから、とりあえず動物性たんぱく質と米と豆類を食っとけ!ってことで、すき焼きが幸せになるための最適解っしょ」
「本当かぁ? でもまあ、飯田くんは調理師だからなあ……」

 琴音の呟きに、飯田が薀蓄を披露した。琴音は「さすが料理人だ」と感心して聞いていたけれど、九田は胡散臭そうに見ていた。
 
「セトロニン云々はわかりませんけど、こうして楽しく鍋を囲むと幸せな気分になりますよね。だから、お鍋は幸せになる食べ物なのかも」

 今夜ひとりでなくてよかったなと、しみじみ思いながら琴音は言った。こうして九田たちと一緒にいなければ、きっと食事も取れていなかったし、陰鬱とした気分を引きずったままだったのは間違いない。
 それに、この食事は誰かと一緒に食べることはいいなと思い出させてくれた。

「そうだろうそうだろう。今度から鍋をするときには俺にちゃんと声をかけろよ。たまには飯田も誘えばいいし」

 琴音の心境の変化がわかったのか、九田がどこか勝ち誇った様子で言う。いわゆるドヤ顔というやつだ。勝手に押しかけてきて食べ物にありつこうとする人のセリフではないと思うものの、今夜は美味しいものをご馳走してくれるからよしとする。

「琴音さん、一人鍋とかするんですか? リッチっすね。鍋のひとりぶんって高くつきますからねー。でも、自由で素敵な楽しみ方だと思います」
「飯田さん、わかってる! そうなんですよ。ひとりぶんって何でも高くつきますけど、鍋は特にねー。“贅沢”って感じで気に入ってるんですよ。好きなものを好きなように食べられますし」
「ちょっと飯田くん! 一人鍋を肯定するなよ。俺が鍋の日に誘ってもらえなくなるだろ」

 飯田が琴音の一人鍋に共感したことで、九田が眉間に皺を寄せた。琴音が前向きになったことで食事にありつきやすくなるとでも考えていたのだろう。

「一人鍋は全然アリですけど、彼氏は作ったほうがいいんじゃないかと思いますけど。じゃないとそのうち九田さんに居座られますよ」

 九田が食事を求めて琴音の部屋を突然訪問するのを知っている飯田は、わりと真剣な顔で言う。ニヤニヤしていないのを見る限り、ひやかしたりからかったりする意図はないのだろう。

「新しい恋はしないんですか? 不倫するようなクソ男との関係が最後だなんて嫌でしょ。恋愛遍歴、更新したいでしょ」
「それは、確かにそうですけど……」

 飯田に言われ、琴音は考え込んだ。
 博行との関係に絶望して、それからのことなど考えたこともなかった。傷ついた心と自分の人生を立て直すことだけに執心していて、今後誰かを好きになることがあるなんて頭に浮かばなかった。

「そうですね……。元夫が最後の男ってのも嫌ですし『もう恋なんてしない!』なんて誓ってるわけじゃないんですけど、今はまだそんな気分になれないんですよね。脚を骨折してリハビリ中なのにバイクに乗って遠出しようとするようなもんですから。しかも私の場合、かなり複雑な骨折なのに。普通なら、まず身体を治すことに専念しろって感じでしょ」
「まあ、不倫されて離婚って、複雑骨折みたいなもんか。それに今日、その相手の不倫女と再会しちゃうなんて、折れた骨に蹴りを入れられる感じですかね」
「そうですね。それに、まだ骨がつながってないし時々痛むっていうのもあるんですけど、今のこの自由な心がいいなって思うんです。離婚してまず思ったのが、『もう嫉妬しなくてもいいんだ』だったんですよ。それまでずっとドス黒い感情に支配されていたのが、ふっと楽になったんです。誰かを好きになるって、そういう汚い感情と無関係ではいられないでしょ? だから、しばらく自由でいたいなって思うんです」

 まだ少しひりつくように痛む気がする胸を押さえて、琴音は噛みしめるみたいに言った。恋愛も恋する気持ちも否定しないけれど、まだそれが自分の人生に必要なことだとは思えないというのが本音だった。
 それが今うまく言語化できて、琴音は少しすっきりしていた。

「自由かー。自由は満喫しないとですね。だったら九田さんはどうなんですか? 何か恋バナを聞かせてくださいよ」

 琴音から色っぽい話が聞けないとわかると、飯田は今度は九田に水を向けた。それまで黙々と食べていた九田は驚いたあと、苦いものを食べたような顔になる。

「……飯田くんはおっさんの恋バナが聞きたいのか?」
「そうやって言われるとすげぇ嫌な気になるんすけど、何かないんですか?」
「何もないな。何かあると思ったか? 日がな一日寝てるんだぞ」
「……堂々と言うことじゃないでしょ。じゃあ、お見合いとかしないんすか?」
「一度そういう話があったんだが、会う前に断られてしまった」
「うわー、盛り上がらねえ。九田さんの話、盛り上がらねえー」

 九田は嫌そうにしながらも話してやったのに、飯田は容赦なく言い放つ。確かに面白みに欠けるけれど、さすがにこの言われようは気の毒だと琴音は思った。

「飯田さん、人にそういう話をしてほしがるなら、自分の話もしなきゃだめですよ」
「……何もないからせめて人の話でもって思うんですよ」

 九田だけでなく、飯田もげっそりしてしまった。今この場にいるメンバーが揃いも揃って色気がないとわかって、琴音も何だかげっそりな気分になる。

「その九田さんのお見合い予定だった人、せめて会うだけでもしてくれたらよかったんですけどね。もったいないな」

 琴音は九田を慰めようとそう言ったのに、なぜか睨まれてしまった。
 整った顔や無駄に良い声、着物が似合う細躯、そして不労所得があるそこそこの資産家でありながらそれに無頓着でギラギラしていない様子はかなり好条件だと思うし、何よりわかりにくいけれど優しい人なのがわかるから、琴音としてはお世辞やお追従ではなかったのに。

「……人と人との縁なんて、タイミングがずれりゃうまく結べないもんだ。相性や条件だけの問題じゃないんだよ」
「そ、そうですか。すみません……」

 九田の言葉は抽象的で何のことを言っているのかわからなかったけれど、とりあえず怒らせてしまったようだから琴音は謝っておいた。でも九田は何も言い返してこず、何だか悲しそうに溜息をついただけだった。

 ***

 春めいてくるにつれ水郷を訪れる観光客が増えるからか、少し離れたところにある丸屋も流れてきた客でぼちぼちにぎわった。
 琴音が働き始めてからずっと店内を賑わせてくれていた学生たちも、春休みの間は丸屋まで足を運ぶことはなくすっかり見かけなくなっていた。それが少し、琴音は寂しかった。
 売り上げのことだけで言えば、喫茶メインの学生たちも流れてきた観光客のほうがよくお金を落とすからありがたい。でも、ここが縁結びにちなんだメニューを推す店であることを知らないし重要視しない観光客よりも、口コミでそれを広げ、楽しんでくれている学生たちのほうが琴音はお気に入りなのだ。
 だから、新学期が始まってまた学生たちが放課後に立ち寄ってくれるようになったのが嬉しかった。

 その男子高校生たちが来るようになったのは、新学期の騒々しさが落ち着き始めた様子の、四月半ばのことだった。
 
「琴音さん、来たよー」

 あたたかな春の午後、カラランとドアが開き、元気な声と共に制服姿の男子たちが入ってきた。
 四月を半分すぎる頃から来るようになった三人組だ。ここの評判は気になっていたけれど一年生のうちは先輩たちの目が気になってしまい、二年に進級したから思いきって来てみたのだと言う。

「いらっしゃい。いつものお席、空いてますよ」
「やったね」

 琴音が促すと、男子三人は嬉しそうにその席に向かう。一番奥ではない、隅の席が彼らのお気に入りなのだ。

「今日は何を飲もうかなあ。あ、バナナジュースがある!」
「新メニューで始めてみたんですよ。いかがですか?」

 メニューを見て楽しそうに悩む茶髪の男子は、パッと顔を輝かせた。

「じゃあ、俺はそれにしよ」
「俺はアイスココアで」
「ブレンドをお願いします」

 茶髪の子は勧められるままバナナジュースを、黒髪のおしゃれパーマの子はココアを、眼鏡をかけた真面目くんはブレンドを注文した。見た目も好むものも異なるのに、この子たちは仲がいい。女の子のグループは仲良しだと雰囲気や好むものが似通ってくることが多いけれど、男の子はこうしててんでバラバラなのが面白いなと琴音は思った。
 注文したものを運んでいくと、茶髪くんはスマホでゲームを、パーマくんはスマホで講座の動画を見ながら勉強を、眼鏡くんは読書をしていた。眼鏡くんは持参した本を読むこともあれば、丸屋の本棚の本を手に取っていることもある。
 琴音は相変わらずせっせと古書店に通って本を仕入れているのだけれど、ほぼインテリアと化している。だから、眼鏡くんは琴音文庫の貴重な利用者のひとりというわけだ。

「今日は何読んでんの?」
「『友情』」
「武者小路実篤の?」
「そう。読んだ?」
「ううん。国語の便覧に載ってたから知ってる」

 スマホゲームに飽きたのか、茶髪くんは眼鏡くんに声をかけた。眼鏡くんは本から視線を上げないけれどきちんと返事をしているし、茶髪くんと会話を不必要に長引かせない。パーマくんはイヤホンをして集中しているから、二人が会話をしていることに頓着していない。不思議な関係だけれど、仲がいいのは伝わってくる。

「うちはいつからマックになったんだ。そのうちテスト勉強に使われだすぞ。図書館に行け、図書館に」

 琴音がカウンターの拭き掃除を始めると、九田が小声でぼやいた。はしゃぐ女子高校生たちも嫌だと言い、観光客も迷惑がり、静かで無害な男子高校生にすら文句をつけるのだから、九田の商売っ気のなさには困ったものだ。

「彼、家じゃ勉強にあまり身が入らないらしいんです。ああやって友達の目があるところで短期的に集中しちゃうのがいいんですって。それに、動画を見ながらといっても静かですし、解き方も間違いも残しておく派らしくて消しゴムのかすを散らすわけじゃないからいいじゃないですか」

 琴音はついパーマの彼を擁護した。彼は茶髪くんほど人懐っこく話しかけてはこないけれど、丸屋で流しているレコードの趣味やテーブルの花を褒め、「居心地がよくて、ここで勉強したら成績が上がりそう」と言ってくれたから、琴音の中では良い子判定になっている。

「子供に甘いな。……もしや、ああいうガキンチョが好みなのか?」
「ご冗談を。私、最近年だなって思うのが、男女ともにアイドルの子とかの顔の区別ができないんです。顔の区別がつかない子に、好みも何もあったもんじゃないですよ」
「……悲しい話をさせたな」

 自分よりも年上の九田に可哀想なものを見る目で見られ、琴音はムッとした。

「勝手に憐れまないでください」
「憐れんではないさ。俺は若い人どころか、他人の顔は基本区別がつかん」
「……九田さん、他人に興味なさすぎですよ。私や飯田さんの顔はわかってますか?」

 心配になって九田の顔をじっと見ると、なぜかふっと笑われてしまった。

「わかってるよ。今目の前にあるそこそこ美人な顔も、変身前の眉毛のない顔もな。どちらの姿であっても、町中でちゃんと声をかけることができる」
「……もう絶対、朝食はご馳走しませんからね。朝は来ないでくださいよ。どうせ眉毛ありませんからね」

 まさかそんなことを言われるなんて思っていなかったから、琴音は恥ずかしいやら腹が立つやらでどんな顔をしたらいいかわからなかった。だから、ふいっと顔を背けるしかできない。
 九田は琴音をからかってしてやったりという顔もせず、いつものように眠たげに目を閉じている。
 クダギツネたちは九田の手を取って、小指の先から伸びるこじれた糸を引っ張って解こうとしていた。でも、そんじょそこらの絡まり方ではないから、そんなことをしても解けはしない。

(九田さんの性格はあの小指の糸みたいにこんがらがってねじくれちゃってるんだわ)

 そんなことを思って、琴音は自分の仕事に戻った。


「あれ? 忘れ物?」

 男子高校生三人が帰ったあと、琴音がテーブルを片づけていると、ドアが開いて茶髪の男子が入ってきた。ひとりだけだし、何だかコソコソしている。

「忘れ物っていうか、用事があって来たんだけど……」

 茶髪の子は、もじもじしながら言う。

「用事?」
「琴音さんに恋バナを聞いてもらいに来たんだけど。あ、あと本を返しに来たんだった」

 茶髪くんはカバンから本を取り出して、琴音に差し出した。眼鏡くんだけでなくこの茶髪くんも、琴音文庫の数少ない利用者のひとりだ。でも、なぜかいつもこっそり借りていくのだ。

「『若きウェルテルの悩み』ね。どうだった?」
「面白かった。ウェルテルの悩みがよくわかるからさ」
「そっか」

 てっきり難しかったと言うと思ったのに、茶髪くんはにこやかにそう述べた。でも、『若きウェルテルの悩み』はそんなふうに「面白かった」とひと言で片づけられるような作品ではない。
 この作品は、主人公ウェルテルざ婚約者のいる女性シャルロッテを好きになってしまい、それに苦悩して自殺するまでを描いた物語だ。友人への書簡という形式をおもにとっているため、シャルロッテへの想いに舞い上がったり、手に入らないとわかって絶望したりする心情がわりと生々しく描かれている。

「タイトルから感じる印象とは違って、悲劇よね。こんな軽いタイトルでいいのかなって、初めて読んだとき思ったもの」
「でも、手に取りやすい軽〜いタイトルだからいいと思うんだ。きっとさ、この本の中に描かれてる絶望が必要な人って多いと思うから」

 茶髪くんは笑顔で言うけれど、彼の心の中にはウェルテルの気持ちが理解できるほどの絶望があるということだと琴音は気がついた。

「俺の好きな人、ウェルテルのことをバカだって言ってた。失恋したくらいで死ぬなんてバカだって。……でも俺は、ウェルテルが死んじゃった気持ちがわかるんだ。好きな人がいるって幸せだけど、その人が手に入らないってわかってるほは絶望だよ」
「好きな人って、もしかして……」

 琴音は、茶髪くんが『若きウェルテルの悩み』を借りる少し前に眼鏡くんが手に取っていたのを思い出した。そして、茶髪くんが借りて帰る本は眼鏡くんが読んでいたものばかりだということも。

「そう。今どきめずらしくないと思うけど、難儀だよね。友達を好きになるってだけでもちょっときついのに、おまけに同性なんだから」
「難儀……確かに。でもきっと、難儀じゃない恋なんてないんじゃないかな。男女だからって、好きになった人から必ず想いを返されるわけじゃないし、その逆も然り……なんじゃない?」

 琴音は言葉を選びながら、茶髪くんに言った。傷つけたくはないけれど変にいたわりたくもなくて、普通に恋愛相談を受けたつもりで答えたのだ。
 状況は特殊であったとしても、彼の恋心は普通のものだ。好きな人と同じものに興味を持ちたい、好きな人が触れたものに触れたいというのは、琴音にも覚えがある。

「そうだよね。……だったら、俺も縁結びをお願いしてもいいのかな? ここに来たことがきっかけでうまくいったって人の話を聞いたとき、いいなって思うと同時に、自分がしちゃうとズルにならないかなって思っちゃって」
「ズル、か。でも縁を結ぶって裏技とかとっておきの攻略法ではないからね。結んだところで、それはきっかけにすぎないから……」

 縁結びに希望を見出しつつも、茶髪くんが迷っているのが琴音にはわかった。振り向いてほしい、両想いになりたいとは思っても、そこに何か不正があってほしくないというのは当然の気持ちだ。

「縁結び、今度来たときお願いしていいですか? ……まだ迷ってるけど、たぶんお願いすると思うから」

 それだけ言うと、はにかんだように笑って茶髪くんは店を出ていった。
 残された琴音は、何とも言えない気分になってカウンターを振り返った。

「九田さん、男の子同士とか女の子同士とかの縁って結んでもいいんですか……?」
「“いい”って断言できないから尋ねてるんだろう?」

 眠っているかと思ったのに、九田はバッチリ起きていたようで気怠げな返事が返ってきた。

「難しい問題だよな。俺は別に同性感の恋愛に嫌悪も偏見もないつもりだ。誰が誰を好きになろうと興味ないからな。でも、だからといって他人の指向を歪めかねないことはできんからな。それは男女のことについてもあてはまるだろ? だから、縁結びなんて面倒だから嫌だって言ってんだ。……考えたらキリがねえ」
「それは、そうですね」

 九田は心底面倒くさそうに頭をかきながら言う。でもそうして面倒くさがるのは九田が彼なりにきちんと悩み、考えているからこそだとわかった。

「誰の縁を結んで誰の縁は結ばないとか考えるの、面倒で嫌になるだろ?」

 黙ってしまった琴音に、九田は苦笑いを浮かべて問う。ようやくわかったかとでも言いたげな表情に気づいて、琴音はあわてて首を振った。

(ここで頷いたら、九田さんのことを肯定する意味になっちゃうとこだった。そんなことしたら、クダギツネたちとの約束が果たせなくなる)

 琴音としては早くこの赤い糸が見える生活から解放されたいと思っているわけだから、九田のように縁結び反対派になるわけにはいかない。それだけでなく、九田に縁結びをいいものだと思ってもらわなくてはいけない。
 それに琴音はこんなふうに悩んでも、縁結びを嫌だとか悪いものだとは思いたくなかった。

「結ぶのが正解かどうかわかりませんけど、私は何かしてあげられたらいいなって思います。誰かを好きになったことを後悔してほしくないし、自分の気持ちを否定してほしくもないので」

 ウェルテルの絶望がわかると言った茶髪くんの背中を、琴音は押してあげたいと思った。付き合えるとか報われるとか、そういったことまではわからないけれど、せめて希望の灯くらいはともしてあげたい。

「……まあ、差別されるかもしれん自分の秘密を、ここの店の評判を聞いて我々に差し出してくれたんだ。そんな若者の気持ちを無下にはできんよなあ。わかった。今回のことは俺が何とかしよう。何とかなるかは知らんが、やれるだけやろう」

 琴音の気持ちが通じたのだろうか。九田は気怠さをさらににじませて言う。
 でも、何かする気になってくれただけで十分だ。無下にできないと言ってくれただけで。

「何とか、なるといいですね」

 ***

 九田があの茶髪くんのために一体どんな策を講じるのかと期待半分不安半分だったのだけれど、いざそれを目の当たりにすると、「よくその作戦でいけると思ったな」だった。

「え? 占い? 別にいいです」
「そう言わずに。厄がついていそうな人を見たらこうして声をかけて、その厄から逃れる方法を占ってるんだ。金はとらん。サービスだ」
「はぁ……」

 何を考えたのか、九田はあの男子高校生三人組が来店すると、眼鏡くんを捕まえて占いの押し売りを始めた。いつもカウンターの奥で置き物のごとくじっとしている店主がそばに寄ってきただけでも驚きなのに、おまけに占いを勧めてくるなんて不気味以外の何ものでもない。

「じゃあ、お願いします……」
「よし、わかった」

 占わせないと九田が自分たちのそばから離れないだろうとわかったからか、眼鏡くんはそう言って折れた。さすがは眼鏡くん、大人だ。
 高校生に気を遣わせた大人げない九田は、易占いに使う細い竹の棒をジャラジャラしながら、難しい顔をしてサイコロを振っている。

(あれ、古道具屋さんで見たよ。竹の棒はたぶん本物だけど、サイコロはボードゲーム用のでしょ。あんなのでうまくいくのかな……)

 琴音はハラハラしながら見守っていたけれど、高校生三人は真剣な顔で見守っている。

「ふむ……健康を害する、と出ているな。今ものすごく、怪我をしやすくなっているし、病気にもなりやすい。しかも一度身体を壊すと、ドミノ倒しのようによくないことが起こるな」
「え……どうしよう」

 九田が難しい顔をしてもっともらしいことを言えば、眼鏡くんは思いのほか深刻に受け止める。そこへすかさず九田は畳みかける。

「でも大丈夫! 君は見るからに孤独ではないからね。厄がついているときにひとりだと危ない。でも君は友達と一緒だからよかったな。健康な人から健康な運を少しずつもらって難をしのいでいれば、そのうち厄も抜けるはずだ。友達に手でもつないでてもらうといい」

 九田が話すのをよくわからない様子で聞いていた茶髪くんが、ふいに目を見開いた。そして琴音にちらっと目配せするから、同じく意味がわかった琴音はは頷き返した。

「手をつなぐなんて、子供じゃないんだし……」
「えー、いいじゃん。つなごうよ。そしたら、こけるのも防げるかもだし」
「だな。俺もつないでやるよ」

 茶髪くんがさりげなく、けれども精一杯の勇気を出して言ったことに、パーマくんもノリよく言い添える。本人にその気があったかはわからないものほ、ナイスアシストだ。

「えー……じゃあ、つないでもらおうかな。そういえば、タンスに小指ぶつけたりしてたんだよな」
「やばいじゃん。ほら、つなごうつなごう」

 ごくさりげない雰囲気で、茶髪くんは眼鏡くんの手を取った。その反対側の手を、パーマくんもつなぐ。

「これ俺、何にもできないじゃん。飲み物も飲めないし」

 そんなふうに文句を言いつつも、眼鏡くんも楽しそうにしていた。飲み物が来てからは、交互にどちらかの手を離し、カップを置くとまたつなぐというふうに工夫までして。
 そして結局、何だかんだ言いながら手をつないだまま店を出ていった。

「手をつなげただけでも、よかったですよね」

 嬉しそうに帰っていった茶髪くんのことを思って、琴音は言った。ちょうどお客さんが引けた時間で片づけに追われぐったりしていたけれど、その表情は満たされている。

「つなげただけでもって言うがな、これもある種、縁がなけりゃできないことだ。……あとは本人の頑張りと運みたいなもん次第だろ」

 いんちき占い師九田は、どうでもいいことのように言う。でも琴音は、九田もちょっぴり嬉しそうにしていることに気づいている。

「九田さん、縁結びっていいなって思いません? やり方次第ですけど、これって人を幸せにする仕事だと思うんですけど」

 期待を込めて尋ねるも、九田は目を閉じて何も言わなかった。
 そんな九田の右手の周りで、クダギツネたちはまたこじれた糸を解こうとしていたけれど、なかなかうまくはいかないようだった。

 桜も終わり、新緑の季節に移り変わる頃。
 琴音は喫茶丸屋がなかなかの盛況ぶりであることにホクホクとしていた。
 具体的に縁結びを求めて来店するお客さんが増えたわけではないけれど、そういう店だという評判は広がっている。何より、縁結びにちなんだメニューがよく注文される。
 このまま口コミでどんどん広がって、縁結びのお客さんがたくさん来て、クダギツネたちとの約束も果たせてしまえるのではないだろうかと、琴音は期待していた。
 一方、店主である九田はといえば、相変わらず営業中は眠そうにしてカウンターの向こうにいるし、縁結びには一切興味を示していないけれど。というよりも、否定的な姿勢はずっと変わらない。
 この前来店した男子高校生たちへの対応を見る限り、根が親切な人間なのは間違いないだろうと琴音は思っているものの、それだけだ。

「飯田くん、新メニューなんだけど、イチゴを使ったものはどうかな? これから露地物のイチゴが出回るし、暑くなる前にイチゴフェアはやっときたいかなって」

 夕方に向けて客が引けた時間になり、琴音はキッチンに向けて呼びかけた。明日に向けての簡単な仕込みと清掃をしていた飯田が、その呼びかけに嬉しそうにする。

「いいっすね。俺、イチゴ大好きです。それに、とりあえず年中どのタイミングでもイチゴのフェアやるとそれなりに食いつきいい気がしますよね」
「だよね。私も、某コーヒーチェーンがイチゴのドリンクを出したら必ず飲みに行っちゃうもん。イチゴの人気はやばいね」
「一定の集客は見込めます。パフェとかタルトなんかのスイーツは絶対にやるとして、軽食にも使いたいですよね。サラダにしても意外においしいから、そこから派生させたメニューも作れるかも」
「楽しみ! 期間限定だから、奇抜なものでもそれなりに話題になりそう」

 料理が好きな琴音と、仕事以外でも料理のことで頭がいっぱいな飯田だから、新メニューの話し合いになるとすごく盛り上がる。ここから試行錯誤を重ねて実物のメニューにしていかないといけないのは毎度大変なのだが、話し合いの段階でアイデアに行き詰まったことはこれまでない。

「イチゴって、また赤いもんの話か……赤は嫌いなんだよなぁ」

 琴音と飯田がキャッキャと話し合いをしていると、九田の気怠げな声が聞こえてきた。寝ているのか起きているのかわからないと思っていたけれど、どうやら起きていたらしい。

「またですか、九田さん。九田さんの赤色嫌いはわかりましたから。九田さんがいろいろ言うから、この店にはトマトソースとかのメニューが置けないんですよ。イチゴのメニューは大体ピンクになるはずですから、セーフです」
「セーフってなんだ、セーフって。どう見たってイチゴは赤いだろう。俺はなぁ、赤を見ると悲しくなるんだ」
「じゃあ、なるべく見ないようにしてください」

 赤色は嫌だとまた言い出した九田を、琴音はぴしゃりと黙らせた。九田がこんなことを言うから、喫茶丸屋にはナポリタンがメニューにない。喫茶店なのに、である。喫茶店にはナポリタンがあるべきだと思っている琴音は不満なのだけれど、期限を損ねるわけにもいかないから押し通さない。
 そうはいっても期間限定のイチゴのメニューくらい認めてもらわないと、やっていられないという話だ。

「九田さんってさ、ひねくれてるよねぇ」

 静かな寝息が聞こえてきたのを確認して、琴音はコソッと飯田に言った。

「家は資産家っぽいし、顔もそこそこいいし、身長は高いし、いわゆる勝ち組っぽい感じじゃないですか。そんな人があんなにひねくれるというかこじらせるのって、それなりにしんどい理由があるんじゃないかと思うんすよね」

 批判的な琴音に対し、飯田は慎重な意見だ。そんなふうに言われて琴音は、彼が確かに表面上はひねくれる理由がないことに気がつく。

「しんどい理由かぁ……そうだよねぇ」

 九田の過去に何があったのだろうか。それはわからないものの、よほど傷つくことがあったのだろうと想像して、琴音は同情的に彼を見ることができるようになった。
 ひねくれていてこじれていて、扱いがやや面倒くさいけれど、悪い人ではないのだ。だから少し優しい目で見てやろうと、琴音はそのとき決めたのだった。


 
 気の早い夏の到来を感じさせるようなやたら暑いある日。
 
「いらっしゃいませ……?」

 来客を告げるドアベルがカラランと鳴ったため、琴音は出迎えようと声をかけたけれど、半開きのドアの向こうから覗いていたのは、不安そうな顔をした女性だった。

「……どうぞ?」
「え、あ、はい……あの、ここって縁結びできるんですか? 神社じゃないからお守り授与とかご祈祷とかやってるわけでは、ないんですよね?」

 どうやらこの女性は、縁結びの評判を聞いてやってきてくれたらしい。しかし、その内容の曖昧さに不安を感じているようだ。

「えっと……そうですね。縁結びにちなんだテーマのお食事や、恋愛相談と言いますか、お話を聞かせていただいて、縁が結ばれますようにと念じていると言いますか……」

 説明しながら、なんて胡散臭いのだろうと琴音は思った。普通の人には見えないものを結んでいるのだから、そんな実体がないものの話をするのは難しい。でもそれにしたって、あまりにも怪しい話だ。これまで胡乱げな目で見る人がいなかったことが幸運なだけだったのだろう。
 でも、今の説明で女性は少し安心したみたいだ。

「そうなんですね。じゃあ、お願いしようかな……」
「えっ、では、お好きなお席へどうぞ」

 やや緊張した様子の女性を席へ案内して、琴音はメニューを開いて見せた。いつもはお客さんの好きにさせるのだけれど、この人は少し丁寧な接客をしたほうがいいかもしれないと思ったのだ。

「こちらが、当店の縁結びにちなんだフードメニューです。もちろん、何を頼んでいただいても構わないんですけど」
「その、相談っていうのは、ドリンクだけでも受け付けてもらえますか? このあと、食事の約束があるので、何か食べるのはちょっと……」
「大丈夫です! お飲みものを飲みながらでも、お話を聞かせていただけたら」
「じゃあ、紅茶をお願いします。ミルクで」
「かしこまりました」

 厨房に戻って紅茶を淹れながら、あまり縁結びという感じではないなと琴音は考えていた。あの女性の疲れた感じや思い悩む様子は、恋するウキウキなんてものとは無縁だ。それでも、訝しみながらここへ来たということは、何か理由があるのだろうけれど。

「お待たせいたしました。……それでは、お話を聞かせていただけますか。どなたと縁を結びたいかとか、そういうお話を」
「わかりました。……縁を結んでほしいのは、婚約者となんですけど」
「え? 婚約者? 婚約してるのに、その人と縁を結びたいんですか?」
「そうなんです。おかしいって思われるのはわかってるんですけど、彼と自分の縁がきちんと結ばれてるとは思えなくて……」

 驚く琴音に苦笑しながら、女性は婚約者のことを話し始めた。
 その婚約者とは、会社の上司の紹介で知り合ったのだという。女性は女子大出身でなかなか異性との交際に積極的になれなかったのと、男性が恋人と別れたきり次の恋愛をする様子がないのを見かねて周囲がセッティングした、言ってみればお見合いみたいなものだったそうだ。
 その後、二人で会うようになって、トントン拍子で交際するようになったらしい。引っ込み思案な女性と穏やかな男性との相性は悪くなく、付き合ってすぐに居心地のいい関係になれたため、結婚を意識するのにも時間はかからなかったのだという。

「でも、あるとき私、気づいてしまったんです。彼がまだ、前の恋人のことを忘れられていないんだってことに。大学生の頃から五年間付き合っていたそうですから、簡単に忘れられないのはわかるんですけど……私だけを見てくれていないんだと思うと寂しくて、どうせ結婚するなら人為的にでも赤い糸が結ばれた状態がいいなって、そう思ったんです」
「そう、だったんですね……」

 女性の声はあまりに悲痛で、琴音はうまく言葉を返すことができなかった。縁結びの話なのにウキウキしたところがないなと感じていたのは、こういったわけだったようだ。
 いつもなら、それでも琴音は意気揚々と縁結びの話をしただろう。大丈夫だと、きっとうまくいくと、笑顔で背中を押しただろう。
 でも、今回ばかりはできなかった。いつもみたいに、話を聞いて涙ぐんでもいない。
 冷静で真剣な顔で、女性を見ていた。

「結婚が本決まりになって、不安になる気持ちはわかります。婚約者さんが自分だけを見てくれていないと思ったら、嫌ですよね」
「いわゆるマリッジブルーかなとも思うんですけど。……くだらないって言われそうで、周囲の人には話せなくて」
「くだらなくなんてないですよ! この時期に悩むのは当然だし、大事なことです!」

 話してから不安になったのだろうか。女性はごまかすみたいに笑った。でも琴音はそれに笑い返さず、拳を握りしめて力説した。

「私はバツイチだから……結婚に失敗してるから言えるんですけど、少しでも何か心配事がある状態で結婚することはおすすめできません」
「え……」
「結婚するなって言ってるわけじゃないんです。ただ、心配事や違和感から目を逸らしたまま結婚はしないほうがいいってことは言えます。……私は、この人と合うのかな?って思ったまま結婚してしまって、その結果離婚したので、結婚前のタイミングで慎重になるのが悪いことだとは思わないんですよね」

 琴音の声色は穏やかだけれど、そこには熱がこもっていた。自分の立場だからできるアドバイスがあると信じているため、つい熱が入ってしまうのだろう。

「離婚、されてるんですね。そっか……離婚経験者の言葉は、重いですね」
「すみません。決して水をさしたいわけじゃ、ないんですけど」
「水をさされるなんてそんな……誰にも言えないことを話してみて、適当にあしらわれず、ちゃんと聞いた上で意見を言っていただけてよかったです」

 傷つけただろうかと心配したものの、女性は冷静に琴音の言葉を受け止めていた。そして、その表情は来たときよりもわずかに明るくなっていた。

「おかしな話ですけど、アドバイスをいただいてその通りだなって思った反面、やっぱり彼と結婚したいんだって気持ちが強くなりました。もし友人に同じ相談をされたら、絶対にやめときなよって言うはずなのに……」
「止められたとしても結婚したいって思うのなら、その気持ちを大事にするのもいいと思います」

 どうしようもないとわかっていても結婚への思いをあきらめられないという女性の気持ちは、琴音にもよくわかった。琴音だってきっと、結婚前に誰かに止められたとしても、それを振り切って結婚しただろうから……結果は変わらない。

「まだきっと迷いは晴れてはいないと思うんですけれど、それでも婚約者さんと縁を結びたいと感じたのなら、またご来店ください」
「わかりました。ありがとうございます」
「普通の来店も、お待ちしてます。もうすぐ、イチゴのフェアを始めるんですよ」

 紅茶を飲み終えた女性を見送って、琴音は視線に気がついてそちらを見た。
 いつもなら縁結び希望の客が帰ったあとは琴音のほうから見るのだけれど、今日は九田が琴音を見つめていた。

「あんた、変な人間だな。まさか、縁結びを勧めないことがあるとは。ようやく、縁結びなんてものがおこがましいことだって気づいたか?」

 内容としては勝ち誇っていてもおかしくないのに、九田の声に元気はない。琴音の様子をうかがうような、心配するような、そんな響きがある。

「別に、そういうことじゃないですよ。ただ私は、立ち止まって結婚について考えるチャンスがある人は、考えたほうがいいんじゃないかって思っただけなんです。今頃になって、花代おばちゃんの勧める相手と会っていたらどうだったかなって、ちょっとだけ考えるんですよ」

 別れた夫に未練はないものの、幸せな結婚というものへの憧れは捨てきれない。だから琴音は時々、花代に言われるがままお見合いをしていたらどうなっていただろうかと考えるのだ。どんな相手だったのか釣書すら見ていないから、何とも言えないけれど。

「……後悔するくらいなら、会っときゃよかったのに。まあ、縁があればこれから何とかなるだろう」

 琴音の話を聞いて何を思ったのか、なぜか九田はにんまりとした。それからまた居眠りを決め込んだから、琴音はつっこむのはやめにして閉店作業を始めた。
 


 帰宅した琴音は、何だかいつもより疲れている自分に気づいて溜め息をついた。特にお客さんが多かったということはないから、おそらく閉店前に来たあの女性が疲れの原因だろう。
 というより、彼女の存在によって自分の結婚と離婚を振り返ったことがいけなかったようだ。
 実家で飲んだくれて泣き暮らしたときと比べ、かなり回復はしている。それでもやはり、もっと違った道はなかったのだろうかと考えてしまうのだ。そういった後ろ向きな想像は精神を削るとわかっていても、どうしてもやめられない。
 夕食の支度に取りかかりながらも、「もし過去に戻れるのなら」なんてことを考えてしまっていた。
 もし過去に戻れるのなら琴音は、間違いなく元夫との結婚を止めるだろう。当時は好きだったからこそ結婚したものの、振り返れば合わないところだらけだったのだ。
 元夫が手料理を喜んで見せるから張り切って作っていたけれど、彼は手料理が嬉しいのではなく、琴音が自分のために手間と労力をかけることに喜びを見い出していたのだとあとから気がついた。
 共通の趣味がないのは別段問題ではなかったものの、常識というか、善悪の判断基準が一致していないのも問題だった。信号を守るだとか、ゴミをきちんと分別するだとか、些細なことでもその人の人間性や倫理観は現れる。彼とはそういう部分の考え方が、ことごとく合わなかった。
 もとより、不倫なんかする男と倫理観が一致してたまるものかと、琴音は包丁を握りしめた。

「本当は、ご飯なんか、作りたくもないし食べたくもないけど、こんなことで食事が取れなくなるなんて、馬鹿らしいもんね!」

 力いっぱい気合いを入れて、勢いよくネギを刻んでいく。白ネギも小ネギも全部粗みじん切りにしてしまう。ネギ塩豚丼を作ろうと考えていたのだけれど、あきらかにネギを刻みすぎだ。
 でも、野菜がたくさん摂れていいかも、なんて考えて豚肉を炒め、ネギを投入し、塩ダレを絡めて仕上げていく。

「ネギが多いっていうか……単純に作りすぎ?」

 出来上がったネギ塩豚は、パッと見ただけでもわかるほどに作りすぎな量だった。……こんなときに限って、九田は食べに来ないのに。
 別れた夫との生活が抜けきれずに二人前を無意識に作ってしまったのかと思ってげんなりしたけれど、九田がよく食べに来るからその癖なのだろうと思い至った。
 九田は元夫と違ってこういった丼ものなんかの一品メニューも、美味しそうに食べてくれるからいい。元夫はカレーや丼ものは手抜きで、一汁三菜でなければ食事ではないというワガママは人間だったから、勝手に上がり込んできて何でも食べる九田とは大違いだ。

「私の赤い糸、ぶっつり切れちゃってるじゃん。……何か、ちょっと伸びたっぽいけど」

 後悔とともに作りすぎた豚丼を噛み締めていると、ふと右手の小指から伸びる糸に目がいった。常人には見ることができない、不思議な赤い糸。見えるようになった直後は離婚の影響か、ぶっつり切れた短い糸が小指から伸びているだけだったのに、今では軽く摑めるくらいの長さにまで回復している。
 糸が回復するということは、いつか誰かと結ばれることもあるのか――そんなことを考えると、琴音は複雑な気持ちになった。今はまだ、また誰かを好きになるなんてことは考えられなかった。


 その翌日。ランチタイムを過ぎた頃、ひとりの男性が喫茶丸屋を訪れた。その落ち着かなさそうな、思いつめた様子に、店内の模様替えをしていた琴音は身構えた。

「いらっしゃいませ」
「ここは、縁結びをしていると聞いてきたのですが」
「は、はい。やってますけど……」

 男性の物言いとその様子に、琴音はデジャヴを感じた。昨日まさにこんな様子の女性を接客している。

「縁結びにちなんだメニューをお出ししているんですよ」
「……コーヒーで」
「かしこまりました」

 この流れまで昨日と全く同じだぞと気がついて、琴音は居眠りをしている九田をちらりと見た。彼も何かを感じ取っているのか、片目を開けている。

「縁結びというよりも、結婚を考えている女性とちゃんと赤い糸で繋がってるか見てもらうことって、できるんですかね? ……男がこんなこと言うのは、ちょっとどうなのかなって思うんですけど」

 注文のコーヒーを持っていくと、男性は困ったような顔をしていた。この店に縁結びに来る時点で悩んでいない人などいないのだろうけれど、この人の場合は縁結びに興味を持つこと自体を悩んでいるようだ。

「男性の方でも来店されますから、大丈夫ですよ。……結婚を考えてらっしゃるということは、婚約者さんと縁が結ばれているか気になる、ということですか?」
「そうなんです。……上司の紹介で知り合った女性なんですけど、会ってすぐにこの人だ!と思って、順調に関係が進んでいったんです。でも、プロポーズして結婚の話が本決まりになってから、彼女が浮かない顔をしているのに気がついてしまって……」
「はあ……そうなんですか」

 ここまで聞いた段階で、琴音はほぼ確信していた。……昨日、似たような話を聞いたばかりだから。

「彼女と出会う前に、私は長く交際していた女性との手酷い失恋を経験していたので、周囲にずいぶん心配させてしまっていたんです。でも彼女をひと目見て、絶対に運命だって思ったから逃したくなくて……」
「そうですか。その、前にお付き合いされていた方に未練とかは……」
「ないです! 今では彼女一筋ですから」
「……なるほどですね」

 そこから男性は、いかに自分の婚約者が素晴らしい女性なのかを熱く語った。聞いてもいないのに語った。琴音が途中からげっそりしていることにも気がつかないほど熱心に語った。
 九田がどんな顔をしているだろうと振り返ってみると、彼も琴音と同じでまずいものを噛んでしまったみたいな顔をしていた。

「それだけ想っているのでしたら、きっと大丈夫だと思いますけれどね。浮かない様子なのは、マリッジブルーかもしれませんし。よろしければ、今度は婚約者の方とご一緒にいらしてください」
「わかりました。今度休みが会うときに来ます」

 気が済むまで惚気けたあと、男性は琴音に送り出されて店を出ていった。ドアを閉めてから、琴音は九田のほうを見た。

「……夫婦喧嘩じゃないですけど、犬も食わねぇって感じですよね。あの男性、絶対に昨日来た女性のお相手じゃないですか」
「いや、まあ、そうだろうが……違うかもしれないだろ」
「違ったら違ったで嫌ですよ。こじれたカップルが二組いるってことになりますからね」
「それは、面倒くさいなぁ」

 店内に客がいないのをいいことに、琴音と九田は好き勝手なことを言った。
 でも、昨日の女性と今日の男性が婚約者同士だと確信してしまっている以上、何とも言えない気分になるのは仕方がないことだと言えるだろう。

「ないとは思うが、二人が揃ってやってきたときに、糸が繋がっていないことも覚悟しないといけないぞ」
「え?」

 気を取り直して琴音が閉店業務をしようとしていると、ポツリと九田が言った。想い合っている男女の犬も食わないもだもだ話を聞かされたとばかり思っていた琴音は、その言葉に驚いた。

「どういうことですか?」
「口では何とでも言えるってことだ。どれだけ相手のことを好きだと言っても、全然違う人間と糸が繋がってるなんて組み合わせはごまんといる。だから、あの二人が来店したときに驚かないようにな」
「……わかりました」

 九田があてずっぽうなことを言っているのではないとわかったから、琴音は素直に頷いた。きっと彼は、これまで嫌になるほどそんな組み合わせを見てきたのだろう。
 琴音だって、目がこんな状態になってから、並んで歩く夫婦の糸が繋がっていないなんてものは何度か見てきた。
 だから、昨日今日来店したあの男女の糸が繋がっていないなんてことも、可能性としてはあり得るわけだ。

「だが、気にすることはない。糸が繋がってなくたってうまくいってる夫婦はいるし、糸が繋がってるからって永遠の愛が保証されてるわけじゃないからな」

 琴音の気持ちが落ち込んだのを察したのか、九田がなだめるように言った。
 そうしてなだめられても琴音の心配というかモヤモヤした気持ちは晴れなかったけれど、あの二人が来店するかどうかもわからないから、ひとまず流すことしかできなかった。


 そんな琴音の心配は、杞憂に終わった。
 その数日後、件の二人は揃って来店した。そしてその二人の右手小指から伸びる赤い糸を確認すれば、それはきちんと互いの糸に繋がっている。
 確認して脱力した琴音を見て、男性も女性もお互いがこの店に初めて来店したわけではないことに気がついた。

「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
「え……あなたも?」
「まさか、君もここに?」

 驚いた顔をして見つめあう二人に、琴音はほっとするような呆れるような、そんな複雑な気分になった。
 とはいえ、想定していたような悪い事態ではなかったことは、純粋によかったとも思う。

「お二人とも、別々に来店してたんですよ、縁結びを目当てに。つまり、今さら縁を結ぶ必要もないくらい、お互いを思っているということです」

 珍しく客の前に姿を現した九田が、何を思ったのかそんなことを言い出した。日頃は置物のように動かないくせに、今日に限って一体何を考えたのだろうか。
 九田の登場に驚いている琴音と違い、件の男女は嬉しそうにした。でも、そんな二人に九田は少し悪い顔をする。

「とはいえ、赤い糸の結びつきは絶対じゃない。結婚前に強固な結びつきとなるよう、しっかり話し合っておくべきじゃないんですか? まずはお互い、ここで何を依頼したのか打ち明けてみては?」
「それなら、前回来たときに頼まなかった縁結びにちなんだメニューをお願いします!」
「あ、はい……」

 九田は本当は脅すつもりで言ったのだろうけれど、幸せな男女にそんな言葉は通用しなかった。この店の人間だと認識され、挙げ句注文を言いつけられてしまい、すごすごといつもの定位置まで逃げ帰っていった。
 だから仕方なく、いつものように琴音が注文を取った。二人は、ちょうど今日から出されるようになったイチゴのスイーツと、縁結びメニューの中で人気のパスタセットを注文して、仲良く分けて食べていた。
 そして、ひとしきり会話と店の雰囲気を楽しんでから、幸せオーラを振りまきながら帰っていった。
 無事に落ち着くところに落ち着いて、本当なら純粋に喜ぶところなのだろうけれど、二人が帰ったあと、何となく琴音も九田も疲れていた。

「……どうだ、赤い糸なんてくだらないって少しはわかったんじゃないのか」

 いつもなら否定する琴音だけれど、このときばかりは小さく頷いてしまったのだった。

 琴音が店じまいを済ませて帰宅しようとアパートへの道を歩いていると、少し先に見知った、というよりすごく目立つ人物の姿を見つけた。
 あきらかに偶然そこにいるというような風体はしていないため、琴音は足を止めて声をかけた。

「栄子さん、こんばんは。……ここにいるってことは、もしかして私に用事ですか?」

 出会いが出会いなだけに、栄子に罪はないものの、つい身構えてしまった。

「やだ、ちょっと構えないでよ。心配しなくても今日はあの女絡みじゃないわ。てか、私は仕事が終わってからも依頼人の面倒を見るほどお人好しじゃないの。頼まれた通り縁を切ったらそれっきり。その後不幸になろうがうまくいこうが関係ないわ」
「そ、そうですか」

 栄子と喫茶丸屋で会ったのは琴音の元夫の不倫相手からの依頼で顔合わせのときだったため、そのときのことを思い出して琴音は嫌な気分になっていた。栄子は彼女との黒い縁を無償で切ってくれた親切な人だとわかっているのだけれど、不倫相手との思わぬ邂逅は、まだ琴音の中に苦い記憶として残っている。

「私の家、すぐそこですけど、よかったら上がっていきますか? 大したお構いはできませんが」
「ううん、ここでいいの。だって、縁人(よりひと)が管理してる物件でしょ。帰るときにあいつと鉢合わせしたら気まずいし。……わざわざ店の外で待ってたのは、あいつには聞かせられない話をするためよ」
「あ、九田さんの話ですね」
「察しが良くて助かるわ。あいつの糸を切ったのはあたしだから、やっぱり気になるのよ。捻くれてるのは、あいつ自身のせいだけどね」

 夕方のひと気のない住宅街なのに栄子は心持ち声をひそめた。心情的に、誰にも聞かせたくないことなのだろうと琴音は察する。

「縁人は、過去に向き合う気概があるように見える?」

 栄子は、その大きな体と見た目の派手さに似合わないような、少し気弱な表情をした。この表情の理由は「糸を切ったのはあたしだから」に繋がるのだろうなとわかって、琴音は考え込んだ。
 つい数日前も飯田と話したばかりだけれど、九田のような人があれだけ拗れらせているのには、相応の理由があるはずだ。現在進行形で拗れているのを見る限り、その過去とやらに向き合う気概があると言い切ることは、難しいだろうと思ったのだ。

「よくわかりません。縁結びを嫌いになるくらいには、傷ついてるみたいですし」

 どんなことがあればあんなふうに拗らせてしまうのだろうと考えて、琴音は彼が可哀想になった。だから、傷つくことからは遠ざけたいと思ってしまった。
 こんなふうに尋ねてくるということは、栄子は九田が傷つくような話を持っているということだろう。それなら、できることならそんなものとは接触させたくない。

「……そっか。あいつに会いたがってる人間がいたんだけど、やっぱり難しいわね」

 元々、直接喫茶丸屋に来なかったあたり、九田に無理強いするつもりはなかったのだろう。だから栄子はあっさりと、「何かあったら連絡して」と名刺を渡して去っていった。
 栄子に対して何でもズバズバ言いそうなイメージを勝手に持っていたから、琴音にすら話さず帰っていったのが意外だった。でもそれだけに、その名刺が不吉の予兆みたいに思えて嫌だった。
 琴音が九田のことで連絡をしなくてはならないこととは、一体何なのだろうか。わからないけれど不安になって、一応連絡先をスマホに登録しておいた。


 何か変わったことが起こるのではないかと身構えていたものの、栄子と会った数日に起きたことといえば、近所の古書店の店主と古物商の店主が連日やってくるようになったことくらいだ。
 琴音が喫茶丸屋で働き始めてすぐのときから親切にしてくれていた彼らだったけれど、店に来ることはほとんどなかった。それがどういう風のふきまわしなのか、毎日やってきては何か食べていく。

「このお店、琴音さんが来てから格段によくなったのは間違いないんだけど、“喫茶”という感じはしないよね」

 縁結びパスタランチを食べ終えて食後のコーヒーを飲みながら、古物商の店主が言った。

「喫茶店ぽくないってことですか? 確かに、喫茶店に必要不可欠なマスターがあれではちょっと……ですよね?」

 九田がピシッとした服装でもして店内にいてくれればいいのにと思って、琴音はいつものように居眠りしている九田に厳しい視線を向ける。クダギツネたちがまた右手にまとわりついて、一生懸命に絡まった糸をほぐそうとしていた。

「九田くん? 彼はあれでいいのいいの。タヌキの置物か何かだと思ってるから」
「あ、九田さんのことじゃないんですね」
「違う違う。メニューについて話してたんだよ。ここさ、ナポリタンもピザトーストもミックスジュースもないでしょ。喫茶店なのに」
「そうなんですよ、ないんですよ。九田さんが赤色が嫌いだって言って、メニューに置かせてくれないんです」
「何だそれ」

 古物商の店主も古書店の店主も一瞬怪訝そうに九田を見たあと、納得したように何度か頷いた。

「まあさ、ナポリタンもピザトーストもなければないでいいんだけどさ。でも、ここのメニューがあんまりにもオシャレなのは感じなのはなー、もったいないかなって」
「そう。ここは喫茶店というより、“カフェ”だなというのが、僕らの共通の意見なんだよ」
「オシャレすぎる……褒められたのかな? でも、確かに落ち着いたメニューのことはあまり考えて来なかったですね」

 思わぬ指摘に、琴音は考え込んだ。
 琴音としては、縁結びを売り出すために集客したくて、それには女性の口コミの力を借りるのが一番だと考えていたのだ。だから少しでも薄暗い店内を華やかにしようとしたり、メニューを可愛くオシャレにしようとしたりしていたのだけれど、それが“喫茶店”らしさを損ない、“カフェ”っぽくしてしまっていたなんて思いもしなかった。

「どうすれば喫茶店っぽくなりますかね?」
「僕らおじさんにも優しいメニューを置いてみるとかかな。うどんや蕎麦なんか」
「そうそう。渋い感じのものがないとなあ」
「……うち、定食屋さんになっちゃうじゃないですか」

 店が少しでもよくなればと思いアドバイスを聞き入れようと思っていたものの、方向性の違いに琴音は唸るしかなかった。うどんや蕎麦を提供するようになったからといって、縁結びの集客率アップは見込めないだろうし、何より先に言っていた“喫茶店っぽさ”ともかけ離れているとしか思えない。

「琴音さん、そんな顔するけど、うどんは大事よ? ほら、小さなお子さん連れの女性とか来たらさ、うどん頼むと思うんだよ。だからうどんをメニューに加えて、取り皿とちっちゃなフォークを用意して来店をお待ちしたらいいんだよ」
「……具体的」
「試食ならいつでも引き受けるからね」

 好きなことを好きなだけ言って、古物商と古書店の店主は帰っていった。気ままなおじさんたちに見えるけれど、そこまで長居はしないのだ。一時的に店を閉めて出てきているから、適度に休憩を取ったら帰っていくらしい。ずっと居眠りしている九田とは、店主としての意識が違う。

「子連れのママさんが来たことはまだないけど、女性が集まるお店なら、その可能性も考えとくべきなのか……」

 うどんや蕎麦をメニューに追加するかはまだわからないものの、取り皿と子供用の食器は検討の余地があるなと、琴音は考えていた。縁結びには関係ないけれど、子連れのお客さんに優しい店になるのはいいことかもしれない。

「一体何屋になるつもりなんだ。儲からないのは別に構わんが、ここがファミレスみたいにうるさい場所になるのは勘弁だからな」
「でも、にぎわってるのは別にいいことだと思いますけど。人が来た分だけ、縁結びの来客も増えるかも知れませんし」
「俺は増えて欲しくない。ここは閑古鳥が鳴く薄暗い店のままでいいんだ。縁結びもくだらん」
「それじゃ私が困るんです!」
「俺は困らん!」

 頑固オヤジみたいなことを言うと、九田は店の奥に引っ込んでいった。置物のように動かない彼が立ち上がるのは、トイレくらいのものだ。その生態を知ったとき飯田が「本物のナマケモノと一緒だ……」と言っていたけれど、九田は本物の怠け者なのだ。こんなのが店主なのでは、琴音はいつまで経ってもクダギツネたちとの約束を果たせないことになってしまう。
 
「いらっしゃいませ。……あ、足元気をつけてください。そこ、少し段差があるんです」

 琴音が店の在り方を思案していると、来客を告げるドアベルが鳴った。そちらに目をやると、そこにいたのはお腹の大きな女性だ。ひと目で妊婦とわかるその女性に、琴音は慌てていたわりの声をかける。

「どうもありがとう。……喫茶店になったのね、ここ。でも、懐かしい」

 手を貸そうかとまごついている琴音に対し、女性は微笑んで首を振った。それから、昔を思い出すかのように店内を見回した。

「もしかして、以前のここのお店をご存知なんですか?」
「ええ。ここ、同級生の……友達の家がやっていた店だったから」

 そう言いながら女性は視線を巡らせて、ある一点で止まった。その先にあるのは、店の奥から戻ってきた九田の姿だ。

「九田くん……久しぶり」

 嬉しそうにする女性とは対照的に、九田の表情は複雑だった。一瞬驚いて、それから苦々しい顔をした。
 〝同級生〟であるということ以外どんな間柄なのかわからないが、九田のその顔には、はっきりと「会いたくなかった」と書かれていた。
 
「栄太郎くんに連絡とったんだけど、はぐらかされちゃって。でも、縁人に会いたいなって思ってきちゃった」

 九田が苦い顔をしているのは見えているだろうに、女性はめげずに微笑んでいる。うろたえているのは、明らかに九田のほうだ。
 九田は困った顔で琴音を見てそれから今来た店の奥を振り返った。どこかに逃げ場はないかと考えたのだろう。
 しかし、少し考えてからどこにも逃げ場はないと気がついたのか、重たい溜め息をついた。この場においてそれは、まるで深呼吸のようにも思えた。

「……すまないが、帰ってくれないか。大したおかまいはできないし、あいにく俺はこれから出かける用事がある」
「ちょっと話すだけだから」
「無理だ。……頼むから帰ってくれ」

 ほとんど懇願するみたいに九田が言うと、女性は少し逡巡してから、仕方がないというように店を出て行った。ドアベルの音がいつまでも耳に残るような気がして、それがようやく静かになったと感じた頃、九田がまた重たい息を吐いた。

「……あの、先ほどの方は、どなただったんでしょう? もしかして、元カノ?」

 どうにも気になって、放っておくわけにもいかないしと、琴音は九田にそう尋ねた。どうにか重苦しくならないようにと尋ねたけれど、それは完全に失敗していた。