高校最後の夏休みは、どうにも時間を持て余していた。数少ない友人と遊ぶ気にも、受験勉強をする気にもなれず、無限とも感じられる日々は時間の(おり)に閉じ込められてしまったような感覚だった。

 無為(むい)に日々を消費している後ろめたさから、単なる時間(つぶ)しも()ねて、俺は目的地も決めずに家を出た。根本的に家が苦手だという無意識も、外出への意欲を助長していたのだろう。

 暇なときは読書と音楽鑑賞に(ひた)っている俺は、無意識に書店かCDショップに足が向く。今日もその例に()れずに、書店へ歩を進めていた。

 道すがら児童公園の前を通ると、子供という身分を満喫(まんきつ)しているかのように児童が追いかけっこをしていた。彼らからしたら、この億劫(おっくう)な夏の暑さも子供を楽しむためのスパイスでしかないのかもしれない。

 俺が彼らくらいの頃は、ピアノを始めた時分(じぶん)か。きっと陽射しにも負けずに遊ぶはずの年代に、クーラーの下でピアノのレッスンなんかをしていたせいで、ぼんやりとした人間になってしまったんだろう。夏の日光はこんなにも照り輝いているのに、俺の気分を晴らしてくれることはない。

 こんな日常的な風景が、俺の日常とは乖離(かいり)していた。

 転んで(ひざ)()()いてもなお笑顔でいる男児や、自動販売機で買った炭酸飲料をその乾いた喉に勢いよく流し込んでいるスーツ姿の男も、風に髪を(なび)かせ(さわ)やかな表情を浮かべる制服姿の女の子も、そのどれもが俺とは違う世界の住人にすら思えた。

 そんな世界から逃げるようにして、俺は歩を速めた。

 (うつむ)き加減で歩いていると、頻繁(ひんぱん)に通う書店に着いた。入ってすぐに陳列されている新刊や、映像化のコーナーを物色し、なんとなく気になった本を手に取りながら店内を回る。

 俺は自分を見つめることを必要としない、他者の創った物語が好きだった。おそらくはひとつの現実逃避の手段として用いていて、だから乱読(らんどく)派になって、どんな系統(けいとう)のものも読むようになったのだろう。

 けれど、その日の俺の目に()まったのは、数あるジャンルの中でも馴染みの浅い恋愛小説だった。
 たまには趣向(しゅこう)を変えてみるのもいいだろうと好奇心(こうきしん)で手に取る。普段触れることのないような物語に出会えることを期待して、その本を購入した。

 帰って読書に(ふけ)るのでは結局いつもと変わらない。そう思って俺は、帰路(きろ)とは逆の方向へと足を向けてみた。
 基本的に行動範囲の狭い俺は、近所だといっても少し外れてしまえば知らない土地となる。

 少し歩くと小洒落たカフェが見えた。アンティークな造りのそのカフェは敷居(しきい)が高そうで上品な客層を(うかが)わせた。
 高校生は気後(きおく)れしそうなところだが、若者が集まるような騒がしいカフェでは読書が(さまた)げられてしまうため、まさに俺の探していた雰囲気のカフェを見つけられたと嬉々(きき)としながら足を踏み入れる。

 (つや)のある茶色を基調とした内装で落ち着きある空間は、外観のイメージに偽りのない場所だと確信を抱かせた。俺の探していた読書に適しているカフェはここだと、充足感を覚えた。

 客席に通された後、俺がメニュー表を開いてから注文する商品を見定める時間を、(あらかじ)め正確に計っていたかのようなタイミングで店員が注文を聞いてくる。

「ご注文はお決まりですか?」

 客席に通すところから注文を(うけたまわ)るまでの一連の所作(しょさ)洗練(せんれん)されていて、従業員の態度ひとつとっても文句のつけようもない店だ。しかし、だからと言って無暗(むやみ)矢鱈(やたら)高値(たかね)というわけでもなく、この店の気遣いの行き届いた様子に関心するほどだった。

 腹が減っているというわけでもなかったので、俺はとりあえずこの店の自慢だというコーヒーを頼む。それから本来の目的である文庫本を開いて、物語の世界へと浸かっていったのだった。