あの夏、夢の終わりで恋をした。

『もしも、過去の選択を変えられるとしたら』という話を聞いたときに、俺が真っ先に思い浮かべたのは、あの事故の瞬間のことだ。

 鮮明には覚えていない。ただ、自分にとって大切な人が危機に(さら)されているのに、俺は足が(すく)んで一歩も踏み出せず、手を伸ばすことすらしなかった。そんな自分自身を、後になってから何度も何度も悔やんだことははっきりと覚えている。

 結果からして、そのときの俺の愚鈍(ぐどん)(あやま)ちのせいで、妹は、(しずく)は、もういない。
 あともう少し、状況を早く判断できていたら。あともう少し、俺に勇気と行動力があったら。
いくらそう考えようとも、いなくなった人間が戻ってくるなんてことはあり得なかった。

 そうなって初めて、俺は後悔をした。

 それからの日々には、常に『どうしてあのときに……』という無力感と罪悪感が、呪縛(じゅばく)のような悔恨(かいこん)となって俺に(まと)わりつくようになった。

 雫が経験するはずだった青春を自ら(こば)んだし、雫と一緒に目指していた音楽の道もやっぱりそこで途絶えた。他者からの同情や(あわ)れみを無視し、あまつさえ好意なんてものは、(かたく)なに拒んだ。

 そのようにして、俺は本来雫がまっとうするはずだった人生経験を放棄(ほうき)し、そうすることで罪悪感から逃れ、自己を肯定してきた。
 そうしていなければ、生きていることにさえ罪悪感を覚えてしまいそうだったから。

 心が満たされるなんてことは一度もなく、けれど愚かな自分には当然の末路だと言って聞かせた。

 雫の死がきっかけで疎遠(そえん)になった家族のことも、日常が生きづらくなったことも、大好きだった音楽を聴けなくなったことも、そのすべてを受け止めるしかなかった。

 だからこそ、『もしも、過去の選択を変えられるとしたら』俺はなによりも最初に、あの瞬間の自分の選択を正すだろう。

 このときの俺は、妹の分まで精一杯生きようという思考になれなかったことが、どんな選択よりも間違った考えだったことに気づいていなかった。

 それでも、その思いの程度の違いはあれど、誰しも『あのときにこうしていれば』と思うことは少なからずあることだ。どうしようもない可能性を思い考え、どうしようもなくなった後だとしても、最良の選択を想起してしまうものなのではないだろうか。



 人生とは取捨(しゅしゃ)選択の連続でできている。
 一方を選ぶということは、一方を捨てるということに他ならない。

 俺はそれを身に染みて理解した。選択という重みを、酷く痛感した。
 だからだろう。
 自分の無力に絶望し、すべてを諦めた俺が、柄にもなくあんな言葉を投げかけてしまったのは。

 心のどこかで、常に最良の選択を模索(もさく)するという姿勢が根付いていたからか。
 それとも、後悔のない選択をしたいと常々心掛けていたからか。
 はたまた、一度きりの機会を失うことを恐れたからか。

 きっと、そのすべてだ。そのどれかひとつでも欠けていたら、結末は変わっていたことだろう。

 果たしてそれは最良の選択だったのか、俺にはわからない。だが、後悔のない選択をしたと、今なら自信を持って言える。
 あのとき俺は、後先も考えず、まるで溢れ落ちるように、初対面の異性に向かって、

「……ひと目惚れ、しました」

 と、そうひと言、告げていたのだ。
 高校最後の夏休みは、どうにも時間を持て余していた。数少ない友人と遊ぶ気にも、受験勉強をする気にもなれず、無限とも感じられる日々は時間の(おり)に閉じ込められてしまったような感覚だった。

 無為(むい)に日々を消費している後ろめたさから、単なる時間(つぶ)しも()ねて、俺は目的地も決めずに家を出た。根本的に家が苦手だという無意識も、外出への意欲を助長していたのだろう。

 暇なときは読書と音楽鑑賞に(ひた)っている俺は、無意識に書店かCDショップに足が向く。今日もその例に()れずに、書店へ歩を進めていた。

 道すがら児童公園の前を通ると、子供という身分を満喫(まんきつ)しているかのように児童が追いかけっこをしていた。彼らからしたら、この億劫(おっくう)な夏の暑さも子供を楽しむためのスパイスでしかないのかもしれない。

 俺が彼らくらいの頃は、ピアノを始めた時分(じぶん)か。きっと陽射しにも負けずに遊ぶはずの年代に、クーラーの下でピアノのレッスンなんかをしていたせいで、ぼんやりとした人間になってしまったんだろう。夏の日光はこんなにも照り輝いているのに、俺の気分を晴らしてくれることはない。

 こんな日常的な風景が、俺の日常とは乖離(かいり)していた。

 転んで(ひざ)()()いてもなお笑顔でいる男児や、自動販売機で買った炭酸飲料をその乾いた喉に勢いよく流し込んでいるスーツ姿の男も、風に髪を(なび)かせ(さわ)やかな表情を浮かべる制服姿の女の子も、そのどれもが俺とは違う世界の住人にすら思えた。

 そんな世界から逃げるようにして、俺は歩を速めた。

 (うつむ)き加減で歩いていると、頻繁(ひんぱん)に通う書店に着いた。入ってすぐに陳列されている新刊や、映像化のコーナーを物色し、なんとなく気になった本を手に取りながら店内を回る。

 俺は自分を見つめることを必要としない、他者の創った物語が好きだった。おそらくはひとつの現実逃避の手段として用いていて、だから乱読(らんどく)派になって、どんな系統(けいとう)のものも読むようになったのだろう。

 けれど、その日の俺の目に()まったのは、数あるジャンルの中でも馴染みの浅い恋愛小説だった。
 たまには趣向(しゅこう)を変えてみるのもいいだろうと好奇心(こうきしん)で手に取る。普段触れることのないような物語に出会えることを期待して、その本を購入した。

 帰って読書に(ふけ)るのでは結局いつもと変わらない。そう思って俺は、帰路(きろ)とは逆の方向へと足を向けてみた。
 基本的に行動範囲の狭い俺は、近所だといっても少し外れてしまえば知らない土地となる。

 少し歩くと小洒落たカフェが見えた。アンティークな造りのそのカフェは敷居(しきい)が高そうで上品な客層を(うかが)わせた。
 高校生は気後(きおく)れしそうなところだが、若者が集まるような騒がしいカフェでは読書が(さまた)げられてしまうため、まさに俺の探していた雰囲気のカフェを見つけられたと嬉々(きき)としながら足を踏み入れる。

 (つや)のある茶色を基調とした内装で落ち着きある空間は、外観のイメージに偽りのない場所だと確信を抱かせた。俺の探していた読書に適しているカフェはここだと、充足感を覚えた。

 客席に通された後、俺がメニュー表を開いてから注文する商品を見定める時間を、(あらかじ)め正確に計っていたかのようなタイミングで店員が注文を聞いてくる。

「ご注文はお決まりですか?」

 客席に通すところから注文を(うけたまわ)るまでの一連の所作(しょさ)洗練(せんれん)されていて、従業員の態度ひとつとっても文句のつけようもない店だ。しかし、だからと言って無暗(むやみ)矢鱈(やたら)高値(たかね)というわけでもなく、この店の気遣いの行き届いた様子に関心するほどだった。

 腹が減っているというわけでもなかったので、俺はとりあえずこの店の自慢だというコーヒーを頼む。それから本来の目的である文庫本を開いて、物語の世界へと浸かっていったのだった。
 ――その音が聴こえてきたのは、開いて持っている文庫本の、右手の割合のほうが厚くなり始めた頃だった。
 美しく伸びた和音(わおん)は、俺の鼓膜(こまく)を優しく()でるような音色だ。

 ピアノの旋律(せんりつ)がカフェ全体を包み込む。読書に耽っていた人、友人と会話の花を咲かせていた人、パソコンでなにやら作業をしていた人、そんな各々(おのおの)が自分の時間に没頭(ぼっとう)していた中に響いた音に、皆が一様に顔をあげた。

 入店したときから店の最奥(さいおく)に置かれているピアノは目に入っていたが、既に音楽を辞めた身である俺がなにかするなんてことはもちろんなく、ただインテリアとしてしか見られなくなってしまった〝死んだピアノ〟なんだなと、少し(むな)しい気持ちになっただけだった。

 けれど、そのピアノは生きていた。たった今、ひとりの奏者によって命が吹き込まれた。死んだように見えていたピアノは、その音色をもって人々の心を震わせている。

 突如(とつじょ)流れてきた音に対して誰ひとりとして不満を示さず、その音楽は全員に受け入れられていた。
 万人(ばんにん)に受け入れられる音楽を奏でられる人というのは、業界にもほとんど存在しないことを、俺は昔から痛いほど知っていた。それが難しいからこそ、奏者はまず譜面(ふめん)通りに弾くことを強制される。

 しかし、この音色はなににも(とら)われることなく、自由な輝きを浮かべていた。俺の耳には、この音色が人々の心に寄り添って『さあ踊ろう』と紳士(しんし)的な手招きをしているようにすら聴こえた。そうして手を引かれた心が音楽と共に踊り出す。まるで、このカフェ一帯が音色の舞踏会(ぶとうかい)にでもなったかのようだ。

「……ああ」

 感嘆(かんたん)の息が漏れる。こんなにも楽しそうで自由な音楽ははじめて聴いた。
 心がうっとりとしてくるのを感じる。もはや読書など放棄してこの音色に耳を傾けていた。

 そうして一曲を弾き終える。すると、どこからともなく拍手が聞こえてきた。その数はひとつ、またひとつと増えていき、小洒落たカフェはその数瞬(すうしゅん)だけ小型のコンサートホールになったと錯覚(さっかく)するくらいだった。

 俺が感嘆の次に抱いた感情は、興味だった。
 どんな人がこの音楽を奏でているのだろう、そういった単純な興味。

 おそらく一曲では終わらないのだろう、奏者からはまだ演奏の緊張は発されている。でもそれは程よくリラックスした緊張だ。だからこそ、この固すぎず抜け過ぎてもいない心地のよい音を響かせられる。

 俺は奏者が二曲目を始める前に席を立った。店を出るのではない、その逆だ。店の奥へと足を進めた。テーブルとテーブルの間を()って、奏者の存在を確認するために衝動(しょうどう)的に進む。

 奏者を視界に収めると同時に、目を見張った。
 演奏していたのは洗練された女性か、熟練の初老かを想像していた俺は、そのどちらでもない制服姿の女の子、という身なりに驚かずにはいられなかった。

 でもそれ以上に。
 その清々しい微笑みを(たた)えた横顔に、どうしようもなく視線が吸い寄せられてしまった。

 グランドピアノの艶やかな黒よりも、規則正しく並ぶ鍵盤(けんばん)の白よりも、目の前の女の子は際立っていた。コンサート用のドレスを着ているわけでもないのに、その奏者としての横顔が胸中(きょうちゅう)を高鳴らせた。

 俺はきっとその瞬間――恋に、落ちてしまったのだろう。

 見つめられる視線に気づいたのか、女の子はこちらに振り向き視線が交錯(こうさく)する。そうすることで、またひとつ心臓が大きく弾んだ気がした。
 女の子は、その瞳に警戒と困惑の色を残しながらも、「……どうでしたか?」と薄く微笑んで()いた。

 彼女の声までもが、先ほどまで奏でられていた音色のようだと感じた。
 どうしようもなく高鳴る胸を抑えて、俺は口を開いた。

「……ひと目惚れ、しました」

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