それから一度も休むことなく鉛筆を走らせ続けた。
一度集中してしまうと時間を忘れてしまう。時計を持っていないので正確な時間はわからないが相当な時間が過ぎているだろう。絵を描くときはいつもそうだ。
三枚目の絵があと少しで完成というところで突然部屋が暗闇に包まれる。懐中電灯の電池が切れてしまった。暗闇の空間は自分の息遣いすら大きな音に聞こえる。
あと少しだった残念な気持ちと急に暗闇に放り投げ出された不安が同居するが、こうなってしまってはどうすることもできない。下手に歩き回って転んだら思わぬ怪我に繋がる。
今日は諦めてその場に寝転んだ。
自分が目を開けているのか、閉じているのかも分からない。暗闇の世界。息をして居る事だけは音として伝わってくる。
呼吸は次第に穏やかになっていく。
暗闇に呑まれるように眠ってしまうのに大した時間はかからなかった。
空を飛んでいた。この町を見下ろして優雅に飛ぶ僕は鳥になっていた。真っ白の羽に真っ白な身体。かなりの高度で飛んでいるので人は豆粒のように小さく、家はミニチュアのように簡単に壊せてしまいそうだ。
赴くままに羽を広げて飛んでいく。このまま飛んでいけばこの町から出て行けるというのに高揚感は特にない。ふと、足で何かを掴んでいる事に気が付く。それは鳥が持っているには不釣合な真黒で水筒の様な形をしたもの。
爆弾だ。
どうしてそれが爆弾だとわかるのか。そんな事はわからない。だが、爆弾であることは間違いない。
大きな羽を広げて空を飛ぶ僕はその爆弾を落とした。
風に煽られながらゆらゆらと揺れるそれを見ながら、先ほどまでなかった感じたことのない高揚感を覚える。
やってしまえ。壊すんだ。何もかも。
強烈な眩しさに意識がぼんやりと戻って来る。
変な夢を見ていた気がする。たしか僕は鳥になって空を飛んでいて。それから先は思い出せない。空を飛ぶ夢は吉夢が多いと聞くけれど、晴れ晴れとした目覚めなので本当の事なのかもしれない。
夢の事を考えていたがために、事態に気づくのに遅れてしまう。
知っている天井だが僕の部屋の天井とは違う。梁が縦一線に伸びて普通の一軒家よりも高い。
ここがアトリエであるとようやく気が付く。
だが電気がついていた。漆黒の傘を被った裸電球たちが久ぶりの仕事に張り切っていた。
慌てて身体を起こすと、自分が眠っていた場所以外の絵が綺麗に片づけられており、床板が露になっている。
「あら? 起こしちゃったか。ごめんね」
何がどうなっているのか。理解が追い付かずに辺りを見回していると後ろから声を掛けられた。この町にはない、包み込むような優しい女性の声。
「もしかして夢とか思ってる?」
いたずらな笑みを浮かべた女性はショートで軽く外側にはねた髪、おしゃれなイヤリングに身体の線を魅せるスキニーデニムを着ている。どう見てもこの町の人間ではない。
透き通るような白い肌。全てを見通すような瞳。ひかえめに言って美人だ。
「どうした? もしかして耳聞こえない?」
「いえ、きこえています」
「そう。それで君はどうしてここで寝ているのかな?」
「眠かったので」
「うん。家は」
「家はあります」
「そうじゃなくて」
そうじゃないのは僕もわかっている。だけど緊張して上手く答えられない。
彼女は呆れた様子で頭をかく。そんな仕草も様になっていてキラキラとした粒子を放っているのが確かに見えた。舞った埃が光を反射しているだけなのだろうが、この人には人の目を引き付ける魔法がかけられている。油断してしまうと魅了されてそのまま食べられてしまいそうだ。
「家族と喧嘩してそれで……」
「そうか。それ以上は良いよ。顔を見ればわかる」
先を話そうとして制止されられる。
殴られた箇所が腫れているのだろうか。それとも唇の傷が目立つのか。学校で唯織や大河に何を言われるか。
唯織とはまだちゃんと仲直り出来ていなかったことを思い出して憂鬱になる。
「泥棒目的ではないってことで良いよね」
「はい。泥棒されるようなものありませんし」
「失礼だね。これでも結構いい画材あるんだけど」
「すみません」
「冗談。どれもボロでほとんど使えないよ」
歯を見せて笑う女性は先ほどとは違った印象を受ける。大人な女性とは別の可愛らしい一面が落差を生んでさらに魅力を引き立てる。
「僕から質問しても良いですか?」
「どうぞ」
「あなたは誰……ですか?」
答えは決まっている。それでもちゃんとこの人の口から聞くまでは希望を捨てる事は出来ない。
彼女は顎に指をあてて少し考える仕草を見せる。
「私はここの家主だよ。知人からこの家を譲り受けたから様子を見に来たんだ」
やっぱりそうだよな。たまたま遭難してここに辿り着いたとか、もっと他の都合の良い展開を期待していたが現実は甘くない。通っていなかった電気を通せているのだから家主以外にない。
「そうですよね。すみません。すぐに出て行きますから」
警察を呼ばれたら面倒だ。家に連絡されて何をしていたのか話さなくてはいけなくなる。母は僕が絵を描くことに嫌悪感を抱いており、それがばれれば今度は顔を殴るだけでは済まされない。
「待ちなよ。外は暗闇だよ。懐中電灯の電池は切れてるんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。僕は夜目が利くので」
「君、嘘が下手だね。目がすいすい泳いでるよ」
唐突に距離を縮められて一歩下がってしまう。一定の距離を保とうとする僕を彼女はお構いなしに詰めて来る。
部屋の隅にまで追いやられて後が無くなってしまった。今からでも遅くない。押しのけて逃げるべきだ。幸いにも相手は女性で非力な僕よりもさらに非力そうに見える。
ダンッ!
余計な事を考えていると顔の両脇の壁に彼女は勢いを付けて手を叩きつける。
「逃がさないよ」
彼女の顔がすぐ近くになって胸が早鐘を打つ。大きな瞳が僕を捉えているのがはっきりとわかった。
いつかは来ることだ。おとなしく警察のお世話になることにしよう。
戦意喪失の僕とは裏腹に、彼女はいたずらに成功した子供のような笑顔を浮かべる。
「どう? ときめいた?」
「え?」
「一度やってみたかったんだよね。壁ドン」
「壁ドン?」
「え? 知らない? それじゃあ私ただ幼気な子供を襲おうとした暴漢魔じゃん」
つまらなそうに表情を歪ませて頭を抱える。
この人は感情を簡単に表に出す。だからなのか大人と話をしていると思えない。
「いえ。襲われるとは思わなかったので大丈夫です」
それに高校生はもう幼気な子供ではないだろう。寧ろ危ないのはそちらの方だ。見知らぬ男と二人きりなのだから。
「そっか。なら平気か」
こんなフォローなんてしている暇があったら早く逃げろよ。と自分でも思ったがこの人は他の大人と違って惹き付けられる。
彼女はこちらが逃げるとは思っていないのか背を向けて、離れた机に置いてあったケトルからお湯を注ぐと一口飲む。
「君、名前は?」
「鳥海朱鳥。鳥の海で鳥海、朱色の朱に鳥で朱鳥です」
「良い名前だね。歳は?」
「十七。高二です」
「青春の真っ最中か。それで壁ドンを知らないのは人生無駄してるよ」
「余計なお世話です」
元より人生を謳歌する気なんてない。その気があるのなら夜中に一人でこんなところに寝ているわけなし。
隙間風が通り過ぎて身震いする。やっぱりコートを着てこなかったのは失敗だった。
「寒そうだね? これでも飲む?」
差し出されたコップからは渦を巻いて白い湯気が立ち上っている。問題なのは中身ではない。
「君が居ると思わなかったからコップは一つしかないんだ」
彼女がわざわざ自分が口を衝けた飲み口の方を差し出してきたことだ。完全にからかわれている。
「いただきます」
僕は何とも思っていないことを装って頂く。中身はただのお湯だったが不思議と身体がすぐに温まり頬まで熱くなる。
「ありがとうざいました」
仕返しとして口を衝けた飲み口を彼女に向けて返す。僕の行動が予想外だったのか彼女はきょとんした表情で受け取った。
「どういたしまして」
彼女は口を付けることなく机にコップを置いた。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
こちらを向いた彼女は今までになく真剣な眼差しを僕に向ける。自然と腹の底が引き締まる。
「これらを描いたのは君で間違いない?」
差し出されたのはここで描いていた絵の束。散らかしたものを一つ一つ拾ったのだろう。
白を切るべきか、それとも素直に認めるべきか。
「……はい」
迷った挙句、正直に答えることにした。この人に嘘をついても見抜かれてしまう気がする。
「やっぱり」
緊張を解いて描いた絵を微笑みながら見つめる。
対照的に僕は証言台に立って判決を待つ被告人のような気持でその場に立っていた。
この人は美術に詳しいのだろうか。称賛と批判どちらの答えも聞きたくない。
「よし。行こうか」
彼女は絵について何も言うことなくコートを羽織って入り口に向かう。
「何処に?」
「ついて来ればわかるよ。それまでのお楽しみ」
「わかりました」
断るなんて選択肢は初めからなかった。
「君もきっと驚くよ」
これから悪戯をしてやろう。そんな表情をする彼女に僕は完全に魅了されていた。
一度集中してしまうと時間を忘れてしまう。時計を持っていないので正確な時間はわからないが相当な時間が過ぎているだろう。絵を描くときはいつもそうだ。
三枚目の絵があと少しで完成というところで突然部屋が暗闇に包まれる。懐中電灯の電池が切れてしまった。暗闇の空間は自分の息遣いすら大きな音に聞こえる。
あと少しだった残念な気持ちと急に暗闇に放り投げ出された不安が同居するが、こうなってしまってはどうすることもできない。下手に歩き回って転んだら思わぬ怪我に繋がる。
今日は諦めてその場に寝転んだ。
自分が目を開けているのか、閉じているのかも分からない。暗闇の世界。息をして居る事だけは音として伝わってくる。
呼吸は次第に穏やかになっていく。
暗闇に呑まれるように眠ってしまうのに大した時間はかからなかった。
空を飛んでいた。この町を見下ろして優雅に飛ぶ僕は鳥になっていた。真っ白の羽に真っ白な身体。かなりの高度で飛んでいるので人は豆粒のように小さく、家はミニチュアのように簡単に壊せてしまいそうだ。
赴くままに羽を広げて飛んでいく。このまま飛んでいけばこの町から出て行けるというのに高揚感は特にない。ふと、足で何かを掴んでいる事に気が付く。それは鳥が持っているには不釣合な真黒で水筒の様な形をしたもの。
爆弾だ。
どうしてそれが爆弾だとわかるのか。そんな事はわからない。だが、爆弾であることは間違いない。
大きな羽を広げて空を飛ぶ僕はその爆弾を落とした。
風に煽られながらゆらゆらと揺れるそれを見ながら、先ほどまでなかった感じたことのない高揚感を覚える。
やってしまえ。壊すんだ。何もかも。
強烈な眩しさに意識がぼんやりと戻って来る。
変な夢を見ていた気がする。たしか僕は鳥になって空を飛んでいて。それから先は思い出せない。空を飛ぶ夢は吉夢が多いと聞くけれど、晴れ晴れとした目覚めなので本当の事なのかもしれない。
夢の事を考えていたがために、事態に気づくのに遅れてしまう。
知っている天井だが僕の部屋の天井とは違う。梁が縦一線に伸びて普通の一軒家よりも高い。
ここがアトリエであるとようやく気が付く。
だが電気がついていた。漆黒の傘を被った裸電球たちが久ぶりの仕事に張り切っていた。
慌てて身体を起こすと、自分が眠っていた場所以外の絵が綺麗に片づけられており、床板が露になっている。
「あら? 起こしちゃったか。ごめんね」
何がどうなっているのか。理解が追い付かずに辺りを見回していると後ろから声を掛けられた。この町にはない、包み込むような優しい女性の声。
「もしかして夢とか思ってる?」
いたずらな笑みを浮かべた女性はショートで軽く外側にはねた髪、おしゃれなイヤリングに身体の線を魅せるスキニーデニムを着ている。どう見てもこの町の人間ではない。
透き通るような白い肌。全てを見通すような瞳。ひかえめに言って美人だ。
「どうした? もしかして耳聞こえない?」
「いえ、きこえています」
「そう。それで君はどうしてここで寝ているのかな?」
「眠かったので」
「うん。家は」
「家はあります」
「そうじゃなくて」
そうじゃないのは僕もわかっている。だけど緊張して上手く答えられない。
彼女は呆れた様子で頭をかく。そんな仕草も様になっていてキラキラとした粒子を放っているのが確かに見えた。舞った埃が光を反射しているだけなのだろうが、この人には人の目を引き付ける魔法がかけられている。油断してしまうと魅了されてそのまま食べられてしまいそうだ。
「家族と喧嘩してそれで……」
「そうか。それ以上は良いよ。顔を見ればわかる」
先を話そうとして制止されられる。
殴られた箇所が腫れているのだろうか。それとも唇の傷が目立つのか。学校で唯織や大河に何を言われるか。
唯織とはまだちゃんと仲直り出来ていなかったことを思い出して憂鬱になる。
「泥棒目的ではないってことで良いよね」
「はい。泥棒されるようなものありませんし」
「失礼だね。これでも結構いい画材あるんだけど」
「すみません」
「冗談。どれもボロでほとんど使えないよ」
歯を見せて笑う女性は先ほどとは違った印象を受ける。大人な女性とは別の可愛らしい一面が落差を生んでさらに魅力を引き立てる。
「僕から質問しても良いですか?」
「どうぞ」
「あなたは誰……ですか?」
答えは決まっている。それでもちゃんとこの人の口から聞くまでは希望を捨てる事は出来ない。
彼女は顎に指をあてて少し考える仕草を見せる。
「私はここの家主だよ。知人からこの家を譲り受けたから様子を見に来たんだ」
やっぱりそうだよな。たまたま遭難してここに辿り着いたとか、もっと他の都合の良い展開を期待していたが現実は甘くない。通っていなかった電気を通せているのだから家主以外にない。
「そうですよね。すみません。すぐに出て行きますから」
警察を呼ばれたら面倒だ。家に連絡されて何をしていたのか話さなくてはいけなくなる。母は僕が絵を描くことに嫌悪感を抱いており、それがばれれば今度は顔を殴るだけでは済まされない。
「待ちなよ。外は暗闇だよ。懐中電灯の電池は切れてるんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。僕は夜目が利くので」
「君、嘘が下手だね。目がすいすい泳いでるよ」
唐突に距離を縮められて一歩下がってしまう。一定の距離を保とうとする僕を彼女はお構いなしに詰めて来る。
部屋の隅にまで追いやられて後が無くなってしまった。今からでも遅くない。押しのけて逃げるべきだ。幸いにも相手は女性で非力な僕よりもさらに非力そうに見える。
ダンッ!
余計な事を考えていると顔の両脇の壁に彼女は勢いを付けて手を叩きつける。
「逃がさないよ」
彼女の顔がすぐ近くになって胸が早鐘を打つ。大きな瞳が僕を捉えているのがはっきりとわかった。
いつかは来ることだ。おとなしく警察のお世話になることにしよう。
戦意喪失の僕とは裏腹に、彼女はいたずらに成功した子供のような笑顔を浮かべる。
「どう? ときめいた?」
「え?」
「一度やってみたかったんだよね。壁ドン」
「壁ドン?」
「え? 知らない? それじゃあ私ただ幼気な子供を襲おうとした暴漢魔じゃん」
つまらなそうに表情を歪ませて頭を抱える。
この人は感情を簡単に表に出す。だからなのか大人と話をしていると思えない。
「いえ。襲われるとは思わなかったので大丈夫です」
それに高校生はもう幼気な子供ではないだろう。寧ろ危ないのはそちらの方だ。見知らぬ男と二人きりなのだから。
「そっか。なら平気か」
こんなフォローなんてしている暇があったら早く逃げろよ。と自分でも思ったがこの人は他の大人と違って惹き付けられる。
彼女はこちらが逃げるとは思っていないのか背を向けて、離れた机に置いてあったケトルからお湯を注ぐと一口飲む。
「君、名前は?」
「鳥海朱鳥。鳥の海で鳥海、朱色の朱に鳥で朱鳥です」
「良い名前だね。歳は?」
「十七。高二です」
「青春の真っ最中か。それで壁ドンを知らないのは人生無駄してるよ」
「余計なお世話です」
元より人生を謳歌する気なんてない。その気があるのなら夜中に一人でこんなところに寝ているわけなし。
隙間風が通り過ぎて身震いする。やっぱりコートを着てこなかったのは失敗だった。
「寒そうだね? これでも飲む?」
差し出されたコップからは渦を巻いて白い湯気が立ち上っている。問題なのは中身ではない。
「君が居ると思わなかったからコップは一つしかないんだ」
彼女がわざわざ自分が口を衝けた飲み口の方を差し出してきたことだ。完全にからかわれている。
「いただきます」
僕は何とも思っていないことを装って頂く。中身はただのお湯だったが不思議と身体がすぐに温まり頬まで熱くなる。
「ありがとうざいました」
仕返しとして口を衝けた飲み口を彼女に向けて返す。僕の行動が予想外だったのか彼女はきょとんした表情で受け取った。
「どういたしまして」
彼女は口を付けることなく机にコップを置いた。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
こちらを向いた彼女は今までになく真剣な眼差しを僕に向ける。自然と腹の底が引き締まる。
「これらを描いたのは君で間違いない?」
差し出されたのはここで描いていた絵の束。散らかしたものを一つ一つ拾ったのだろう。
白を切るべきか、それとも素直に認めるべきか。
「……はい」
迷った挙句、正直に答えることにした。この人に嘘をついても見抜かれてしまう気がする。
「やっぱり」
緊張を解いて描いた絵を微笑みながら見つめる。
対照的に僕は証言台に立って判決を待つ被告人のような気持でその場に立っていた。
この人は美術に詳しいのだろうか。称賛と批判どちらの答えも聞きたくない。
「よし。行こうか」
彼女は絵について何も言うことなくコートを羽織って入り口に向かう。
「何処に?」
「ついて来ればわかるよ。それまでのお楽しみ」
「わかりました」
断るなんて選択肢は初めからなかった。
「君もきっと驚くよ」
これから悪戯をしてやろう。そんな表情をする彼女に僕は完全に魅了されていた。