夜中の田舎道は虫の声や風が揺らす葉擦れの音が微かに聞こえるだけで荒んだ心を穏やかにしてくれる。今日は月も出ておらず、包み込むような暗闇は安心させてくれる。

 吹き付けて来る風に思わず身震いする。まだ秋だと思って油断していた。コートを着てこなかったことは間違いだったかもしれない。それでもあの家に戻ることは憚れた。

 今は誰の声も聞きたくない。

 夜に出歩くことは何度もあった。この時間になればどの民家も既に寝床に入っているので電気は付いていない。もちろん車が通る事なんて絶対に無い。世界で自分一人になったような気分になれる。

 小道に人が入っていくような影を見て、何も悪いことをしていないのに思わず民家の庭先に隠れてしまう。
 
 交番に勤務している駐在は怠け者で有名なのでこんな時間にパトロールをするはずがない。もしかすると僕と同じように深夜に出歩くのを趣味にしている人と考えたが、この町にそんな人間が他にいるとは思えない。

 恐る恐る人影が見えた方を覗き込むが、そこには誰も居なかった。確かに誰かいたように見えたのだが、見間違いだったのだろうか。まさか熊だろうか。
急に怖くなってきて早歩きで街道を歩く。途中後ろを付けられていないか何度も振り返ったが、人影や動物の影すら無かった。やがていつもの山道がぽっかりと暗闇が口を開けて待っていた。ここからは先は街灯も何もない。
誰にも付けられていない事を再度確認して持って来た懐中電灯で足元を灯しながら山道へと入る。

 アトリエは何も変わることなくそこに佇んでいた。来るものを拒まず、去るものを追わず。そうした雰囲気を漂わせている。

 いつものように施錠されていないアトリエへと入り大きく息を吐く。変な気ばかり遣ってしまい、ここに来るまでにかなり体力を消耗してしまう。

 当然、アトリエには電機は通っていないので懐中電灯の光だけが頼りになる。懐中電灯を机に立てると置いてある水入りのペットボトルを乗せる。光が乱反射して部屋全体を薄く照らしてくれる。

 学校の防災訓練で習った知識がこんなことに役立つなんて思ってもみなかった。

「さて……」

 小さく息をつくと、今朝の状態のままイーゼルに備えられているスケッチブックを開く。
 
 これくらいの光でもなんとか絵は描ける。

 何か嫌なことがあった時、やれることは絵を描くことだけだった。習慣になったこれを今さらやめることは出来ない。沸いた感情を絵に消化しなくては内側から破裂してしまう。
 
 鉛筆を探していて、ふと気づいてしまう。

 今朝と絵の配置が僅か変わっている。また唯織がここに来たという事だろうか。勝手に占拠している僕が言えることではないが、土足で自分の部屋に入り込まれているようで良い気がしない。

 ようやく床に転がった鉛筆を見つけて開始する。

 丘の上に立つ回らない風車を思いつく限り絵の中で破壊していく。
下書きは進路調査票の裏に描いた。一度描いてしまえば、それが手元に無くても手が覚えているので再現することは容易い。

 紙を走っていく鉛筆の音が毛羽立った気持ちを宥めるようで心地いい。

 直ぐに絵が完成して間髪入れずに二枚目に入る。

 今度は何を壊してやろうか。こうして考えることで嫌な事を全て忘れられる。