隣町の病院で抜糸をして帰ってくる頃には夕食の時間も過ぎていた。母の食事は今朝の内に作ってしまったので家に帰る必要ない。

 無人の駅舎前にあるバス停で降りると目の前にある道の駅が目に付く。車もめったに通らないここでは、まるで一人で町を盛り上げようと空回りしているように見えなくもない。

 白い光を放つ看板は暗い夜空の下では虚しく感じる。

 そのまますぐにアトリエへ向かっても良かったが、何となく時間をつぶしたくて設置されているベンチに腰を掛けた。

 吹き付ける風には冬の匂いが混ざっている。首元から入る冷たい風に、キサさんからマフラーを預かっている事を思い出す。母に見つかってから押入れのさらに奥にしまい込んである。

 終わりが来る前にちゃんと返さなくては。

 手持無沙汰になりスマホをポケットから取り出す。最近覚えた機能にカメラがあった。起動してみたが、日が暮れた外では画面に何も映らない。道の駅を撮ってみようと思ったが、明るさがきつすぎて画面が白くなってしまう。まだまだ使いきれていない。

 お店の明かりに寄って来るのは虫ばかりで客足は乏しい。このお店もゆくゆくは消えていく運命にあるのだろう。

「隙あり」
「あっつ」

 店の看板をぼんやりと眺めていると頬に熱い何かが押し付けられる。驚きのあまりそのままベンチからずり落ちてしまう。

「ごめん。熱かった?」

 いたずらに失敗した表情で僕を心配するキサさんは僕に手にしたホットミルクの缶を手渡す。素手ではずっと握っていられない程に熱い。こんなの押し付けたら熱いに決まっている。

「素手で触ればわかります」

 見ればキサさんは手袋をしており、それならば確かに熱くない。

「おお、確かにあつあつだね」
 
 全く反省するそぶりも見せず、快活な音を立ててプルトップを持ち上げる。

「アトリエに居るんじゃなかったんですか?」
「迎えに来たの。その方が朱鳥が喜ぶと思って」

 確かに迎えに来てくれたことは嬉しく思う。ただ、こんな明るい場所で会うのは得策ではない。

「軽はずみな行動は避けた方が良いですよ。結構見られていますから」
「もう良いんじゃないの。今更ばれたところで誰にも止められないし」

 爆弾の知識がない僕にはキサさんの言っている事の真偽はわからない。けれど、警察沙汰とかになったらそれは困るのではないだろうか。僕と違ってキサさんには未来がある。

「歩こうか」

 僕の考えていることを見透かしたようにキサさんは悲しい顔をしていた。

「はい」

 変な罪悪感を覚えて先を歩くキサさんを追いかける。

 歩き始めて暫く会話のないまま時間が過ぎて行く。

 熱かったホットミルクもとっくに冷めてしまい、口に含んでも冷えた身体を温めてはくれない。

「抜糸は痛かった?」
「いいえ。あっという間に終わりました」

 申し訳なさそうに聞いてくるキサさんに気を使ったわけではない。現在の医療は進んでいるようで麻酔もなしでするっとあっけなく抜けてしまった。こんな風に僕もこの町から抜け出せたらいいのにと思ったほどだ。

「学校では何かあった?」
「なにもありません」
「つまらないな。何か面白い話をしてよ」

 そんなことを言われても、と思ったが昼に女子に絡まれたことを思い出す。

「何かあった顔だね」
「女子にキサさんとの関係を聞かれただけですよ。何回否定しても同じこと聞いてくるんですよね。どうしてなんでしょうか」
「ここの人は噂話が好きだからね。いいじゃん。それだけ興味を持たれてるってことでさ」

 キサさんは他人事のようにけたけた笑っている。自分のことを噂されているのに嫌じゃないのだろうか。

「どうしたら飽きるんでしょうか」
「いいじゃん彼女ですって言ってしまえば」
「良いわけがないじゃないですか」

 勝手なことを言ってキサさんに迷惑をかけるわけにいかない。それに僕みたいな子どもと付き合っているなんて思われたくもないだろう。

「私は別に良いけどね」
「それって付き合っても良いって言っているのと同じですけど」

 防戦一方ではやられっぱなしになるので思い切って攻めに転じてみる。

「いや、それは、そういう意味じゃなくて」

 しどろもどろになって視線を泳がせながら、ポケットに入れていた手を出して何やらを表現しようと宙を回す。

 あと一息で陥落しそうだ。

「キサさんが良いなら僕もそう言いますよ」
「なし。やっぱり駄目」

 こんな会話を僕たちはいつもしていた。キサさんがからかってきて、返り討ちにされるのがいつものパターンだ。くだらない会話をしているといやなことを全て忘れられる。

「ところで今日は何もしないんですか?」
「うん。残りはあと一軒だけだから」

 こんなことがいつまでも続くわけがないことは理解している。

 いつか必ずどこかで終わりが来て、自分で決めなければならない時が来る。

「だったらなんで僕をアトリエに呼んだんです?」
「それはさ」

 すっかり冷たくなったホットミルクを一気に飲み干すと僕の前に立ちはだかる。

「絵を描いてもらうためだよ」

 右手に力が入り、握っていた缶が間抜けな音を立てて凹む。

「君は絵を描かなくてはいけない」

 人の生き死にと同じように核心を持ってきっぱりと言い放つ。表情は柔らかいままだが、放つ言葉は確固たるものがある。

「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「それは私に聞かなくてもわかるでしょ」

 まるで脳内を見られたような思いだった。描かなくてはならない呪い。最近はその呪いが強さを増している。その感情は衝動とも呼べばよいのか、ただ描くことだけを愚直に要求してくる。

「抑えられない感情があるはずだよ」
「どうしてわかるんですか」
「私も同類だからね。この私ですらそれから逃げることはできなかったよ」

 誤魔化さずに僕の目を見て話す。

 どんなに心で否定しようと、身体が勝手に動こうとして脳が勝手にイメージを作り上げてしまう。身体の動きは止められても、脳の動きは止められない。膨れ上がったイメージは空気を入れ続けた風船のようにやがて限界が来て破裂する。

 そうならない為にはイメージを外へ出すしかない。僕らはそういう生き物なのだ。

「恐怖はありませんか?」

 だからといって素直に外へ出せていたなら、僕はここまで腐りはしなかった。

 自分に才能がなかったら、作品を受け入れてもらえなかったら。違う形で称賛されてしまったら。望む反応がもらえなかったら。それら全てが上手くいってしまったとしてその先に何があるのか。

 どんなに些細な事でもそこには必ず恐怖が伴う。

 子供の頃に味わった、自分の創造物が周りに多大な影響を与えてしまう恐怖。それは怪物となって僕を未だに睨みつけている。

「ないよ。と言ったら嘘になる。だけど、私はもうその次元にはいない」

 キサさんはあっさりと怪物を薙ぎ払ってしまう。

「怖かろうが本能のままに芸術を作り上げる。自分がどこの誰で何かは関係ない。ミグラトーレであろうが、渡会杞紗であろうが。私は創ることから目はそむけない。それは私の作品を想ってくれいる人の為でもある」

 さっきまでのふざけていた会話とはまるで違う。言葉の一つ一つに重みを感じる。

「時には期待を裏切ったり、思ったような作品に仕上がらなかったりする。しかし、それを含めて私だ」

 先日のように弱みを見せてくれたりもするが、この人は基本的には強い人だ。

「だから恐れる必要はない。イメージをそのまま昇華させればいい。まあ私も最近まで他人の言いなりで作品を制作していた身だけどね。誰かに指図されて作られたイメージは本当につまらないものだよ」

 キサさんと出会ってから、僕の頭には様々なイメージが湧いては消えていった。しかし、そのどれもが他人を不快にさせる絵ばかりだ。それは芸術などではなくストレスの捌け口が形となっただけにすぎない。殻にこもって退廃的な芸術ばかりを生み出していた日々。あの頃の僕と今の僕は少し変わったと思うけれど、キサさんと出会っても僕が生み出す物は変わっていない。

 僕が向き合おうとしないからだ。こんな風になりたいと憧れるだけだった人が手の届く場所にいるというのに。

「僕もキサさんみたいになれるでしょうか」
「そんなことは誰にもわからないよ。だけど、なりたいなら描くしかない」

 厳しい言葉が突き刺さる。

 僕はまだ恐怖から立ち直れていない。同じことを繰り返したくはない、という恐怖を言い訳にして逃げ続けている。

「頭がおかしくなるくらいイメージして、腕が千切れるくらい描いて、そこに残ったものが自分自身の芸術だよ」

 その通りだった。立ち止まって塞ぎこんでも変わらない。キサさんと出会って、何もかも壊してやりたと思うようになって、今の僕はいる。このままでいいと思っていたあの頃の僕はもういない。変わりたいと思うならもがいてでも動くしかない。

 冷たくなったミルクを一気に飲み干す。冷えたミルクは身体の中に浸透して燃料となる。

「やる気になったみたいだね」
「はい」

 やれるだけやってみる。それしか今を打破する方法はない。

「ありがとうございます」
「お礼を言うのはまだ早いよ」

初めてキサさんに出会ったときもそうだった。この人は人を動かすことに長けている。