次の日には須藤さんは東京へ帰って行った。彼女もそれなりに忙しいらしい。
無理やりにでも引き剥がされるのかと懸念していたが杞憂だった。
ただ、僕に釘を刺すことは忘れていなかった。
「もし彼女に何かあったら覚悟してください」
そう言われた時にその時の鋭い視線が脳裏に焼き付いて離れない。
それから一週間、何事もなく順調に爆弾を仕掛けていった。
その間にも、予餞会の準備は進められている。下絵を描く予定だった生徒が辞退したことはすぐに校内に知れ渡っていた。さらに館山がそれに一枚噛んでいることも知られ、そんな我儘は許さないと何人もの立候補者が出ていた。
その結果、下絵はコンクールのような形式となり、唯織曰くそれなりの数が集まっているようであった。
そしてここにも一人、それに参加しようと苦悩する男がいる。
「トレースとかばれる?」
「当たり前でしょ。校内制作を舐めてるの?」
「じゃあゴーストライター的な何かは?」
「もはや自分で描くこともしないのね」
「だってこれを見て見ろよ」
紋所でも見せつけるかのように大河は自分の描いた絵を唯織に突き付ける。
「クソダサでヘタクソだ。落選間違いなし」
「傷ついた……」
「メンタルもクソザコね」
大河と唯織のどうでもいい会話を聞き流しながら購買で飼ってきた惣菜パンを齧る。不審者を撃退したあの日以降、二人は昼休みなるとこうして僕の席にやって来てはこんな会話を繰り返している。
下手くそな絵を見せて行けば、仕方なく僕が描き始めると思っているのだろうか。
実際、その作戦は当たらずも遠からずと言ったところだった。大河の前衛的な絵を見ていると、空想の中で色々と添削を入れてしまう。
「大河は何がしたいわけ?」
「俺の名前で朱鳥の絵を出そうかなと」
それは聞き捨てならない。
「辞めてくれ」
そんな絵で俺の名前を使われても困る。思わず言いそうになって席を立つ。これ以上大河のメンタルを削る必要はない。
こうして廊下を歩いていると人の視線を感じることが多くなった。きっとキサさんを助けたあの事件が影響している。こんな風に注目を浴びても全くうれしくない上にトラウマを思い出しそうになる。
早く飲み物を買って戻ろう。もしくは美術室に籠ろう。
「ねえ、鳥海君。怪我は大丈夫?」
後ろから声を掛けられ、振り返ればどこかで見たようなことのある女子が三人いた。たぶん同じクラスだった気がする。
「昨日もあの女性と一緒にいたよね?」
「もしかしてそういう関係?」
一週間も経てば誰もそのことを忘れてしまったように長閑な日常が待っていると思っていた。しかし、現実はそうはいかず、さらにキサさんとの関係を聞いて来る生徒が増えたよう思う。特に女子は目を輝かせながら聞いて来るので無下にするにも気が引けてしまう。もっと下賤な視線を向けてくれればこっちもやり易いのに。
「怪我は大丈夫だよ。それとあの人とはちょっとした知り合いで」
「どんな知り合い? 付き合ってるの?」
「いや、付き合っているとかはないから」
いつも通り同じ答えをする。だが、それで納得してくれるならわざわざ聞きに来ることはしないだろう。
「ぜったいにうそ。私の見立てだと絶対に付き合ってる」
「だよね。だってあんな大怪我してでも助ける相手だよ」
「私そんなことされたら、ときめいて死んじゃう」
どうしたらこの話題から離れてくれるのだろう。正直、注目されるのは困る。昨日だって一緒にいるところを見られているようだし、いつ計画が表沙汰になったとしてもおかしくない。
「ぐずぐずしてねえで早く買えよ」
後ろに並んでいた館山が自販機前を占拠していた僕たちを一喝する。
「うわ。館山」「行こう」「ほんといつも感じ悪いよね」
女子たちは館山に聞こえるように陰口をたたいて去って行った。
「ごめん。すぐに買うから」
「別にいいや。買う気失せたから」
さっさとこの場から離れていく館山の真意が今ならわかる。
「ありがとう」
「お礼言われることしてねえけど。それより、締め切り明日だぞ」
締め切りとは下絵の事だろう。言われなくてもわかっている。逃げて得られることなんてきっと虚しさだけだ。
虚しさはもう満たされるほどに得ている。これ以上は願い下げだ。
キサさんが部屋から救い出してくれたあの日、湧いてしまった黒い感情を絵に昇華できなかったことが痛手になっている。黒い感情は病巣のように、脳裏にいろんな情景を送り込んできて、僕に鉛筆を握らせようとする。
「僕は上手く描けないから」
いま絵を描こうとしたら、きっと途方もなく暗い絵が完成してしまう。
「描かないだけだろ」
正論にぐうの音も出ない。描かなければならない衝動に背中を押されているというのにあと一歩が踏み出せない。
「どんな絵だってかまわないと思うけどな」
「相手を不快にさせる絵は駄目だよ」
「俺は逆も駄目だと思うけどな」
「逆って?」
「そのままの意味だ」
逆の意味を聞こうとしたが答えてもらえず、館山は話を打ち切って廊下の角を曲がっていく。
唯織も大河も館山もどうしてみんな僕に絵を描かせたがるのだろう。それにキサさんだってそうだ。口ではもう言ってこないけれど、集合場所はバイト先からアトリエに変わっている。望めば絵が描ける環境を僕は与えられている。
ポケットにしまっていたスマホが小刻みに震えてメールが届いたことを通知する。
『今日は病院だよね』
『はい。今日は抜糸です』
『そうか。今日は来られそう?』
『もちろん行きます』と送ろうとして『もちろん』の部分を消す。こんな些細な事を最近は気にしてしまう。
『じゃあアトリエで待っているよ。くれぐれも無理はしないように』
どうしてバイト先ではないのか聞こうとしたが、チャイムが鳴ってしまったので、メッセージは送らずにポケットにしまった。
無理やりにでも引き剥がされるのかと懸念していたが杞憂だった。
ただ、僕に釘を刺すことは忘れていなかった。
「もし彼女に何かあったら覚悟してください」
そう言われた時にその時の鋭い視線が脳裏に焼き付いて離れない。
それから一週間、何事もなく順調に爆弾を仕掛けていった。
その間にも、予餞会の準備は進められている。下絵を描く予定だった生徒が辞退したことはすぐに校内に知れ渡っていた。さらに館山がそれに一枚噛んでいることも知られ、そんな我儘は許さないと何人もの立候補者が出ていた。
その結果、下絵はコンクールのような形式となり、唯織曰くそれなりの数が集まっているようであった。
そしてここにも一人、それに参加しようと苦悩する男がいる。
「トレースとかばれる?」
「当たり前でしょ。校内制作を舐めてるの?」
「じゃあゴーストライター的な何かは?」
「もはや自分で描くこともしないのね」
「だってこれを見て見ろよ」
紋所でも見せつけるかのように大河は自分の描いた絵を唯織に突き付ける。
「クソダサでヘタクソだ。落選間違いなし」
「傷ついた……」
「メンタルもクソザコね」
大河と唯織のどうでもいい会話を聞き流しながら購買で飼ってきた惣菜パンを齧る。不審者を撃退したあの日以降、二人は昼休みなるとこうして僕の席にやって来てはこんな会話を繰り返している。
下手くそな絵を見せて行けば、仕方なく僕が描き始めると思っているのだろうか。
実際、その作戦は当たらずも遠からずと言ったところだった。大河の前衛的な絵を見ていると、空想の中で色々と添削を入れてしまう。
「大河は何がしたいわけ?」
「俺の名前で朱鳥の絵を出そうかなと」
それは聞き捨てならない。
「辞めてくれ」
そんな絵で俺の名前を使われても困る。思わず言いそうになって席を立つ。これ以上大河のメンタルを削る必要はない。
こうして廊下を歩いていると人の視線を感じることが多くなった。きっとキサさんを助けたあの事件が影響している。こんな風に注目を浴びても全くうれしくない上にトラウマを思い出しそうになる。
早く飲み物を買って戻ろう。もしくは美術室に籠ろう。
「ねえ、鳥海君。怪我は大丈夫?」
後ろから声を掛けられ、振り返ればどこかで見たようなことのある女子が三人いた。たぶん同じクラスだった気がする。
「昨日もあの女性と一緒にいたよね?」
「もしかしてそういう関係?」
一週間も経てば誰もそのことを忘れてしまったように長閑な日常が待っていると思っていた。しかし、現実はそうはいかず、さらにキサさんとの関係を聞いて来る生徒が増えたよう思う。特に女子は目を輝かせながら聞いて来るので無下にするにも気が引けてしまう。もっと下賤な視線を向けてくれればこっちもやり易いのに。
「怪我は大丈夫だよ。それとあの人とはちょっとした知り合いで」
「どんな知り合い? 付き合ってるの?」
「いや、付き合っているとかはないから」
いつも通り同じ答えをする。だが、それで納得してくれるならわざわざ聞きに来ることはしないだろう。
「ぜったいにうそ。私の見立てだと絶対に付き合ってる」
「だよね。だってあんな大怪我してでも助ける相手だよ」
「私そんなことされたら、ときめいて死んじゃう」
どうしたらこの話題から離れてくれるのだろう。正直、注目されるのは困る。昨日だって一緒にいるところを見られているようだし、いつ計画が表沙汰になったとしてもおかしくない。
「ぐずぐずしてねえで早く買えよ」
後ろに並んでいた館山が自販機前を占拠していた僕たちを一喝する。
「うわ。館山」「行こう」「ほんといつも感じ悪いよね」
女子たちは館山に聞こえるように陰口をたたいて去って行った。
「ごめん。すぐに買うから」
「別にいいや。買う気失せたから」
さっさとこの場から離れていく館山の真意が今ならわかる。
「ありがとう」
「お礼言われることしてねえけど。それより、締め切り明日だぞ」
締め切りとは下絵の事だろう。言われなくてもわかっている。逃げて得られることなんてきっと虚しさだけだ。
虚しさはもう満たされるほどに得ている。これ以上は願い下げだ。
キサさんが部屋から救い出してくれたあの日、湧いてしまった黒い感情を絵に昇華できなかったことが痛手になっている。黒い感情は病巣のように、脳裏にいろんな情景を送り込んできて、僕に鉛筆を握らせようとする。
「僕は上手く描けないから」
いま絵を描こうとしたら、きっと途方もなく暗い絵が完成してしまう。
「描かないだけだろ」
正論にぐうの音も出ない。描かなければならない衝動に背中を押されているというのにあと一歩が踏み出せない。
「どんな絵だってかまわないと思うけどな」
「相手を不快にさせる絵は駄目だよ」
「俺は逆も駄目だと思うけどな」
「逆って?」
「そのままの意味だ」
逆の意味を聞こうとしたが答えてもらえず、館山は話を打ち切って廊下の角を曲がっていく。
唯織も大河も館山もどうしてみんな僕に絵を描かせたがるのだろう。それにキサさんだってそうだ。口ではもう言ってこないけれど、集合場所はバイト先からアトリエに変わっている。望めば絵が描ける環境を僕は与えられている。
ポケットにしまっていたスマホが小刻みに震えてメールが届いたことを通知する。
『今日は病院だよね』
『はい。今日は抜糸です』
『そうか。今日は来られそう?』
『もちろん行きます』と送ろうとして『もちろん』の部分を消す。こんな些細な事を最近は気にしてしまう。
『じゃあアトリエで待っているよ。くれぐれも無理はしないように』
どうしてバイト先ではないのか聞こうとしたが、チャイムが鳴ってしまったので、メッセージは送らずにポケットにしまった。