気分が沈んだ時に行ける場所は限られている。

 アトリエに歩みを向けて、今日のバイトは休みであることをキサさんに伝えていない事に気づく。もしかしたらバイト先の方へ行ってしまっているかもしれない。
 
 生まれて初めてスマホが欲しいと思う。こういう時に連絡が出来ないのは不便だ。

 申し訳ないと思いながらも、アトリエに向けられている歩みを変えられなかった。

 頭に浮かんでしまった衝動を外に吐き出さなくてはならない。描かなければ窒息してしまう。脅迫観念が実際に僕の首を絞めて息苦しくさせる。

 鍵が掛かっているかもと思ったけれど、アトリエのドアはあの日と変わらず開いていた。

 丘の上にあるここは町を一望できる。日が傾き朱に染まった町を見下ろして渡り鳥が飛んでいく。渡り鳥の白い身体も今は朱に染まっていた。まるで爆弾が投下されて炎上しているように見える。実際、そうだったとしたら僕はどうするのだろう。慌てて火を消しに行くのか、それとも笑って「ざまあみろ」と呟くのか。

 スケッチブックをイーゼルに立て掛けて思案する。

 今日は何を壊そうか。

 この町の壊せそうなものは既に少なくとも三回は壊している。

 目を閉じると先ほどの風景が浮かび上がる。

 一羽の渡鳥によって引き起こされる惨劇。渡鳥が落とした爆弾は容赦なく町を破壊していく。

 構想が決まってしまえばあとは簡単だ。頭の中に出来上がっている絵を写していけばいい。

 時間を忘れて鉛筆を走らせていく。

 白い紙に引かれていく線は、燃え上がる炎となり、武骨な爆弾となり、廃墟となる。

「随分と乱暴な描き方だね」

 最後に渡鳥を描こうたところで声を掛けられる。今の僕を止められるのは、この声しかない。

「キサさん。どうしてここへ?」

 バイト先に言ってから戻って来るには少し早い。

「ある人から君がここに居ると連絡を貰ったから」

 ある人ってもしかして館山だろうか。

 キサさんは僕の肩を掴んでスケッチブックの方に向かせると、鉛筆をとって書き込んでいく。

「ここのタッチが甘い。それからこっちも構図が歪だ。バランスが取れていない」

 不意に始まった駄目だし。冷静になってみて見ればその通りだった。その後も背後からの的確な指摘に僕は成す術もない。

 久しぶりに美術の授業を受けているようだった。

「ただ、感情は伝わって来る。粗削りだけど、これはいい作品になるよ」

 酷評されて終わりだと思っていただけに、多数ある修正の箇所が希望の粒のように見える。絵に色を付けてみたいと久しぶりに思うが、そうした思いをすぐに打ち消す。

「この絵はこれで終わりです。ただのストレス発散ですから」

 誤魔化すようにスケッチブックを閉じる。

「そういえば、君の描く絵は全て中途半端に終わっているよね?」
「僕は絵を描いちゃいけないんです」
「どういう意味?」
「以前、家族については話しましたよね。あの原因を作ったのは僕なんです。僕の描いた絵がメディアに取り上げられて目立ってしまったから」

 キサさんは理解しかねるのか、表情からは困惑が伺える。

「母がよく言うんですよ。『あんたが余計なことしなければ』て。僕が何処にでもいる普通の子だったらこんなことにはならなかったんだと思います。中途半端に才能があるから痛い目をみるたんです」
日が暮れて薄暗くなったアトリエで沈黙の帳が下りる。

「それでも君は絵を描くべきだ」

 沈黙を切り裂いてキサさんの声が届く。

 自分の実力は自分が一番理解している。キサさんに認められたからといって浮かれるほど僕は単純じゃない。

「話聞いてましたか。僕は」
「才能なんて関係ないよ。君は絵を描くことから逃げている」

 混じりけの無いガラスの様な言葉が容赦なく突きつけられる。

「だから予餞会の下絵も描こうとしない」

 キサさんがどうしてそれを知っているのか、それも気になるが今はそういう話をしていたわけじゃない。僕が絵を描いていけない理由を話していたはずだ。

「問題をすり替えないでください」
「私はすり替えてなんていないよ。すり替えているのは君の方さ」

 キサさんはアトリエの照明を付けて覚悟を決めたように僕と対峙する。炯々とした眼光は一人の人間というよりも、芸術家としての威圧を感じさせる。

「絵を描いてはいけない理由。そんなものはこの世界には存在しない。あるとすれば描かない理由だけだ」

 天啓のように、清々しく、まっすぐな瞳で、一滴の汚れもなく言い切る。

「受け入れるだけが事の解決策ではないよ。向けられている言葉に何の根拠もないことくらい気づいているだろ。制限や言い訳を並べて完成させることを拒んでいる。一方的に協力を仰いでおいて申し訳ないが、そんな人間に私の芸術の手伝いを任せるわけにはいかない」

 他所から来た正論が、凝り固まった曲論を打ち砕く。それはまさに破壊と行為と言っても差し支えなかった。

 ただし、そんな簡単に受け入れられるのならここまでこじらせてなんていない。

「この町で頭一つ抜け出ることが、キサさんどういう事なのかわからないですよね。それに僕は所詮、少し絵がうまいだけのただの人だ。それも過去の話、子供の時の才能なんて既に枯渇してる。下絵を描いても全然だめだったら、期待を裏切ってまた皆から白い目で見られて、今度こそ唯織や大河も離れていく」

 やらない理由を言い訳のように述べていくうちに、自分でも誤魔化していた本当の自分が見えて来る。

 絵を描くのが怖いんじゃない。認めて貰えない事が怖いのだ。

「キサさんにはわからないと思います。こんな気持ち」
「私が初めから認められていたと思ってる?」

 嫉妬に似た薄汚い吐露に対する純粋な質問だった。

 僕はキサさんの事は何も知らない。それなのに僕は彼女が何も苦労をしないでここまできてのだと決めつけていた。

「わからないですよ。何も言ってくれないですから」

 思ったことがそのまま口に出てしまう。絵に昇華していたストレスが吐き出しきれていなかった。こうなってしまうと自分でも止められない。

「僕ってそんなに頼りないですか? 確かに身体は大きくないですし、力も強くない。別に僕じゃなくても良いんじゃないですか? 言う通りにしてくれる人なら、館山だって僕の代わりになりますよ」

 ありったけの八つ当たりをかましても、キサさんは僅かに表情を歪めただけで、炯々とした眼光は曇ることがない。僕の言葉など彼女にとっては小石程度でしかないのだ。

「今日はもう帰って頭を冷やすといい」

 そう言いながらアトリエの扉を開ける。暗に帰れと言っているに等しい。あれだけ言葉をぶつけても話してくれない。

 目も合わせることもできず、飛び出すようにアトリエを出て行く。

 後ろで響く扉の閉じる音が関係の終わりをしめしているようで、僕は早々に自責の念に駆られていた。

 向こうが言っていたことはすべて本当だ。一方の僕は図星を突かれてむきになって、相手が傷つく言葉を並べただけだ。

 風が批判するように吹き込んで枯草を当て付けて来た。