心臓が一気に冷えて、美久は今度こそ抵抗しようとした。
「やめ、こんな……っ!!」
でも美久が抵抗するより早かった。あかりが美久の腕を離すやいなや、ドン、と美久の体を突き飛ばした。
「やっ……!」
美久は思い切り用具室の中に突っ込まれた。勢いが良すぎて、どさっと床に倒れ込んでしまう。頭などを打たなかったのは幸いだろう。
その美久をあかりは冷たい目で見降ろしてきた。
「自分が図々しくて無力だってこと、思い知るといいわ」
恐ろしさが美久の身を満たした。あかりの言ったことよりも、こんなところへ閉じ込められそうになっていることが。
だって、もうすぐ夕方になる。学校から誰もいなくなってしまうだろう。
誰か来てくれるかもしれないが、その保証なんてない。恐ろしい。
「やめて! こんなこと……」
「じゃ、ね。大丈夫よ。明日の朝には用務員さんが仕事に来るだろうから」
それだけ言い残して、無慈悲にもドアは閉じられた。バタン、ガチャンと音がする。鍵をかけられたらしい。
まさか、最初から、自分が抵抗すればこうするつもりで。
美久はやっと思い知った。呆然とする。
こんなことになるなんて思わなかった。
やっと起き上がって、座る。今さらながら体が震えてきた。
恐ろしかった。あかりのことも、周りの子のことも、言われたことも、突き飛ばされたことも、閉じ込められたことも、全部。
がくがくと震える体を抱きしめる。
入り口を見たけれど、内側から開けられそうなツマミなどはない。それはそうだろう、用具室にこもるひとなんていやしない。外からしか鍵はかからないし、開けられないのだ。
うすうすわかっていたけれど、目にしてしまって絶望した。
用具室は真っ暗ではなかった。上のほうに窓があって、そこから夕方になりかけのひかりが差し込んでいる。
あそこから、出られるかな。
ぼうっと思ったけれど、高すぎる、とすぐ思った。
なにか、倉庫の中にあるものを積み上げたら窓に届くことはできるだろう。そして脱出できないこともない大きさの窓だ。
でも、外に出るのはいいが、そこから地面にはどうして降りるのか。飛び降りれば確実に怪我をしてしまう。足を折ってしまうかもしれないのだ。
想像して、美久はもう一度ぶるっと震えた。
一体どうなってしまうのだろう。
美久はへたりこみ、ぼうっとし続けるしかなかった。
明日の朝になれば、用務員さんが来る、と言っていた。だから閉じ込められたまま誰にも見つからずに死んでしまうということはないだろう。
でも一月の寒さの中だ。風邪を引いたり体を壊したりということはあるだろう。
それに水も食べ物も、トイレもない。すぐになにかしら困ったことが起こってしまうことは想像できた。
どうしよう。
けれどいい考えなど思いつくはずもなく。どのくらい経ったのだろうか。
多分十分程度だったのだろうが、美久にとっては既に永遠にも思えてしまった。
と、そのとき。
不意にがたっと音がした。
美久はびくっと震える。
なにか落っこちたのだろうか。棚にあったものとか、積んであったものとかが。
もしくは猫でも入りこんでいたのだろうか。
でもそうでないことはすぐにわかる。
がたがた、と音がして、それは近付いてきているようだったのだから。
ひっと声が洩れた。まさか、誰かいるのだろうか。
助けてもらえる可能性もあったけれど、こんな密室では恐ろしい。悪いひとである可能性もあるのだ。
しかし。
ああ、美久にとってこれは神様からの手助けともいえるようなことだった。
「あれ、綾織さん? こんなところでどうしたんだ?」
奥から顔を見せたのは、快だった。なにかの道具を手にしている。
久保田くん!?
美久は幻覚を見ているのではないかと思った。
不安と混乱のあまり、幻覚でも。
でもどうやら幻覚ではなかったようなのだ。
「……どうしたの?」
美久が床にへたり込んでいるのを見て、おかしな事態だと知ってくれたらしい。不思議そうな顔になった。
そしてゆっくり近付いてきて、そっと美久の前にしゃがんだ。
「なにか、あったのか?」
この時点で快は、この倉庫が閉じられ、鍵までかけられたということはわかっていなかったに違いない。なのでまだ余裕があったのかもしれないが、美久にそっと手を伸ばした。スカートの上で握っていた手に触れる。
そのあたたかくてしっかりした感触。美久の体を震わせた。
助かるわけではない。解決するわけではない。
けれど、一人じゃない。
胸にそれが迫って、じわっと染み込んで、それは雫になった。
ぼろぼろと涙が零れ出す。
あかりと対峙して、恐ろしくなったときも出なかったのに。
突き飛ばされて閉じ込められたときも出なかったのに。
安心と不安が混ざり合って、ぼろぼろと涙になってしまったのだ。
「大丈夫だ」
快は泣きだした美久の手をぎゅっと握ってくれた。彼にはまだ理由も状況もわからないだろうに、美久を力づけるように。
「大丈夫だから。話してくれ」
その手のあたたかさと優しい言葉に、美久の心があたたまってくる。
恐ろしさや不安に凍り付いていた心が少しずつ緩んでいって。
今度は違う意味で涙が零れたけれど、快に触れられていないほうの手で、ぐっと拭う。
「うん」と、小さく頷いた。
「なんだそりゃ!? じゃ、俺たちはここに閉じ込められたってことか」
事情を聞いた快は目を丸くした。それは当然だろう、こんなところに閉じ込められた、なんて事実を聞かされたら。
「ごめんなさい、私のせいで……」
ひと通り事情を話した美久は目を伏せた。ここへ閉じ込められたのは自分のせいではないが、快を巻き込んでしまったのはどうやら自分のせいらしいのだ。
快はバスケ部で使う道具を取りに、この用具室へやってきていたそうだ。探すのに手間取って、奥のほうまで探して……としていたので、入り口での出来事は気付かなかったということだ。
美久も同じだ。あの状況に戸惑いすぎていて、奥に誰かひとがいるなんてこと、思いつきもしなかった。
でもわかっていれば「ほかのひともいるんだから!」とあかりを止めることができたかもしれない。そう思ってうなだれてしまったのだけど、快はきっぱりと否定した。
「綾織さんのせいじゃないだろう! くそ、あかりめ……なんてことしやがる」
言いつけるようで気が引けたのだが、言わないわけにはいかない。あかりとその友達によってここへ閉じ込められてしまったのだと。
快は『信じられない』という顔をしたものの、美久に嘘をつく理由なんてないのだ。
それに快だって、少しは感じていただろう。自分が美久と仲良くすることで、あかりが面白くないと感じていたことだって。それほど鈍いひとではないから。
「しまったな……鍵を持ってくればよかった。ああ、でも結局内側からじゃ鍵があっても無意味か」
快も動揺していたらしい。そのように言って、すぐ自分で否定した。
「窓から出られるかな」
快は立ち上がって、美久と同じように、窓から出られないか考えたらしい。窓の様子を見ると言った。
そこにあった棚に足をかけて「よっと」と窓へしがみつく。美久はそれを見てはらはらしてしまった。
落っこちてしまったらどうしよう。怪我をしてしまうだろう。
けれど快は落ちることはなかった。
でも解決策も見つからなかったらしい。
しばらく窓から外を見ていたけれど、首を小さく振って、慎重に降りて戻ってきた。
「ダメだ、出られないことはないだろうが、外が問題だ。この窓からだと、建物の二階から飛び降りるくらいには高さがある。飛び降りるのは無謀だと思う」
「そう、……だよね……」
快は美久の隣へきて、どさっと腰を下ろした。積んでいたマットらしきものに座っていた美久の隣へ座る。
「綾織さんに怪我をさせるわけにはいかないからな」
言ってくれたこと。そんな場合ではないのに、美久の胸を高鳴らせてしまった。
自分のことを心配してくれるのだ。こんなときなのに。
そしてこんなときなのに思い出してしまった。
ここへ閉じ込められることになった発端の、あかりたちとのやりとりだ。
『きれいになれば久保田くんも振り向いてくれる、って期待してるわけ?』
それで自分は詰まってしまったけど、と美久は思う。
詰まってしまったのは、否定なんかできなかったから。
すぐに否定できないほどには、自分の中に、快に対する気持ちがあること。
皮肉だが、あれで思い知らされてしまった。
自分は快のことが好き、なのかもしれない。
再び思ってしまって、顔が熱くなった。
こうして二人きりで密室になんている。
それを意識してしまって、急に緊張してきてしまった。もう快と隣同士で座っても緊張などしなくなっていたというのに。状況が違いすぎる。
美久の様子をおかしく思ったのか、快がちょっと顔を覗き込んできた。美久の心臓がどきりと跳ねる。
「どした? 具合でも悪いか?」
また気遣われてしまった。でもそれは誤解だ。
「うっ、ううん! ただ、どうしたらいいのかなって……」
それも本当のことなのでそう言っておいた。快も眉をしかめて「うーん……」とうなる。
でもいい考えなどあるものか。
入り口と窓のほかに出られそうなところなどない。
そして一番運の悪いことに、二人ともスマホをここへ持ってきていなかったのだ。
美久は学校ではいつもそうするように電源を切って通学バッグにいれたままであったし、快は快で部活中にスマホを持ち歩くものか。同じく部室に置いてきてしまったと言っていた。
つまり外との連絡手段はまったくない、ということだ。
「朝になれば用務員さんが仕事に来るって言ってたけど……」
美久の言ったことは希望でもあり、絶望でもあった。
「そうか、じゃあずっと閉じ込められたままはない、ってことだな」
「そうだと……思う……」
「用務員さんが来るなら、戸締まりをしに、もしかしたら来るかもしれない。それか先生とかが見回りに来るか……」
それは希望的観測であったけれど、ありえないことではない。快は、ぱっと立ち上がった。ポケットからなにかを出す。
それはペンライトであった。
「奥は暗いから、探し物をするのに手間取るかと思って持ってきておいたんだ」
そう言って、どうするのかと思えばもう一度窓のところへ行った。よっと、と同じように棚に足をかけて窓を掴む。
美久はよくわからないままに見守るしかなかったのだけど、すぐに理解した。
快はペンライトをつけて、窓の外に向くようにセットしたのだ。
そして、よっと、とまた降りてきた。美久の隣へ戻る。
「こうすれば不自然に明かりが見えるかもしれない。そしたら、気付いてくれるひともいるかもしれない」
確実ではなかったけれど、見つけてもらえる可能性が少しだけ上がった。美久も少しだけほっとする。
「かもしれない、ばっかで悪いけど、見つけてもらえるといいな」
でも明かりが見えるということは、あたりが暗くなってしまうということだ。
夜までここにいるのだろうか。
いや、運が悪ければ一晩いることになるのだけど……。
快と。
一晩、二人きりになるというのか。
違う意味でどきどき心臓が騒ぎだした。
そんな場合ではないというのに。
今のところできることは終わってしまった気がする。
ほっとしている場合ではないが、とりあえず焦っても仕方がない。二人ともマットの上で力を抜いた。
そして座ったまま力を抜いてから気付く。ぶるっと体が震えた。
寒い。
日が落ちてきて、気温も下がったのだろう。一月の、暖房もない用具室だ。風は当たらないといっても、夜になれば冷えるだろう。
美久が震えたのを感じたのだろう。快は美久を心配そうに見た。
「寒いか?」
気遣ってもらえたけれど、だからといって出られるわけではない。美久は笑ってみせた。強がりだったけれど。
「う、うん……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろう。……やっぱり、冷えてるじゃないか」
そっと手に触れられた。冷えを確かめるためだというのに、どくんと美久の心臓は跳ね上がってしまう。
「女子はスカートだしな……」
確かに。女子制服はスカートなので、長ズボンの男子制服より寒さを感じやすいだろう。美久は以前は長めだったスカートを、少し前から丈を詰めていた。
留依に「このくらいなら怒られないよ」と教えてもらったのだ。「適度に短いほうがかわいいからさ」と。そのときは嬉しかったし、実際そっちのほうがかわいかったので満足していたのだけど。
今ばかりはちょっと後悔した。
「脚も冷えるだろ。……これ、かけとけ」
唐突に快は身を起こして、ジャケットを脱いだ。美久は驚いてしまう。
ジャケットを差し出されても、すぐにはわからなかった。でもブランケットのように脚にかけておけ、と言われたのがわかる。
「え、そ、そんな、久保田くんが寒いよ」
ジャケットなしでは快が寒いに決まっている。
なのに快は「ほら」と促してくる。
「大丈夫だ。今日は厚いセーター着てきたから」
それが本当なのかはわからないけれど、確かに快はセーターを着ていた。ベージュのシンプルなセーター。
促されているのに「いいよ」と二度言うのも悪い。
美久はおそるおそる、手を出した。快がジャケットを渡してくれる。
ためらったけれど、美久は自分の脚にそれをかけた。
ほわっとあたたかさが伝わってくる。それはジャケットをかけたあたたかさではなく。
残っていた、……快の体温、だ。
実感してしまって、かっと体が熱くなった。顔も赤くなっただろう。
体温をこんなふうに感じてしまうなんて思わなかった。
無性に恥ずかしい。
でも、……嬉しい。
じんわり美久の心に染み込んでいった。
快の体温やジャケットで脚を覆ったことによるあたたかさだけではない。
自分にジャケットを貸してくれた、快の気持ちが。
そのあたたかさは美久にまた実感させてしまった。
このひとのことが好きだなぁ、という。ほんのり想っていた気持ちを。
とても優しいこのひとのことを。
「ありがとう。……あったかい」
ちょっとためらったけれど、あったかい、と付け加えた。体温を指しているようで恥ずかしくなったけれど、快はただ、にこっと笑った。
「そりゃ良かった。しっかりかけておけよ」
「うん」
それからぽつぽつと話した。外はもう薄暗い。腕時計をつけていたので時間はわかる。午後の五時半になろうとしていた。
下校のチャイムももう鳴るだろう。
本当に朝まで誰も助けに来てくれないのかな。
思ったけれど、今は何故かさっきよりは不安ではなかった。
それはジャケットのあたたかさが伝えてくれたからかもしれない。一人ではないから、と。
快と一緒なら、本当に一夜誰も助けてくれないことになっても大丈夫だろう。
「ほんとにごめんな、あかりのやつが……」
ぽつぽつと話すうちに、心底すまなそうな顔で謝ってくれた。まったく快のせいではないというのに。幼馴染みといっていたのだから、快も責任を感じてしまったのだろう。
「ううん、桐生さんも久保田くんのことを心配してるのはわかったから……」
今、少し落ちついているからかあかりのことを悪く言う気にはならなかった。
そりゃあ、こんな、ひとを用具室に閉じ込めてくるなんて良くないことだ。突き飛ばされたのもある。助け出されたら先生に言って、叱ってもらうことは当たり前だろう。
でも、あかりの気持ちもわからないことはないから。
好きなひとがほかの女の子と仲良くしている。その面白くない気持ちというのは。
実際、あかりが言っていたのもある。
『でも今の快は誰かと付き合ったりしてる余裕はないの』
それは確かに、快を思いやっての言葉だろう。
自分の叶わない片想いと、美久を邪魔にする気持ちを正当化する言葉だったのかもしれない。
でもまったく根拠がなければ、こんな言葉、出るだろうか。
だから引っかかっていたのだ。どうして余裕がないというのだろう。
付き合う、というのは美久の気持ちをちょっと恥ずかしくしてしまったけれど。
快への気持ちを自覚してしまった今では。
だって、好きだということは、そのあとは付き合いたい、という思考になって当然だから。
「まぁ、それはあると思うけど……でも度が過ぎるから……」
快は困ったように言った。快自身も『それはある』と言った。つまり心配される要素があるということだ。
だけど美久は困ってしまう。快に「どうして余裕がないの?」なんて聞けるものか。
快にはなにか事情がある。それは前から色々な場面で感じていたけれど、自分が聞いていいことではないとも感じていた。だから今回も美久は聞かなかった。「そうだね」とだけ返事をする。
「それに綾織さんの言う通りだよ」
ふと顔をあげて快は美久を見た。随分暗くなった用具室の中だけど、これだけ近いのだ、顔ははっきり見えた。
快の瞳は美久をまっすぐに見つめていた。優しい色の瞳が何故か今はちょっと固いように見える。
「俺がどうするかは俺が決めることだ。いくら幼馴染みだとかいっても、余裕がないとか決めつけられるいわれはない」
美久は息を飲んだ。快の言葉には、強い決意と気持ちがこもっているのがわかったから。
そして、自分がどうするかは自分が決める、と言ってのける彼がどんなに強いかということも。
なにか抱えているものがあっても、それでも自分で切り開いていく、という気持ち。
「だから、したいことはするし……、仲良くなりたいと思ったら諦めるわけないし」
不意に話題が違うほうへ行った。美久はきょとんとしてしまう。
仲良くなりたい、というのはいい。実際、自分と親しくなっていって、仲良くしてしてくれてきたのは確かなのだから。
でも『諦める』というのは。
その意味が美久にはよくわからなかった。
美久に伝わっていないのは快もわかっただろう。
ふっと笑った。固かった瞳が優しい色になる。
そっと手を伸ばされた。
膝にかけた、快のジャケット。その上に置いていた美久の手に触れられる。
きゅっと握られて、美久の心臓がどきりと跳ねた。
こんな近くで見つめられた上に、手にまで触れられたら。
快の手はあたたかかった。しっかりと厚くて、固くて、男のひとの手をしている快の手。
どくどくと心臓がうるさく騒ぐ。息苦しくなってきた。
こんな空気、美久は知らなかった。
でも、第三者としては知っている。すなわち、マンガやドラマなんかで見るような状況。
思い描いた途端、頭の中が煮え立つと思った。顔も真っ赤になったに違いない。
まさか、なにか、そういう……恋愛的なことが。
美久の反応は良いように取られたのだろう。もう一度、きゅっと手を握られた。
「俺は、綾織さんともっと仲良くなりたい」
静かに言われた。どくどくと心臓を高鳴らせながら、美久はそれを聞くしかない。
見つめた先の快の瞳が閉じられた。すぐに開かれて、まっすぐに見つめられた。
「綾織さんが好きだ。もっと知っていきたい」
心臓を握り潰されたようだった。ぎゅっと痛くなる。
まさか快からこんなことを言われようとは。
この状況で『友達として』なわけはない。恋愛に慣れていなくたってそんなことはわかる。
でもどう言ったらいいかわからない。
いや、本当はわかる。
だって、自分の気持ちはもうわかったのだ。
「はい」と言ってしまえばいい。「自分も好きだった」と言えばいい。
なのに、その言葉は美久の口からは出てこなかった。
さっき、あかりと対峙したときは勇気を出すことができたのに、今はその勇気がどこかへいってしまったかのように。
「わ、わた、し……」
呆然と言った。でもそこまでしか言えなかった。
ダメ、こんなことじゃ。
はっきり言わなきゃ。
返事をしなきゃ。
でも快の真剣な瞳を見つめるしかなくなっていた、そのとき。
ドンドンドン!
急に大きな音が入り口からした。美久は、びくんとしてしまう。
それは快も同じだったようだ。びくっとして、入り口を見た。
ドンドンドン!
また叩かれた。誰かが来ているのは明らかだった。
そしてその誰かというのはすぐにわかった。
「美久! そこにいるの!?」
「る、留依、ちゃん……!?」
聞こえてきたのは留依の声だった。
どうして、留依ちゃんが、ここへ。
美久は今度、違う意味で呆然とした。
「美久! いるんだね!? 無事!?」
外の留依の声が、ちょっとだけほっとしたというような声音になった。
でも美久の口から言葉は出てこなかった。あまりに急展開過ぎて。
代わりに留依に応じたのは快だった。
「渚さん! 俺だ、D組の久保田だ。綾織さんと一緒だ」
声をあげて留依に答える。留依の声がひっくり返った。
「久保田くん!?」
「ああ。大丈夫だ、綾織さんも無事だ。でも早くここから」
しっかりした声で言った快に、すぐに声が聞こえた。
「う、うん! 今、鍵をもらってくるね!」
それからすぐ、バタバタと走り去るような音が聞こえて、すぐに聞こえなくなった。
美久はぼうっとしていた。
この急展開にちっともついていけなくて。
その美久を快が覗き込んだ。
「綾織さん、出られるぞ!」
言われてやっと、はっとした。そうしてから自分が恥ずかしくなる。
留依が助けに来てくれて、呼びかけてくれたのに、まともに答えることもできなくて。
でも理由はある。
快に言われたことに混乱してしまっていたから。そこへこの展開だ。ついていけなくても仕方がない。
やっと言った。
「よ、……良かった……」
力が抜けそうになった。違う意味で体が震えてくる。
「良かった」
しかしすぐにまたどきっとしてしまった。握られたままだった快の手に、もう一度ぎゅっと力がこもったから。
「悪い、こんなときに、ヘンな話をして」
「えっ……」
まさか、取り消されてしまうのだろうか?
自分がこんな、まともに返事もできなかったから?
心臓が冷えた美久だったけれど、それは違ったようだ。
「今度、落ちついてから返事、聞かせてくれたら嬉しい」
今度?
落ちついて?
返事?
美久はその言葉をひとつずつ噛みしめなくてはいけなかった。
そしてそれが染み入ったとき、かぁっと顔が熱くなった。
快は落ちつけずにいた自分を気遣ってくれたのだ。それで今、無理に返事をしなくていいと。この騒動が解決して、落ちついてからでいいと。
また優しくされてしまった。
自分に恥じ入るやら情けなく思うやら、でも快から言われた言葉とそれに対する返事は決まっているのだから、顔や胸が熱いやら。