「ああ、楽しかった」
 蔓屋書店を出て、快は満足だ、というような声を出した。二人で駅のほうへ向かう。
 見ていた時間は一時間にも満たなかっただろう。けれど美久にとってはたくさんのことがありすぎた。どきどきしたり、緊張したり。
 でも楽しかった、と思う。
 不思議なことだ。男の子とこういうふうに外で過ごすなんて初めてだったのに。
 あのとき勇気を出して「一緒に」と言ったことはきっと正しかったのだ。そこは自分を褒めてあげたい。
「うん、楽しかった」
 素直に美久も楽しかったと言うことができた。
 手の中に包んでもらった文庫本があるだけではなく、今日は色々なものが手に入った気がしたのだ。
「綾織さんは、電車どっち?」
「えっとね、上り方面……」
 こんな会話も普通にできるようになってしまっていた。そんなやりとりをしながら駅へ入る。
 しかしそこで知っているひとに出会ってしまった。
「あれ快じゃん。こんなところでなにしてんの?」
 スクールバッグを肩にかけた、クラスメイトのあかりであった。美久はちょっとどきっとしてしまう。
 男の子と一緒にいるところを見られるのは気まずかったのだ。
「お、あかり。今、帰り? ちょっと本屋に行ってきた」
 でもあかりが声をかけたのは、美久ではなく快だった。おまけに下の名前で呼んでいた。
 快も当たり前のようにそれに答えている。

 ……仲がいいのかな?

 美久はそんなふうに思って、二人のやりとりを見守った。

 友達とか、あるいは、……彼氏、とか?

 思ったことにはそわそわしてしまう。あかりが快の彼女であるなら、邪魔をしてしまったことになるかもしれない。いくら快から声をかけてくれたとはいえ。
 美久の元々の引っ込み思案が復活してしまったようで、ちょっとひやひやしてきた。
 そして実際、あかりは美久に視線を向けた。不審そう、ともいえる、あまり優しくはない視線。
「綾織さんと、仲良かったっけ」
 そう言われても仕方がないだろう。実際、仲がいいのかと言ったら微妙である。まだ会うのは二回目だし、しっかり話をしたのは初めてなのだ。
 よって、美久は困ってしまって快を見た。その様子を見て、あかりはちょっとだけ眉を寄せる。
「いや、偶然本屋で会ったんだよ。前に図書室で話をしたことがあってさ」
 快の答えに、美久は、あれ、と思った。
 ちょっと違うではないか。
 快と『偶然会った』のはそのとおりだけど『会った』のは本屋さんではないのだ。雑貨屋さんでヘンな男から助けてくれたときだ。
 しかし快はそれを言わないつもりのようで。勿論そのあと噴水の前で一緒にお茶を飲んだこともだろう。
 でも美久から「そうじゃなくて」と言うところではないだろう。二人の会話に割り込むつもりもなかったし。
「そうなんだ。……帰るなら一緒に帰ろうよ」
「ああ、そうするか」
 あかりはそれを受け入れて、次の提案は快に「一緒に帰ろう」だった。
 快もするっとそれを受け入れる。
 そして快は美久のほうを見た。ちょっと微笑んでくれる。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「えっ、あ……うん! 私こそ楽しかった、……です」
 敬語がひとつだけ復活してしまったのはなぜだろうか。ここまで普通に話せていたのに。
「じゃ、行こ、快。綾織さん、またね」
 あかりはちらっと美久を見て、一応挨拶をしてくれたけれど、なんだかそれはあまりいい空気ではない気がした。
「う、うん……また明日、ね」
 美久の答えもそのせいでちょっと気弱になってしまう。
「じゃあね、綾織さん」
 快も言ってくれて、そして快とあかりの二人は連れ立って改札の向こうへ消えていった。
 美久はちょっとだけその場に立ちつくして、それを見てしまった。
 あかりにこんなところで会うなんて思わなかったし、こんな会話をすることになるとは思わなかった。
 でもあかりは……多分、美久が快といたのを良く思わなかったのだろう。そういう態度と雰囲気だった。

 もしかして、久保田くんが彼氏なのかな。
 私、割り込むようなことしちゃったのかもしれない。
 そうなら悪いことだったかな。

 最後のやりとりは美久にそう思わせて、少しの罪悪感を感じさせてしまった。
 でもこうしていても仕方がない。
 美久も改札に向かう。ピッと音を立てて通過した。
 改札内を歩いて、エスカレーターへ向かって、ホームへ行く。
 ホームに立って、電車を待って、来た電車に乗る頃には意識はもう買った本へシフトしてしまっていたけれど。

 無事に買えてよかった。
 思ったよりちょっと高めだったから、もっと計画的に買わないとだけど……。

 そう思いはしたものの、手の届く範囲で良かったと思う。
 帰ったらすぐに読もうと思った。
 一巻は図書室で借りたものでもう読んでしまったに決まっているけれど、せっかく自分のものとして手に入ったのだ。しばらくはこの文庫本の一巻を読もう。そしていつでも読めるのだと思うと、心がわくわくして仕方がなかった。