今更ながら、実感した。
男の子と、特に学校などの理由もなく隣同士座っていることに。
でもそれは嫌な意味でも感覚でもなくて。
むしろくすぐったくはあるけれど、どこか心地いいともいえるものだった。
「どこかに用事があったのか?」
紅茶もなくなりかけた頃に、快が聞いてきた。すっかり落ちついた美久はそのまま頷く。
「はい。本屋さんに行くつもりで……」
「えっ、そうなのか」
その答えはごく普通だっただろうに、快はちょっと驚いた、という様子を見せた。
どうしてだろう、と美久が思った直後。快はぱっと明るい顔になった。
「実は俺も本屋に行くところだったんだよ。その先の蔓屋(つるや)だろう」
「あ、は、はい。そうなんですね」
このへんで一番大きな本屋さん。蔓屋書店、という。
行き先がかちあっているなんて、珍しいことだ。いや、確かにあのとき彼は図書室にいたのだから、本が好きなんだろうけれど。
「もし良かったら、一緒に行かないか?」
……えっ。
美久の心臓が、どきっとまた跳ねてしまった。
当たり前のように連れ立っていこうということだろう。
彼の言葉を借りれば『1ミリくらい知り合い』なのだ。別に構わない。
けれどちょっとだけためらってしまう。
男子と二人で出掛けたことなどない。
いや、これは偶然出会って「なんだ、行き先が一緒なんだな」とするだけだから、別になにもおかしなことなどではないのだけど。
嫌ではないけれど、緊張してしまう。
慣れない事態過ぎて。
それを払拭してくれたのは、快の優しい笑みだった。
「またヘンなひとに声、かけられると困るし」
それで美久は理解した。さっきみたいなひとがまた現れないかと気を使ってくれたのだ。
またしても胸が熱くなってしまう。これほど優しい男のひとに、美久は会ったことがなかった。
こんなふうにしてもらって、嬉しくないはずがない。
行こう。行ってみよう。
美久の心は決まった。
快は優しいひとだ。おまけに自分を心配してくれている。
それなら緊張してしまうかもしれないけれど、その優しさに応えよう。
それから、もうひとつ。
「じゃ、じゃあ……ご一緒、に」
思い切って返事をした。受け入れる返事を。
美久の返事に、快は笑った。明るい笑みで。
「良かった。もう立てる? じゃ、行こう」
ベンチをあとにして、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、歩きだした。
早くもどきどきしてきてしまったけれど、美久の胸には違うことがあった。
もうひとつの理由。
単純に彼の行き先が気になったから。
いや、行き先は本屋さんに決まっている。
その先でなにを見るのか、という行き先だ。
本が好きな彼が、どの本を見に行くのか。
読書好きな美久は気になってしまったのである。
「敬語、いらないよ。同い年なんだから」
歩くうちに快に言われたので、美久はやはり緊張してしまった。男子とため口で話すことなどやっぱりほとんどない。
小学校とかの頃はそれが普通だったのに。
今となってはこうなってしまっていることが、美久は不思議に思ってしまう。
「う、うん……じゃあ、そうする、ね」
「ああ。そっちのほうがずっといいな」
美久の拙いしゃべり方に、快は微笑んでくれた。
快はおしゃべりというわけではないが、寡黙ではないようだ。ぽつぽつと話してくれた。
美久はそれを聞いて、たまに返事をしたり相槌を打ったりするくらいになってしまったのだけど、それは何故か、心地良いもの、と感じられたのだった。
「お、ここだな。久しぶりだ」
「久しぶり、なの?」
美久はちょっと快を見上げた。背の高い快は、背の低い美久からすると見上げる格好になるのだ。二十センチくらいは背が違うかもしれない。
「ああ。ちょっと部活が忙しくて」
「そうなんだ」
部活、といった。何部なんだろう。
美久は思ったけれど、それは聞けなかった。まだこちらからあれこれ話題を出すのは勇気が必要だった。
でも合同体育のバスケではあれほど活躍していたのだから、バスケ部なのかもしれない。その割には、あまり「バスケ部にカッコいいひとがいて」と女子の間で話題になっていないのが謎だったけれど。
恋に興味津々な年頃なのだ。イケメン男子でしかもスポーツができるとなれば、すぐ注目の的になるのに。
でも今はとりあえず本屋である。二人で中に入った。
しっとりと落ちついた、本の空気が包んでくる。美久にとっては安心できるような、それでいてどこか期待にどきどきするような空気である。
「新刊とか見に来たのか?」
ここまでくる頃には、比較的普通に近くしゃべれるようになっていた美久は「ううん」と首を振る。
「図書室で借りた本が面白かったから、文庫でいいからほしいかな、って思ったの」
自分のことも言えるようになった。それは快のしゃべり方がうまいから、かもしれなかった。
相手がまだあまり親しくないひとでも、おまけに男子でも気にさせてこないような気やすさがある。
「文庫か。じゃ、上の階だな」
そう言って快は階段へ向かっていく。蔓屋は三階までなので階段しかないのだ。
え、でも久保田くんは自分で見たいのがあるだろうに。
思った美久だったけれど、それはまだ言葉にならなかった。なので、いきなり自分の買い物に付き合ってもらうのは悪いと思いつつも、それについていくしかなかったのである。
一階はコミックスとライトノベルで、二階はハードカバーの本と専門書で、三階は文庫本と参考書など。
三階まであがって「どういうジャンル?」と聞かれるので美久は「海外文学だよ」と答えておく。
「じゃあこっちだな」
二人で向かった、海外文学の文庫本コーナー。
目当ての本は、新作ではないが人気のある作品なのだ。そこそこ目立つところへ置いてあった。
「あ、これかな」
美久はお目当てのものが見つかって、ほっとした。早速一巻を手に取った。
しかし予想外だ。もっと薄いかと思っていたのに、ちょっと重たいくらいに厚みがある。
それはそうか、ハードカバーの状態ですでに厚いのだから。
思って美久はぱらぱらとめくっていった。当たり前だが内容に違いはない。
ただ、巻末に解説が載っているようだ。
これは面白そう。
美久の興味を惹いた。
本についての解説を読むのも、作品に対する理解が深まるから。
「それ、俺も前に借りたなぁ」
美久の手にしていたものを見て、快が言った。
そういえば、快と初めて会ったときはこの本のコーナーだったわけだ。つまり、快もそこで手に取ったのだろう。
「面白いよな、それ。俺はまだ二巻までしか読んでないんだけど」
「うん、私もまだ四巻までしか……でもすごく文章がうまいし、それだけじゃなくて、興味を惹くように書いてあるっていうか……」
本の話なのだ。美久はいつのまにか普通に話せるようになっていた。友達と話すくらいには言葉が出てくる。
それに快が目を細めたのには気付かなかった、けれど。
「綾織さんも、一巻から図書室で借りたの?」
それは普通の質問だったので美久は頷いた。「そうだよ」と。
しかし快はちょっと言葉を切った。
「……そうなのか。じゃ、もしかしてあれ……」
次に言われたことは、独り言のようだった。
美久はちょっと不思議に思った。なんだろう。あれ、とは。
でもその言葉はすぐに次の話題にチェンジされてしまった。
「文庫でも全巻出てるんだな」
聞くタイミングを逃してしまったことくらい、美久にもわかった。
けれど突っ込んで聞くのも立ち入ったことかもしれない。美久はやめておくことにして、ずらっと七巻まで並んだ文庫に視線を戻した。
「うん。できたら全部揃えたいんだけど……文庫本でもちょっと高い、よね」
一巻をひっくり返した裏には、1,100円、と書いてあった。文庫本にしてはちょっと高め。
でもそれも仕方がない。純粋に厚みがあるのだから、そのぶんであろう。
今日は一巻しか買えなさそうだ、と思う。
でもそれでもいい。最初から全巻一気に買えるとは思わずに来たのだから。
それにあと数ヵ月したらお年玉という収入もある。それを使ってまとめて買ってもいいかもしれない。
そういう算段をしつつ、美久は「じゃあ、これ買おうかな」と一巻を大切に手に持ち直した。
「うん、そうか」
快は言ってくれて、それから三階のレジでお会計をしたあとに二階へ降りた。
次は快の買い物。
新刊が見たいのだと言っていた。
「ああ、これ、これ。好きな作家でさ、ハードカバーで出たんだけどやっぱ高いだろ。だから良さそうだったら図書室で入荷リクエストしようかと思ってて」
「そうなんだ。入るといいね」
快が手にしたのは青いカバーの本だった。海をイメージしたような爽やかなデザインの本。表紙からしてとても綺麗だった。
そしてそれだけではない。
その本を支える快の手。ごつごつしていて大きかった。しっかり男のひとの手だ。
あの手でさっき、自分の腕を掴んで助けてくれたのだと思うと、美久の顔がまたちょっと熱くなってしまった。
男の子に触れられて助けてもらったというのに、ちっとも怖くなかった。むしろ心底安心したのだ。それは不思議な感覚だった。
それに今だって。
男の子と二人で本屋さんに来て、一緒に本を見て回って、本についての話をしている。これも美久にとっては初めて体験することだった。
女の子の友達となら何回もしたことがあるけれど、なんか違うものだなぁ、と思ってしまった。
でもやっぱりそれは、楽しいとか、ちょっとどきどきはするけれど、嬉しいとか、そういう明るい気持ちであった。
快がその新しい本を見ている間に、美久はその近くにある棚に視線を向けた。偶然、そこには美久の好きな作家の本があった。
あ、こんなところにある。今日はお小遣いの都合で買えないけど、ちょっと見てみたいな。
思って、美久はその本を取ろうとしたのだけど、ちょっと高いところにあった。手を伸ばせば届くと思ったのだけど、本の下のところにしか当たらない。
でも伸びをすれば。
思って伸び上がろうとしたのだけど、その前になにかが手に触れた。
それはさっき見て、というか、見入ってしまった手のようで。
一瞬、なにがあったのかわからなかった。
ただ、その手が見た通りごつくてあたたかかったことをはっきり感じた。
「ダメだよ、危ないじゃん」
美久の手。やんわり握って外されてしまった。そうしてから改めてその手が本を抜き出す。
美久は下のほうしか届かなかったのに、あっさり抜き出したのだ。
美久は手を下ろして、なんだかぼんやりしてしまった。
「高いところを無理に取ろうとしたら危ないって」
言われてやっと、はっとした。
快が取ってくれたのだ。おまけに危ないから、なんて自分を気遣ってくれて。
かっと顔が熱くなった。
手が触れたこともそうだし、危ないとか気を使ってくれたのもそうだし、本を取ってくれた優しさもそう。すべてが美久の頬を熱くした。
「あ、ご、ごめんね……」
ここまでだいぶ普通に話せるようになっていたのに、またしどろもどろになってしまった。
そんな美久に、快はふっと笑って「はい」と美久の取りたかった本を差し出してくれる。美久はどこか夢心地で「ありがとう」と受け取った。
でもその本を開いても、どきどき心臓がうるさくて中身は頭にちっとも入ってこなかったけれど。
「ああ、楽しかった」
蔓屋書店を出て、快は満足だ、というような声を出した。二人で駅のほうへ向かう。
見ていた時間は一時間にも満たなかっただろう。けれど美久にとってはたくさんのことがありすぎた。どきどきしたり、緊張したり。
でも楽しかった、と思う。
不思議なことだ。男の子とこういうふうに外で過ごすなんて初めてだったのに。
あのとき勇気を出して「一緒に」と言ったことはきっと正しかったのだ。そこは自分を褒めてあげたい。
「うん、楽しかった」
素直に美久も楽しかったと言うことができた。
手の中に包んでもらった文庫本があるだけではなく、今日は色々なものが手に入った気がしたのだ。
「綾織さんは、電車どっち?」
「えっとね、上り方面……」
こんな会話も普通にできるようになってしまっていた。そんなやりとりをしながら駅へ入る。
しかしそこで知っているひとに出会ってしまった。
「あれ快じゃん。こんなところでなにしてんの?」
スクールバッグを肩にかけた、クラスメイトのあかりであった。美久はちょっとどきっとしてしまう。
男の子と一緒にいるところを見られるのは気まずかったのだ。
「お、あかり。今、帰り? ちょっと本屋に行ってきた」
でもあかりが声をかけたのは、美久ではなく快だった。おまけに下の名前で呼んでいた。
快も当たり前のようにそれに答えている。
……仲がいいのかな?
美久はそんなふうに思って、二人のやりとりを見守った。
友達とか、あるいは、……彼氏、とか?
思ったことにはそわそわしてしまう。あかりが快の彼女であるなら、邪魔をしてしまったことになるかもしれない。いくら快から声をかけてくれたとはいえ。
美久の元々の引っ込み思案が復活してしまったようで、ちょっとひやひやしてきた。
そして実際、あかりは美久に視線を向けた。不審そう、ともいえる、あまり優しくはない視線。
「綾織さんと、仲良かったっけ」
そう言われても仕方がないだろう。実際、仲がいいのかと言ったら微妙である。まだ会うのは二回目だし、しっかり話をしたのは初めてなのだ。
よって、美久は困ってしまって快を見た。その様子を見て、あかりはちょっとだけ眉を寄せる。
「いや、偶然本屋で会ったんだよ。前に図書室で話をしたことがあってさ」
快の答えに、美久は、あれ、と思った。
ちょっと違うではないか。
快と『偶然会った』のはそのとおりだけど『会った』のは本屋さんではないのだ。雑貨屋さんでヘンな男から助けてくれたときだ。
しかし快はそれを言わないつもりのようで。勿論そのあと噴水の前で一緒にお茶を飲んだこともだろう。
でも美久から「そうじゃなくて」と言うところではないだろう。二人の会話に割り込むつもりもなかったし。
「そうなんだ。……帰るなら一緒に帰ろうよ」
「ああ、そうするか」
あかりはそれを受け入れて、次の提案は快に「一緒に帰ろう」だった。
快もするっとそれを受け入れる。
そして快は美久のほうを見た。ちょっと微笑んでくれる。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「えっ、あ……うん! 私こそ楽しかった、……です」
敬語がひとつだけ復活してしまったのはなぜだろうか。ここまで普通に話せていたのに。
「じゃ、行こ、快。綾織さん、またね」
あかりはちらっと美久を見て、一応挨拶をしてくれたけれど、なんだかそれはあまりいい空気ではない気がした。
「う、うん……また明日、ね」
美久の答えもそのせいでちょっと気弱になってしまう。
「じゃあね、綾織さん」
快も言ってくれて、そして快とあかりの二人は連れ立って改札の向こうへ消えていった。
美久はちょっとだけその場に立ちつくして、それを見てしまった。
あかりにこんなところで会うなんて思わなかったし、こんな会話をすることになるとは思わなかった。
でもあかりは……多分、美久が快といたのを良く思わなかったのだろう。そういう態度と雰囲気だった。
もしかして、久保田くんが彼氏なのかな。
私、割り込むようなことしちゃったのかもしれない。
そうなら悪いことだったかな。
最後のやりとりは美久にそう思わせて、少しの罪悪感を感じさせてしまった。
でもこうしていても仕方がない。
美久も改札に向かう。ピッと音を立てて通過した。
改札内を歩いて、エスカレーターへ向かって、ホームへ行く。
ホームに立って、電車を待って、来た電車に乗る頃には意識はもう買った本へシフトしてしまっていたけれど。
無事に買えてよかった。
思ったよりちょっと高めだったから、もっと計画的に買わないとだけど……。
そう思いはしたものの、手の届く範囲で良かったと思う。
帰ったらすぐに読もうと思った。
一巻は図書室で借りたものでもう読んでしまったに決まっているけれど、せっかく自分のものとして手に入ったのだ。しばらくはこの文庫本の一巻を読もう。そしていつでも読めるのだと思うと、心がわくわくして仕方がなかった。
「おはよー」
「おはよー」
明るい挨拶が飛び交う教室の朝。
いつも通り早めに登校して自分の机で支度をしていた美久だったけれど、そこへ留依が登校してきた。
「おはよう美久!」
留依は朝から元気だ。明るい挨拶をしてくれた。美久もにこっと笑って「留依ちゃんおはよう」と返す。
そこで気付いた。留依の雰囲気が少し変わったように見えたのだ。
「留依ちゃん、なにか変えた……?」
思わず聞いてしまった。でも美久には具体的になにか、などとはわからない。
制服だっていつも通り。スカート丈は、転校してきてだいぶ経つから学校で許される雰囲気もわかったということらしく、少し短めになっていたけれど、それは前からだ。
髪だって特に結んでいたりとかもない。
バッグも変わっていなければ、キーホルダーなども変わっていない……。
どうして『なにか変えた』と思ってしまったのか自分でよくわからなかった美久だったけれど、それは間違ってはいなかったようなのだ。
留依はぱっと顔を明るくした。
「うん! 実はヘアサロンに行ってきたんだ!」
美久はその様子を見てほっとした。留依が『気付いてもらえた』ということに嬉しくなってくれたようだったから。まぁ美久は具体的に『どこが』とはわかっていなかったわけだが、それはともかく。
「そうなんだ。髪を切ったの?」
「ううん、染め直しただけだよ、プリンになってきてたからね」
だが留依の言ったことの意味はわからなかった。
プリン?
何故お菓子と髪が関係あるというのか。
不思議そうな顔をした美久を見たのだろう、留依は「ああ」と説明してくれた。
「プリンっていうのはね、染めた髪のてっぺんだけが、髪が伸びてきて黒になっちゃうこと。カラメルのかかったプリンみたいでしょ」
「そうなんだ」
どうやら通称のようなものらしい。美久は納得した。
同時にちょっと反省したけれど。
女子高生なら知っていて、というか、使って当たり前のような単語のようだ。そんなことも自分は知らなかったとは。
それに気付いたのか、留依は「そうだ!」と唐突に高い声をあげた。
「美久も結構髪、伸びてきたじゃん。サロンとか行くのはどう?」
「えっ……」
留依の唐突な提案。美久は目を丸くしてしまう。
サロンなんて行ったことがない。大人の女のひとが行くものだと思っていたのだ。
では今までどうしていたかというと、お母さんの知り合いの、近所の美容院というところで切ってもらっていたのである。
そこだって別にちゃんとしたお店ではある。
けれど、女子高生に好かれるようなお店かと言われたらNoであろう。そういうオシャレなところではない。
「む、無理だよそんなとこ、オシャレなんでしょ」
「綺麗になりに行くんだから当たり前でしょう」
慌てて手を振ってしまった美久だけど、留依はそれを聞いて膨れる。
そう言われればそうだけど。
「美久、せっかく髪、綺麗なのにただ揃えてるだけなんだもん。勿体ないよ。うまくカットしてもらったらもっとかわいくなるのに」
その言葉にはちょっと落ち込んでしまう。
もっとかわいくなる、ということは、今は大してかわいくないということで。
自覚はあるけれど。
顔立ちは置いてもいても、オシャレに関しては女子高生の中では知らなさ過ぎる部類だろう。
それを留依に遠回しに言われてしまって落ち込んだけれど。
留依は笑みを浮かべた。優しい笑みを。
「かわいくなりたくない?」
それはお誘いだった。美久に手を差し伸べてくれるお誘い。
留依はいつもこうだ。美久の手を引いて、どんどん先へ進んでしまうのだ。
それにちょっとあたふたしてしまうことがあっても、その先にあるのは大抵素敵なことなのである。
「それは、……なくは、ない、かなぁ」
返事は濁ってしまったけれど、少し前に考えてしまったことを思い出す。
このままでいいのかな。
まだ悩んでいるけれど、きっとこれは同じ。
街中で快に誘われて「行ってみよう」と決意したときと同じなのだ。チャンスだ。
髪を切るだけだ。ヘンな髪型にされるはずもないし、ちょっとだけ。
思って、美久は思い切って「じゃあ……お母さんに相談してみるね」と返事をしたのだった。
「やったぁ! どんなのがいいかな? あとでヘアカタログ見てみようよ!」
まだ相談してみる、と言っただけなのに留依はとても喜んでくれた。スマホを出してあれそれ弄り出した。
「あ、え、えっと、いくらくらいするのかな? 高いかな……」
気になるのはそこ。普段の美容院はお母さんが出してくれるしそんなに高くないけれど『サロン』なんてところの料金は知らない。そんなオシャレな名前のところなのだから、すごく高いのかもしれないと思ってしまったのだ。そのくらいも美久はまだ知らない。
「そんなことないよ! あとで料金表見せてあげるね。それに私、こないだ行ったときに割引クーポンもらったからあげるよ」
「えっ! いいの!?」
「美久のためならそのくらいかまわないって」
いつもしているようなやりとりのはずなのに、今日はなんだか違っていた。
予鈴が鳴って、ホームルームがはじまって、授業がはじまっても美久は今日、違うことばかりが気になっていた。
髪を切る。
お母さんは、いいと言ってくれるだろうか。
染めるわけじゃないから、不良みたいでいけません、とは言われないだろうけど。
あんまり高かったら、いつものところでいいじゃない、って言われちゃうかも。
でも……できたら、行ってみたい。
そんなことをぐるぐると考えた美久。
それはあとから思えば、自分を変えるための第一歩だったのである。
そんなこんなで次の日曜日。
美久は留依に連れられて『ヘアサロン・チュチュ』を訪れていた。
美久は入り口から中を見て、すでに「はぁー……」と心の中で感嘆のため息をついてしまった。
なんてオシャレできらきらしたところなのだろう。
こんなところドラマでしか見たことがない、と思う。
あるものは美容院と同じ。髪を切る椅子、髪を洗ったり流したりする洗し台と椅子。あとは雑誌やコミックスが棚にあったり。
でもオシャレレベルが桁違いだった。棚はぴしっとした白い木材でできているし、コミックスもきっちり並べられている。
椅子こそ普通だが、その前の鏡にはレースのシールかなにかで装飾がされているし、化粧品のかわいいボトルやら、雑貨屋さんに売っているようななにかのトレイやらカゴやらが置かれている。
まるでお金持ちのお嬢様のお部屋みたい。
美久はそんなふうに思ってしまった。
留依についてきてもらって良かった。
心底思った。
こんなきらきらした空間、自分だけで入るならためらってしまっただろうから。
「いらっしゃいませ。……あ、留依ちゃん」
入ってすぐに店員さんが寄ってきた。留依を見て名前を呼んでくる。
「こんにちはー! 今日は友達をお願いします!」
留依が元気よく言った。美久を示されたので、どきどきしてしまいつつ、ぺこっとおじぎをした。
「そうだったわね。えーと……綾織さん、でしたっけ。本日担当させていただきます、杉山です。どうぞよろしくお願いします」
美久には初対面なのだ、杉山さんという綺麗なお姉さんは美久に丁寧に挨拶してくれた。
美久もあわあわと挨拶する。
「綾織 美久ですっ! よ、よろしくお願いします!」
それで杉山さんによって、髪を切る椅子に連れて行かれた。留依は「付き添ってもいいですか?」と聞いてくれて、どうぞ、と言われていた。
「今日はどうしましょうか? ご予約はカットだけでしたが」
髪を切るときのてるてる坊主のような布をかぶせられて準備をされたけれど、どうしましょう、と言われても美久は困ってしまった。
どうオーダーしていいかわからない。
美容院では「ちょっと先だけ切ってください」としか言わなかったけれど、それではいけないのだろうし。
助け舟を出してくれたのは留依だった。
「えっと、この写真みたいな感じで……段を入れて欲しいんです」
留依がスマホを差し出す。それは事前に美久と打ち合わせていたものの写真らしい。
写真を見たとき、美久はちょっとひるんでしまったのだけど。
写っているのはモデルさんだから当たり前だが、とても綺麗だったから。
こんな髪型が自分に似合うのだろうかと思ってしまう。
「なるほどね。綾織さんは髪が多めのタイプみたいだから、軽くすいて、レイヤー入れる感じかしら」
「そう! 軽い感じがいいんです」
打ち合わせは留依と杉山さんの間で進んでいく。美久はなにか言ったほうがいいのかとも思いつつ、任せていていいのかとも思うので、もじもじ過ごしてしまった。
そして打ち合わせも済んで、杉山さんが「でははじめていきますね」と声をかけてくれる。
シュッシュッとなにかスプレーがかけられて、髪を軽く湿らされる。
そのスプレーが既にいい香りがした。ほんのりとした花のような香り。
「綾織さん、髪、綺麗ですね」
「そっ、そうですか?」
まずはとかされながら杉山さんは美久に話しかけてくれた。
「ええ。髪質もしっかりしていて、染めてないからか生き生きしてます」
褒めてもらって嬉しくなったけれど、そのあとちょっと心が痛んだ。
「でもちょっとパサつき気味かもしれないので、シャンプーやトリートメントをしっとりタイプにすると、もっといいかもしれませんよ」
言われたことは、多分的確だった。
美久の使っているシャンプーは、ただのファミリーシャンプー。お父さんやお母さんの使うものと同じ、子供の頃から使っているものをそのまま使っているのだ。きっと髪を触ったプロの方にはそれがわかったのだろう。
恥ずかしくなってしまう。高校生にもなって。おまけに同行してくれた留依はこんなにオシャレなのに。
肩を縮めてしまいそうになったけれど、そこではっとした。
いや、違う。
今日は、そういう自分を一歩進めようとして来たのではないだろうか?
それなら、落ち込んでいる場合ではない。
「そうだね。今度いいシャンプー教えてあげるよ!」
おまけに留依も言ってくれて、美久はほっとした。
シャンプーのこともそうだけれど、留依がそう気を回してくれることも、だ。
とかされたあと、はさみが入れられた。
ついに。
美久はどきどきとしてしまう。
眼鏡を外していたので鏡に映る姿はぼんやりとしていたけれど。
はさみは入れられたけれど、毛先を切るのではないようだ。
しゃきしゃき、と聞いたことのないようなはさみの音で、髪の真ん中あたりで音がしている。
これはなにをしてるんだろう。
美久にはよくわからなかった。
杉山さんは、美久の髪から目を離さずに、おまけに手も止めないままで留依に話しかける。
「留依ちゃん、今日のお洋服かわいいわね」
褒められて留依の声が明るくなった。同じく、切られているので美久もそちらを見るというわけにはいかなかったけれど。