なんだろう、邪魔になっていたんだろうか。
 不安になりつつそちらを見ると、確かに男のひとが立っている。
 若い男のひとだ。大学生くらいだろうか。
 でも随分軽そうな見た目をしていた。
 髪は金髪に染めているし、ピアスまでしている。
 『そういうこと』に縁のない美久でもすぐにわかってしまった。
 でも信じられない気持ちになる。
 まさか自分にこうやって声をかけてくるひとがいようなど。
「このクマさんすごくかわいいよね。ピンクが好きなの?」
 言われた言葉は美久の想像通りであることを示していた。
 あまりにフランク……というか、もはやなれなれしい言葉。
 胸の中がざわざわとする。恐ろしさが這い上がってきた。
「あ、……はい……」
 やっと答えた。声まで震えそうだった。
 わかっていた、「すみません、急ぐので」とか言って、さっさと行ってしまったほうがいい。
 そうしたら街中なのだから追いかけられることもないだろう。
 でもこうして自分に話しかけられていること、それ自体が美久にとって、枷になってしまっていた。会話を切るのも素っ気ないことを言うのも恐ろしい。怒らせてしまっては、と思うのだ。
 美久のその、どっちつかずな反応を、金髪の男はどう思ったのだろう。笑みを浮かべた。美久を飼いならすような笑みだった。
「実はさ、俺の妹へのプレゼントを見に来たんだよ。きみ、こういうの好きなら一緒に見てくれないかなぁ」
 言われて、今度こそ恐ろしさが胸に膨れた。
 一緒に、などとんでもない。今すぐこの場を離れたいのに。
 それにこんなことを言ってくるなんて、良くないひとに決まっている。
 はっきり言ってしまうならナンパである、これは。
 自分がまさかターゲットになるとは思わなかったけれど、一応若い女の子。女子高生。それで声をかけられてしまったのだろう。
 断らないと、「急ぐので」って言わないと。
 自分に言い聞かせたのだけど、その声は出てこない。
 進退窮まったときだった。
「あ、こんなとこにいた!」
 不意に違う声がした。美久はまたしてもびくっとすることになる。それも男のひとの声だったので。
 でも不思議なのは、その声はどうやら自分に向かって発せられたらしいということ。
 ばっとそちらを見ると、確かに男のひとがそちらにいた。
 ふわっとした茶色の髪、高い背丈、そして美久と同じ色の制服……。
 あっ、と言うところだった。声は出なかったけれど、目は丸くなっただろう。
 そして美久のその表情で、向こうもわかってくれたらしい。
 ……美久が『彼』を覚えてくれていた、というのは。
 彼は美久に向かって、つかつかと歩いてきた。近くまで来て、にこっと笑う。
「探したぜ。待たせて悪かったな」
 えっ、え?
 美久は目を白黒させた。
 だって、探した、とか、待たせて、とかちっとも心当たりがない。
 でもそれは明らかに自分に向けて言われていて……。
 その場に微妙な空気が流れた。美久がすぐに反応できずにいたことで。
 その中。
 不意に彼が思わせぶりにまたたきをした。美久はぼうっとそれを見て……やっと、はっとした。
 助けてくれようとしているのだ。このひとは。
 ヘンなひとに声をかけられた美久を。
 かぁっと胸が熱くなった。
 それは『助けてもらえそう』ということと、もうひとつは『図書室のあれだけのやりとりで自分を覚えてくれていた』ということにである。
 今度は違う意味でどきどきしてきた心臓の上で、ぎゅっと拳を握って、美久は勇気を振り絞った。
「う、うん、待ってた……よ」
 それは微妙にずれた答えだったかもしれないけれど、美久のその言葉ですべては完了したらしい。
 金髪の男はあからさまに「ちぇっ」という顔をした。美久に連れがいる、しかも男の連れがいると知ったことで当てが外れたのだろう。
 良かった、なんとかなりそう。
 ほっとしかけた美久だったけれど、直後、違う意味でどきんと心臓が高鳴った。
「さぁ、行こう。あ、なんか俺の彼女に用事でしたか?」
 彼女!?
 跳ねた心臓は喉の奥まで来たかと思ったほどだ。
 顔が一気に赤くなる。
「……や、別に。じゃ」
 一、二秒ほど、金髪の男と彼は見つめ合っていた……というか、険悪な空気で見合っていたけれど、すぐに金髪の男が身を引いた。さっさと店を出ていってしまう。
 彼女、って、一体。
 どくどくと心臓が高鳴って痛いほどだ。
「……大丈夫?」
 声をかけられて、やっとはっとした。隣では彼が心配そうな目で見ていた。
「ごめんな、変な言い訳して……絡まれてると思ったもんだから」

 言い訳。
 言い訳。
 ……言い訳。

 三回ほど反芻して、美久はやっとその意味をのみ込んだ。
 今度は違う意味に胸と顔が熱くなる。
 彼女だと言って、あの男を追い払ってくれたのだ。つまりそれが『言い訳』だ。

 ……助かった。

 今度こそほっとした。途端に膝ががくがくと震える。座り込みそうになってしまったほどだ。
 美久が震えたのを感じたのだろう、彼は「おっと」と手を伸ばして、美久の腕を掴んでくれた。それでなんとか座り込んでしまうのは阻止された。
 今度は腕に触れられたことにどきどきしてしまって、もう心臓が足りなさすぎだった。
 でも今は何故か、嫌悪感なんてなくて。怖さもなくて。
 さっきの金髪の男には声をかけられただけでも嫌だったのに。
 美久にとっては不思議でならなかったのだけど、まだ落ちついていないうちに、彼によって「ちょっと落ちつけるところへ行こう」と、手を引いて店を連れ出されてしまったのだった。
「落ちついた?」
 噴水の近く、ベンチ。隣に座っている彼に言われて、美久はこくりと頷いた。
 手にはホットの紅茶のペットボトルがある。手で包めば優しいあたたかさが伝わってきた。
 あれから彼は、駅前の噴水、ここのベンチへ美久を連れてきてくれて、座らせた。そして「ちょっと待っててな」とどこかへ行ってしまった。
 どこへ行ってしまうんだろう。まだ混乱でぼうっとしていた美久だったけれど、彼が行ってしまったのはそう遠くではなかった。少し先にある自販機だ。
 なにか買っているらしい。
 そして一分ほどで戻ってきてくれた。手には小さなペットボトルが二本ある。
「紅茶、好きか?」
 美久は驚いた。助けてもらったうえに、こんなふうにしてもらえるなど。また目を丸くしてしまっただろうに、彼はにこっと笑ってくれた。
「飲むと落ちつくぜ」
 そのお言葉に甘えて、美久はごくっと唾を飲んだ。
 言うべきことを、やっと言う。
「あ、ありがとう……ござい、ます」
 言うのは緊張したけれど、今のものは恐ろしさとかそういうものからではない。
 だから言えた、という実感には安心しかなかった。
 それでありがたくお茶をいただいて、ベンチで彼と飲んでいたのだ。
「びっくりしたよな。無礼なやつもいるもんだ」
 自分でもお茶を飲みながら、彼は言った。ちょっと怒ったような口調だった。
 確かにあの男は無礼だった。店で女の子に声をかけるなんて。
「……うん」
 美久はもらったペットボトルをぎゅっと握った。
 本当に、もう大丈夫なのだと実感できて。
 あったかい紅茶と、隣にいるひとと、そして優しい言葉。すべてから安心が湧いてくる。
「あの、あ、ありがとうございます……た、助けてくれた、んですよね?」
 それでも男子と話すのは慣れていない。美久の言葉はとぎれとぎれになってしまった。
 けれど彼はなにも気にした様子もなく「ああ」と言ってくれる。
「困ってるみたいだったから……あのとき図書室で会った子だ、ってわかったし」
 覚えていてくれたのだ。あんな些細な、数秒だけのやりとりを。
「それに、ちょっと前の合同体育でも一緒だったよな」
 次に言われたことにはびっくりしてしまったけれど。
 合同体育。
 彼が華麗なプレイを見せたバスケのレクリエーションだ。
 でも自分は隅っこでうろうろとしていて、そのあとだって静かに見ていただけだったのだ。そんな様子を見られていたのはむしろ恥ずかしい、と思ってしまった。
「そ、そう、ですね。C組かD組のひと、ですよね」
「ああ。……ああ、今更ながら名前も言ってなかったな、ごめん。俺は2年D組の、久保田 快(くぼた かい)っていう」
 美久の言葉に彼、快は自分から名乗ってくれた。美久はそれに慌ててしまう。本当なら自分から自己紹介するべきだったのに。
「あっ、ご、ごめんなさい、わたし……A組の綾織 美久、っていいます」
「謝ることなもんか。綾織さん、名前は知ってたよ」
 なのに彼はやっぱりにこっと笑ってくれたのだった。
 でもそれは謎の言葉で。美久が不思議そうな顔をしたのがわかったのだろう。続けてくれた。
「いや、たまに友達に会いにA組を訪ねることがあったからな」
 ああ、なるほど。訪ねてきていたなら、そのとき美久が友達に呼ばれたりとか、そういうことで名字くらいは知る機会があっただろう。美久は納得した。
 そのあとちょっと反省してしまったけれど。
 快、という名の彼のこと。クラスに訪ねてきていたなんて知らなかった。どれだけ周りのことを見ていなかったというのか。
 こんなこと、良くないのかもしれない。美久は違う意味で自己嫌悪を覚えてしまう。
 けれど彼はやっぱり気にした様子もないのだった。
「だから1ミリくらいは知り合いかなって思って」
 細い目を優しくして、彼は言ってくれた。
 助けてもらって、動揺した自分を落ちつかせてくれて、おまけに名前まで覚えていてくれた。
 美久の胸は違う意味にどきどきしてしまう。
 今更ながら、実感した。
 男の子と、特に学校などの理由もなく隣同士座っていることに。
 でもそれは嫌な意味でも感覚でもなくて。
 むしろくすぐったくはあるけれど、どこか心地いいともいえるものだった。
「どこかに用事があったのか?」
 紅茶もなくなりかけた頃に、快が聞いてきた。すっかり落ちついた美久はそのまま頷く。
「はい。本屋さんに行くつもりで……」
「えっ、そうなのか」
 その答えはごく普通だっただろうに、快はちょっと驚いた、という様子を見せた。
 どうしてだろう、と美久が思った直後。快はぱっと明るい顔になった。
「実は俺も本屋に行くところだったんだよ。その先の蔓屋(つるや)だろう」
「あ、は、はい。そうなんですね」
 このへんで一番大きな本屋さん。蔓屋書店、という。
 行き先がかちあっているなんて、珍しいことだ。いや、確かにあのとき彼は図書室にいたのだから、本が好きなんだろうけれど。
「もし良かったら、一緒に行かないか?」

 ……えっ。

 美久の心臓が、どきっとまた跳ねてしまった。
 当たり前のように連れ立っていこうということだろう。
 彼の言葉を借りれば『1ミリくらい知り合い』なのだ。別に構わない。
 けれどちょっとだけためらってしまう。
 男子と二人で出掛けたことなどない。
 いや、これは偶然出会って「なんだ、行き先が一緒なんだな」とするだけだから、別になにもおかしなことなどではないのだけど。
 嫌ではないけれど、緊張してしまう。
 慣れない事態過ぎて。
 それを払拭してくれたのは、快の優しい笑みだった。
「またヘンなひとに声、かけられると困るし」
 それで美久は理解した。さっきみたいなひとがまた現れないかと気を使ってくれたのだ。
 またしても胸が熱くなってしまう。これほど優しい男のひとに、美久は会ったことがなかった。
 こんなふうにしてもらって、嬉しくないはずがない。

 行こう。行ってみよう。

 美久の心は決まった。
 快は優しいひとだ。おまけに自分を心配してくれている。
 それなら緊張してしまうかもしれないけれど、その優しさに応えよう。
 それから、もうひとつ。
「じゃ、じゃあ……ご一緒、に」
 思い切って返事をした。受け入れる返事を。
 美久の返事に、快は笑った。明るい笑みで。
「良かった。もう立てる? じゃ、行こう」
 ベンチをあとにして、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、歩きだした。
 早くもどきどきしてきてしまったけれど、美久の胸には違うことがあった。
 もうひとつの理由。
 単純に彼の行き先が気になったから。
 いや、行き先は本屋さんに決まっている。
 その先でなにを見るのか、という行き先だ。
 本が好きな彼が、どの本を見に行くのか。
 読書好きな美久は気になってしまったのである。
「敬語、いらないよ。同い年なんだから」
 歩くうちに快に言われたので、美久はやはり緊張してしまった。男子とため口で話すことなどやっぱりほとんどない。
 小学校とかの頃はそれが普通だったのに。
 今となってはこうなってしまっていることが、美久は不思議に思ってしまう。
「う、うん……じゃあ、そうする、ね」
「ああ。そっちのほうがずっといいな」
 美久の拙いしゃべり方に、快は微笑んでくれた。
 快はおしゃべりというわけではないが、寡黙ではないようだ。ぽつぽつと話してくれた。
 美久はそれを聞いて、たまに返事をしたり相槌を打ったりするくらいになってしまったのだけど、それは何故か、心地良いもの、と感じられたのだった。
「お、ここだな。久しぶりだ」
「久しぶり、なの?」
 美久はちょっと快を見上げた。背の高い快は、背の低い美久からすると見上げる格好になるのだ。二十センチくらいは背が違うかもしれない。
「ああ。ちょっと部活が忙しくて」
「そうなんだ」
 部活、といった。何部なんだろう。
 美久は思ったけれど、それは聞けなかった。まだこちらからあれこれ話題を出すのは勇気が必要だった。
 でも合同体育のバスケではあれほど活躍していたのだから、バスケ部なのかもしれない。その割には、あまり「バスケ部にカッコいいひとがいて」と女子の間で話題になっていないのが謎だったけれど。
 恋に興味津々な年頃なのだ。イケメン男子でしかもスポーツができるとなれば、すぐ注目の的になるのに。
 でも今はとりあえず本屋である。二人で中に入った。
 しっとりと落ちついた、本の空気が包んでくる。美久にとっては安心できるような、それでいてどこか期待にどきどきするような空気である。
「新刊とか見に来たのか?」
 ここまでくる頃には、比較的普通に近くしゃべれるようになっていた美久は「ううん」と首を振る。
「図書室で借りた本が面白かったから、文庫でいいからほしいかな、って思ったの」
 自分のことも言えるようになった。それは快のしゃべり方がうまいから、かもしれなかった。
 相手がまだあまり親しくないひとでも、おまけに男子でも気にさせてこないような気やすさがある。
「文庫か。じゃ、上の階だな」
 そう言って快は階段へ向かっていく。蔓屋は三階までなので階段しかないのだ。
 
 え、でも久保田くんは自分で見たいのがあるだろうに。

 思った美久だったけれど、それはまだ言葉にならなかった。なので、いきなり自分の買い物に付き合ってもらうのは悪いと思いつつも、それについていくしかなかったのである。
 一階はコミックスとライトノベルで、二階はハードカバーの本と専門書で、三階は文庫本と参考書など。
 三階まであがって「どういうジャンル?」と聞かれるので美久は「海外文学だよ」と答えておく。
「じゃあこっちだな」
 二人で向かった、海外文学の文庫本コーナー。
 目当ての本は、新作ではないが人気のある作品なのだ。そこそこ目立つところへ置いてあった。
「あ、これかな」
 美久はお目当てのものが見つかって、ほっとした。早速一巻を手に取った。
 しかし予想外だ。もっと薄いかと思っていたのに、ちょっと重たいくらいに厚みがある。
 それはそうか、ハードカバーの状態ですでに厚いのだから。
 思って美久はぱらぱらとめくっていった。当たり前だが内容に違いはない。
 ただ、巻末に解説が載っているようだ。
 これは面白そう。
 美久の興味を惹いた。
 本についての解説を読むのも、作品に対する理解が深まるから。
「それ、俺も前に借りたなぁ」
 美久の手にしていたものを見て、快が言った。
 そういえば、快と初めて会ったときはこの本のコーナーだったわけだ。つまり、快もそこで手に取ったのだろう。
「面白いよな、それ。俺はまだ二巻までしか読んでないんだけど」
「うん、私もまだ四巻までしか……でもすごく文章がうまいし、それだけじゃなくて、興味を惹くように書いてあるっていうか……」
 本の話なのだ。美久はいつのまにか普通に話せるようになっていた。友達と話すくらいには言葉が出てくる。
 それに快が目を細めたのには気付かなかった、けれど。
「綾織さんも、一巻から図書室で借りたの?」
 それは普通の質問だったので美久は頷いた。「そうだよ」と。
 しかし快はちょっと言葉を切った。
「……そうなのか。じゃ、もしかしてあれ……」
 次に言われたことは、独り言のようだった。
 美久はちょっと不思議に思った。なんだろう。あれ、とは。
 でもその言葉はすぐに次の話題にチェンジされてしまった。
「文庫でも全巻出てるんだな」
 聞くタイミングを逃してしまったことくらい、美久にもわかった。
 けれど突っ込んで聞くのも立ち入ったことかもしれない。美久はやめておくことにして、ずらっと七巻まで並んだ文庫に視線を戻した。
「うん。できたら全部揃えたいんだけど……文庫本でもちょっと高い、よね」
 一巻をひっくり返した裏には、1,100円、と書いてあった。文庫本にしてはちょっと高め。
 でもそれも仕方がない。純粋に厚みがあるのだから、そのぶんであろう。
 今日は一巻しか買えなさそうだ、と思う。
 でもそれでもいい。最初から全巻一気に買えるとは思わずに来たのだから。
 それにあと数ヵ月したらお年玉という収入もある。それを使ってまとめて買ってもいいかもしれない。
 そういう算段をしつつ、美久は「じゃあ、これ買おうかな」と一巻を大切に手に持ち直した。
「うん、そうか」
 快は言ってくれて、それから三階のレジでお会計をしたあとに二階へ降りた。
 次は快の買い物。
 新刊が見たいのだと言っていた。
「ああ、これ、これ。好きな作家でさ、ハードカバーで出たんだけどやっぱ高いだろ。だから良さそうだったら図書室で入荷リクエストしようかと思ってて」
「そうなんだ。入るといいね」
 快が手にしたのは青いカバーの本だった。海をイメージしたような爽やかなデザインの本。表紙からしてとても綺麗だった。
 そしてそれだけではない。
 その本を支える快の手。ごつごつしていて大きかった。しっかり男のひとの手だ。
 あの手でさっき、自分の腕を掴んで助けてくれたのだと思うと、美久の顔がまたちょっと熱くなってしまった。
 男の子に触れられて助けてもらったというのに、ちっとも怖くなかった。むしろ心底安心したのだ。それは不思議な感覚だった。
 それに今だって。
 男の子と二人で本屋さんに来て、一緒に本を見て回って、本についての話をしている。これも美久にとっては初めて体験することだった。
 女の子の友達となら何回もしたことがあるけれど、なんか違うものだなぁ、と思ってしまった。
 でもやっぱりそれは、楽しいとか、ちょっとどきどきはするけれど、嬉しいとか、そういう明るい気持ちであった。
 快がその新しい本を見ている間に、美久はその近くにある棚に視線を向けた。偶然、そこには美久の好きな作家の本があった。

 あ、こんなところにある。今日はお小遣いの都合で買えないけど、ちょっと見てみたいな。

 思って、美久はその本を取ろうとしたのだけど、ちょっと高いところにあった。手を伸ばせば届くと思ったのだけど、本の下のところにしか当たらない。
 でも伸びをすれば。
 思って伸び上がろうとしたのだけど、その前になにかが手に触れた。
 それはさっき見て、というか、見入ってしまった手のようで。
 一瞬、なにがあったのかわからなかった。
 ただ、その手が見た通りごつくてあたたかかったことをはっきり感じた。
「ダメだよ、危ないじゃん」
 美久の手。やんわり握って外されてしまった。そうしてから改めてその手が本を抜き出す。
 美久は下のほうしか届かなかったのに、あっさり抜き出したのだ。
 美久は手を下ろして、なんだかぼんやりしてしまった。
「高いところを無理に取ろうとしたら危ないって」
 言われてやっと、はっとした。
 快が取ってくれたのだ。おまけに危ないから、なんて自分を気遣ってくれて。
 かっと顔が熱くなった。
 手が触れたこともそうだし、危ないとか気を使ってくれたのもそうだし、本を取ってくれた優しさもそう。すべてが美久の頬を熱くした。
「あ、ご、ごめんね……」
 ここまでだいぶ普通に話せるようになっていたのに、またしどろもどろになってしまった。
 そんな美久に、快はふっと笑って「はい」と美久の取りたかった本を差し出してくれる。美久はどこか夢心地で「ありがとう」と受け取った。
 でもその本を開いても、どきどき心臓がうるさくて中身は頭にちっとも入ってこなかったけれど。
「ああ、楽しかった」
 蔓屋書店を出て、快は満足だ、というような声を出した。二人で駅のほうへ向かう。
 見ていた時間は一時間にも満たなかっただろう。けれど美久にとってはたくさんのことがありすぎた。どきどきしたり、緊張したり。
 でも楽しかった、と思う。
 不思議なことだ。男の子とこういうふうに外で過ごすなんて初めてだったのに。
 あのとき勇気を出して「一緒に」と言ったことはきっと正しかったのだ。そこは自分を褒めてあげたい。
「うん、楽しかった」
 素直に美久も楽しかったと言うことができた。
 手の中に包んでもらった文庫本があるだけではなく、今日は色々なものが手に入った気がしたのだ。
「綾織さんは、電車どっち?」
「えっとね、上り方面……」
 こんな会話も普通にできるようになってしまっていた。そんなやりとりをしながら駅へ入る。
 しかしそこで知っているひとに出会ってしまった。
「あれ快じゃん。こんなところでなにしてんの?」
 スクールバッグを肩にかけた、クラスメイトのあかりであった。美久はちょっとどきっとしてしまう。
 男の子と一緒にいるところを見られるのは気まずかったのだ。
「お、あかり。今、帰り? ちょっと本屋に行ってきた」
 でもあかりが声をかけたのは、美久ではなく快だった。おまけに下の名前で呼んでいた。
 快も当たり前のようにそれに答えている。

 ……仲がいいのかな?

 美久はそんなふうに思って、二人のやりとりを見守った。

 友達とか、あるいは、……彼氏、とか?

 思ったことにはそわそわしてしまう。あかりが快の彼女であるなら、邪魔をしてしまったことになるかもしれない。いくら快から声をかけてくれたとはいえ。
 美久の元々の引っ込み思案が復活してしまったようで、ちょっとひやひやしてきた。
 そして実際、あかりは美久に視線を向けた。不審そう、ともいえる、あまり優しくはない視線。
「綾織さんと、仲良かったっけ」
 そう言われても仕方がないだろう。実際、仲がいいのかと言ったら微妙である。まだ会うのは二回目だし、しっかり話をしたのは初めてなのだ。
 よって、美久は困ってしまって快を見た。その様子を見て、あかりはちょっとだけ眉を寄せる。
「いや、偶然本屋で会ったんだよ。前に図書室で話をしたことがあってさ」
 快の答えに、美久は、あれ、と思った。
 ちょっと違うではないか。
 快と『偶然会った』のはそのとおりだけど『会った』のは本屋さんではないのだ。雑貨屋さんでヘンな男から助けてくれたときだ。
 しかし快はそれを言わないつもりのようで。勿論そのあと噴水の前で一緒にお茶を飲んだこともだろう。
 でも美久から「そうじゃなくて」と言うところではないだろう。二人の会話に割り込むつもりもなかったし。
「そうなんだ。……帰るなら一緒に帰ろうよ」
「ああ、そうするか」
 あかりはそれを受け入れて、次の提案は快に「一緒に帰ろう」だった。
 快もするっとそれを受け入れる。
 そして快は美久のほうを見た。ちょっと微笑んでくれる。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「えっ、あ……うん! 私こそ楽しかった、……です」
 敬語がひとつだけ復活してしまったのはなぜだろうか。ここまで普通に話せていたのに。
「じゃ、行こ、快。綾織さん、またね」
 あかりはちらっと美久を見て、一応挨拶をしてくれたけれど、なんだかそれはあまりいい空気ではない気がした。
「う、うん……また明日、ね」
 美久の答えもそのせいでちょっと気弱になってしまう。
「じゃあね、綾織さん」
 快も言ってくれて、そして快とあかりの二人は連れ立って改札の向こうへ消えていった。
 美久はちょっとだけその場に立ちつくして、それを見てしまった。
 あかりにこんなところで会うなんて思わなかったし、こんな会話をすることになるとは思わなかった。
 でもあかりは……多分、美久が快といたのを良く思わなかったのだろう。そういう態度と雰囲気だった。

 もしかして、久保田くんが彼氏なのかな。
 私、割り込むようなことしちゃったのかもしれない。
 そうなら悪いことだったかな。

 最後のやりとりは美久にそう思わせて、少しの罪悪感を感じさせてしまった。
 でもこうしていても仕方がない。
 美久も改札に向かう。ピッと音を立てて通過した。
 改札内を歩いて、エスカレーターへ向かって、ホームへ行く。
 ホームに立って、電車を待って、来た電車に乗る頃には意識はもう買った本へシフトしてしまっていたけれど。

 無事に買えてよかった。
 思ったよりちょっと高めだったから、もっと計画的に買わないとだけど……。

 そう思いはしたものの、手の届く範囲で良かったと思う。
 帰ったらすぐに読もうと思った。
 一巻は図書室で借りたものでもう読んでしまったに決まっているけれど、せっかく自分のものとして手に入ったのだ。しばらくはこの文庫本の一巻を読もう。そしていつでも読めるのだと思うと、心がわくわくして仕方がなかった。
「おはよー」
「おはよー」
 明るい挨拶が飛び交う教室の朝。
 いつも通り早めに登校して自分の机で支度をしていた美久だったけれど、そこへ留依が登校してきた。
「おはよう美久!」
 留依は朝から元気だ。明るい挨拶をしてくれた。美久もにこっと笑って「留依ちゃんおはよう」と返す。
 そこで気付いた。留依の雰囲気が少し変わったように見えたのだ。
「留依ちゃん、なにか変えた……?」
 思わず聞いてしまった。でも美久には具体的になにか、などとはわからない。
 制服だっていつも通り。スカート丈は、転校してきてだいぶ経つから学校で許される雰囲気もわかったということらしく、少し短めになっていたけれど、それは前からだ。
 髪だって特に結んでいたりとかもない。
 バッグも変わっていなければ、キーホルダーなども変わっていない……。
 どうして『なにか変えた』と思ってしまったのか自分でよくわからなかった美久だったけれど、それは間違ってはいなかったようなのだ。
 留依はぱっと顔を明るくした。
「うん! 実はヘアサロンに行ってきたんだ!」
 美久はその様子を見てほっとした。留依が『気付いてもらえた』ということに嬉しくなってくれたようだったから。まぁ美久は具体的に『どこが』とはわかっていなかったわけだが、それはともかく。
「そうなんだ。髪を切ったの?」
「ううん、染め直しただけだよ、プリンになってきてたからね」
 だが留依の言ったことの意味はわからなかった。
 プリン?
 何故お菓子と髪が関係あるというのか。
 不思議そうな顔をした美久を見たのだろう、留依は「ああ」と説明してくれた。
「プリンっていうのはね、染めた髪のてっぺんだけが、髪が伸びてきて黒になっちゃうこと。カラメルのかかったプリンみたいでしょ」
「そうなんだ」
 どうやら通称のようなものらしい。美久は納得した。
 同時にちょっと反省したけれど。
 女子高生なら知っていて、というか、使って当たり前のような単語のようだ。そんなことも自分は知らなかったとは。
 それに気付いたのか、留依は「そうだ!」と唐突に高い声をあげた。
「美久も結構髪、伸びてきたじゃん。サロンとか行くのはどう?」
「えっ……」
 留依の唐突な提案。美久は目を丸くしてしまう。
 サロンなんて行ったことがない。大人の女のひとが行くものだと思っていたのだ。
 では今までどうしていたかというと、お母さんの知り合いの、近所の美容院というところで切ってもらっていたのである。
 そこだって別にちゃんとしたお店ではある。
 けれど、女子高生に好かれるようなお店かと言われたらNoであろう。そういうオシャレなところではない。