「しゅうきしょう、って聞いたことないけど。なんかの賞の名前? えらいひととか?」
ある日のランチタイム。お弁当を食べながら親友の綾(あや)が聞いてきた。
今日はクラスで仲のいい子たちと机をくっつけてお弁当を食べていた。お母さんが毎日作ってくれるお弁当だ。
水色のチェックのクロスで包まれている紺のお弁当箱はシンプルだけど隅に入っている花の模様がかわいらしい。シックながら少しのかわいらしさもあって気に入っている。
勿論気に入っているのは中身のお弁当も。
玉子焼き、プチトマト、ハンバーグ……大体そういうごく普通の、家庭のお弁当だけどお母さんはお料理がうまいだけあって毎日とてもおいしかった。
今日は唐揚げ。蓋を開けて大好きなそれを見て嬉しくなったものだ。
それをお箸で摘まみながら、浅葱はちょっと笑ってしまった。
「ううん、普通に『秋』に季節の『季』で秋季。秋にあるコンテストだよって意味」
綾はそれを聞いて「なんだ、シューキ、とかいう画家がいるのかと思っちゃったよ」なんて、あはは、と笑った。お茶目なのだ。
綾はバレー部で、活発な性格と性質だ。ショートヘアに短いスカート丈といった活動的なスタイルをしている。
だから絵のことにはあまり詳しくない。むしろ苦手かも、と言っている。外で体を動かすことが好きなのだ。それは中学校の頃からずっと同じ。
でもなんだか気が合って、中学校からずっと親友。変わらないことだ。
対して浅葱はもう少し大人しい見た目をしているといえた。
茶色の髪はロングで普段は背中に流している。体育の時間は結ぶのだ。
絵を描くときもまとめ髪にする。とはいえ別に凝った髪型にするわけではない。シンプルにみつあみをしたり、単にうしろでくくって小さなお団子にしたり。
だってオシャレが目的ではないのだ。あくまでも髪が邪魔にならなければいい。
でもここしばらく……数ヵ月くらいはそれだけではなくなっていた。
それを意識してしまうとだいぶくすぐったい。
邪魔にならなければ、という理由以外にも見た目としてかわいらしいように見えていたらいい、なんて思ってしまうことは。
春は全く気にしていなかったのに夏になる頃にはそう思ってしまうようになっていて、その理由なんて明らかだった。
コドモではないのだ。わかっている。
……片想いをしてしまったから。
美術部部長の、蘇芳先輩に。
「それでもう描いてるんだ? 早くない?」
隣から言ったのは別の友達。美術部でも一緒の萌江(もえ)だ。
萌江は浅葱とは違ってイラストも好きだった。漫画もたまに描いていてそれはなかなか面白いのだった。
「そうかな。構想は早いほうが良くない?」
付け合わせのほうれん草のソテーを摘まみながら浅葱は言う。
萌江はシンプルに「そうだけどさー」と言う。割とギリギリ体質なのだ。
サボるわけではないけれどなかなかスイッチが入らないのだと言っている。
それは勉強も同じで夏休みの課題も、夏休みが明けても終わっていなかったくらい。先生に散々つつかれてやっと終わらせたと言っていた。
勉強ができないわけではないし、美術部のほうもヘタではないのに。単にそうでないとできないというだけ。そこはちょっとした欠点かもしれなかった。
「浅葱は真面目だもんね」
綾がフォローしてくれた。浅葱はそれに嬉しくなってしまう。
真面目過ぎて固い子だとは思われたくないけれど、やっぱり好きなことにしっかり取り組んでいると言ってもらえるのは嬉しいから。
「秋季賞はなにかしら入賞したいもん。しっかり練っておこうと思って」
「入賞? 例えばどんな?」
「そりゃあ最優秀賞とか、佳作とか、入選とか……普通の賞だよ」
友達たちに賞のシステムについて簡単に話す。
そう、今回はなにかしら賞が欲しかった。まだ一年生。ヘタではないと思っているけれど、なにしろ技術的は当たり前に先輩が上だ。だから先輩のほうが評価されて当然だとは思う。
けれど負けたくない。
最優秀賞なんて無理だろう。
無理、だろうけど。
あわよくばという気持ちはあるし、それに現実的なところだと一番下の賞、入選でもいい。とにかくなにか欲しかった。
それは純粋に自分の絵を評価してほしい気持ちである。
でもそれだけではなくてこれもやっぱり。
「そういえば部長さん……蘇芳先輩、だっけ? 夏前にいい賞を取ったとかで表彰されてたよね」
不意に綾が蘇芳先輩の話を出してきて、浅葱はどきっとした。
綾は勿論、浅葱の片想いのことを知っている。だからどきりとしてしまったわけ。
それはつまり、浅葱がどうして賞が欲しいかということもわかってしまっているということだろう。
「う、うん。特別賞。特別賞が三本だっけかな、あって。それに選ばれてたよ」
「ああ……集会で表彰式があったもんね」
ほかの子も少しは覚えてくれていたらしい。なんだか自分のことのように嬉しくなった。
美術部仲間の萌江も「そうそう! 美術部でもちょっとしたお祝いをしたんだよ」と話す。
先輩のことが話題に出たのにはどきどきしてしまうけど。
でも楽しい。こういう話は。
「それなら蘇芳先輩にいいところを見せないとね。気にかけてもらわないと!」
やっぱりこういうほうへ話が進んでしまった。ほんのり頬が熱くなる。
ぱくりとご飯を一口食べる。誤魔化すようだったけれど、そうでもしないと恥ずかしい。
「いいところっていうか……部員なんだからしっかりしたのを出したいなって……」
ご飯を飲み込んでから言ったけれど、それは歯切れが悪くなってしまったし、実際それは友達に指摘されてしまった。
「しっかりしたのを出して褒めてもらえたらいいしね」
それは明らかにからかう意図だったので浅葱は「そんな邪な気持ちじゃないから!」と膨れることになる。
それは本当だ。
褒めてもらいたい気持ちはある。それは邪。
でも本当に純粋な『いい作品を作りたい』という気持ちなのだ。それも野望ともいえる大きなもの。
美術部部員として。それから自分の実力を出したいという意味で。
満足できるものを作り上げたかった。
「そうしたら蘇芳先輩も好きになってくれるかもしれないし!」
しかし次に言われたことにはむせてしまった。ごほごほ、と咳き込んでしまう。
「そ、それはないから!」
咳がおさまって、はーっと息をついたあとに言った。遅れて胸が高鳴ってくる。
蘇芳先輩が自分を好きになってくれる。
そりゃあ、そうなったらどんなに幸せだろうか。
けれどなにしろ蘇芳先輩は学園の王子様なのだ。
憧れている、というか片想いをしている子は星の数ほどいるだろう。
その中の一番……つまり蘇芳先輩に好きになってもらえる存在になれるかと言ったら、それはすごく難しいと思う。
「そんなことないよ」
そこで言ってくれたのは綾だった。浅葱を見てにこっと笑う。
「だって頑張ってる女の子は魅力的だもん。そういう女の子のことはいい印象を持ってくれるよ」
浅葱の胸がじんと熱くなった。
そうだ、好きになってもらえる、恋をしてもらえるなんてことはわからない。保証もない。
けれど「頑張ってるな」「すごいな」と思ってもらえることは無理じゃない。
それなら、それだけでもいい。いい印象を持ってほしい。
「ありがとう。頑張るよ!」
明るい気持ちになってそう言った浅葱。友達たちも「確かにそうだよね」「頑張って!」と言ってくれた。
そのまま話題は次に移っていったけれど浅葱の胸は熱いままだった。
秋季賞に出す作品。
自分の全てを詰めようと思う。
好きなひとに認められたいというのは当たり前の感情であるし、それを別にしたって輝けることであるのだ。
だからそういう姿勢で挑もう。
魅力ある自分でいたいから。
今日の部活の時間が既に楽しみになっていた。
今日はどの作業をしようか。
おしゃべりが終わって午後の授業がはじまっても。
授業には集中していたけれど、合間合間につい頭に浮かんでしまっていた。
浅葱がこの学校と美術部に入ってそろそろ半年になる。
この美術部がある重色(かさね)高校は、そこそこ偏差値の高い私立高校だ。
とはいえ高級な学校ではない。通っているのは普通の家の子たちがほとんど。浅葱だって家は庶民の庶民。お父さんは会社員でお母さんはパート、中学生の弟がいて……なんて普通すぎる家だ。
公立高校も周りにはあるけれど、単に偏差値がちょうど良くて家からも近くて、ついでに友達も「カサネにしようかな」と言っていた子も何人かいた。そのくらいで決めてしまったのだ。
高級な学校で学費がかかる、などではないのでお父さんやお母さんも「私立ならしっかり勉強もできそうだしいいだろう」とあっさり許可を出してくれた。受験もあっさり通った。
そこから重色高校での生活がはじまったわけである。
春に初めて制服を着たときはとても嬉しかった。私立高校らしくかわいい制服だったから。
紺色のブレザー。スカートとリボンの色は学年ごと違う。
浅葱の入学した年は三年生が青。二年生が赤。一年生が緑だった。
よって浅葱のスカートとリボンは緑。
スカートは緑をメインにしたチェック柄。丈はあまり短くすると注意されるのでそこそこに。
リボンは無地の緑で、ブラウスの襟の下でぱちんと留めるタイプだ。
そんなかわいい服で毎日学校に通えるなんて。
中学は公立で割と地味なセーラー服だったので、世界が変わるようにも感じてしまった。
そして美術部に入るのもあっさり決めた。
元々絵を描くのが好きだったし、重色高校の美術部は割と真面目な活動をしているようだった。
部の活動もコンスタントにあって、デッサンやクロッキーなどという基礎的な練習も多い。技術を学ぶのも大事なことなのだ。好きな絵ばかりを描いているわけにはいかない。
技術がなければ表現したいこともうまくできない。だから基本を学ぶのはとても大事なことなのだった。
小学校では図画工作の時間が好きだったし、その中でも工作よりは絵のほうが好きだと思っていた。
中学校でも美術部に入った。そこで浅葱の絵の基盤ができたのだと思う。
少しずつ技術を習っていくのは楽しかった。小学校で図工の時間に思うがままに描いているのも楽しかったけれど、もっとうまく表現できるようになっていくのだ。楽しいに決まっていた。
ちなみにイラストはあまり得意ではない。漫画も読むのは好きなので興味はあった。けれど描いてみたときあまり向いていないようだと思った。
かわいい女の子を描いたりするのは楽しい。けれど漫画にするためにストーリーを考えるのは自分のやりたいこととはちょっと違うと思ってしまった。
それよりは純粋にモノや風景を描きたい。それもじっくりと。そう思って、中学校の後半あたりからはイラストはほとんど描かなくなっていた。
やりたいのはあくまで絵画。油絵やアクリル絵の具を使うポスターや……あるいは色鉛筆など。ちょっと固いといわれてしまうこともあるようなもの。
画材に特にこだわりはなかった。どれを使ってもそれぞれ楽しい。
油絵の、上へ上へと色を重ねてこってりと塗っていくのも楽しい。
アクリル絵の具の、ぱきっと場所を分けてマットに、平面で表現するのも楽しい。
或いは色鉛筆。様々な色を少しずつ塗っていって、その重なりで微妙なニュアンスを出していくのも楽しい。
そういうふうに新しい画材や描き方を知っていって、絵画の世界が広がっていくことを浅葱はとても楽しんでいた。
重色高校に入ってからは高校生ということでより専門的なことも教えてもらえるようになって、部活動がとても楽しくなっていた。
現在、夏休みも明けてしばらくした秋。ここまで先生や先輩から色々と教わって、世界はどんどん広がっていくところ。一枚絵が仕上がるたびに自分の上達を感じられてその度に感動してしまうのだった。
勿論重色高校で楽しんでいるのは部活動と絵だけではなかった。
学校生活も楽しい。中学校から一緒だった親友の綾とは今も同じクラスで、毎日のようにお喋りしたりお弁当を食べたり、休日は遊びに行ったりしていたし、それ以外にも高校で知り合った友達もたくさん。
浅葱はクラスの中心的存在なんてものではなかったけれど、少なくとも暗い性格ではない。派手でも地味でもない普通の女子生徒なのだった。
現在はいじめなどもない平和な学園生活が続いていた。絵に集中して楽しめてしまうくらいには。
その日の放課後は部活がなかった。
本当なら毎日部活へ行って絵を描いていたい。賞に出す絵は毎日描くわけではないが全体部活のデッサン会は週に一回必ずあるし、週に四日は部活がある。
基本的な技術をあげる活動も浅葱は好きだった。やはり積み重ねなのであるし、蘇芳先輩からの指導を受けられることもあるのだから。
部長である蘇芳先輩は当たり前のように高い技術を持っている。そのために自分で練習する以外にも浅葱たち後輩の指導役にもなってくれる。
「ここはガイドラインを入れたほうがいい」ときっちりとパースを合わせて描くための線をどこに入れたらいいか教えてくれたり。
「もう少し明るい色を入れてみたらいいんじゃないかな。そのほうが光の位置がはっきりする」と全体のバランスを教えてくれたり。
浅葱にとって実になることばかりだった。
おまけにこういうときは当たり前のように近くで作品を覗き込んで教えてくれる。距離が近い。それはどきどきしてしまうことで。
単純すぎると思うけれど、そういうことも起こるので全体部活の日も楽しくて嬉しいものだった。
でも今日は活動がない。週に一回、水曜日だが学校全体で『部活休みの日』と決められてしまっていた。浅葱としては不満なこと。
部活休みの日があるのは、部活以外の学校生活や私生活を充実させなさい、という意図らしい。それも大事だけど少々不満。
でも無視することはできないし、これも片想いからの気持ちではあるのだけどルールを破る女の子になりたくもなかった。
だから仕方がない。そういう日は早く学校を出て友達との寄り道なんかをして遊ぶのだった。それはそれで楽しいのでいいことだと思う。気分転換にもなる。よって今日はそういう水曜日だったのだけど。
「ごめーん、今日は家の用事があるんだよ」
「私も……別の学校の子と久しぶりに会おうって約束してて……」
何故か友達たちに軒並み予定があった。それもいつも遊ぶメンバー全員にである。
こういうことは珍しいけれどたまには起こるだろう。仕方がない。浅葱は「残念だけど楽しんできてよ」と友達たちと別れたのだった。
一人で帰ろうかと思ったのだけど、学校を出て駅まで歩いているうちにふと思った。
折角時間があるのだ。そのまま帰ってもいいけれど普段はできないことができる。なら活用したほうがいい。
なにかしようか、どこかへ寄っていこうか。
思ったときすぐ浮かんだ場所があった。
ああ、あそこへ行ってみよう。
思いついて浅葱はちょっと微笑んでしまった。
普段学校帰りには行けない。少し遠いのだ。だから休みの日しか行けないところ。一人で自由に見られるし、行くのもいいだろう。
よって浅葱は駅に着いてから、普段帰るのとは逆側のホームへ行った。つまり逆方向へ向かう電車に乗った。
そのときから既に楽しい気持ちでいっぱいだった。
浅葱にとって好きな場所へ行くのだ。それはもう楽しくなって当たり前の場所へ。
着いたのはちょっと大きめの駅だった。繫華街があって栄えている。休日に友達とたまに遊びに来るところだ。
楽しいお店がたくさんある。カラオケもゲーセンも、カフェや流行りのタピオカのお店だって。でも今日は目的地があるのだ。
浅葱はさっさと歩いてそれらのお店を通過して一軒のビルを目指した。そこはビルが丸々一軒、浅葱の好きなもので埋まっているお店。
そのお店が見えてきた。浅葱は既にふふっと微笑んでしまう。来るのは久しぶりだった。前に来たのは夏休みの終わり頃だったかもしれない。
お店の前にはワゴンが出ていた。特売品や見切り品が入っている。こういうものにいいものが混ざっていたりするのだ。
今日は掘り出し物があるかな。
思って、お店の前に着いた浅葱はワゴンの中を見はじめた。
アウトレットの色鉛筆のセット。
百枚単位で詰められたケント紙や画用紙。
そういうものが綺麗に並んで入っている。
あ、この筆、安い。そういえば新しい製品が出たんだっけ。型落ちってやつかな。
前に先輩が使ってて良さそうだったから買ってみようかなぁ。50%オフだしいい機会かも。
いくつかの商品を取っては確認しながら心の中で呟く。
浅葱がお店の外から既に楽しみはじめてしまった、そこは。
『地球堂』と大きな看板が出ている画材専門店だった。
『地球堂』は、前述の通りビルが丸々ひとつお店の画材専門店。このへんでは一番の規模と品揃えだ。
大きなお店なので繫華街のある街にある。よって気軽に訪ねるということは難しいのだった。
ついでに友達と遊びに来るときに寄るのにも向かない。何故ならついあれこれ見たくなってしまって、美術部友達の萌江などはともかく、絵に特に興味のない子を付き合わせてしまうのは申し訳ない。
でもざっと見るだけでは気持ちが満たされないし、必然的に美術部の友達、先輩、そういうひととか、一人で来るのだった。今日はいい機会だったというわけだ。
浅葱は一階から見ていった。特売品の筆はとりあえず一旦保留しておくことにした。
普通に売っているものを買いたくなってしまうこともあるだろうし、買うか決まっていないものを持ち歩くのも申し訳ない。よって筆を買うかはあとで決めることにした。予算の都合もあるし。
一階はキャンバスや用紙など重ためのものが並んでいた。専用の紙が貼れるキャンバスは当たり前のようにお小遣いでは買えない。今、部活で使っているものも部の備品。
いつか自分で買えるようになりたいと思うけれど。
自分の好きなものを、自分の絵に、タッチにあったものを。
そうしたら好きな紙も自由に選んで貼れるし、より描くのが楽しくなるだろう。
今は買えないけれど一応見て回る。普段見られないものもゆっくり見たい。
ああ、やっぱりいいなぁ。大学生になったらバイトとかして買いたいな。
そんな感嘆を覚えつつ次は二階へ。