きみの手が生み出す世界

 かぁっと熱くなったのは、顔と、胸の中。
 嬉しくてたまらないと、心が騒ぐ。
 恥ずかしい気持ちに顔は熱くなったけれど、確かに嬉しくて。
 浅葱はどきどきしながら、そっと手を伸ばして蘇芳先輩の指先に触れた。
 ほわっとあったかい体温が伝わってくる。
 浅葱が触れたのはほんの少しだったのに、先輩はすぐに浅葱の手を捕まえてしまう。そしてきゅっと握ってきた。
 手を重ねていたときよりも手の全体があたたかくなった。もう、熱いほどだった。
 手から緊張と、でもそれよりもっとたくさんの嬉しさが伝わってくる。
 しばらく歩く間、二人とも無言だった。
 けれど居心地は悪くなかった。
 毎日、歩いて行き帰りしている道。今は特別なものだった。
「あったかい、です」
 浅葱の口から自然にその言葉は出ていた。それに答えるように蘇芳先輩の手が、きゅっと浅葱の手を握る手に力を込めた。
「六谷の手。冷たかったのに、ちょっとずつあったかくなってる気がする」
 けれど言われたことにはまた恥ずかしくなってしまった。
 先輩の手があたためてくれているのもあるけれど、緊張で胸を熱くしてしまっているせいもきっとあるから。そして蘇芳先輩もそれをわかってしまっているのかもしれないから。
 顔を赤くしたのを見たらしい。先輩は笑みを浮かべた。
 とても優しい笑み。今は『恋人』としてのものだった。
「こうしてずっと、あっためててやりたいな」
 帰り道は幸せだった。十分くらいの道がどこまでも続いていればいいのに、とすら思う。
 現実にはあっという間、と感じてしまうほど早く、家に着いてしまったけれど。
 流石に恋人になったひとと手を繋いでいるのをお母さんなどの家のひとに見られるのはまだちょっと気まずいな、と思っていたのだけど浅葱が「そこなんです」と繋いでもらっていたのとは逆の手で指差したときに、そっと手は離されてしまった。
 ほっとするやら寂しいやら。あったかかった手がすぅっと寒くなってしまう気がした。
 でも蘇芳先輩の次の言葉にそんな気持ちはすぐに消えた。
「遅くまで悪かったな。じゃ、また明日、学校で」
 遅くまで悪かった、なんて。こうして送ってくれるほど優しいのに。
 浅葱は小さく首を振った。
「いえ、送ってもらえて嬉しかったです。ありがとうございます」
「当たり前だろ。毎日は無理かもだけど、できるだけ一緒に帰れたら嬉しいな」
 浅葱の胸を熱く喜ばせるような、約束。
 今日のとても素敵な出来事の一番最後はそれだった。
 そう。幸せなのは今日だけではない。
 続いていくのだ。これからずっと。
 むしろここからがスタート。幸せな日々がはじまるのだろう。
 それは今までの片想いの日々とは違っていて、でももっともっと幸せなものになるだろう。
 十二月も半ばに入ろうとしている。冬季賞の作品作りも佳境に入っていた。
 冬季賞は秋季賞より小規模なのだ。それは何故かというと春、三月にあるコンテストのほうが大規模だからである。そちらに力を入れるために冬季賞はコンパクトになっているらしい。
 そういうものなので締切までの期間も短かった。
 必然的に秋季賞よりも短時間で形になるようなものを意識しなければいけない。
 浅葱の選んだ題材、ヨーロッパの街並みの絵もデッサン風に仕上げることにしていた。
 街の絵なんて書き込みがいくらあっても足りないくらいだ。
 なのでそれを逆手に取ってラフな感じを前面に出すことにしたのだ。
 蘇芳先輩も「良さそうだな」と言ってくれた。
「ラフ感を出すなら余計に下絵が重要になるな。デッサンの狂いが命取りになるから」
 そう言って何度も見てくれた。描いてみては見せて、指摘されたところを直して。その繰り返し。
 少し前にそれもOKが出て塗りに入ったところだ。
 塗りはあっさりめにする。手を抜くという意味ではなく軽いタッチに仕上げるということだ。
 勿論蘇芳先輩とは部活のことだけではない。恋人同士としても順調に過ごしていた。
 部活の日はほとんど一緒に帰るようになったし、たまに一年生のクラスにも来てくれる。
 「六谷、いるか?」などと来てくれるので、浅葱との交際はすぐに公になってしまった。
 けれど浅葱が蘇芳先輩に憧れている女子たちに嫉妬され、意地悪をされ……ということは幸い起こらなかった。
 多分、蘇芳先輩がなにかしら言ってくれたのだと思う。
 なにも言ってこなかったのは浅葱がそういうことを気にしないように、だろう。
 でもここまでなにも起こらなければ先輩がしっかり手を回してくれたことがわからないはずがない。
 そういう気遣いも、二重の意味で嬉しくて。
 交際は順調だった。
 十二月はそのままあっというまに過ぎてしまう気がした。部活では絵に集中して、プライベートの時間は蘇芳先輩と恋人同士として過ごせて。
 けれどそんなはずがあるわけがない。あっというまに過ぎては困るのだ。
 冬季賞の絵だって納得できる出来になるまで作りこみたいし、それにもうひとつ。
 ……蘇芳先輩との、お付き合い。
 気になることがあった。
 それは当たり前のようにクリスマス。あと二週間ほど。
 きっとデートをしてくれるのだろう。優しい彼氏、……今や『彼氏』なのである。実感したりするのはまだ恥ずかしいけれど、とても胸が熱くなることだった。
 それはともかく優しい彼氏・蘇芳先輩がクリスマスになにもないなんてことはありえないだろう。浅葱はそう思っていた。
 でもクリスマスは冬季賞の締め切り直前なのだ。デートなどはできるかどうか。
 別にデートがあとになっても構わない。冬季賞だって大事なことだし、自分だって直前の仕上げをしたい気持ちは強い。どちらが余計に大事ということはない。
 だからどちらでも良かったのだけど……。
 それより前に、ある『大事なこと』が起こったのだった。
 その日の部活は作業ではないと言われた。そういうつもりで来てほしいと。それも全員参加を命じられた。
 蘇芳先輩によって聞かされたとき、浅葱は既に察していた。
 きっと美術部の今後のことについてだ。
 冬季賞の提出が終わったら世代交代をすると蘇芳先輩は言った。
 だけどすぐに「はいチェンジ」となるわけがないのだ。
 次の部長になるひとや役職に就くひとが心の準備をする時間は必要だろう。
 それが、きっと。


「どきどきするね」
 授業と掃除が終わって部活へ向かいながら萌江と言い合った。
 部長になるひとはわかっている。二年生の、いつも蘇芳先輩のサポートをしていた男子の先輩だろう。
 副部長も現二年生だ。だから一年生の浅葱や萌江がなれるはずはない。
 けれど少しは緊張してしまう要素があった。
 二年生には『二年リーダー』という役職がある。名前の通り二年生の取りまとめと、それから一年生の面倒も多少は見る役目である。
 そしてその役職は……三年生になるとき、部長になる可能性が高いというものなのであった。
 自分が任命されるかはわからないけれど、仮にも一年生の中の一人である。可能性がなくはないのだった。
 浅葱としては、なれたらいいな、という気持ちがほのかにあった。
 蘇芳先輩の部長として、先輩としてとても尊敬できるところをずっと見てきたのだ。
 自分も同じようになれたら、ともずっと思ってきた。
 別に役職がなければそういうことができないわけではないけれど、役職があったら責任感も生まれるしもっと頑張れると思うのだ。
 だから任命されたらどんなに嬉しいだろうかと思ってしまう。
 そんな期待と緊張を抱えて臨んだ、特別な部活。
 蘇芳先輩が部活を去ってしまうのは寂しいに決まっているけれど、それは同時に自分が一段階成長できるということなのだ。
 だから寂しいとか嫌だとか言っている場合ではない。
 前に進むのだ。尊敬している蘇芳先輩のように、なれるように。
「さて、みんななんとなくわかっているとは思うが、今日は次期部長や役職を発表する」
 部員たちはそれぞれ美術室に並んでいる机についた。
 蘇芳先輩が教壇についてみんなに話をする役目だ。隣には副部長の森屋先輩や水野先生も控えている。
 ごくり、と張り詰めた空気が美術室に広がった。けれど今のこれは嫌なものではなくて。
「まず、来年の部長。金澤 瑞章(かなざわ みずあき)」
 呼ばれた名前は浅葱だけではなく、おそらくこの場の部員みんなが想像していたものだっただろう。
 二年生の金澤先輩本人も予想していたはずだ。それほど動揺する様子は見せなかった。堂々と立ち上がる。
「頼んだぞ。お前ならきっといい部長になれる」
 蘇芳先輩が彼に視線を向けた。優しい笑みを浮かべて。
 その言葉は本心からに決まっている。浅葱もきっと金澤先輩ならいい部長になってくれると思っていた。
 蘇芳先輩に比べればそりゃあ、一年後輩なのだからまだ未熟なところはあるかもしれない。
 けれど蘇芳先輩のサポートに回る姿は一生懸命という言葉がよく似合う姿であったし、二年生リーダーとしてしっかり働いているのを春から見てきた。
 だから金澤先輩が次期部長になるなら安心して活動できる。浅葱は確信した。
「未熟ですが、精一杯、務めさせていただきます!」
 蘇芳先輩にまずおじぎをして、次に部員たちに向かってもおじぎをしてくれた。律儀なひとなのだ。
 ぱちぱちと自然と拍手が起こった。きっと部員たちも浅葱と同じ気持ちなのだろう。
 そこから次々と役職が発表されていった。副部長に会計、書記……。すべて現二年生だった。
 どきどきとする気持ちが強くなっていく。
 現一年生に役職のある子はいない。だから二年生リーダーだった金澤先輩のように『持ち上がり』といってもいいような立場がなく、まったく想像がつかなかったのだ。
 まさか自分が任命されたら。
 とても緊張するし責任感はプレッシャーになるだろうけど。
 できるならやってみたい。その気持ちは確かにあった。
 そして浅葱の期待通りになってしまったのである。
「では最後に、二年リーダーだ」
 ごく、と唾を飲んだ直後だった。蘇芳先輩が浅葱を見た。浅葱は当たり前のように教壇の蘇芳先輩を見ていたのでしっかりと目が合った。
 え、まさか。
 どくんっと心臓が高鳴った。痛いくらいに反応する。
 ふっと目元を緩めて蘇芳先輩は口を開く。
「六谷 浅葱。お前に任せる」
 期待はしていた。
 なりたいと思っていた。
 けれど現実になるのは全く意味が違う。
 一瞬、ぼうっとしてしまった。さっきの金澤先輩のように堂々と立ちあがることもできずに。
 でもすぐにはっとした。
 夢が叶った。
 あたふたと立ち上がる。がたがた椅子が鳴ってしまった。そのくらい動揺してしまったのだ。
「お前ならきっといいリーダーになれる。新二年生と、新しく入学してくる一年生の指導役になってくれ」
 優しい目元で言ってくれた蘇芳先輩。もう一度、どくっと心臓が跳ねてしまった。そのままどきどき熱い鼓動を刻む。
「は、はいっ! わ、私にできるかわかりませんが、精一杯やらせていただきます!」
 浅葱の返事はひっくり返った。おじぎをするのも一呼吸遅れてしまったくらいだ。
 慌ててぺこりとおじぎをする。金澤先輩のように、まず蘇芳先輩に。それから美術室の中の部員たちに。
「大丈夫さ」
 迎えてくれたのは蘇芳先輩の優しさに溢れた笑みと言葉。それから部員のあたたかな拍手だった。
「さて、役職発表は以上。次は来年度の話を少ししようかな」
 蘇芳先輩の話題を切り替える言葉に、ちょっとざわついていた部内はまた静かになった。
 とすっと椅子に元通り腰かけても浅葱の心臓の速さはおさまらなかった。どきどきするのがとまらない。
 これは蘇芳先輩に対して抱いている恋の気持ちとは違う意味の嬉しさと、また誇らしさだった。
 二年生リーダーになれるのだ。
 蘇芳先輩直々に任命してくれたのだ。
 それはつまり、蘇芳先輩が浅葱なら二年生リーダーにふさわしいと思ってくれたことであって、それは今の浅葱にとって最上級の評価であって、そして光栄だった。
 頑張らないと。蘇芳先輩のような立派なリーダーになれるように、頑張らないと。
 浅葱は胸元をぎゅっと握った。熱い鼓動を刻む胸を、だ。
 すぐに気持ちを切り替えたけれど。
 きちんと蘇芳先輩の話を聞かなければ。来年度の話。しっかり聞いて、覚えて、来年になったら……いや、違う。
 年が明けて実際に世代交代になったら、少しでもうまくできるように実行するのだ。
「浅葱、すごいじゃん!」
 部活が解散となるなり、萌江が興奮した様子でやってきた。萌江だけでなく一年生が浅葱の元に集まってくる。
 蘇芳先輩の話のあとに森屋先輩と水野先生からの挨拶や言葉がそれぞれあった。
 「立派な副部長だったかはわからないけれど、みんな、支えてくれてありがとう」と言った森屋先輩。
 「金澤くんを中心に来年度も力を合わせて頑張っていきましょうね」と言った水野先生。来年度も水野先生が顧問をしてくれるようだ。慣れている水野先生が顧問ならば二年生リーダーとしても安心して活動できる気が、浅葱にはした。
「私にできるかわからないけど……でも精一杯やってみるね」
 まだ興奮がさめなかったのでさっきの挨拶と同じことを言ってしまった。
 けれどそんな浅葱を一年生のみんなは祝福してくれた。
「浅葱さんならきっといいリーダーになれるよ!」
「ああ。六谷さん、すげぇ部活頑張ってたもんな」
 口々に言ってくれる。「ありがとう」と返事をする浅葱の胸は違う意味でじんわりあたたかくなっていった。
「私たちもしっかり手伝うからさ! ねっ、みんな!」
 萌江が自信ありげに胸を叩いて言ってくれた。
 あれから萌江が苦手な『計画的に作業を進めること』を実行できるように努力しているところを浅葱はずっと見てきた。だからそういう萌江に負けないくらいに、自分も上へ上へと進んでいけるように頑張らないと。萌江の様子は浅葱をより奮い立たせるのだった。
「じゃ、今日の部活はこれで終わりだ。明日からみんな、作業を頑張ろうな。締め切りまであと二週間だ」
 蘇芳先輩の言葉で、今度は違う意味で場の空気が引き締まった。はい、はい、とみんないい返事をする。
 それで今日の部活はおしまいとなった。役職が発表されても特に今日やることはないということでそのまま解散となる。
 後日、役職を命じられた生徒だけが集められて話をするのだと聞かされたからだ。
 一年生の中では自分だけが参加するので浅葱はそれを聞かされて緊張してしまったけれど、やっぱりこれも光栄すぎること。
「お疲れ様です!」
 浅葱は足取り軽く美術室を出た。一人で、だ。
 待ち合わせがある。その場所へ向かうのだ。
 今日一緒に帰るひととの待ち合わせ。
 きっと楽しくて誇らしい気持ちになれるような話ができるのだろうと思うと、また胸が熱くなってしまうのだった。
「待たせたな。すまん」
 待ち合わせ場所で待つこと十分ほど。やってきたのは蘇芳先輩。
 待ち合わせていたのは校舎一階の昇降口だ。
 外で待ち合わせてもいいのだけど、もう随分寒いから。蘇芳先輩が気遣ってくれたのだ。
 その気遣いはもうひとつ。
 同じ部活なのに、わざわざ美術室から離れて待ち合わせをする理由。
 部活から「さぁ帰ろう」と連れ立って帰るのはあからさまだからだ。
 見せつけるようにならないとも限らない。
 それはいらないやっかみを買ってしまう可能性だってあるだろう。
 部員はもうみんな蘇芳先輩と浅葱の交際を知っているとはいえ、実際に目にして感じる気持ちは別だから。
 そういうところまで気遣ってくれる蘇芳先輩はやっぱり、浅葱にとって尊敬できるひとなのであった。
「いえ、お疲れ様でした」
 浅葱は自然に微笑んでいた。
 まだ緊張はしてしまう。付き合って半月も経っていないのだ。当たり前だろう。
 けれどだいぶ慣れてきた。
 今度は蘇芳先輩の彼女としても立派な存在になりたい。そう思うから。
「じゃあ帰るか」
 昇降口で靴に履き替えて外へ出る。ぴゅぅっと冷たい風が身を包んで浅葱は思わず首をすくめた。
 コートを着てマフラーをしているから直接風は当たらないのに寒さはどうしようもない。
「今日は冷えるなぁ。風邪なんか引くなよ」
 校門を出てしばらくしてから蘇芳先輩の手が伸ばされた。浅葱の手をそっと握ってくれる。
 これだって同じなのだ。なるべく人目につかないようにしてくれる。
 ずっと尊敬してきて、大好きで、片想いをしてきて、おまけに……これはちょっと性格の悪い思考だけど、格好よくてモテモテの蘇芳先輩が彼氏なのだ。みんなに祝福してほしい気持ちはある。
 けれどそんなことは傲慢すぎるし、そんなアピールするような子は蘇芳先輩だってがっかりしてしまうだろう。
 だから、謙虚に、謙虚に。と浅葱は自分に言い聞かせていた。
 彼女としてだって蘇芳先輩に恥じないような存在でありたいから。
「はい。風邪を引いてる暇なんてないですもんね」
「ああ。冬季賞の作品作りの時間をなくすなんて勿体なさ過ぎるからな」
 握られた手はほかほかとしていた。先輩の優しい心を表すように。
 この手のあたたかさにもだいぶ慣れた。まだどきどきしてしまうけれど、それは心地いいどきどきだ。
「あの、蘇芳先輩」
 浅葱はそっと蘇芳先輩を見上げた。蘇芳先輩は、今は恋人としての目で「ん?」と返事をしてくれた。
「私を任命してくれてありがとうございました。精一杯やります」
 改めて決意を伝える。蘇芳先輩はあのときと同じ。部長の目になってふっと笑った。
「ああ。六谷なら安心して任せられる」
 浅葱のほうもあのときと同じ。新・二年生リーダーとしての責任感を抱いた気持ちで「ありがとうございます」と返事をする。
「しかし言っておくが、俺は贔屓したんじゃないぞ」
 蘇芳先輩はふと違うことを言った。浅葱はきょとんとしてしまう。
 贔屓?
「六谷がこれまで頑張ってきたのをずっと見てきた。その努力する様子は、みんなの上に立っても発揮されると思ったんだ」
 続けられた言葉で浅葱はやっと理解した。それはとんでもない誤解だった。
 あわわ、と胸の中で慌ててしまう。
「そんな! 先輩はそんな気持ちで次のリーダーを決めるなんて、するはずないじゃないですか!」
 浅葱が蘇芳先輩の彼女だから『贔屓』したのではないか。そう誤解されてしまったのかもしれない。
 浅葱は焦った。そのような邪なこと。
「おっと、そうか……。余計なことだったな。悪い」
 蘇芳先輩はちょっと苦笑いのような笑みを浮かべた。
 こういうところは謙虚なのだ。実際に浅葱の言った通りの気持ちで決めてくれたのに。
 わざわざこうやって浅葱に知らせてくれるのだ。浅葱の実力で決めてくれたのだ、と。
「来年のことを頼んだぞ。さっきも言ったが六谷なら絶対にできるから」
 浅葱は今度しっかりと頷いた。
「先輩の期待を裏切らないように頑張ります」
 そんなやりとりで蘇芳先輩と微笑みあう。今のものは恋人としてではなく、現部長と次期二年生リーダーのものだった。
「私、ずっと先輩みたいになりたいって思ってたんです」
 浅葱の言葉は、気持ちはするっと出てきた。
 こんなことちょっと恥ずかしい。
 けれどしっかり伝えておきたい。
「俺みたいに?」
 よくわからない、という声を出した蘇芳先輩。やっぱり謙虚だ。あれだけの実力があるのに。
 浅葱は改めて、驕らないところも見習いたい、と噛みしめてしまった。
「部長として、先輩として。しっかりみんなを導いてくれる存在。私もなりたいんです」
 蘇芳先輩を見上げて、しっかり目を見て言った。ずっと心にあった気持ちを。
 蘇芳先輩は驚いたような顔をした。そんなことを言われるとは思わなかった、という顔になる。
 けれどその顔はすぐに、ふっと緩んだ。優しい目元が笑みになる。
「俺のことを見てくれてたんだな。俺が六谷を見ていたのと同じか」
 言われてちょっと恥ずかしくなった。でもその通りだ。蘇芳先輩が浅葱を見てくれて評価してくれたのと同じだけ。
 浅葱だって蘇芳先輩を見てきた。
「俺も同じさ。後輩としてだって六谷はとても優秀だ。一年見てきて強くそう思う」
 かぁっと胸が熱くなる。嬉しすぎる言葉だ。
「俺も尊敬するよ。六谷のことを。六谷に恥じないような姿でいたいから」
 おまけにそうまで言ってくれる。
 尊敬する。
 その感情に年令や学年は関係ないのだと思う。
 頑張る姿。努力する姿。
 それは何才だって変わらないものだし、その姿は優劣なんてない。
 だから。
「絶対になってみせます。蘇芳先輩みたいな立派な『先輩』に」
 来年度。
 蘇芳先輩がもうこの部活や学校にいないのは寂しいけれど、それだけ自分も前に進めるのだ。
 蘇芳先輩が認めてくれた、自分の努力や実力。もっと磨いていきたい。
 その日の帰り道はどちらかというと、恋人同士というより現部長と次期二年生リーダーの関係だったのかもしれない。
 けれどしっかり繋いだ手は恋人同士のもので。
彼女としても、後輩としても認められたことが、浅葱は嬉しくて誇らしくて仕方なくて。
 きゅっと蘇芳先輩のあたたかくて大きな手を握り返していた。